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ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

富野由悠季への愛を告白するBlogです。熱狂的なファン時代は過ぎ、今はちょっと遠くから眺めている感じでしょうか。 『伝説巨神イデオン』で“ゴーチンby小松左京”されたクチです。

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『機動戦士ガンダムF91』について 作劇とキャラクター

 『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』『機動戦士ガンダムF91』の4Kリマスターを買った。
 4K環境を構築するのはだいぶ先になるだろうが、「いまのうちに監督にお願いしたい」という意気を感じたので買うことにした。

 富野監督は、『機動戦士ガンダムF91』について、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』ほど、あまり満足してないようで興味深かった。
 理屈に走りすぎている、という旨の発言が多く、監督はかなり窮屈な思いをしたのかな、と考えた。

 俺は『STAR DRIVER 輝きのタクト』が大好きなのだが、その最終二話を観て驚いたことがある。
 『新世紀エヴァンゲリオン』の最終二話にも驚いたが、それとは真逆のものを見せられた感じだった。

 『新世紀エヴァンゲリオン』は「パンツを脱いだ(by庵野秀明)」ことに驚き、感動したが、『STAR DRIVER 輝きのタクト』はむしろ逆だ。
 「完璧なパンツ」を見せられた気がした。

 とにかくロジカルなのである。「あ。あそこがこうなって、こうなるのか」という仕掛けに感動したのだ。
 クライマックスが三段構えになっているとは想像もつかなかった。
 「若者のちから」→「自己犠牲」→「それらを越えるヒーロー」というのは三段構えに痺れまくった。

 『宇宙戦艦ヤマト』から『魔法少女まどかマギカ』まで「自己犠牲」で有終の美を飾った作品は素晴らしいと思うし好きなのだが、まさかそれを越える「ヒーローによる救済」が描かれるとは思わなかった。

 五十嵐卓哉監督の手腕によるところが核心的なのは確かだが、脚本家の榎戸洋司の凄みを感じた作品だった。

 柄谷行人だったろうか、日本人は「建築する意思」が弱い、といった旨の発言があったと思う。たしかに日本文学には論理性が足りないという傾向がある。
 邦画の脚本も同様である。もちろんこれは“ヌーヴェルヴァーグ以後”の映画観が影響しているのだろうし、優れた脚本を素晴らしい映画にしてくれる(俺が尊敬する)金子修介のような映画監督が少ないという事情もあるのかもしれない。

 榎戸洋司の脚本は驚くべき「建築する意思」に貫かれている。間違いなく優れた建築者だ。
 それを映画に昇華する五十嵐卓哉監督の才能は眩しいばかりだ。

 劇場版『STAR DRIVER 輝きのタクト』は正直あまり期待してなく、しょせんダイジェスト映画、既存ファンのファンアイテムだと思っていたのだが、実際観ていて、その「再構築」ぶりに、びっくりした。後世のお手本になるような素晴らしい映画だった。

 作劇が優先され、キャラクターたちは、そのなかで、「自分の役割」を演じている、という側面があることはたしかだ。
 キャラクターの「掘り下げ」について、おざなり、とうわけではない。
 注意深く観れば、それぞれのキャラクターが、独自の背景をもち、関係性の変化をもった存在であることがみてとれる。
 しかし注意深く観ればだ。

 『STAR DRIVER 輝きのタクト』はキャラクターより作劇を「優先した」というのが俺の感想である。
 キャラクター人気がそれほどでもなかった、という傾向はそのためかもしれない。

 俺が『機動戦士ガンダムF91』が好きな理由は、『STAR DRIVER 輝きのタクト』が好きな理由と同じなのだと思う。
 俺は物語が好きなのだ。作中人物の魅力に鈍感というわけではない。だが優先順位でいえば物語だ。

 作中人物の魅力は「注意深く観れば」伝わるものであって、物語が魅力的であれば、観客は勝手に「自分なりに掘り下げて」くれるものなのである。
 「自分なりに掘り下げて」というのが俺にとって、最高の快楽でもあるのだ。

 『機動戦士ガンダムF91』は、そういう意味で、俺にとって最高の映画だ。

 キャラクター主義というのは、そもそも「連載マンガ」の作法であって、人気が出れば長期連載化が可能である、という特殊な事情が背景にあることを忘れてはいけない。

 富野由悠季のキャラクター主義というのも似たようなところがある。TVシリーズという「人気がなければ打ち切り」「人気がでれば延長」というのは、「連載マンガ」のそれに酷似している。

 『機動戦士ガンダムF91』では、アムロやシャアのようなキャラクターをつくれなかった、と反省するが、TVシリーズと映画は別物である。
 映画の限られた時間のなかで、“濃い”キャラクター主義は通用しない。掘り下げる時間がないのだ。
 映画……劇映画は自然と物語を優先することになる。バランスをとるために、映画がときとして「映画スター」を必要とするのもそうした理由がある。

 『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』において、アムロやシャアは「映画スター」のようなところがある。
 それもこれもTVシリーズで醸成されたキャラクターだからであって、『機動戦士ガンダムF91』のような完全新作のキャラクターたちと較べるのは、「映画」についてどこか勘違いしているのではないかと思う。

 完全新作の映画としては、『機動戦士ガンダムF91』は唯一の作品だ。
 『伝説巨神イデオン』以来、コンセプトと設定、場面場面のうえに直接芝居を載せることによって、作品をつくってきた富野由悠季が、初めてつくった「映画」だ。
 陳腐な「いつもの富野」を越えた、新章とでもいうべき作品で、俺はお気に入りなのである。

 物語が復活したのだ。これほど感激したことはなかった。

 その物語に(映画という媒体のせいもあって)、従属するしかなかったシーブックやセシリーを批判することは、たとえ生みの親だとしても、許すわけにはいかないのだ。

 俺は『ガンダム Gのレコンギスタ』が遺作というのは、やっぱり納得がいかない。「コンセプトと設定、芝居しかない」という『伝説巨神イデオン』以来の欠陥がある作品だからである。

 TVシリーズが体力的に無理ならば、一本の新作映画を撮って欲しい、と心の底から願う。

 ただそのためには、『機動戦士ガンダムF91』の再評価が絶対条件である、と思っていることも確かなのである。
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ハマーン・カーンについて

 kaito2198さんの記事
 ハマーン・カーンというキャラとZZという作品のこと
 から。

 また、ハマーンはいったいシャアと肉体関係を持ったかどうかの論争については、まさに男性と女性の違いだと思う。女性のほうはだいたい寝てなかったと思うし、逆に男性のほうはどっちかいうと寝た派が多い気もする。ちなみに榊原良子氏は寝てない派で、監督は寝てた派だそうだ。まあ私もそういう経験がないから、あくまで想像でしかないが。



 俺は「寝てない派」だな。

 小説版でもそうだし、なによりカミーユが覗き見た「ハマーンとシャア」の画がすべてを物語っていると思っている。
 ハマーンが「背伸び」してシャアの肩に手をかけているんだな。シャアは立っているだけ。
 肉体関係があればシャアがハマーンの腰を抱いていてもいいはずだがそれもない。そもそもハマーンも「背伸び」する必要がない。カミーユに激怒する必要もない。

 シャアにとってはしょせん「成り上がり者の娘」でかなく、むしろ軽い侮蔑をもっていたのではないかと想像するんだよね。小説版における「汚い食べ方をする少女」という描写が印象に残っている。

 シャアが「ロリコンだ」というのも、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』におけるギュネイの嫉妬まじりの発言にしか根拠がなく、ララァにしろナナイにしろ、歳相応の女性と付き合った描写しかない。
 シャアがハマーンという少女に手を出すか? という視点で考えれば、おおかたの女性の意見の方が正しいと言わざるをえない。

 kaito2198さんの仰る「ハマーン全体を振り返ると、ひどく空虚で空っぽなキャラクターでしかない」というのは、俺の文脈でいえば「フラットキャラクター」ということで、富野ワールド的には、小説版の方がうまく肉付けされている気がするんだよな。
 富野由悠季は「フラットキャラクター」が嫌い、というのが俺の理解だから、かれが「寝た」ことにしたがったのもそれが理由じゃないかなと勘ぐっているんだよね。

 だから劇場版では男女の関係があった、というニュアンスの芝居に変更されていたので、「ええっ?」という驚きととも、「やっぱりやりやがったな」と得心がいくところもあったんだよね。
 肉付けしたいのはわかるし、劇場版ということで「わかりやすく」したいのは理解できるとしても、そこを変更してはダメでしょ、と思ったなー。ハマーン・カーンというキャラクターがいろいろ台無しじゃん。あとシャアについてもね。

 以前にも書いたことだけど、TV版との“格闘”の気配がない、というのは、こういうところにも現れているんだな。いろいろと安易なんだよ『新訳』って。

 ZZという作品は突き詰めると「ハマーンの救済」というものだ。主人公ジュドーの存在もそうだし、マシュマーなどのキャラもそうだ。そういう意味ではZZはコミカル調でよく揶揄されるが、富野作品あるいはキャラ論を論じたいなら、必ず無視できない一作だ。



 というkaito2198さんのご意見には、まったく同感で、メタ的にはフラットキャラクターから掘り下げられた、といえるし、ドラマ的にはジュドーという少年によって心情的に救われた、といえると思うんだよね。

 『機動戦士ガンダムΖΖ』という作品は、基本的にフラットキャラクターが活躍する話だったのが、やがてシリアスな方向へとシフトしていき、人間たちの物語になっていく。
 ハマーンもまたその軌跡をなぞったヒロインだった。

 ジュドーやシーブックは、富野監督から“遠い”がゆえに、キャラクターとして弱くなる。
 しかし富野由悠季から“遠い”キャラクターだからこそ、「作劇上の役割」しか与えられなかったハマーンやセシリーに、ほんの少しの息吹を与えることができたんじゃないかな。

劇場版『伝説巨神イデオン』について

 kaito2198さんの記事
 「伝説巨神イデオン 接触編・発動編」はヒットしなかったって、本当なの?
 から。

 俺は、資料性がなく主観的なこと、体験的なことしか書けないんだよな。そのへんは割り引いて読んでください。

 リアルタイム世代ですが、「『伝説巨神イデオン 接触編・発動編』はヒットしなかった」という話は聞いたことないですね。

 初耳です。監督がそんなことを言ってたのですか。
 オタクでも何でもない剣道部の主将と『伝説巨神イデオン 接触編・発動編』(とくに発動編)について熱く語ったぐらいですから、興行的に失敗だったという実感はなかったですね。

 ただ女子人気やプラモ人気はそれほどでもなかったかな、という感じは受けました。

 『機動戦士ガンダム』は観ていたけど、『伝説巨神イデオン』は観ていない、という人も相当いたことは確かです。

 劇場版『機動戦士ガンダム』はクラスメイトたちと観にいきましたが、『伝説巨神イデオン 接触編・発動編』はひとり寂しく観に行きました。
 それくらいの熱量の差があったことも確かです。
 『機動戦士ガンダム』のような(TVで取り上げられるような)社会現象的な熱気はありませんでした。
 

 『イデオン接触編・発動編』は間違いなくヒットしたけど、大ヒットにまで行かなかった、つまりにその中間にいるくらいの上映実績を打ち出したアニメーション作品なのではないでしょうか。



 そんな感じだったかもしれません。

 『ルパン三世 カリオストロの城』は劇場で観たクチですが、劇場の空気の凍りついたようなシラケ具合はいまでも印象に残っています。
 『ルパン三世』を観に来たら「東映まんがまつり」だったというズッコケ感ですね。
 『ルパン三世 カリオストロの城』はTV放送で人気がでたと記憶しています。「映画」じゃなかったんでしょうね。
 『ルパン三世 カリオストロの城』のあと、宮崎駿は不遇の時代を過ごすことになるのはご存知のとおり。

 TVシリーズの『機動戦士ガンダム』の“失敗”のあと、富野監督も日本サンライズの巨大ロボットアニメの番組帯から降板しましたし。
 劇場版『機動戦士ガンダム』の人気はガンプラによるところが大きくて、どこまでが富野監督の凄さか、ちょっと不分明なところがありました。

 『伝説巨神イデオン 接触編・発動編』で、富野監督の凄さが決定的に判明したのだと思っています。
 『伝説巨神イデオン 接触編・発動編』は、宮崎駿の凄さが判明した『風の谷のナウシカ』に相当するんじゃないでしょうかね。

 もちろん『無敵超人ザンボット3』のような傑作、『未来少年コナン』のような傑作を知っている層からは、「なにをいまさら」だったんでしょうが。

 「ヒットしなかった」という言説は、『機動戦士ガンダム』がシリーズ化し、ガンプラふくめて産業として成立した後世からのバイアスがあるんじゃないかと思うんですよね。

 俺個人の実感としては、俺の狭い交友関係のなかで、『伝説巨神イデオン 接触編・発動編』はコケた、という認識はないですね。
 コケたなら、「不遇の時代」を迎えていたんじゃないでしょうかね。

 TV『機動戦士ガンダム』の“失敗”に続いてTV『伝説巨神イデオン』も“失敗”するのですから、「しょせんガンプラブームがあっただけ」というアンチ寄りの劇場版『機動戦士ガンダム』の評価は、『伝説巨神イデオン 接触編・発動編』がコケたら、「ほらみたことか」となっていたんじゃないでしょうか。

 日本サンライズの巨大ロボットアニメの番組帯を降板しているのだから、富野監督は一コンテマンになっていたかもしれないかもしれないですね。

 しかし結果は「富野アワー」が復活するわけですから、それがすべてを物語っていると思います。
 

富野監督作品 入門編

 富野由悠季はご本人が“客観視”する以上に偉大な映画作家だが、いざ富野監督作品の入門編を考えると難しいことに気づく。
 富野由悠季の代表作はもちろん『機動戦士ガンダム』だが、他に二三本を挙げるとしたら、『伝説巨神イデオン』『聖戦士ダンバイン』あたりになるのではないかと思う。

 しかしそれを実際観ようと思えば「長すぎて挫折する人」が続出することも容易に想像できる。
 TVシリーズが代表作、というのは、後世の人間にとって、気軽な入門編がない、という欠点がある。もちろん大物脚本家のTVシリーズなどもあり、あまり一般化できるものではないのだが。

 俺の場合、世代的なものもあって、富野監督作品の入門編を語るのが難しい。俺の世代は、別に「オタク志向」でも何でもないやつが富野監督作品を「なんとなく」観ることになっていたのだ。同世代の人間なら共感してくれるはずだ。かつて「富野アワー」とでも言うべき番組帯があったのである。入門編もへったくれもない。

 子供の頃から富野監督作品に触れ、面白がり、『機動戦士ガンダム』以降、その存在を意識しながら、土曜夕方の「富野アワー」が放送される、という“多作の時代”に付き合ってきたわけだ。
 富野監督がどうこうというよりも、新作のたびにコンセプトを変え、世界観を変えてくる「富野アワー」が楽しみだった。
 「富野アワー」を経験したことは、良かれ悪しかれ、俺の偏向性につながったことは確かだ。

 とにかく観た、とにかく観た、とにかく観たのだ。
 蓮實重彦は「自分がジョン・フォードを論じるのは若い頃にたくさん観たからで、それ以上の意味はない」という旨の発言をしていたが、どこまで信用していいのか、俺にはわからない。
 俺と富野監督作品との関係にも似たようなところがある。「若い頃にたくさん観たからで、それ以上の意味はない」のかもしれない。

 ただ、富野監督作品の変化が、俺の成長と重ね合わさったと錯覚できるところがあり、卒業しそこねたという言い訳もある。
 偶然だが、富野監督品は俺の成長とともに、子供向けからヤングアダルト向けへと進化していった。

 かつてライトノベルはヤングアダルト小説と呼ばれていた。
 角川春樹の指揮のもとスニーカー文庫が創刊、そこには大人向けでも子供向けでもない作品がラインナップされていた。
 アニメ作家、ゲーム作家、ジュブナイル作家が名を連ねていた。

 ライトノベルの源流は諸説あるが、SF、アニメ、ゲームといったところだろう。俺のライトノベル観では決定的役割を果たしたのはゲームである。ゲーム的発想が、それ以前の小説群との断絶を生んだのだと思う。

 しかしライトノベルのそもそもの発端は「ヤングアダルト市場」の発見にあったはずだ。

 その「ヤングアダルト市場」をつくり発展させたのが、(今からでは信じられないだろうが)「トミノの時代」の作品群である。

 90年代、「ヤングアダルト市場」は専門化をし、アニメ史的にいえば、「トミノの時代」から「アカホリの時代」へとバトンタッチがおこなわれた。
 もちろんそのなかには『新世紀エヴァンゲリオン』という「トミノの時代」の“残党”が出現し、その成功のあと作家主義的な作品がつくられることにもなるのだが、“産業をつくる”というレベルにまでは至らなかった。

 (宮崎作品が80年代半ばから人気を博することになるわけだが、俺のいう「誰々の時代」という産業に与えた影響はないので除外する)

 メディアミックス前提という「アカホリの時代」に、小説分野の“一本立ち”とでもいうべき『ブギーポップは笑わない』等が現れ、決定的に「ライトノベル」になっていく。スニーカー文庫の時代から電撃文庫の時代へと移る。

 アニメはふたたび、トミノ以前の時代にもどり、原作を外部に頼るようになっていく。

 90年代以降、富野由悠季は苦戦することになる。
 すでに「トミノの時代」は去り、作品内容の是非は別としても、時代から取り残されることになる。

 『ブレンパワード』など、俺は大好きな作品だが、(マイケル・ジャクソンも魅了したという)「いのまたむつみ」という稀有な画家の“華”を理解できないあたりに、かれの「時代とのズレ」が如実に現れているといえるだろう。(現行のキャラデザに不満があるわけではない)

 富野監督作品はこうして、「従来の富野ファン」と「少数の感度のいいファン」、「アニメに偏見のないインテリ」のものになっていく。
 「ガンダムの一発屋のくせになんでコイツでかい面してんだろう」「エキセントリックなおじさん」といったネットのアンチ寄りの富野観が現れてくるわけだ。

 もちろん富野由悠季が大衆のことを忘れることはなかった。かれは「愚民」という言葉を使うこともあるが、平井和正の人類ダメ小説と同じようなもので、人類全体が愚民なわけで、選民思想があるわけではない。あるわけではないのだが、実際に富野監督作品をいくつか観なければ伝わらないものだから、反撥を招くこともある。

 『∀ガンダム』『OVERMANキングゲイナー』などは、「観るだけで楽しい作品」だが、ヤングアダルト市場の“浸透と拡散”以後のアニメとしては、「時代とのズレ」があったことは否めないだろう。「世界名作劇場」を家族でみるような層と、かぎかっこ付きの「アニメ」をみる層との分離、「引きこもりの理由が的外れ」など、「時代とのズレ」、時代遅れ感は否めかった。

 時代遅れといえば、いま現在、「巨大ロボットアニメ」というジャンルが、キッズ層にどれだけ歓迎されているか、という問題がある。

 「巨大ロボットアニメ」は、『スーパーロボット大戦』等のゲームから入ってきてくれる(比較的に)広い層を除けば、狭い層の「オタク」のものになってしまったといえるのではないだろうか。

 「トミノの時代」が去り、「アカホリの時代」が去り、またヤングアダルト市場の“浸透と拡散”のあとに残されたのは、「巨大ロボットアニメ」は「オタク」のものである、という現実であった。

 その現実に立ち向かうのが富野監督である。

 『ガンダム Gのレコンギスタ』では「子供向け」を目指したという。

 これは『機動戦士ガンダム』以上に困難なミッションである。
 『機動戦士ガンダム』の時代には、子供向け巨大ロボットアニメという市場があった。
 いまでいえば、ゲーム原作アニメのような位置づけの市場である。
 子供向け巨大ロボットアニメという市場のなかでグラデーションのように色合いをかえ進化してきたのが富野監督作品であった。

 劇場版『ガンダム Gのレコンギスタ』は、従来からのファンのファンアイテム以上のものになることを祈るしかない。

 あのごちゃごちゃした漫画『ワンピース』を楽しんでいるキッズ層にとって、『ガンダム Gのレコンギスタ』が“難解”ということはないだろう。おもちゃ箱をひっくり返したような燦燦たる魅力に映るかもしれない。
 しかし「巨大ロボットアニメ」で“届く”かどうか。

 かつて『機動戦士ガンダム』に有利に働いた「巨大ロボットアニメ」は、ヤングアダルト市場の“浸透と拡散”以降、不利に働いている。
 『ガンダム Gのレコンギスタ』においても同様だ。“届く”のだろうか。届いてほしい。

 劇場版『機動戦士ガンダム』第一部は、俺のような素人中学生を動員した広報戦略もあったし、夕方再放送で「毎日」観れたし、ガンプラ・ブームの後押しもあった。

 劇場版『ガンダム Gのレコンギスタ』はどうなるのだろうか。キッズ層向けの時間帯で再放送(できれば「毎日」)はぜひして欲しいし、当時のガンプラに相当するとしたら、現在ではゲームになるのだろうか。スマホ展開はどちらにしても必須だろう。

 富野監督作品の入門に最適なのは何か、と問われれば、いまの時代、絶句するしかないのが現状だ。

 アニメへの忌避感がないこと、巨大ロボットに抵抗がないこと、このふたつをクリアできている人であれば、入門編たる作品が数多くあるのだが………。
 なかでも『∀ガンダム』『OVERMANキングゲイナー』はその双璧と言っていいと思っている。

 とはいえTVシリーズは長すぎる。また映画もいくつか撮っているが、三部作や二部作である。入門編には不向きだろう。

 そうなると、手軽に楽しめるのは、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』『機動戦士ガンダムF91』の両作品ということになる。
 しかし両作品ともガンダムシリーズについての基礎知識がないと分かりづらいという問題がある。

 だから絶句するしかない。

 “わかる”ことがそんなに大事か、という問いもありえて、古典映画や外国映画など、現代日本の文脈から外れた作品は、じゅうぜんに理解できるとは言えないだろう。

 そういう意味では、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』『機動戦士ガンダムF91』が、いまのところ入門編ということにしてしまってもいいかもしれない。なかでも、わからない状況に観客とともに主人公たちが巻き込まれる、という構造をもつ『機動戦士ガンダムF91』が、俺としては入門編としてぎりぎりふさわしいのではないかと思う。

 富野監督作品の入門編にはもうひとつの考え方がある。

 富野監督作品の魅力のひとつは、キャラクターとその関係性にある。
 作中人物の誰でもいい、好きになってもらえれば、それがその人の富野監督作品の入門編になる。

 劇場版『ガンダム Gのレコンギスタ』第一部がどうなるのかわからないが、ベルリ君たちを好きになってくれる子供たちが多くいることを願う。

 五部作をつくるぐらいなら、一本の新作映画を撮って欲しい、俺が絶句しないためにも、と思うが、これは仕方がないのかな。

富野監督とは関係ないが、頭きたので書いてしまおう。

 ネオリベがまたやらかした。

 障害年金の支給を打ち切りにするらしい。
 その数、1010人。
 彼らの「人生」を何だと思っているのだ。

 近代日本など、しょせんテロリストのつくった政府であり、根幹に尊王攘夷という夢想がある以上、あの馬鹿げた15年戦争は必然だったろう。
 それでもなお、あの15年戦争には、「国民」のため、という大義があった。

 俺は公武合体派で、開明派だが、グローバリゼーションはもう限界だと思っている。
 中産階級の没落、それに伴う少子化、現代の慰安婦問題とでもいうべき低賃金移民、「国民」の誰も幸せにしないのである。国境の意味があるのか。国民国家の意味があるのか。

 誰もが「世界市民」になれるわけではない。誰もが国境を越えて活躍できるわけがない。

 そもそも税金の多くが社会保障に使われ財政を逼迫している、という議論がおかしい。
 税金は「国」のために納めているわけではないのだ。同じ日本人、わが同胞のために納めているのだ。

 暴力について考えればわかりやすい。
 人は誰しも敵を殺し、自分が生き延びる権利がある。
 ムカつく奴を殺す権利があると言っているわけじゃない。
 「俺のクニ」に害する敵を殺す権利があるのだ。

 その暴力を「国家」に預けるのが国民国家だ。
 警察、軍隊などに、わが同胞のため、と思えばこそ、一般市民にとって「名無しさん」でしかない公務員を信頼し、一時的に「預けている」だけだ。

 社会保障も同じである。
 国民国家が「国民」のために最善を尽くしていると信頼するからこそ、税金を納めているのである。
 わが同胞のため、と思えるからこそ、障碍に苦しむ「名無しさん」のために、自分の苦しみを越えてがんばっているのである。

 俺自身、希死念慮に苦しむ障碍者だが、ただでは死ねないなと思った。

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プロフィール

shiwasu5

Author:shiwasu5
どんな奴か?
自己紹介。最終学歴は専門学校卒。(東京デザイナー学院アニメーション科)
小学時代→遊び時間と授業時間の区別がつかず。
中学時代→校内暴力をのびのびとエンジョイ。
高校時代→管理教育で次々と仲間が退学していくなかなんとか卒業。
浪人時代→二年間、進学/就職浪人をする。
本屋でバイト→本屋潰れる、古本屋でバイト→古本屋潰れる。クラブ通いで某事件を起こし警察に捕まったのもこの頃。
専門学校時代→馬鹿みたいに楽しかったが、周囲の才能に圧倒される。同期に吉田健一や長濵博史がいて、三人でつるんで歩いたこともある。やつらと較べた俺が間違いだった。
虫プロ入社。最低限の固定給が約束されているいい会社でした。『うしろの正面だあれ』の生活描写についていけず退社。絵が下手なのを実感。
バイト時代→バイトしながら漫画家を目指す。気に入ったコンテが描けず挫折。
デザイン系の会社のバイトから正社員へ。
現在は鬱(双極性障害)のため地獄を彷徨う。彼女と別れる。誰か背中抱いていてくれ。

好みの傾向
・アニメ五選(TVシリーズは除く)
『白い牙』
『機動戦士ガンダムF91』
『AIR』
『もののけ姫』
『アリオン』
・漫画五選
『メトロポリス』
『がんばれ元気』
『デビルマン』
『GANTZ』
『天然コケッコー』
・小説五選
『砂の惑星』
『狼の紋章』
『逃れの街』
『ながい坂』
『剣』
・映画五選
『ブレイブハート』
『ダークシティ』
『夜の大捜査線』
『用心棒』
『イージー・ライダー』
・音楽はわかりません。
世代的にいえば
サザン、YMO、尾崎、マイケル・ジャクソン、U2あたりが直撃です。
クリス・レアとかビリー・ジョエルとかも好きでした。(英語歌詞わからんけど)
・政治傾向
公武合体、天皇機関説、大きな政府、死刑廃止論者。
・女性の好み
シャアにとってのララァみたいな。
・男性の好み
元気くんのお父さん。
・富野由悠季の好きなところ
一生懸命なところ。

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