2023.
07.
12
目次
ブログタイトルの意味 → ガンダムをン年ぶりに観て、“いまさら気づいたこと”が多すぎる俺は昔からきっと馬鹿だった。
「ガンダムの生みの親」とは → 人気のなかった『ガンダム』、『わたしが子どもだったころ アニメ監督・富野由悠季』を観た、小説版『機動戦士ガンダム』
宮崎駿について → ポニョをみた、宮崎アニメとは宮崎アニメのことである。
星山博之について → 『ガンダム』の挫折、フラットキャラクターは初期配置が大事
安彦良和について → 『ガンダム』のキャラデザは失敗だった!?、 宮崎駿より前に宮崎駿になろうとした男 、『オリジン』アニメ化について
出崎統について → (1/3) (2/3) (3/3)、 劇場版『AIR』が好きだ
押井守について → 押井守は苦手だ、「王道」の押井守を見てみたい
福井晴敏について → プロデュースについて 1/2 ユニコーン編
ブログタイトルの意味 → ガンダムをン年ぶりに観て、“いまさら気づいたこと”が多すぎる俺は昔からきっと馬鹿だった。
「ガンダムの生みの親」とは → 人気のなかった『ガンダム』、『わたしが子どもだったころ アニメ監督・富野由悠季』を観た、小説版『機動戦士ガンダム』
宮崎駿について → ポニョをみた、宮崎アニメとは宮崎アニメのことである。
星山博之について → 『ガンダム』の挫折、フラットキャラクターは初期配置が大事
安彦良和について → 『ガンダム』のキャラデザは失敗だった!?、 宮崎駿より前に宮崎駿になろうとした男 、『オリジン』アニメ化について
出崎統について → (1/3) (2/3) (3/3)、 劇場版『AIR』が好きだ
押井守について → 押井守は苦手だ、「王道」の押井守を見てみたい
福井晴敏について → プロデュースについて 1/2 ユニコーン編
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2023.
07.
13
アニメ、というより鍵括弧付きの「アニメ」の話をしてみたい。
「アニメ」の成り立ちは特殊なものがある。
“作品”より“ファン”が先に存在した。
「TVマンガ」から「アニメ」という概念を取り出したのは、ファンだった。
男児向け作品『海のトリトン』を愛した少女たちのことである。
「アニメ」という言葉は『海のトリトン』のような作品を指し示すことだけに終わらなかった。
あらかじめ「アニメ」という自意識を持った作品が登場するようになる。
『宇宙戦艦ヤマト』ようなオリジナル作品だ。
本来なら、『ヤマト』のような作品が「アニメ」という概念を決定づけるはずだった。
歴史の実際は違った。
男たちが『ヤマト』で大騒ぎする前に、少女たちが『トリトン』を見つけていたからである。
男の趣味全開の“硬派な”作品群が「アニメ」と呼ばれるはずだったし、『ヤマト』は確かにブームになったのだが、少女たちはもう一度「アニメ」を見つける。
『機動戦士ガンダム』だ。
『ガンダム』には『ヤマト』から流れてきた男性ファンもいたが、スタッフやキャストを驚かせ喜ばせたのは、彼女たちの存在であったという。
男の趣味の世界に閉じている『ヤマト』と、『ガンダム』が同じであるはずがなかったからだ。
彼女たちに届いた、それだけで、スタッフもキャストも相当な手応えを感じた。
それが富野監督作品だったのは偶然であるまい。
彼女たちが『トリトン』と『ガンダム』に何を見出したのか。
想像だが、セックスである。
上品ななかに秘められた性の世界。
それが彼女たちを魅了したのではないだろうか。
富野監督は「ガンダムの生みの親」と呼ばれるが、「アニメ」の生みの親とも言える。
それゆえに「アニメ」は性と切り離せない。
「時代遅れのガンダム 十年後のガンダム」で書いたように、「アニメ」を含むひとつの時代が終わろうとしている。
「アニメ」の次世代が、どのようなものになるか想像するだけだが、性的要素の脱中心化が求められる可能性が高い。
それは「アニメ」どころか、先行文化である「マンガ」も同じことが要求されるということをを意味する。
手塚治虫が創始した現代マンガは「性」を取り入れたところに革新性があった。
「性」とはつまり「身体性」のことだ。「性」(と「死」)を扱うことによって現代マンガは広い意味での文学たりえた。
富野監督が「TVマンガ」でしたこととは、この手塚のしたことと同じだ。
『トリトン』や『ガンダム』に「アニメ」を見出したのが少女たちだったというのは、面白い事実だと思う。
1970年代といえば24年組の全盛期だ。24年組は少女マンガを文学にした天才たちだという理解をしている。性や死、愛と憎というテーマを「女性向けロマンスコード」に回収されずに表現した(「文学」)作品を生み出した。
富野監督が「TVマンガ」に“手塚革命”を持ち込んだと嗅ぎ当てた1970年代の少女たちは、同時に24年組の良き理解者だったのではないだろうか。
『G‐レコ』が先取りしているかもしれない「次世代アニメ」においては、性的要素の扱いが変わる。
性的要素はないか、少ない方がいい。
それでいて身体性を描くことが要求されるのだから、現在のスタッフ、キャストでは大変かもしれない。
特に声優は大変だろう。
アニメキャラに生身の人間っぽさを付与するのが声優の仕事だからだ。
「次世代アニメ」では、男性主人公の声を女性声優がアテるということが多くなるかもしれない。
男性の身体性を感じさせないからだ。
ただ大変なのは、それ以外のキャラクターだ。
「次世代アニメ」なるものが到来するとするなら、相当な演技力(と人間理解)が必要になるように思う。
声優へのリスペクトを忘れたことはない。
ないが、最近の声優には腹が立つこともある。
音響監督も同罪だ。
「え?」と反応するときに「ぅえ?」と喋る声優が多いように思うのだが、誰か止める人いないんですか。
一人の声優が一人のキャラにそう性格付けした、というのなら分かるが、複数の声優が複数の役柄でやっているんですが。
例えば山田康雄はルパン三世で独特の喋り方をしていたが、他の役柄で同じ喋り方をしたことはない。
古川登志夫はあたるの笑い声を独特なものにしたが、他の役柄でそんな笑い声をあげたことはない。
「ぅえ?」は元祖の声優の特定の役柄だけは許すけど、それ以外は許さんぞ。
あとね、他の声優のものまねで仕事もらっているような声優さん。
「あれ? この声、この感じ、あの人かな?」とスタッフロールを見ると別人。
こんなことが何度かあった。
これさ、起用する側の問題じゃない?
そりゃ、そういう声優が小器用な「演技力」を併せ持っているのは想像できるけど、そこを便利使いする音響監督って何なの。
今時の声優界で、「次世代アニメ」で生き残れる人、どれだけいんのかね。
ベテラン残して全滅とか俺は見たくない。
個々の声優さんに頑張って欲しいのはもちろん、音響監督さんにも頑張って欲しい。
「アニメ」の成り立ちは特殊なものがある。
“作品”より“ファン”が先に存在した。
「TVマンガ」から「アニメ」という概念を取り出したのは、ファンだった。
男児向け作品『海のトリトン』を愛した少女たちのことである。
「アニメ」という言葉は『海のトリトン』のような作品を指し示すことだけに終わらなかった。
あらかじめ「アニメ」という自意識を持った作品が登場するようになる。
『宇宙戦艦ヤマト』ようなオリジナル作品だ。
本来なら、『ヤマト』のような作品が「アニメ」という概念を決定づけるはずだった。
歴史の実際は違った。
男たちが『ヤマト』で大騒ぎする前に、少女たちが『トリトン』を見つけていたからである。
男の趣味全開の“硬派な”作品群が「アニメ」と呼ばれるはずだったし、『ヤマト』は確かにブームになったのだが、少女たちはもう一度「アニメ」を見つける。
『機動戦士ガンダム』だ。
『ガンダム』には『ヤマト』から流れてきた男性ファンもいたが、スタッフやキャストを驚かせ喜ばせたのは、彼女たちの存在であったという。
男の趣味の世界に閉じている『ヤマト』と、『ガンダム』が同じであるはずがなかったからだ。
彼女たちに届いた、それだけで、スタッフもキャストも相当な手応えを感じた。
それが富野監督作品だったのは偶然であるまい。
彼女たちが『トリトン』と『ガンダム』に何を見出したのか。
想像だが、セックスである。
上品ななかに秘められた性の世界。
それが彼女たちを魅了したのではないだろうか。
富野監督は「ガンダムの生みの親」と呼ばれるが、「アニメ」の生みの親とも言える。
それゆえに「アニメ」は性と切り離せない。
「時代遅れのガンダム 十年後のガンダム」で書いたように、「アニメ」を含むひとつの時代が終わろうとしている。
「アニメ」の次世代が、どのようなものになるか想像するだけだが、性的要素の脱中心化が求められる可能性が高い。
それは「アニメ」どころか、先行文化である「マンガ」も同じことが要求されるということをを意味する。
手塚治虫が創始した現代マンガは「性」を取り入れたところに革新性があった。
「性」とはつまり「身体性」のことだ。「性」(と「死」)を扱うことによって現代マンガは広い意味での文学たりえた。
富野監督が「TVマンガ」でしたこととは、この手塚のしたことと同じだ。
『トリトン』や『ガンダム』に「アニメ」を見出したのが少女たちだったというのは、面白い事実だと思う。
1970年代といえば24年組の全盛期だ。24年組は少女マンガを文学にした天才たちだという理解をしている。性や死、愛と憎というテーマを「女性向けロマンスコード」に回収されずに表現した(「文学」)作品を生み出した。
富野監督が「TVマンガ」に“手塚革命”を持ち込んだと嗅ぎ当てた1970年代の少女たちは、同時に24年組の良き理解者だったのではないだろうか。
『G‐レコ』が先取りしているかもしれない「次世代アニメ」においては、性的要素の扱いが変わる。
性的要素はないか、少ない方がいい。
それでいて身体性を描くことが要求されるのだから、現在のスタッフ、キャストでは大変かもしれない。
特に声優は大変だろう。
アニメキャラに生身の人間っぽさを付与するのが声優の仕事だからだ。
「次世代アニメ」では、男性主人公の声を女性声優がアテるということが多くなるかもしれない。
男性の身体性を感じさせないからだ。
ただ大変なのは、それ以外のキャラクターだ。
「次世代アニメ」なるものが到来するとするなら、相当な演技力(と人間理解)が必要になるように思う。
声優へのリスペクトを忘れたことはない。
ないが、最近の声優には腹が立つこともある。
音響監督も同罪だ。
「え?」と反応するときに「ぅえ?」と喋る声優が多いように思うのだが、誰か止める人いないんですか。
一人の声優が一人のキャラにそう性格付けした、というのなら分かるが、複数の声優が複数の役柄でやっているんですが。
例えば山田康雄はルパン三世で独特の喋り方をしていたが、他の役柄で同じ喋り方をしたことはない。
古川登志夫はあたるの笑い声を独特なものにしたが、他の役柄でそんな笑い声をあげたことはない。
「ぅえ?」は元祖の声優の特定の役柄だけは許すけど、それ以外は許さんぞ。
あとね、他の声優のものまねで仕事もらっているような声優さん。
「あれ? この声、この感じ、あの人かな?」とスタッフロールを見ると別人。
こんなことが何度かあった。
これさ、起用する側の問題じゃない?
そりゃ、そういう声優が小器用な「演技力」を併せ持っているのは想像できるけど、そこを便利使いする音響監督って何なの。
今時の声優界で、「次世代アニメ」で生き残れる人、どれだけいんのかね。
ベテラン残して全滅とか俺は見たくない。
個々の声優さんに頑張って欲しいのはもちろん、音響監督さんにも頑張って欲しい。
2023.
07.
12
『「若者の読書離れ」というウソ』(飯田 一史)がめちゃくちゃ面白かった。
ライトノベルの市場が全盛期の半分になっていることが指摘されていて、その理由のいくつかを解説している。
俺の理解では、「卒業」組に加えて、売れ筋を求めてWEB小説(俗にいう「なろう系」)にシフトしたものの若者は大人向けとして敬遠し、業界が若者向けとしてラブコメを送り出すもそれほどでもない、ということらしい。
卒業は分かる。WEB小説が大人向けという指摘も分かる。問題はラブコメだ。それほど人気がないのはなぜか。
ラブコメ好きの俺にとってはショックな事実を飯田は指摘する。
「若者の性的な関心自体が減退傾向にある」というのだ。「青少年の性行動全国調査」が参照されている。
ギャーッである。俺の世代は男でもスイーツ脳だったものである。女の子大好き、恋愛大好き、デート大好き、エッチ大好きだった。
「少年向けラブストーリー」というのは俺の世代が大々的に支持したものだ。上の世代からは「???」だったらしい。しかし今は下の世代から見ても「???」だ。
三十年といえば一世代だ。まさに一世代で「ひとつの文化」が終焉に向かいつつある。
これ、「アニメ」、ヤバいよな。
今の「アニメ」って、性的要素、恋愛要素がない作品を探す方が困難なのではないだろうか。
でだ、ガンダムも、まるまるこの一世代に入っているんだよね。
実際、十代にはまったく相手にされていない。
性的要素、恋愛要素がないガンダムって、何かあっただろうか。
富野由悠季は人間の生々しい愛憎を描くことにおいて「アニメ」の生みの親になったという経緯がある。
ガンダムも同様だ。
ララァは元娼婦で、シャアの私生活の恋人というより職場の愛人であり、やっと純粋に恋ができるという寸前で死んでしまうからこそ、『めぐりあい宇宙』は切なかったのだ。
ララァが占い師でシャアの恋人だというアニメもあるらしいが、こんな二次創作など指向性は真逆だがポルノ同人と似たようなものだと気づいて欲しい。ガンダムの「大人っぽさ」が全部消えてしまって、ジュブナイルになってしまって、ジュブナイルガンダムを作りたいならオリジナルでお願いします。
性的要素のないジュブナイルガンダムって、今マジで必要なんだけど、初代ガンダムでやらないでね。
「畏るべき子供たち」で書いたことだが、『G‐レコ』は十年先を行っている。
しかしひとつだけ失敗しているところがある。
そう恋愛要素だ。
主人公の恋愛要素が作品の欠点になっているということは書いた。「ベルリの挑戦 トミノの挑戦」
俺なりの作品評としては訂正する気にはならない。
失敗は失敗だ。
だがだ、俺はスイーツ脳オヤジなので勘違いしていた可能性がある。
「恋愛要素をうまく表現できなかった」というより、そもそも「恋愛要素を入れたこと自体が間違っていた」かもしれないのだ。
もちろん富野作品として性的要素はたくさんあるが、主人公以外に割り当てているものは全て成功していると言っていいだろう。
主人公だけ「失敗」しているのだが、それは「十年先に行った作品」として「失敗」してしまったのであり、俺のようなスイーツ脳オヤジの考える「失敗」ではなかったということだ。
ちょっとここまでくると富野由悠季って気味悪いな……w。
まあ、人は信者の思い込みと嗤うかもしれないけどw。俺だって過大評価の方がいいよw。気持ち悪いよw。
だけど俺は知っているわけ。
富野由悠季には実績があるということを。
早すぎる作品を作ってきた実績が。(だから今一つ売れないのだけどw)
十年先行った作品としては、ノレドと再会しないエンドの方が正解なんだろうね。
いやスイーツ脳オヤジとしては劇場版の付け足し、大好きだけど。
ライトノベルの市場が全盛期の半分になっていることが指摘されていて、その理由のいくつかを解説している。
俺の理解では、「卒業」組に加えて、売れ筋を求めてWEB小説(俗にいう「なろう系」)にシフトしたものの若者は大人向けとして敬遠し、業界が若者向けとしてラブコメを送り出すもそれほどでもない、ということらしい。
卒業は分かる。WEB小説が大人向けという指摘も分かる。問題はラブコメだ。それほど人気がないのはなぜか。
ラブコメ好きの俺にとってはショックな事実を飯田は指摘する。
「若者の性的な関心自体が減退傾向にある」というのだ。「青少年の性行動全国調査」が参照されている。
ギャーッである。俺の世代は男でもスイーツ脳だったものである。女の子大好き、恋愛大好き、デート大好き、エッチ大好きだった。
「少年向けラブストーリー」というのは俺の世代が大々的に支持したものだ。上の世代からは「???」だったらしい。しかし今は下の世代から見ても「???」だ。
三十年といえば一世代だ。まさに一世代で「ひとつの文化」が終焉に向かいつつある。
これ、「アニメ」、ヤバいよな。
今の「アニメ」って、性的要素、恋愛要素がない作品を探す方が困難なのではないだろうか。
でだ、ガンダムも、まるまるこの一世代に入っているんだよね。
実際、十代にはまったく相手にされていない。
性的要素、恋愛要素がないガンダムって、何かあっただろうか。
富野由悠季は人間の生々しい愛憎を描くことにおいて「アニメ」の生みの親になったという経緯がある。
ガンダムも同様だ。
ララァは元娼婦で、シャアの私生活の恋人というより職場の愛人であり、やっと純粋に恋ができるという寸前で死んでしまうからこそ、『めぐりあい宇宙』は切なかったのだ。
ララァが占い師でシャアの恋人だというアニメもあるらしいが、こんな二次創作など指向性は真逆だがポルノ同人と似たようなものだと気づいて欲しい。ガンダムの「大人っぽさ」が全部消えてしまって、ジュブナイルになってしまって、ジュブナイルガンダムを作りたいならオリジナルでお願いします。
性的要素のないジュブナイルガンダムって、今マジで必要なんだけど、初代ガンダムでやらないでね。
「畏るべき子供たち」で書いたことだが、『G‐レコ』は十年先を行っている。
しかしひとつだけ失敗しているところがある。
そう恋愛要素だ。
主人公の恋愛要素が作品の欠点になっているということは書いた。「ベルリの挑戦 トミノの挑戦」
俺なりの作品評としては訂正する気にはならない。
失敗は失敗だ。
だがだ、俺はスイーツ脳オヤジなので勘違いしていた可能性がある。
「恋愛要素をうまく表現できなかった」というより、そもそも「恋愛要素を入れたこと自体が間違っていた」かもしれないのだ。
もちろん富野作品として性的要素はたくさんあるが、主人公以外に割り当てているものは全て成功していると言っていいだろう。
主人公だけ「失敗」しているのだが、それは「十年先に行った作品」として「失敗」してしまったのであり、俺のようなスイーツ脳オヤジの考える「失敗」ではなかったということだ。
ちょっとここまでくると富野由悠季って気味悪いな……w。
まあ、人は信者の思い込みと嗤うかもしれないけどw。俺だって過大評価の方がいいよw。気持ち悪いよw。
だけど俺は知っているわけ。
富野由悠季には実績があるということを。
早すぎる作品を作ってきた実績が。(だから今一つ売れないのだけどw)
十年先行った作品としては、ノレドと再会しないエンドの方が正解なんだろうね。
いやスイーツ脳オヤジとしては劇場版の付け足し、大好きだけど。
2023.
07.
11
ベルリは、アイーダとの間に、克服しなければならない障害が二つあった。
「仇」と「姉弟」だ。
障害が二つもあるというのは少し欲張り過ぎだったかもしれない。焦点がぼやけてしまっている。「分かりづらさ」のひとつだ。
「仇」の方は、比較的うまく描かれていたように思う。
「姉弟」の方は、富野監督の手に余ったとしか思えない。
「設定」と「芝居」しかない、というのは富野脚本作品の特徴である。
「エピソード」がない。ドラマ作りが下手である。
それでも面白い。だが欠点は欠点として認めておきたい。
「設定」段階では、不自然なところは何もない。意図は明快だ。
「殺人に対するショック」も「一目惚れ」も、ベルリが「純真な少年」と設定されていると判る。「純真な少年が経験を積んで男になる」という話だ。
問題は「芝居」だ。
「殺人に対するショック」の方は、伝えようとする意志を感じた。ベルリはちょくちょく「殺人に対するショック」を受けていた。
もっともそれが過剰だったので、キャラ表現として消化しきれず、内面描写に違和感を残すものになってしまって、「サイコパス」呼ばわりされることになったのだが……劇場版でずいぶんマシになった。
「一目惚れ」の芝居の方は、うまくいっていなかった。「一目惚れ」の芝居、というか、「恋する少年」の芝居は、ほとんどなかった。「去勢」された主人公という評価もある。
そして「エピソード」だ。
これは富野脚本に期待してもないものねだりなのかもしれない。脚本を他に頼むか、せめて共同脚本の方が面白いものになっていたと思う。
「仇」の方は、「エピソード」があるように見える塩梅になっていた。
なぜなら「頑張って戦い続ける」という展開が、「エピソードの積み重ね」と同等の機能を持つからだ。
「姉弟」の方は、きちんとした「エピソード」の積み重ねが必須だったろう。
富野作品でまま見られる「画面の外でいつの間にかデキている」という手段はアイーダではできない。インセストになるからだ。
仮にそうなったとしたら、世界設定でインセストが許されている社会だということにしなければならない。「分かりづらさ」が軽減できるどころか拍車がかかってしまう。
それがタブーであった場合も、「いつの間にか……」というのは難しいだろう。タブーにもかかわらず結ばれたということになれば、「エピソードの積み重ね」がさらに重きをなす。
「恋する少年」という設定に「姉弟」といいう障害を持ってくれば、インセストタブーが暗黙の了解になっているような作品世界では克服しようがない。
ベルリは「挫折」を味わうことになるのだが、「恋する少年」としての芝居が皆無なので、観客の多くはピンと来ない。
そこに前述の「サイコパス」感がプラスされる。
これではもうどう感じていいか分からない。
ベルリはキャラクターとしてうまく表現してもらえなかった。
ラブストーリーとして「エピソード」の積み重ねが必須の作品で、富野脚本だったのが原因である。
せめて「芝居」で不足を補ういつもの手法があれば少しは違ったはずだが、それすらベルリには与えられなかった。
富野由悠季の挑戦心は素晴らしい。挑戦は失敗したが、次回作があるのだから、それに期待したい。
「仇」と「姉弟」だ。
障害が二つもあるというのは少し欲張り過ぎだったかもしれない。焦点がぼやけてしまっている。「分かりづらさ」のひとつだ。
「仇」の方は、比較的うまく描かれていたように思う。
「姉弟」の方は、富野監督の手に余ったとしか思えない。
「設定」と「芝居」しかない、というのは富野脚本作品の特徴である。
「エピソード」がない。ドラマ作りが下手である。
それでも面白い。だが欠点は欠点として認めておきたい。
「設定」段階では、不自然なところは何もない。意図は明快だ。
「殺人に対するショック」も「一目惚れ」も、ベルリが「純真な少年」と設定されていると判る。「純真な少年が経験を積んで男になる」という話だ。
問題は「芝居」だ。
「殺人に対するショック」の方は、伝えようとする意志を感じた。ベルリはちょくちょく「殺人に対するショック」を受けていた。
もっともそれが過剰だったので、キャラ表現として消化しきれず、内面描写に違和感を残すものになってしまって、「サイコパス」呼ばわりされることになったのだが……劇場版でずいぶんマシになった。
「一目惚れ」の芝居の方は、うまくいっていなかった。「一目惚れ」の芝居、というか、「恋する少年」の芝居は、ほとんどなかった。「去勢」された主人公という評価もある。
そして「エピソード」だ。
これは富野脚本に期待してもないものねだりなのかもしれない。脚本を他に頼むか、せめて共同脚本の方が面白いものになっていたと思う。
「仇」の方は、「エピソード」があるように見える塩梅になっていた。
なぜなら「頑張って戦い続ける」という展開が、「エピソードの積み重ね」と同等の機能を持つからだ。
「姉弟」の方は、きちんとした「エピソード」の積み重ねが必須だったろう。
富野作品でまま見られる「画面の外でいつの間にかデキている」という手段はアイーダではできない。インセストになるからだ。
仮にそうなったとしたら、世界設定でインセストが許されている社会だということにしなければならない。「分かりづらさ」が軽減できるどころか拍車がかかってしまう。
それがタブーであった場合も、「いつの間にか……」というのは難しいだろう。タブーにもかかわらず結ばれたということになれば、「エピソードの積み重ね」がさらに重きをなす。
「恋する少年」という設定に「姉弟」といいう障害を持ってくれば、インセストタブーが暗黙の了解になっているような作品世界では克服しようがない。
ベルリは「挫折」を味わうことになるのだが、「恋する少年」としての芝居が皆無なので、観客の多くはピンと来ない。
そこに前述の「サイコパス」感がプラスされる。
これではもうどう感じていいか分からない。
ベルリはキャラクターとしてうまく表現してもらえなかった。
ラブストーリーとして「エピソード」の積み重ねが必須の作品で、富野脚本だったのが原因である。
せめて「芝居」で不足を補ういつもの手法があれば少しは違ったはずだが、それすらベルリには与えられなかった。
富野由悠季の挑戦心は素晴らしい。挑戦は失敗したが、次回作があるのだから、それに期待したい。
2023.
07.
09
尖閣諸島の地下資源について国を超えて共同開発するべきだ、という富野由悠季の発言は、野中広務の影響からだろうか。
野中広務といえば、部落出身者で、麻生太郎の部落出身者への差別発言について激怒したというエピソードを思い起こすアニメファンもいるかもしれない。
というのもアニメ映画の傑作『もののけ姫』は「差別される側」の話だったからである。
差別撤廃は現代文明の理想だが、農耕革命以後の文明こそ自然破壊のうえに成立しているという難問について「解答があるのなら教えて欲しい」といった作品である。
『もののけ姫』とは、いわば宮崎駿にとっての『G‐レコ』だ。いや逆だ。富野由悠季にとっての『もののけ姫』が『G‐レコ』である。『もののけ姫』が『風の谷のナウシカ』の深化版であるように、『G‐レコ』は初代ガンダムの深化版だからである。
『もののけ姫』が巧みなのはアシタカという主人公の設定だ。彼は蝦夷の若者で、隠里に住んでいる。それゆえに世俗の事情を知らない。
アシタカは旅の先々で世俗の事情を知っていく。やがて前述の「難問」に辿り着く。
アシタカは解答を得ない。ラストはご存じの通りだ。なんとも「煮え切らない」ラストだが、だからこそアニメ版マンガ版『風の谷のナウシカ』より“深い”。
『G-レコ』のベルリは「何も知らない異邦人」ではない。観客と一緒に異世界、作品世界を旅することで、案内役になってくれるわけではない。分かりづらさの一因だろう。
『G-レコ』の分かりづらさについては別に考えたい。
問題は麻生太郎だ。
彼は日本人は単一民族であると発言したという。俺はリベラルではないので、「内心の自由」というものを認めている。差別主義者の内面を洗脳なり教育なりして改めさせる気はない。言動に出さない限り許容する。
麻生太郎の単一民族発言はアイヌ民族への差別ということだけでは済まない。
「一つの王朝」とまで言っている。琉球王朝とかどう思ってんだ、という話である。
麻生太郎の内心は、「日本人=大和民族」ということではないか。アイヌ民族も、沖縄県民も、彼のなかでは「日本人」ではないのではないか。
俺は皇位継承については男系派なので──王配の子は新王朝の祖になるだろうから女系派は実質皇統断絶派である──宮家を増やして欲しいと思っている。
でだ、その際、宮家のひとつを沖縄に置いたらどうだろうか。皇族の足元で基地など増やせないのではないか。アニメ『リーンの翼』で描かれた沖縄戦を観てそう思った。あと、北海道にも置こう。
皇室には崇敬の念を持っているが、「俺たちの王様」という気分は持てない。イエの頂点に皇室があるので支配層にとっては「本家のなかの本家」なのだろうが、俺、イエないしw。 百姓の末裔だものw。
「いまの日本」というのは頼朝がつくったのであって、それから進歩してないものね。クニよりイエという日本で、クニの王、と言われても。
閨閥で固められた支配層以外は、“純血”の大和民族ではないからね。
俺の自意識は、大和と熊襲と蝦夷の混血だ。そりゃ女系を辿れば天皇に行き着くけどさ、俺の誇りは精悍な熊襲と蝦夷の血なのだ。
だいたい大和民族は征服者の末裔でしょう。なにせ本人たちが言っているものね。俺たちは土着じゃないんだと。天孫だって。
中国王朝との関係も否定している。天孫って発想は、「南船北馬」でいえば、北の方。騎馬民族征服王朝説は間違っていると思うけど、大和民族の「自意識」は、北方(非農耕)民族のそれなんだよね。
で、伊弉諾伊弉冉の神話は土器作ってた連中のそれっぽくて、「海と島」の話。
クニというけど、クニに関しては完全に出雲系。
大和民族は創世神話もクニ神話も持ち込んでいないか、土着の文化に逆に染められたんだと思う。古代ローマ人がギリシャ化したのと同じで。
「南船北馬」でいえば、邪馬台国は「南船」だろうなー。
ヤクザの刺青って、もとは漁師からの影響からなんだってね。水死体の判別に刺青を使った。
倭人も刺青入れて海に潜ってたって話だよな。
卑弥呼は舶来品大好き海外交流大好きなんだから、海の近くにいたんだと思うんだよ。
その海がどこかが問題で。
邪馬台国は九州北部にあったというのが俺の持論。海、近いじゃん?
あと経済発展ね。当時最も栄えていたのが九州北部。現代でいえば東京ですよ。
卑弥呼が女王になった経緯はご存じの通り。戦争が絶えないためで、戦争は貧乏じゃできない。
九州説は弥生時代末期の王権、畿内説は古墳時代初期の王権。
豊かな弥生文化圏の話じゃないと辻褄が合わないのではないでしょうか。
いやもうハッキリさせよう。
畿内の王権って、アンチ邪馬台国、アンチ出雲ですよ。
繁栄していたのは九州北部の邪馬台国で、山陰地方の出雲も交易のうまみを持っていた。
で、ですね、そのときの冷や飯食いはどこか? そうです、山陽地方ですよね。吉備とかさ。
あと畿内で重要なのが東側。東国にも勢力があってこそバランスがとれるわけで。そうでなきゃ、ただの「東の果て」、「東の辺境」だ。
中国の史書に出てくる倭王の系譜って、記紀の天皇に無理やり結びつける必要があるとは思えない。
天皇のコンセプトって、倭王とまったく違う。アンチ卑弥呼なんだね。
多利思北孤の世界観が天皇のコンセプトに近いから、そのあたりから始まったのかもしれない。まあ記紀には多利思北孤の影も形もないわけだけどw。
卑弥呼の話は多利思北孤の話ほど繊細じゃなくて、「熊襲の女酋」説が一番近いかもしれないな。
大和民族の「王の系譜」に存在しないことは確かなので、熊襲がどうかは別にして、X民族の女王だったのでしょう。X民族というか、「倭人」だけど。
「日本」が「倭国」を併合したというから、まー普通に考えれば「日本=ヤマト朝廷」「倭国=邪馬台国」。
だけど「日本」って奥州のことでしょう。青森に「日本中央」の碑があるくらいで。ヤマト朝廷は「和」。
中国史書とか記紀とか西日本に偏っているのが気に食わないなw。「東進」の話ばっかり。「西進」の話が出てこない。
「日本」(蝦夷国)が西進した可能性なんてないでしょうかね。 あって欲しい。
義経の軍略の才って奥州で育ったことと関係があると思う。東国武士は「馬」、西国武士は「弓」で、義経は自分の弓を見られるのを超嫌がっていたw。あれ、騎兵用のショートボウだったら面白いんだけど、無いですか、そうですか。
鎌倉武士の誰だったか、西国武士の強弓にビビりながらも、馬術があれば避けられる、どうということはない、とかシャアみたいなこと言っていたんだよw。
博多~京都~鎌倉~平泉が、だいたい500キロづつ離れているんだよね。500キロ離れると「別のクニ」になる。頼朝が平泉を滅ぼしたのは、京都との戦争を予期していたんじゃないか。
九州、関西、関東、東北は、それぞれ別々のクニを造るパワーがあって、東京一極集中って、つまんないな。
そうだ、別々の国といえば、ヤマトタケルも面白い。
関東のヤマトタケル伝承だと、オオカミに導かれた、なんてアシタカみたな話がある。関西では白鳥伝承でしょう。全然違う。
ヨーロッパには竜退治の伝承の下、キリスト教のベールを取ると、ゲルマン民族の英雄神話がある、という研究があるわけでしょう。 日本でも同じことやればいいのに。ヤマトタケルの地域ごとの神話には、記紀神話のベールがあると思って考えると面白い。
カラスやオオカミって人間と共闘して狩りをすることがあるんだってね。獲物はこっちだとか教えてくれるらしい。
神武天皇はカラスに導かれてクニを得るわけだから、オオカミに導かれる英雄って、もとは建国神話の英雄じゃないかと疑っているんだ。まあヨーロッパの異教研究と違って、日本の場合は難しいか。
卑弥呼も大和も、俺はあまり好きじゃないんだよね。
別のクニの話だと思っちゃう。
俺の中には、熊襲と出雲と東北の血が流れていて、東京出身だし、大和も邪馬台国も関係ないというか、むしろ敵というか。
敵は言い過ぎにしても、外国には礼節を尽くして、自国の反主流派をいじめるのが、大和や邪馬台国のやり方。
国外にばかり目を向けて、東北とかの貧窮には目もくれなかったのが戦前なんだけど、いまとそっくりなんだよな。地域じゃなくて世代だけど、氷河期世代に目もくれない政財界って何だろうね。
大和民族はいつだってそうだな。
逆に氷河期世代の「勝ち組」の選民思想と酷薄さも気になっている。大衆蔑視って気持ち悪いよ。「愚民」という表現が嫌いだと榊原良子が言っていたらしいけど、富野由悠季サンには変な影響を与えてしまったこと、ちゃんと落とし前をつけてもらいたいね。
戦艦大和、子供の頃は好きだったなあ。零戦とかね、子供の頃、好きでしたよ。
でも、もういい。もういいよ。
ミリタリー趣味、俺はもう卒業だわ。
どうせ幼稚な趣味ならガンダムで十分です。
野中広務といえば、部落出身者で、麻生太郎の部落出身者への差別発言について激怒したというエピソードを思い起こすアニメファンもいるかもしれない。
というのもアニメ映画の傑作『もののけ姫』は「差別される側」の話だったからである。
差別撤廃は現代文明の理想だが、農耕革命以後の文明こそ自然破壊のうえに成立しているという難問について「解答があるのなら教えて欲しい」といった作品である。
『もののけ姫』とは、いわば宮崎駿にとっての『G‐レコ』だ。いや逆だ。富野由悠季にとっての『もののけ姫』が『G‐レコ』である。『もののけ姫』が『風の谷のナウシカ』の深化版であるように、『G‐レコ』は初代ガンダムの深化版だからである。
『もののけ姫』が巧みなのはアシタカという主人公の設定だ。彼は蝦夷の若者で、隠里に住んでいる。それゆえに世俗の事情を知らない。
アシタカは旅の先々で世俗の事情を知っていく。やがて前述の「難問」に辿り着く。
アシタカは解答を得ない。ラストはご存じの通りだ。なんとも「煮え切らない」ラストだが、だからこそアニメ版マンガ版『風の谷のナウシカ』より“深い”。
『G-レコ』のベルリは「何も知らない異邦人」ではない。観客と一緒に異世界、作品世界を旅することで、案内役になってくれるわけではない。分かりづらさの一因だろう。
『G-レコ』の分かりづらさについては別に考えたい。
問題は麻生太郎だ。
彼は日本人は単一民族であると発言したという。俺はリベラルではないので、「内心の自由」というものを認めている。差別主義者の内面を洗脳なり教育なりして改めさせる気はない。言動に出さない限り許容する。
麻生太郎の単一民族発言はアイヌ民族への差別ということだけでは済まない。
「一つの王朝」とまで言っている。琉球王朝とかどう思ってんだ、という話である。
麻生太郎の内心は、「日本人=大和民族」ということではないか。アイヌ民族も、沖縄県民も、彼のなかでは「日本人」ではないのではないか。
俺は皇位継承については男系派なので──王配の子は新王朝の祖になるだろうから女系派は実質皇統断絶派である──宮家を増やして欲しいと思っている。
でだ、その際、宮家のひとつを沖縄に置いたらどうだろうか。皇族の足元で基地など増やせないのではないか。アニメ『リーンの翼』で描かれた沖縄戦を観てそう思った。あと、北海道にも置こう。
皇室には崇敬の念を持っているが、「俺たちの王様」という気分は持てない。イエの頂点に皇室があるので支配層にとっては「本家のなかの本家」なのだろうが、俺、イエないしw。 百姓の末裔だものw。
「いまの日本」というのは頼朝がつくったのであって、それから進歩してないものね。クニよりイエという日本で、クニの王、と言われても。
閨閥で固められた支配層以外は、“純血”の大和民族ではないからね。
俺の自意識は、大和と熊襲と蝦夷の混血だ。そりゃ女系を辿れば天皇に行き着くけどさ、俺の誇りは精悍な熊襲と蝦夷の血なのだ。
だいたい大和民族は征服者の末裔でしょう。なにせ本人たちが言っているものね。俺たちは土着じゃないんだと。天孫だって。
中国王朝との関係も否定している。天孫って発想は、「南船北馬」でいえば、北の方。騎馬民族征服王朝説は間違っていると思うけど、大和民族の「自意識」は、北方(非農耕)民族のそれなんだよね。
で、伊弉諾伊弉冉の神話は土器作ってた連中のそれっぽくて、「海と島」の話。
クニというけど、クニに関しては完全に出雲系。
大和民族は創世神話もクニ神話も持ち込んでいないか、土着の文化に逆に染められたんだと思う。古代ローマ人がギリシャ化したのと同じで。
「南船北馬」でいえば、邪馬台国は「南船」だろうなー。
ヤクザの刺青って、もとは漁師からの影響からなんだってね。水死体の判別に刺青を使った。
倭人も刺青入れて海に潜ってたって話だよな。
卑弥呼は舶来品大好き海外交流大好きなんだから、海の近くにいたんだと思うんだよ。
その海がどこかが問題で。
邪馬台国は九州北部にあったというのが俺の持論。海、近いじゃん?
あと経済発展ね。当時最も栄えていたのが九州北部。現代でいえば東京ですよ。
卑弥呼が女王になった経緯はご存じの通り。戦争が絶えないためで、戦争は貧乏じゃできない。
九州説は弥生時代末期の王権、畿内説は古墳時代初期の王権。
豊かな弥生文化圏の話じゃないと辻褄が合わないのではないでしょうか。
いやもうハッキリさせよう。
畿内の王権って、アンチ邪馬台国、アンチ出雲ですよ。
繁栄していたのは九州北部の邪馬台国で、山陰地方の出雲も交易のうまみを持っていた。
で、ですね、そのときの冷や飯食いはどこか? そうです、山陽地方ですよね。吉備とかさ。
あと畿内で重要なのが東側。東国にも勢力があってこそバランスがとれるわけで。そうでなきゃ、ただの「東の果て」、「東の辺境」だ。
中国の史書に出てくる倭王の系譜って、記紀の天皇に無理やり結びつける必要があるとは思えない。
天皇のコンセプトって、倭王とまったく違う。アンチ卑弥呼なんだね。
多利思北孤の世界観が天皇のコンセプトに近いから、そのあたりから始まったのかもしれない。まあ記紀には多利思北孤の影も形もないわけだけどw。
卑弥呼の話は多利思北孤の話ほど繊細じゃなくて、「熊襲の女酋」説が一番近いかもしれないな。
大和民族の「王の系譜」に存在しないことは確かなので、熊襲がどうかは別にして、X民族の女王だったのでしょう。X民族というか、「倭人」だけど。
「日本」が「倭国」を併合したというから、まー普通に考えれば「日本=ヤマト朝廷」「倭国=邪馬台国」。
だけど「日本」って奥州のことでしょう。青森に「日本中央」の碑があるくらいで。ヤマト朝廷は「和」。
中国史書とか記紀とか西日本に偏っているのが気に食わないなw。「東進」の話ばっかり。「西進」の話が出てこない。
「日本」(蝦夷国)が西進した可能性なんてないでしょうかね。 あって欲しい。
義経の軍略の才って奥州で育ったことと関係があると思う。東国武士は「馬」、西国武士は「弓」で、義経は自分の弓を見られるのを超嫌がっていたw。あれ、騎兵用のショートボウだったら面白いんだけど、無いですか、そうですか。
鎌倉武士の誰だったか、西国武士の強弓にビビりながらも、馬術があれば避けられる、どうということはない、とかシャアみたいなこと言っていたんだよw。
博多~京都~鎌倉~平泉が、だいたい500キロづつ離れているんだよね。500キロ離れると「別のクニ」になる。頼朝が平泉を滅ぼしたのは、京都との戦争を予期していたんじゃないか。
九州、関西、関東、東北は、それぞれ別々のクニを造るパワーがあって、東京一極集中って、つまんないな。
そうだ、別々の国といえば、ヤマトタケルも面白い。
関東のヤマトタケル伝承だと、オオカミに導かれた、なんてアシタカみたな話がある。関西では白鳥伝承でしょう。全然違う。
ヨーロッパには竜退治の伝承の下、キリスト教のベールを取ると、ゲルマン民族の英雄神話がある、という研究があるわけでしょう。 日本でも同じことやればいいのに。ヤマトタケルの地域ごとの神話には、記紀神話のベールがあると思って考えると面白い。
カラスやオオカミって人間と共闘して狩りをすることがあるんだってね。獲物はこっちだとか教えてくれるらしい。
神武天皇はカラスに導かれてクニを得るわけだから、オオカミに導かれる英雄って、もとは建国神話の英雄じゃないかと疑っているんだ。まあヨーロッパの異教研究と違って、日本の場合は難しいか。
卑弥呼も大和も、俺はあまり好きじゃないんだよね。
別のクニの話だと思っちゃう。
俺の中には、熊襲と出雲と東北の血が流れていて、東京出身だし、大和も邪馬台国も関係ないというか、むしろ敵というか。
敵は言い過ぎにしても、外国には礼節を尽くして、自国の反主流派をいじめるのが、大和や邪馬台国のやり方。
国外にばかり目を向けて、東北とかの貧窮には目もくれなかったのが戦前なんだけど、いまとそっくりなんだよな。地域じゃなくて世代だけど、氷河期世代に目もくれない政財界って何だろうね。
大和民族はいつだってそうだな。
逆に氷河期世代の「勝ち組」の選民思想と酷薄さも気になっている。大衆蔑視って気持ち悪いよ。「愚民」という表現が嫌いだと榊原良子が言っていたらしいけど、富野由悠季サンには変な影響を与えてしまったこと、ちゃんと落とし前をつけてもらいたいね。
戦艦大和、子供の頃は好きだったなあ。零戦とかね、子供の頃、好きでしたよ。
でも、もういい。もういいよ。
ミリタリー趣味、俺はもう卒業だわ。
どうせ幼稚な趣味ならガンダムで十分です。