ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

富野由悠季への愛を告白するBlogです。熱狂的なファン時代は過ぎ、今はちょっと遠くから眺めている感じでしょうか。 『伝説巨神イデオン』で“ゴーチンby小松左京”されたクチです。

富野監督作品 入門編

 富野由悠季はご本人が“客観視”する以上に偉大な映画作家だが、いざ富野監督作品の入門編を考えると難しいことに気づく。
 富野由悠季の代表作はもちろん『機動戦士ガンダム』だが、他に二三本を挙げるとしたら、『伝説巨神イデオン』『聖戦士ダンバイン』あたりになるのではないかと思う。

 しかしそれを実際観ようと思えば「長すぎて挫折する人」が続出することも容易に想像できる。
 TVシリーズが代表作、というのは、後世の人間にとって、気軽な入門編がない、という欠点がある。もちろん大物脚本家のTVシリーズなどもあり、あまり一般化できるものではないのだが。

 俺の場合、世代的なものもあって、富野監督作品の入門編を語るのが難しい。俺の世代は、別に「オタク志向」でも何でもないやつが富野監督作品を「なんとなく」観ることになっていたのだ。同世代の人間なら共感してくれるはずだ。かつて「富野アワー」とでも言うべき番組帯があったのである。入門編もへったくれもない。

 子供の頃から富野監督作品に触れ、面白がり、『機動戦士ガンダム』以降、その存在を意識しながら、土曜夕方の「富野アワー」が放送される、という“多作の時代”に付き合ってきたわけだ。
 富野監督がどうこうというよりも、新作のたびにコンセプトを変え、世界観を変えてくる「富野アワー」が楽しみだった。
 「富野アワー」を経験したことは、良かれ悪しかれ、俺の偏向性につながったことは確かだ。

 とにかく観た、とにかく観た、とにかく観たのだ。
 蓮實重彦は「自分がジョン・フォードを論じるのは若い頃にたくさん観たからで、それ以上の意味はない」という旨の発言をしていたが、どこまで信用していいのか、俺にはわからない。
 俺と富野監督作品との関係にも似たようなところがある。「若い頃にたくさん観たからで、それ以上の意味はない」のかもしれない。

 ただ、富野監督作品の変化が、俺の成長と重ね合わさったと錯覚できるところがあり、卒業しそこねたという言い訳もある。
 偶然だが、富野監督品は俺の成長とともに、子供向けからヤングアダルト向けへと進化していった。

 かつてライトノベルはヤングアダルト小説と呼ばれていた。
 角川春樹の指揮のもとスニーカー文庫が創刊、そこには大人向けでも子供向けでもない作品がラインナップされていた。
 アニメ作家、ゲーム作家、ジュブナイル作家が名を連ねていた。

 ライトノベルの源流は諸説あるが、SF、アニメ、ゲームといったところだろう。俺のライトノベル観では決定的役割を果たしたのはゲームである。ゲーム的発想が、それ以前の小説群との断絶を生んだのだと思う。

 しかしライトノベルのそもそもの発端は「ヤングアダルト市場」の発見にあったはずだ。

 その「ヤングアダルト市場」をつくり発展させたのが、(今からでは信じられないだろうが)「トミノの時代」の作品群である。

 90年代、「ヤングアダルト市場」は専門化をし、アニメ史的にいえば、「トミノの時代」から「アカホリの時代」へとバトンタッチがおこなわれた。
 もちろんそのなかには『新世紀エヴァンゲリオン』という「トミノの時代」の“残党”が出現し、その成功のあと作家主義的な作品がつくられることにもなるのだが、“産業をつくる”というレベルにまでは至らなかった。

 (宮崎作品が80年代半ばから人気を博することになるわけだが、俺のいう「誰々の時代」という産業に与えた影響はないので除外する)

 メディアミックス前提という「アカホリの時代」に、小説分野の“一本立ち”とでもいうべき『ブギーポップは笑わない』等が現れ、決定的に「ライトノベル」になっていく。スニーカー文庫の時代から電撃文庫の時代へと移る。

 アニメはふたたび、トミノ以前の時代にもどり、原作を外部に頼るようになっていく。

 90年代以降、富野由悠季は苦戦することになる。
 すでに「トミノの時代」は去り、作品内容の是非は別としても、時代から取り残されることになる。

 『ブレンパワード』など、俺は大好きな作品だが、(マイケル・ジャクソンも魅了したという)「いのまたむつみ」という稀有な画家の“華”を理解できないあたりに、かれの「時代とのズレ」が如実に現れているといえるだろう。(現行のキャラデザに不満があるわけではない)

 富野監督作品はこうして、「従来の富野ファン」と「少数の感度のいいファン」、「アニメに偏見のないインテリ」のものになっていく。
 「ガンダムの一発屋のくせになんでコイツでかい面してんだろう」「エキセントリックなおじさん」といったネットのアンチ寄りの富野観が現れてくるわけだ。

 もちろん富野由悠季が大衆のことを忘れることはなかった。かれは「愚民」という言葉を使うこともあるが、平井和正の人類ダメ小説と同じようなもので、人類全体が愚民なわけで、選民思想があるわけではない。あるわけではないのだが、実際に富野監督作品をいくつか観なければ伝わらないものだから、反撥を招くこともある。

 『∀ガンダム』『OVERMANキングゲイナー』などは、「観るだけで楽しい作品」だが、ヤングアダルト市場の“浸透と拡散”以後のアニメとしては、「時代とのズレ」があったことは否めないだろう。「世界名作劇場」を家族でみるような層と、かぎかっこ付きの「アニメ」をみる層との分離、「引きこもりの理由が的外れ」など、「時代とのズレ」、時代遅れ感は否めかった。

 時代遅れといえば、いま現在、「巨大ロボットアニメ」というジャンルが、キッズ層にどれだけ歓迎されているか、という問題がある。

 「巨大ロボットアニメ」は、『スーパーロボット大戦』等のゲームから入ってきてくれる(比較的に)広い層を除けば、狭い層の「オタク」のものになってしまったといえるのではないだろうか。

 「トミノの時代」が去り、「アカホリの時代」が去り、またヤングアダルト市場の“浸透と拡散”のあとに残されたのは、「巨大ロボットアニメ」は「オタク」のものである、という現実であった。

 その現実に立ち向かうのが富野監督である。

 『ガンダム Gのレコンギスタ』では「子供向け」を目指したという。

 これは『機動戦士ガンダム』以上に困難なミッションである。
 『機動戦士ガンダム』の時代には、子供向け巨大ロボットアニメという市場があった。
 いまでいえば、ゲーム原作アニメのような位置づけの市場である。
 子供向け巨大ロボットアニメという市場のなかでグラデーションのように色合いをかえ進化してきたのが富野監督作品であった。

 劇場版『ガンダム Gのレコンギスタ』は、従来からのファンのファンアイテム以上のものになることを祈るしかない。

 あのごちゃごちゃした漫画『ワンピース』を楽しんでいるキッズ層にとって、『ガンダム Gのレコンギスタ』が“難解”ということはないだろう。おもちゃ箱をひっくり返したような燦燦たる魅力に映るかもしれない。
 しかし「巨大ロボットアニメ」で“届く”かどうか。

 かつて『機動戦士ガンダム』に有利に働いた「巨大ロボットアニメ」は、ヤングアダルト市場の“浸透と拡散”以降、不利に働いている。
 『ガンダム Gのレコンギスタ』においても同様だ。“届く”のだろうか。届いてほしい。

 劇場版『機動戦士ガンダム』第一部は、俺のような素人中学生を動員した広報戦略もあったし、夕方再放送で「毎日」観れたし、ガンプラ・ブームの後押しもあった。

 劇場版『ガンダム Gのレコンギスタ』はどうなるのだろうか。キッズ層向けの時間帯で再放送(できれば「毎日」)はぜひして欲しいし、当時のガンプラに相当するとしたら、現在ではゲームになるのだろうか。スマホ展開はどちらにしても必須だろう。

 富野監督作品の入門に最適なのは何か、と問われれば、いまの時代、絶句するしかないのが現状だ。

 アニメへの忌避感がないこと、巨大ロボットに抵抗がないこと、このふたつをクリアできている人であれば、入門編たる作品が数多くあるのだが………。
 なかでも『∀ガンダム』『OVERMANキングゲイナー』はその双璧と言っていいと思っている。

 とはいえTVシリーズは長すぎる。また映画もいくつか撮っているが、三部作や二部作である。入門編には不向きだろう。

 そうなると、手軽に楽しめるのは、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』『機動戦士ガンダムF91』の両作品ということになる。
 しかし両作品ともガンダムシリーズについての基礎知識がないと分かりづらいという問題がある。

 だから絶句するしかない。

 “わかる”ことがそんなに大事か、という問いもありえて、古典映画や外国映画など、現代日本の文脈から外れた作品は、じゅうぜんに理解できるとは言えないだろう。

 そういう意味では、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』『機動戦士ガンダムF91』が、いまのところ入門編ということにしてしまってもいいかもしれない。なかでも、わからない状況に観客とともに主人公たちが巻き込まれる、という構造をもつ『機動戦士ガンダムF91』が、俺としては入門編としてぎりぎりふさわしいのではないかと思う。

 富野監督作品の入門編にはもうひとつの考え方がある。

 富野監督作品の魅力のひとつは、キャラクターとその関係性にある。
 作中人物の誰でもいい、好きになってもらえれば、それがその人の富野監督作品の入門編になる。

 劇場版『ガンダム Gのレコンギスタ』第一部がどうなるのかわからないが、ベルリ君たちを好きになってくれる子供たちが多くいることを願う。

 五部作をつくるぐらいなら、一本の新作映画を撮って欲しい、俺が絶句しないためにも、と思うが、これは仕方がないのかな。
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富野監督とは関係ないが、頭きたので書いてしまおう。

 ネオリベがまたやらかした。

 障害年金の支給を打ち切りにするらしい。
 その数、1010人。
 彼らの「人生」を何だと思っているのだ。

 近代日本など、しょせんテロリストのつくった政府であり、根幹に尊王攘夷という夢想がある以上、あの馬鹿げた15年戦争は必然だったろう。
 それでもなお、あの15年戦争には、「国民」のため、という大義があった。

 俺は公武合体派で、開明派だが、グローバリゼーションはもう限界だと思っている。
 中産階級の没落、それに伴う少子化、現代の慰安婦問題とでもいうべき低賃金移民、「国民」の誰も幸せにしないのである。国境の意味があるのか。国民国家の意味があるのか。

 誰もが「世界市民」になれるわけではない。誰もが国境を越えて活躍できるわけがない。

 そもそも税金の多くが社会保障に使われ財政を逼迫している、という議論がおかしい。
 税金は「国」のために納めているわけではないのだ。同じ日本人、わが同胞のために納めているのだ。

 暴力について考えればわかりやすい。
 人は誰しも敵を殺し、自分が生き延びる権利がある。
 ムカつく奴を殺す権利があると言っているわけじゃない。
 「俺のクニ」に害する敵を殺す権利があるのだ。

 その暴力を「国家」に預けるのが国民国家だ。
 警察、軍隊などに、わが同胞のため、と思えばこそ、一般市民にとって「名無しさん」でしかない公務員を信頼し、一時的に「預けている」だけだ。

 社会保障も同じである。
 国民国家が「国民」のために最善を尽くしていると信頼するからこそ、税金を納めているのである。
 わが同胞のため、と思えるからこそ、障碍に苦しむ「名無しさん」のために、自分の苦しみを越えてがんばっているのである。

 俺自身、希死念慮に苦しむ障碍者だが、ただでは死ねないなと思った。

<侵犯>の物語

 映画についてわからないと書いたが、同じように少女マンガについてもわからない。できることは誤解することだけだ。
 だがその誤解のなかで、俺なりに消化したものがあり、富野由悠季とも多少関わるので書いてみようと思う。

 俺にとって『新世紀エヴァンゲリオン』は、<侵犯>の物語であった。
 <侵犯>することも、されることも恐れる男の子が、どうしたら大人になれるか、という難問を巡る話だ。
 “される”ことを恐れても“する”ことを恐れないヒロインに対して、“する”ことを決意するところがラストシーンだ、というのが俺の解釈だ。
 主人公が子供であるためにヒロインに対して男として<侵犯>することなど思いもよらなかった『機動戦士Vガンダム』の、ありえたかもしれないハッピーエンド(?)でもある。
 この変奏曲が『涼宮ハルヒの憂鬱』のラストシーンだろう。この作品も<侵犯>することを決意する男の子の話だ。

 とはいえ、『エヴァ』と『ハルヒ』には欠落しているものがある。
 ヒロインの美少女に<侵犯>されるのは気持ちいい、というのは奇蹟かもしれない、あるいは嘘くさい、ということだ。
 その点において、『V』はきちんと描く。ヒロインであるカテジナの、主人公への<侵犯>は、彼の擬似的な「母たち」を殺害することだからである。それは“痛み”だ。

 少女愛は人形愛に通じている、と書いたのは渋澤龍彦だったろうか。
 少女愛とは<侵犯>することもされることもない関係のない関係性のことなのだろう。

 『少女革命ウテナ』は、第一話と劇場版の序盤を観ただけなのだが(いづれちゃんと観ます)、そこで俺が直感したのは、これは穴なし乙女の物語なのかな、ということだ。『装甲騎兵ボトムズ』がパーフェクトソルジャーの物語なら、これはパーフェクトヴァージンの物語なのかな、と予感した。
 『エヴァ』が<侵犯>の物語であったように、『ウテナ』はもしかしたら反<侵犯>の物語を目指したのかもしれない。

 90年代は女ヒーローの時代だった。80年代の紡木たくと90年代の矢沢あいの違いは、矢沢あいの作品では主人公はイケてる集団のイケてる女ヒーローに自らなるわけだ。(ハチがロマンスコードに回収されたときナナがそこからお前を助け出してやるというセリフがあったがあそこは痺れた。『NANA』は出崎統に料理して欲しかったなー)
 子供が大人の力を手に入れる魔法少女ものとは一線を画しているのが『美少女戦士セーラームーン』であったろう。これもイケてる女子高生がヒーローをやるという話だ。
 この女性作家たちの描く女ヒーローものの流れのなかに、少女愛の男性作家による反<侵犯>の物語が接続されているとしたら、そのネジレはとても興味深い。

 この女ヒーローの時代を象徴する作品は(例によって未読なんだが……いづれちゃんと読みます)『BASARA』かもしれないのだが、この作品で女性がヒーローをやっているのを読んで、「驚いた」「時代がかわった」と証言したのが竹宮恵子だ。
 24年組という少女マンガ家たちは少年愛と呼ばれるジャンルの作品も描いた。彼女たちがなぜ少年愛を描かなければならなかったといえば、<侵犯>の物語を描くためではないかと想像している。
 主人公が女性ではダメだったのだ。なぜか。主人公が女性であれば、女性向けロマンスのコードに“回収”されてしまうからだ。<侵犯>の物語は、<愛>の物語でもありうるからだ。
 彼女たちが扱ったのはだから男性同性愛ではない。男性であることではなく、非女性であることが肝要だったのだろう。

 しかし女ヒーローが描かれる90年代に、この方面で180度の転換が行われる。ボーイズラブ(以下BL)と呼ばれる娯楽分野が台頭する。
 24年組の少年愛が“女性向けロマンスを回避する”ための装置であるのに対し、80年代のやおいには回避する意志は弱い。しかしそこにはあきらかに<侵犯>の“痛み”への目線がある。
 ところが女ヒーローが台頭する90年代に、同時並行的に登場するBLは、もはや“痛み”は存在しない。(俺の知る狭い範囲の話でごめん)
 女性向けロマンスのコードを回避するために男性同性愛という装置を利用しているのではない。BLにいたって逆になるわけだ。
 女性向けロマンスのコードを楽しむための装置として男性同性愛が描かれる。女性向けロマンスのコードを、「より安全に」「より非現実的に」楽しむために、男性同性愛という装置を利用しているのだ。
 一時期の乙女チックと呼ばれる少女マンガよりさらに徹底して甘美な世界がBLだ。女性向けロマンスのコードにおける「ハッピーエンド前のすれ違い」すら“痛み”ではなくて「性的玩弄」として(エロ的に楽しく)「甘美」に描くわけだ。恋愛は描かない。愛だけが描かれる。かつての乙女チックにわずかに残っていたビターな要素すらエロ的な楽しさに置換してより甘美さに徹底している。

 このことを鑑みれば、ある種の男性向けの作品が、女性登場人物オンリーになるのは、同じ理由があるのではないかと類推できる。
 つまり女性であることが肝要なのではなくて、非男性であることが肝要なのではないか。
 <侵犯>する可能性のある男性ではない、ということ。そして男性が作品内に登場しないことによって、ヒロインたちが<侵犯>される可能性もない、ということ。
 それがこの種の作品にとって肝要なのではないか、と想像する。

 俺の見立てによれば、女性(の一部)たちは、<侵犯>の物語から“痛み”だけを除去する方法論を編み出し、愛の物語を楽しんでいる。エロい。
 一方で、男性(の一部)たちは、<侵犯>の可能性を除去する方法論を編み出し、物語ならざる物語を楽しんでいる。エロくない。(二次創作の話は置いておくとして)

 俺はエロいおじさんなんで、BLの方が「まだ」理解できるんだが、<侵犯>の物語というのは、それほどキツい、と感じる人達が一部でいるのだろうな、と想像する。
 優しすぎる人たちなんでしょうね。

 『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』は、映画としての眼目は、美少女クェス・パラヤだった。
 クェスをうまく撮れれば成功し、撮れなければ失敗する、そういう類の映画だった。
 そして結果は失敗だったように俺は思う。

 理由は明白だ。富野由悠季は、少女愛とは無縁の男だからである。
 おま×この匂いのない女なんて欲情しないよ、という男だ。
 しかしこれが間違っていたのではないか。

 少女愛とは人形愛なのだ。おま×この匂いなんかしない、というか、つまり穴なしが理想なのではないだろうか。
 <侵犯>できないし、されない、という関係なき関係性である。

 それはニュータイプの夢とは真逆の、ピグマリオンの楽園である。

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『母性のディストピア』を読んだ

 予感としては「母性が云々」というのは江藤淳文脈かなと思った。(だから「風にひとりで」などを書いてしまったのだが)
 予感はだいたい当たったのだが、想像していた以上に「大きな話」になっていて、驚いた。

 宮﨑駿論は「なるほど、そういう見かたもあるのか」と分かりやすかった。
 富野由悠季論は「えっとどういうこと?」と分かりづらい。
 押井守論すら「なんとなく」分かったのだが、肝心の富野論が分からん、という事態に陥ってしまった。
 構成的にいえば宮﨑駿→富野由悠季→押井守と連なって論が展開されているはずで、アタマの宮﨑論とオシリの押井論が分かって、真ん中の富野論が分からないというのはちょっとありえないのだが、俺の頭ではいまひとつ焦点を合わすことができなかった。

 おそらく「母性のディストピア」という問題意識の外にはみ出すかたちで、富野由悠季が語られているからだろう。冗長で散漫なのだ。
 なぜかといえば、富野を語るのに「母性のディストピア」という問題意識は、いささか小さすぎるからだ。
 「母性のディストピア」という文脈で語れるものがあるとすれば、いくつかの作品に絞り込めたはずであり、そうすればもっと分かりやすくなったはずだ。

 それだけ多くの富野監督作品が語られているともいえる。
 『海のトリトン』からはじまり代表的な作品がほぼ全部網羅されているのだから、その情熱に圧倒され、賛嘆せざるをえない。
 富野ファンだったら楽しめるのか、という点では微妙なところだ。宇野常寛が自身の文脈に引き寄せすぎているからだ。それを覚悟して読む必要がある。評論家は批評家を兼ねることはできるが、批評家は評論家を兼ねることはできないということだろう。

 印象に残ったのは、富野監督作品のなかに、予見性を視ている点だ。
 そこに宇野のテーマがあるからだろうか、「ニュータイプ」を語るとき「イデ」を語るとき「黒歴史」を語るとき、筆致は生き生きとし華やかな魅力を放つ。

 『海のトリトン』、『無敵超人ザンボット3』に対する言及は、それほど特色のあるものではない。児童向け作品のお約束に現実が殴り込んでくるというものであり、このあたりは富野ファンであれば周知のとおりだ。

 『無敵鋼人ダイターン3』の読解は面白い。少年がロボットに乗って自己実現を果たすジャンルにおいて、なぜ大人の男である破嵐万丈はロボットに乗って戦うのか。父との関係、成熟の問題、すべてがロボットアニメのフォーマットのアンチテーゼだというのだ。

 『機動戦士ガンダム』のラストにおいてアムロが帰還するのが“擬似家族”であることを強調して見出していているのが興味深かった。そこに「ニュータイプの可能性」を見出すのが今作のミソだ。宇野の富野論はその「ニュータイプの可能性」を縦軸として語られていく。そこに「母性のディストピア」を超克する鍵があるからだ。

 『伝説巨神イデオン』と『聖戦士ダンバイン』に「ニュータイプになれないオールドタイプの悲劇」を視るというのは新鮮だった。ガンダムシリーズ以外の作品にも、ニュータイプ/オールドタイプを視るというのは今作の白眉だろう。
 
 『機動戦士Ζガンダム』にオウム真理教のポアの思想に近いものがあるという指摘は、俺が同作に感じていた違和感をうまく言語化してくれていた。『ダンバイン』を経由した『Ζ』のニュータイプはエゴが直接ぶつかり合うディストピアとして描かれるというのは説得的だ。

 『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』に富野のニヒリズムを視るというのも面白かった。シャア寄りの視点であり俺に近い。ただ俺は富野の「ニヒリズムとデカダンスに陥らない」という言葉も信じたい。

 「母のつくったガンダム」「母に導かれてのヒロイン救済」を描く『機動戦士ガンダムF91』がそれほど強く批判されていないのは意外だった。富野はこのとき「母性のディストピア」との融和を図ろうとしたのではないか、という指摘に留まる。『F91』に画期を見出すというのは俺と同じで、その点では嬉しかった。

 「母性のディストピア」という言葉から真っ先に想起されるのは『機動戦士Vガンダム』だが、意外にもそこにはあまり紙数を使っていない。ただしっかりとカテジナ・ルースの名が刻まれている。案の定そこに可能性を見出していて微笑ましかった。

 『ブレンパワード』の評価は辛辣だ。その「思想」はオウム真理教となんら変わりがないと断言される。俺はそうは思わないが、同作にある種の独善性を感じたことも確かである。「母性のディストピア」の文脈でいえばそれに抗う意思、そして絶望が描かれなかった。和解を許さない絶望──シャアや鉄仮面が不在なのだ。葛藤はすべて家族/男女の話として和解されてしまう。

 『∀ガンダム』は絶賛に近い。「母性のディストピア」から“自由”を勝ち得たことを評価している。「黒歴史」に物語からデータベースへの時代の移行をみ、ロランに中間的な存在をみ、ディアナ/キエルには母になることも拒否することもない自律した物語をみる。『∀ガンダム』好きの俺ですらここまで絶賛できない。『∀ガンダム』に『伝説巨神イデオン』との関連を見出す点、「敵の設定」が弱かったという指摘は、俺と感じたこととほぼ同じだ。

 『OVERMANキングゲイナー』で「大人の男」を描きそこねた、描き出し得なかった、という指摘はハッとさせられるものがあった。また「引きこもり」の理由が的外れだ、という指摘も納得だ。宇野はカミーユ・ビダンというキャラクターを時代に先駆けて創造した富野が、この時点では時代に乗り遅れてしまったという。悔しいが、説得的だ。

 『機動戦士Ζガンダム A New Translation』に「極めて良心的な原作者」を見出すのは意外だった。俺は極めて“迷惑な”原作者という感想しか抱けなかった。2クールのアニメをきっちり二時間半の一本の(良質な)映画に仕立て上げた『STAR DRIVER 輝きのタクト』の五十嵐卓哉監督+脚本榎戸洋司コンビに編集して欲しかったとすら思ったぐらいだ。

 『リーンの翼』はアナクロニズムとして捉えられてしまう。バイストン・ウェル・シリーズは日本を描く虚構なのだが、宇野はその点でなぜか冷たい。「母性のディストピア」という問題意識から遠い物語群だからかもしれないし、宇野が「世界市民」の側に立っているからかもしれない。

 『ガンダム Gのレコンギスタ』は物語をつくりえていないという指摘は、宇野とは別の文脈だが、俺も感じたところだ。作品の難解さは現在の情報社会への反時代的メッセージと受け止めているが、ここは過剰な読み込みに思えた。富野はもともと「物語」の人ではない、というのが俺の考えだ。「コンセプト」の人である。その富野が全話脚本をしてしまったのが難解さにつながったと思っている。難解さは「意図」ではなく「失敗」だったのではないだろうか。

 宇野は富野が「ニュータイプ」を諦めるべきではなかったという。
 もう一度、アムロがそうであったような(希望としての)「ニュータイプ」を語ることが富野の仕事だというのだ。

 その点においては、俺もまったく同感である。

 もちろん富野“喜幸”が人類文明の未来に希望を抱ければの話だが。

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風にひとりで

 大人をやってみせるしかない年齢になって「成熟」の問題について語るのは我ながらどうかなと思う。

 ヒトは「成熟」することはあるのか、と言われれば、あるのよね、としか言いようがない。

 じゃあそれは何か言葉にしてみろ、というのは難しいんだな。ひとそれぞれだから。

 大人とこどものパッチワークが人間で、大人の部分が増えていく感じかな、俺の場合。

 ひとによって年齢さまざまだけど、ある歳になると、パッと目の前が開くときがある。クリアになる。

 いままで気づけなかったことが気づけるようになる。年齢を重ねるのも悪くないなと思える瞬間があるんですよ。

 「成熟」にキリがないのもたしかで、どこまで登っても坂道は続くみたいというのが今のところの俺の考えかな。

 もちろん「成熟」を拒否して開き直るヒトもいて、それはそれでありですよね、とも思っています。

 神話的地平において「成人」になれない、というのは現代文明を手に入れた人類の宿命で、悲しいけどそこは甘んじるしかないのよね、というのが俺の考える「大人」かな。

 平井和正追悼記事の追記でも書いたことだけど、現代文明は全体性を留保することによって科学を手に入れたんだね。

 宇宙に意味なんてないじゃない? そういうことです。

 おかげで現代人はコスモス的意味を帯びた「成人」になれないんだな。神話を生きることができない。寂しいかぎりです。

 俺はさ、「成熟」をめぐる問題を「戦後日本」がどうの「母の喪失」がどうのといった「大きな話」にしちゃうのはどうかと思うんだよね。

 それって、裏返ったナショナリズムであり、日本人のナルシシズムだと思うんだな。

 コスモス的意味を帯びた「成人」になれないのは、現代文明人すべてにいえることだからさ。

 コスモス的意味を帯びた“ニュータイプ”や“聖戦士”は、だからこそ危うい魅力を帯びているんでしょうね。

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プロフィール

shiwasu5

Author:shiwasu5
どんな奴か?
自己紹介。最終学歴は専門学校卒。(東京デザイナー学院アニメーション科)
小学時代→遊び時間と授業時間の区別がつかず。
中学時代→校内暴力をのびのびとエンジョイ。
高校時代→管理教育で次々と仲間が退学していくなかなんとか卒業。
浪人時代→二年間、進学/就職浪人をする。
本屋でバイト→本屋潰れる、古本屋でバイト→古本屋潰れる。クラブ通いで某事件を起こし警察に捕まったのもこの頃。
専門学校時代→馬鹿みたいに楽しかったが、周囲の才能に圧倒される。同期に吉田健一や長濵博史がいて、三人でつるんで歩いたこともある。やつらと較べた俺が間違いだった。
虫プロ入社。最低限の固定給が約束されているいい会社でした。『うしろの正面だあれ』の生活描写についていけず退社。絵が下手なのを実感。
バイト時代→バイトしながら漫画家を目指す。気に入ったコンテが描けず挫折。
デザイン系の会社のバイトから正社員へ。
現在は鬱(双極性障害)のため地獄を彷徨う。彼女と別れる。誰か背中抱いていてくれ。

好みの傾向
・アニメ五選(TVシリーズは除く)
『白い牙』
『機動戦士ガンダムF91』
『AIR』
『もののけ姫』
『アリオン』
・漫画五選
『メトロポリス』
『がんばれ元気』
『デビルマン』
『GANTZ』
『天然コケッコー』
・小説五選
『砂の惑星』
『狼の紋章』
『逃れの街』
『ながい坂』
『剣』
・映画五選
『ブレイブハート』
『ダークシティ』
『夜の大捜査線』
『用心棒』
『イージー・ライダー』
・音楽はわかりません。
世代的にいえば
サザン、YMO、尾崎、マイケル・ジャクソン、U2あたりが直撃です。
クリス・レアとかビリー・ジョエルとかも好きでした。(英語歌詞わからんけど)
・政治傾向
公武合体、天皇機関説、大きな政府、死刑廃止論者。
・女性の好み
シャアにとってのララァみたいな。
・男性の好み
元気くんのお父さん。
・富野由悠季の好きなところ
一生懸命なところ。

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