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ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』を観た。

 聴覚過敏になって以来、映画館で映画を観ることはしなくなったのだが、今回ばかりは特別だ。

 エヴァ世代が次々と「昇天」していくさまに圧倒されたからだ。
 次々と「昇天」していくさまは、どこか荘厳でどこか哀切であった。

 こんな光景を生み出せるタイトルがほかにあるだろうか?

 もう観ずにはいられなかった。

 観てよかった。
 素晴らしい映画だった。
 ところどころ泣きそうになった。
 王道の邦画だった。

 邦画は「青春」を描いたとき、駄作をつくることはない、という不思議な伝統がある。
 なぜなのかはわからない。
 ただ西洋では子供は長い間「小さな人間」であったし、ティーンエイジャーを発見したのも20世紀に入ってからのことである。
 一方、日本では、古代の昔から、子供は「わらべ」だったし、若者は「若衆」だった。
 たぶん、そのことが関係しているのだと思う。

 『新世紀エヴァンゲリオン』は、俺には「児童虐待」アニメにしか観えなかった。
 放映当時、すでに大人だったので、そう観えたのだろう。
 もちろんそんな観方は「誤読」にすぎないことは自覚できていた。

 俺の旧『エヴァ』についての感想はすでに書いた。(『新世紀エヴァンゲリオン』について

 付け加えるとしたら、俺が決定的に『エヴァ』という作品の凄みを知ったのは、ある体験からだ。
 アニメファンでもなんでもない同僚が『エヴァ』を観ていて、最終回の感想というか解釈を口にしているとき、自分の人生ついて語りだしたのだ。
 俺は聞き役に徹したのだが、そのとき『エヴァ』という作品がいかに人の心にささるか目の当たりにした。

 『エヴァ』はすげー、素敵だって、そのとき思った。誰が何と言おうと、歴史に残る作品だという確信はそのときえたものだ。

 新『エヴァ』の感想も少し書いたことがある。(新『エヴァ』と劇場版『マクロスF』について

 俺にとって新『エヴァ』は極上のエンターテインメントだった。
 なかでも『破』がお気に入りだ。シンジ君がカッコよかった。
 『Q』で一転、酷い扱いを受けるが、つねに最悪の方に選択していくもどかしさはホラー映画を思わせて楽しかった。
 『序』は俺にはいまひとつだったが、『エヴァ』の新規ファンのためのものだと思えば納得もいく。

 そして『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』だ。

 たんなる新劇場版四部作の四部という感じではなかった。
 旧『エヴァ』、新『エヴァ』、そして『シン・エヴァ』と三つに分類できると思った。

 まるで別のシリーズのようである。
 庵野秀明に何が起こったのかわからない。
 うつ状態の四年間から復帰するとき、何かが劇的に変わったのかもしれない。

 人間描写から、芝居から、ふっと不自然さが消えた。
 大人の男を描けるようになっていた。

 この感動。

 人はいくつになっても、そう願えば、願い続ければ、ほんの少しであっても、前進できるのだ。
 庵野秀明がそれを体現してくれた。
 至った新境地は健やかなもので、その点も涙が出るほど嬉しかったし、安堵した。

 『シン・エヴァ』は、「わらべ」から「若衆」に至る通過儀礼の苦痛を描いて終幕した。
 あとはそう、かれらには「青春」が待っているのである。

 爽やかなラストで、俺は好きだったね。




 それにしても、本来なら、思春期の呪縛からの解放は、自力で行うものだが、エヴァ世代はそうでもなかったようだ。
 俺自身の体験でいえば、平井和正の呪縛から自らを解放するのに30年かかった。
 そういうものだと思う。

 だがエヴァ世代は、『シン・エヴァ』というおまじないで、ふっと解放され「昇天」していった。
 いいなー、庵野さんって優しいなー、と思いつつ、そんな作家とファンの関係は、どこかこそばゆいような温かい気持ちにさせた。

 エヴァ世代とは氷河期世代だろう。
 かれらに日本は冷たかった。
 庵野秀明くらいかれらに優しくしてもいいいんだよな。



 アクションシーンが上滑りしているのが気にかかった。
 成熟と引き換えに、アクションが描けなくなっているのだと思う。
 レイモンド・チャンドラーは、作家は成熟していくと、アクションを選ぶか会話を選ぶか、選択を迫られるという旨のことを書いていた。
 庵野秀明もそうした選択が目の前にある。
 上滑りのアクションか、「今の自分」に寄り添った会話か。
 『シン・エヴァ』は庵野秀明の新境地だ。
 そのことに自覚的であって欲しい。



 男女の機微について。
 もう少し頑張って欲しかった。今後に期待。



 女性キャラの典型化。
 宮崎駿のレベルまで後退してしまった。
 なんで?



 シンジの声変わり。
 これはいいアイデアだと思った。
 声はアニメキャラの身体性だからだ。



 ラストについて。
 富野ファンとして連想したのはやはり『ガンダム Gのレコンギスタ』。
 作者のつくりあげた「舞台」から立ち去る、という意味合いにおいて、意図としては同じだと思った。
 違うとしたら、カップルで退場するかどうかであり、俺の好みからいえば、『シンエヴァ』の方が好きである。
 とはいえ、キマリすぎている、という批判もありえて、最終回発情期(ファイナルファンタジー)として予定調和すぎる、ということもあったかもしれない。



 マリについて。
 戦闘美少女が好きな庵野監督らしく、彼女の重要性をエヴァンゲリオンの搭乗者としての優秀さで表現していた。
 だが、俺のような戦闘美少女に無関心な観客にとって、マリの重要性はまったく伝わらなかった。
 このあたりは「ネクスト・エヴァンゲリオン」の宿題だと思う。
 ユダでありマリアであることを仄めかされているが、そんな設定ごときで誤魔化されても困る。




 考察について。
 『シン・エヴァ』は、そして新『エヴァ』は、考察する気がおきない。
 あれはテレビシリーズだからこそ楽しめたお祭りだったと思っている。



 感想、批評、評論について。
 こんなに人様の意見を楽しめるのは、やはり『エヴァ』ならでは。
 『エヴァ』を語るということは、そのひとの人間観の吐露にほかならない。
 こんな作品、文学でもそうはない。



 庵野秀明に惚れ直した。
 世代世代に偏りがあるものだ。
 そうした偏りを超克することは難しい。
 庵野監督は世代の偏りを超克しようとしていた。
 その意気だけでも、俺のロールモデルたりうる。
 こういう人が人生の先輩にいることはありがたかった。
 俺も世代を超えたい。



 『エヴァ』だけ。
 俺が庵野作品で好きなのは『エヴァ』だけ。
 それだけ庵野作品のなかで特別なのではないかと思う。

 『エヴァ』とはお別れ。
 庵野秀明ともお別れ。
 またいつか、人生行路で交わることがあったら。



 庵野監督、ありがとうございました。
 そして、おめでとうございます。

 すべてのエヴァ世代も、おめでとうございます。
 ちょっと羨ましかったです。


●2021年4月3日
 第二稿になります。
 ラストやマリのついて追記しました。
 庵野監督世代に対する罵倒を書きあらためました。
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オタクにおける男女の知的格差について

 「<侵犯>の物語」と読み合わせてくれると嬉しい。

 以前から「すげーな」と思っていた言葉がある。
 「腐女子」、「やおい」という言葉だ。

 「腐女子」という言葉には、男性間の関係性(友情とか敵対とか)を性愛と「誤読」している「自覚」がある。
 その「自覚」には、「誤読の動機」が「しょーもない」ものだという自覚まであるのだ。
 だから「腐」なんだと思う。
 この知性。

 「やおい」は「山なし・オチなし・意味なし」の略語で、男性同士の関係を描くだけの物語不在の作品に対する「自覚」が生んだ言葉なんだ思う。
 やはりここにも「知性」を感じる。

 自己を客観化するだけでも凄いのに、なおかつ、諧謔をふくんだ造語までしてしまうのだから、もう「すげーな」としか言いようがない。
 「知性」と「心の余裕」と「社会性」があるわけで、うーん、なんだろうね、この大人の風格。まいりました。

 「ボーイズラブ」(以下BL)は、「やおい」の近接ジャンルだが、物語があるわけで、このあたりの使い分けも見事だ。

 それに引きかえだ、男はどーなんだ、という話である。

 「女子しか登場しない物語不在の作品」に熱中する「ちょっとどーなの」的な自分を客観視できているだろうか。
 無理だよね。
 むしろ「ちょっとどーなの」なんて言ったら、ものすごく反発するよね。

 女性間の関係性に、同性愛を見いだすことが、「男のしょーもない欲望」による「誤読」だという「自覚」があるかな。
 ないよね。
 がちで同性愛だと思っているよね。
 
 宇野常寛なんてBLに男同士の友情を見いだしていて、「うっわ」と思ったよ。
 この知性の欠如。

 男のオタクは、なんでこんなにアレなのか。

 俺も男のオタクなんで、恥ずかしくてたまらない。

 男のオタク版の「腐女子」に相当する言葉がいる。
 でも言葉の前に、「腐女子」と造語をできるだけの知性をもった「大人のオタク」が、男のオタクにはいないのだから、これはもう絶望的だ。

 オタクにおける男女の知的格差は、いつか埋まることがありうるのか、ちょっと想像がつかない。

 富野由悠季に無理やりつなげて考えてみれば、『機動戦士ガンダムF91』以来の女王の系譜って、この女性の「大人っぷり」と男性の「愚民っぷり」の非対称から出てきたのかもしれないね。
 『ヒミコ・ヤマト』、楽しみだな!

富野監督は二度「アニメ」を生んだ。もちろんトリトンとガンダムのことだ。

 富野由悠季監督がTAAF2021功労部門を受賞した。おめでとうございます。

 今回の授賞コメントに感動したので、少しだけ。

 

それは、かつてこの地にあった豊島公会堂で、48年前に日本で一番はじめにアニメファンが一堂に会したという出来事がありました。
48年前ですから、当時15歳だった子が何歳になっているかはご想像がつくと思います。彼女たちがここに集まってくれたおかげで、僕はアニメの仕事とは「絵を描く仕事」ではなく、「観客がいてくれるということ」を徹底的に教えられました。それがこの場所なんです。


  ──「富野由悠季監督が登場!東京アニメアワードフェスティバル2021授賞式レポート」から引用させていただきました。

 彼女たちとは、『海のトリトン』のファンのことである。

 以前、俺が「「アニメ」とか「アニメファン」とかの起源論を俺の肌身に則して描いてみる」をUPしようとしたとき、彼女たちの「記録」がネットになかったことは書いた。
 それが気がかりだった。
 「最初のアニメファン」は彼女たちだったからだ。

 だが今回の富野監督のコメントで、彼女たちの「記録」はきちんとネットに残ることになった。 
 監督の賞賛つきで。
 素晴らしい。

 富野監督の言葉に、付け加えるとしたら、「テレビ漫画」から「アニメ」になった最初の作品が『海のトリトン』だったということであり、その意味するところは、「作品論」ではなくて「受容論」が「アニメ」を生んだということである。

 日本のカギカッコ付きの「アニメ」とは、「アニメーション作品」のことではなく、「映画」の文法で叙述された作品のなかに見出された、まったく新しい芸術だったということである。

 劇場版『海のトリトン』は富野監督は関わっていない。
 劇場版公開のために、彼女たちが奔走したことは、富野監督は触れないかも知れない。
 俺はパンフレットまで買ったので、そのことはここに書き記しておこうと思う。

 華やかなアニメブームの前夜、ひっそりと咲いた美しい愛のヒストリーが「アニメ」を生んだのである。

 そのことはひとりのアニメファンとして嬉しいし、彼女たちへのリスペクトは忘れずに胸に刻んでおきたい。
 

続きを読む »

『機動戦士Vガンダム』をみろよ、女を舐めているすべての男ども! あ。俺も男だったわ。

 グダちんがまたやってくれた。
 くそう。嫉妬を禁じえない。

 『機動戦士Vガンダム』とは何だったのか?

 グダちんがあっさり指摘しやがった。

 

Vガンダムの後継だった新世紀エヴァンゲリオンの、母親にも女にもなりきれない、中途半端で哀しい迷える女性の姿はシン・エヴァンゲリオン劇場版にはない。



 #シンエヴァンゲリオン 劇場版 の葬式で死んだと思った点 「玖足手帖-アニメブログ-」

 「母親にも女にもなりきれない、中途半端で哀しい迷える女性」だって! いいよねえ。

 もちろん、これは俺を含めた男性視点の話であって、実際の女性は「中途半端」でも「哀しく」も「迷って」もいないのだろうけど。
 そもそも女性に「母」か「女」かの二択を求めること自体「ふざけんな!」だろうけど。

 いや、俺ら男も反省はしてるんだけどね? でもほら男って下半身が二択だから……。こればかりはね。

 『機動戦士Vガンダム』はまさに「ふざけんな!」のお話です。

 女性にもお薦めしますが、やはり野郎どもにお薦めしたいね。



 『シン・エヴァンゲリオン』?
 Blu-rayが出たら買います。

 『シン・ゴジラ』、発売日に買い翌日に売ったぐらいなので、どうかなー、「いまの庵野」と合うかどうか。

 ただエヴァは十年先を言っている可能性があって、十年後の日本には農本主義が流行しているのかもしれない。そうなったら都会人の俺には悪夢だが、東京壊滅になったら、都会人のつくるインチキ農村が流行るのかもなー。

『”富野作品の元ネタは特撮映画だ”論』が面白い。

 ATENOBLOGの亜手さんの『”富野作品の元ネタは特撮映画だ”論』をご存じだろうか。
 いやはや、これが面白いの何の。
 怪獣映画はほとんど観てない俺にとっては目から鱗が落ちることばかり。

 どんな作家もゼロからは生み出せないが、富野作品の場合は、元ネタが結構あからさまなようで、「なんだとー!?」という驚きがいっぱい。

 なにより亜手さんには愛が根底にあって、安心して読めるのがいい。

 あと、パクってるのが特撮映画というところが、自分と同じボンクラの先輩が一生懸命あがいてる感じがしてですねぇ、そこに私なんかは萌えるんですけど。この人ダメだな!っていうw



 なかでも『リーンの翼』に触れた記事は、俺としては最高にエキサイティングなものだった。

  『リーンの翼』の元ネタはこれだ

 これを読んで楽しんだと同時に、いくつか思うところがあったので、書いてみる。


 富野由悠季に作家性を幻視している俺にとって、このパクリ問題をどう受けとっていいのか、非常に悩ましいものがある。

 亜手さんが言及されている特撮映画のBlu-ray Discをいくつか買ったのだが、自分には特撮映画はちょっと合わず、鑑賞するのが困難だった。冒頭で挫折してしまう。
 この問題について、俺には「検証」する資格はないようだ。

 亜手さんのご指摘を読んだ限りでは、富野のパクリは、作品の核心部分に及んでいる。
 絶句せざるを得ないのだが、苦し紛れにひねり出した俺の考えとしては、パクリのもろもろは、富野のなかですでに内面化してるのではないか、ということだ。
 つまり、意図したものではなく、無意識にやっているのでははいか、ということである。
 それでパクリが正当化されるとは思わないが、富野がそれらを「なぜ」内面化したのか、という問いがもしも可能であれば、そのあたりに「作家性」を見いだすのもありうるのではないか、という気がする。
 気がする……って、我ながら歯切れが悪いが、そうとでも思わないかぎり、俺が感じとった富野作品の「生々しい情念」は説明できないと思う。
 もしも「自覚」のあるパクリなら、亜手さんの言うように、あまりに「不誠実」だし、「引用」というレベルまで脱文脈しなかったのはあまりにも「迂闊」だ。
 俺の富野贔屓の観点からすると、そういう解釈になる。

 やはりこう考えると、映画監督と言う仕事は、インテリかディレッタントのものなんだな、とあらためて思う。
 富野は、そのあたりの覚悟が足りないのかもしれない。
 コッポラのような引用を使いこなすインテリ系でもなく、タランティーノのような引用を嬉々として扱うディレッタント系でもない。

 富野がパクリに無自覚だとしたら、「コンテ千本切り」の意味も変わってくる。
 パクリ云々は「気にしない」とすれば、自らにわき起こるイメージの元ネタを検証せずにすみ、それだけスピーディーに仕事ができただろうからだ。
 ただ「器用貧乏」と言う印象はない。あまり映画を観ていなかったので(?)、イメージソースが限られていたのが、幸いしたのかもしれない。

 俺の立場でいえば、パクリの山のなかに埋もれているかもしれない「富野固有」のものに惹かれている、と思いたい。
 それがかりに幻想だったとしても、俺にとっての「体験」だったことには変わりはない。
 客観的な評価がなくなったとしても、それはそれで一富野ファンとして引き受けようと思う。

 それにしても、俺も亜手さんのように特撮映画が楽しめればよかったんだけどなあ。
 もっと元ネタ、ありそうだものね。

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いちばん好きな映画監督が富野由悠季です。

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