濃度と速度
2019-09-30
『荒ぶる季節の乙女どもよ。』の話から入らせてもらう。
面白かったからだし、いろいろと考えさせられた作品だったからだ。
『荒乙』は濃い。
もの凄く濃い。
この濃さ。
まっつねさんが以前、
再び、岡田構成作品を3連続で見る 「まっつねのアニメとか作画とか」
と書いていたけれども、まさに『荒乙』はそれかも。
ここまで脚本が濃いのなら、もう監督いらねーんじゃねーかと思った。
濃い脚本のうえに素晴らしい演出がのるものだから、もう濃くて濃くて。
監督作もある岡田磨里、自分で監督をするという選択肢はなかったのだろうか?
自分で監督するとして、この濃さのままつくったのか、どうなのか?
ブルハとか流れて、嬉しかったけれど、ブルハを選ぶあたり、自分自身に引き寄せてつくる私小説的な作り手の限界かもしれない。
『この花』も団塊ジュニアのオトナ帝国だったわけだけど、この作品も同じなのか?
いまの子に届くのかな。
届いたとして、かれらがブルハをどう思ったのか、知りたいものである。
俺もRCサクセションに誤配的な出会いをしたので、これが若い方の誤配になったらいいと思う。
いいとは思うが、岡田磨里のオトナ帝国だと思うと、寂しいものもある。
別マガといえば『BECK』。マーシー、『BECK』に出ててたな。アニメでは本人がアテてたな。
だからいいのか? それでいいのか?
ブルハといえばヒロトのオナニー。はいパンクのお約束です。フェラさせないだけ紳士である。
男でも他人のオナニー初めて見たよと感激させるライブであって、乙女たちがそういう場にいたらどうなのかという物語なのかどうなのか。
処女を拗らせた女子高生が主人公のコメディといえば、ヤンジャンの『B型H系』が思い浮かぶのだが、アニメ版はダサかったが、『荒乙』より拗らせ方がそれなりだった気がする。
『荒乙』は、拗らせ方、女子高生と女子中学生が入り混じっているようにも感じられて、嘘ついているようないないような。
女子高女子と共学女子が入り混じっているようにも感じられて、そこも意図的な嘘があるのかどうなのか。
高橋留美子が、少女向け少年まんが、というコンセプトを話していたが、少年向け少女まんがというコンセプトはどこから来たのか。
そもそもだ。少女まんががわからない俺が、少年向け少女まんがなどというアクロバティックな作品を理解しようというのが無理なのである。難易度高すぎだろ。
セリフを削り、劇伴を最小限に抑え、声優ではなく俳優をつかう。俺だったらそうするけれども。
『荒乙』はアニメよりも実写の方が面白くなりそうだけれども。
アニメ『荒乙』、すごく面白かった。濃い。濃かった。
その濃さが、岡田磨里の考える少年(童貞)向け、ということなのかどうなのか。
でだ。ここからが富野由悠季ファン・ブログのあれだ。
必死に牽強付会するあれだ。
『ガンダム Gのレコンギスタ』も濃い。
やはり脚本段階で濃かったのかもしれない。
その脚本を演出したものだから、濃いよ濃すぎるよ、という事態になったのではないだろうか。
ただ濃さの方向性が違うことも確かだ。
なにせ自分で監督している。
濃さのうえに濃さを「重ねた」という濃さではない。
総体として濃い。
優劣ではなく、『G-レコ』の濃さは、情報量の多さによるものである。
セリフも劇伴もストーリーもひとつひとつは濃いものではない。
むしろ可愛らしいものだ。端的だ。
それでも濃い。
「重ねた」濃さではなく「詰め込みすぎた」濃さである。
なぜ「詰め込みすぎた」のか。
嫌な想像だが、富野監督は、遺作という覚悟があったのではないだろうか。
「いま・ここ」の観客ばかりではなく、「いつか・どこか」の観客に向けても放った作品なのではないだろうか。
ところで『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を久しぶりに観たのだが、プロローグ部分、めちゃくちゃノロい。
「あれ? こんなにダサかったっけ?」と愕然とした。もちろん本編にノロさは感じなかったが。
またまた、まっつねさんのブログからの引用になる。
『映画けいおん!』を二倍速で見て楽しんだっていいんだ 「まっつねのアニメとか作画とか」
なるほど。
速度の問題だ。
『荒乙』の濃さに貢献しているのは、「濃度」ばかりではない。なにも濃い脚本に濃い演出を重ねたばかりが理由ではない。
速度だ。
『荒乙』、二倍速で楽しめるだろうか。
少なくとも俺は、一倍速が限度だ。一倍速でお腹いっぱいだ。
『G-レコ』は速い。凄まじい速度で疾走していく。
『機動戦士ガンダムF91』や『リーンの翼』でも取られた手法である。
濃度も上がろうといういものである。
『G-レコ』で二倍速……やっぱり無理だ。
というか、むしろ速度を落として、やっと「いま・ここ」の観客に届くのではないだろうか。
富野監督作品の速度は、果たして未来を先取りしたものだろうか。
それとも異端で終わるのだろうか。
アメリカのTVシリーズは、複数プロットの複数主人公制をとっており、それで「濃度」と「速度」の問題を解決している。濃度は複数プロットで、速度はアンサンブルで、解消しているわけだ。
映画の尺のなかでは得られない「濃度」と「速度」が、現代では(少なくともアメリカでは)求められている。
アメリカにおいては、劇映画の主戦場は、映画からTVシリーズへとずいぶん前から重心を移している。
映画はまあディズニーで十分なのである。
だからだ。
富野由悠季はいま面白い立場に立っている。
TVシリーズをもとに編集の魔術でまったく新しい映画をつくってしまう。
しかもそれが三分割映画になって、かつて成功した。(三部作映画ではない。むしろ『ニーベルンゲンの指輪』の構成に近い)
『G-レコ』は五分割映画になるという。
あの「濃度」と「速度」をともなって。
作品的成功、商業的成功はもちろん大事だが、この挑戦だけで、凄まじいことだ。
『G-レコ』五分割映画の上映というのは、それだけで、映画史的意義があるのだ。
自動車会社はコンセプトカーというものをつくる。
サンライズと松竹にはいまチャンスが巡ってきた。コンセプトカー以上のものを手にいれることができるのだ。
ぜひとも劇場版『ガンダム Gのレコンギスタ』を完結させて欲しい。
面白かったからだし、いろいろと考えさせられた作品だったからだ。
『荒乙』は濃い。
もの凄く濃い。
この濃さ。
まっつねさんが以前、
「脚本がコンテをコントロールする」
っていう点では、フラクタルの岡田はまるで黒田洋介のようだ。
再び、岡田構成作品を3連続で見る 「まっつねのアニメとか作画とか」
と書いていたけれども、まさに『荒乙』はそれかも。
ここまで脚本が濃いのなら、もう監督いらねーんじゃねーかと思った。
濃い脚本のうえに素晴らしい演出がのるものだから、もう濃くて濃くて。
監督作もある岡田磨里、自分で監督をするという選択肢はなかったのだろうか?
自分で監督するとして、この濃さのままつくったのか、どうなのか?
ブルハとか流れて、嬉しかったけれど、ブルハを選ぶあたり、自分自身に引き寄せてつくる私小説的な作り手の限界かもしれない。
『この花』も団塊ジュニアのオトナ帝国だったわけだけど、この作品も同じなのか?
いまの子に届くのかな。
届いたとして、かれらがブルハをどう思ったのか、知りたいものである。
俺もRCサクセションに誤配的な出会いをしたので、これが若い方の誤配になったらいいと思う。
いいとは思うが、岡田磨里のオトナ帝国だと思うと、寂しいものもある。
別マガといえば『BECK』。マーシー、『BECK』に出ててたな。アニメでは本人がアテてたな。
だからいいのか? それでいいのか?
ブルハといえばヒロトのオナニー。はいパンクのお約束です。フェラさせないだけ紳士である。
男でも他人のオナニー初めて見たよと感激させるライブであって、乙女たちがそういう場にいたらどうなのかという物語なのかどうなのか。
処女を拗らせた女子高生が主人公のコメディといえば、ヤンジャンの『B型H系』が思い浮かぶのだが、アニメ版はダサかったが、『荒乙』より拗らせ方がそれなりだった気がする。
『荒乙』は、拗らせ方、女子高生と女子中学生が入り混じっているようにも感じられて、嘘ついているようないないような。
女子高女子と共学女子が入り混じっているようにも感じられて、そこも意図的な嘘があるのかどうなのか。
高橋留美子が、少女向け少年まんが、というコンセプトを話していたが、少年向け少女まんがというコンセプトはどこから来たのか。
そもそもだ。少女まんががわからない俺が、少年向け少女まんがなどというアクロバティックな作品を理解しようというのが無理なのである。難易度高すぎだろ。
セリフを削り、劇伴を最小限に抑え、声優ではなく俳優をつかう。俺だったらそうするけれども。
『荒乙』はアニメよりも実写の方が面白くなりそうだけれども。
アニメ『荒乙』、すごく面白かった。濃い。濃かった。
その濃さが、岡田磨里の考える少年(童貞)向け、ということなのかどうなのか。
でだ。ここからが富野由悠季ファン・ブログのあれだ。
必死に牽強付会するあれだ。
『ガンダム Gのレコンギスタ』も濃い。
やはり脚本段階で濃かったのかもしれない。
その脚本を演出したものだから、濃いよ濃すぎるよ、という事態になったのではないだろうか。
ただ濃さの方向性が違うことも確かだ。
なにせ自分で監督している。
濃さのうえに濃さを「重ねた」という濃さではない。
総体として濃い。
優劣ではなく、『G-レコ』の濃さは、情報量の多さによるものである。
セリフも劇伴もストーリーもひとつひとつは濃いものではない。
むしろ可愛らしいものだ。端的だ。
それでも濃い。
「重ねた」濃さではなく「詰め込みすぎた」濃さである。
なぜ「詰め込みすぎた」のか。
嫌な想像だが、富野監督は、遺作という覚悟があったのではないだろうか。
「いま・ここ」の観客ばかりではなく、「いつか・どこか」の観客に向けても放った作品なのではないだろうか。
ところで『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を久しぶりに観たのだが、プロローグ部分、めちゃくちゃノロい。
「あれ? こんなにダサかったっけ?」と愕然とした。もちろん本編にノロさは感じなかったが。
またまた、まっつねさんのブログからの引用になる。
それまで「ゆったりとした速度」と「繰り返しの多さ」から
飽きる1時間以上の曲と認識されていたゴールドベルグ変奏曲。
それをグレン・グールドは2倍近いスピードと繰り返しの省略で半分の30分ほどで
弾ききった。
これにより、グレン・グールドはピアニストとしての地位を確立して、
それと同時に、バッハの再評価ともなった。
クラシックですら、こういった速さの変更はあるのだ。
日本でも似たような事例がある。
それは日本の伝統の能だ
能は実は室町中期には現在の半分の時間で演じられていた。
それが時代を経るごとに「遅く」なっていったのだ。
グレン・グールドの例とは逆だが、
これも「速度変更」の一例である。
『映画けいおん!』を二倍速で見て楽しんだっていいんだ 「まっつねのアニメとか作画とか」
なるほど。
速度の問題だ。
『荒乙』の濃さに貢献しているのは、「濃度」ばかりではない。なにも濃い脚本に濃い演出を重ねたばかりが理由ではない。
速度だ。
『荒乙』、二倍速で楽しめるだろうか。
少なくとも俺は、一倍速が限度だ。一倍速でお腹いっぱいだ。
『G-レコ』は速い。凄まじい速度で疾走していく。
『機動戦士ガンダムF91』や『リーンの翼』でも取られた手法である。
濃度も上がろうといういものである。
『G-レコ』で二倍速……やっぱり無理だ。
というか、むしろ速度を落として、やっと「いま・ここ」の観客に届くのではないだろうか。
富野監督作品の速度は、果たして未来を先取りしたものだろうか。
それとも異端で終わるのだろうか。
アメリカのTVシリーズは、複数プロットの複数主人公制をとっており、それで「濃度」と「速度」の問題を解決している。濃度は複数プロットで、速度はアンサンブルで、解消しているわけだ。
映画の尺のなかでは得られない「濃度」と「速度」が、現代では(少なくともアメリカでは)求められている。
アメリカにおいては、劇映画の主戦場は、映画からTVシリーズへとずいぶん前から重心を移している。
映画はまあディズニーで十分なのである。
だからだ。
富野由悠季はいま面白い立場に立っている。
TVシリーズをもとに編集の魔術でまったく新しい映画をつくってしまう。
しかもそれが三分割映画になって、かつて成功した。(三部作映画ではない。むしろ『ニーベルンゲンの指輪』の構成に近い)
『G-レコ』は五分割映画になるという。
あの「濃度」と「速度」をともなって。
作品的成功、商業的成功はもちろん大事だが、この挑戦だけで、凄まじいことだ。
『G-レコ』五分割映画の上映というのは、それだけで、映画史的意義があるのだ。
自動車会社はコンセプトカーというものをつくる。
サンライズと松竹にはいまチャンスが巡ってきた。コンセプトカー以上のものを手にいれることができるのだ。
ぜひとも劇場版『ガンダム Gのレコンギスタ』を完結させて欲しい。
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愚民なき世界
2019-08-13
『ガンダム Gのレコンギスタ』にはいろいろと欠陥がある。
あるのだが、グダちん経由で知る批判者たちの共通点は、「上から目線」で、「成功している事例から外れたもの」は受け入れられない、といったところである。
いわく感情移入できない主人公が問題という指摘、いわく若者向けになっていないという指摘、いわく冒頭からわからないのは富野らしくないという指摘。
ここまでナイーブな反応をしてしまう人々が、とりあえず『ガンダム Gのレコンギスタ』を観てくれた、というのは感謝の念を覚えずにはいられない。
「狂犬」のグダちんが苛立つのもわかるが、俺などはやはりナイーブな批判者たちに温かい気持ちにもってしまう。
富野由悠季は鬱を脱した後は、いま売れている、いま大衆に支持されている作品を、素直に褒めたたえるようになるが、これは「富野アワー」時代の増長を反省したからだろう。富野由悠季などはしょせんマイナーメジャーでしかなく、かつての自己評価も夜郎自大なものでしかなかったという反省である。
だからだろうか、『ガンダム Gのレコンギスタ』を、多くの成功したメジャー作品と較べたくなることもある。
俺もそうだ。
ここをこうすれば、もっと良くなるのにな、と思うことも多い。
実際、完璧とは程遠い、いろいろと欠陥を抱えた作品であることも確かである。
ナイーブな批判者の指摘に一理あるのは当然だ。なぜそれを俺がナイーブと感じてしまうかといえば、彼らは『ガンダム Gのレコンギスタ』に可愛らしいほど素直だからだ。
『ガンダム Gのレコンギスタ』は、宇野常寛の「ディズニーとGoogleへの嫌がらせ」という指摘がもっとも正鵠を射ていると思うようになった。
「上から目線」によるナイーブな批判は、作劇論、市場論、ストーリーテリング論、すべての領域で“ディズニー”作品への賞賛になりうるものだ。
本人たちがディズニー作品のファンであるかどうかは別の話だ。ここで言うディズニーとはディズニー的なものである。かれらの批判にポリコレを追加すれば、そう完璧だ。世界一受ける映画ができるだろう。
「Googleへの嫌がらせ」というのは、俺にはちょっとピンとこない。ピンとこないが、『ガンダム Gのレコンギスタ』を観た範囲でいえば、「わかったつもりになる」危うさだ。
宇野常寛にはエリーティズムの匂いがして、そこが大丈夫かな?と心配するところだが、それも若さゆえであって、いずれは超克できるだろうと信じたい。彼のような批評家がこのタイミングで『ガンダム Gのレコンギスタ』について語り、コンセプトの理解の一助をしてくれた、というのは、富野由悠季の「もってる感」が感じられて、嬉しいかぎりである。
『ガンダム Gのレコンギスタ』は、こども向けにつくられたと言う。
それは言ってしまえば、「ディズニーとGoogle」に馴致される前のこども、といったことだろう。
いまのこどもは、ディズニー作品のファンである、Googleを使いこなしている、といった事例を出したがるナイーブなひともいるだろうが、むろんそういう意味ではない。
馴致の程度問題でもあるし、まだ見ぬ世界への興味をもつかどうか、ということでもある。
「ディズニーとGoogle」に馴致された人々を、『ガンダム Gのレコンギスタ』では「愚民」と呼ばない。
「愚民」に鉄槌を下したい、という悪役が出てこない。
では「ディズニーとGoogle」に馴致された人々は登場しないのか?
登場する。
彼らはスコード教徒と呼ばれる。
スコード教は地球人の……人間のためのよすがだ。
彼らは凡庸さのなかで生きていられる。
なぜなら、彼らは善意の上位者のふところになかにいるからだ。
まるで親のふところのなかのこどものように。
アイヒマンは描かれない。
そういう「毒」とは無縁なのが『ガンダム Gのレコンギスタ』だ。
こどもの心にトラウマを刻み込むようなことはしない。
こども向けにつくった、というとき、こういう優しい世界を用意するのだから、富野由悠季に惚れ直すというものだ。
こどもは親のもとから旅立つ。
世界の果てまで冒険したこどもは、スコード教徒ではありえない。
では親が住む世界を否定したか、といえば、そうではない。
反抗期の幼さを飛び越えて、主人公たちは世界の真相を知り、日常に帰還する。
スコード教に生きる人々への蔑視も憐憫もない。
「愚民」など存在しない。
それは世界の真相を知るレコンギスタ勢力との戦いで知ったことだ。
レコンギスタ勢力とは、大人のことだ。
親から見捨てられたオルファンの成長した姿だ。
大人たちもまた親のふところに戻ろうというのなら、安逸を生きる人々をどうして否定できよう。
『ガンダム Gのレコンギスタ』において、人類は「愚民」ではない。
人類はこどもであるだけだ。幼年期であるだけなのである。
こどもを見守る大人もいる。
彼らはグロテスクな存在に成り果てる。
こどもでしかない人類が、大人の真似事をすれば、そうなる。
大人とは、劣化したこども、グロテスクなこどもでしかないからだ。
人類は幼年期の終わりを迎えることができるだろうか。
グロテスクな大人になるのではなく、健やかなセックスを通して、世代を重ねながら、いつか到達できるのだろうか。
急進的なニュータイプではなく、ほんとうの成熟を果たした種全体として。
『ガンダム Gのレコンギスタ』は富野由悠季が見出した新境地だ。
いまだ誰も到達したことのない地平であって、そう易々と理解されたら、そちらの方が問題だ。
あるのだが、グダちん経由で知る批判者たちの共通点は、「上から目線」で、「成功している事例から外れたもの」は受け入れられない、といったところである。
いわく感情移入できない主人公が問題という指摘、いわく若者向けになっていないという指摘、いわく冒頭からわからないのは富野らしくないという指摘。
ここまでナイーブな反応をしてしまう人々が、とりあえず『ガンダム Gのレコンギスタ』を観てくれた、というのは感謝の念を覚えずにはいられない。
「狂犬」のグダちんが苛立つのもわかるが、俺などはやはりナイーブな批判者たちに温かい気持ちにもってしまう。
富野由悠季は鬱を脱した後は、いま売れている、いま大衆に支持されている作品を、素直に褒めたたえるようになるが、これは「富野アワー」時代の増長を反省したからだろう。富野由悠季などはしょせんマイナーメジャーでしかなく、かつての自己評価も夜郎自大なものでしかなかったという反省である。
だからだろうか、『ガンダム Gのレコンギスタ』を、多くの成功したメジャー作品と較べたくなることもある。
俺もそうだ。
ここをこうすれば、もっと良くなるのにな、と思うことも多い。
実際、完璧とは程遠い、いろいろと欠陥を抱えた作品であることも確かである。
ナイーブな批判者の指摘に一理あるのは当然だ。なぜそれを俺がナイーブと感じてしまうかといえば、彼らは『ガンダム Gのレコンギスタ』に可愛らしいほど素直だからだ。
『ガンダム Gのレコンギスタ』は、宇野常寛の「ディズニーとGoogleへの嫌がらせ」という指摘がもっとも正鵠を射ていると思うようになった。
「上から目線」によるナイーブな批判は、作劇論、市場論、ストーリーテリング論、すべての領域で“ディズニー”作品への賞賛になりうるものだ。
本人たちがディズニー作品のファンであるかどうかは別の話だ。ここで言うディズニーとはディズニー的なものである。かれらの批判にポリコレを追加すれば、そう完璧だ。世界一受ける映画ができるだろう。
「Googleへの嫌がらせ」というのは、俺にはちょっとピンとこない。ピンとこないが、『ガンダム Gのレコンギスタ』を観た範囲でいえば、「わかったつもりになる」危うさだ。
宇野常寛にはエリーティズムの匂いがして、そこが大丈夫かな?と心配するところだが、それも若さゆえであって、いずれは超克できるだろうと信じたい。彼のような批評家がこのタイミングで『ガンダム Gのレコンギスタ』について語り、コンセプトの理解の一助をしてくれた、というのは、富野由悠季の「もってる感」が感じられて、嬉しいかぎりである。
『ガンダム Gのレコンギスタ』は、こども向けにつくられたと言う。
それは言ってしまえば、「ディズニーとGoogle」に馴致される前のこども、といったことだろう。
いまのこどもは、ディズニー作品のファンである、Googleを使いこなしている、といった事例を出したがるナイーブなひともいるだろうが、むろんそういう意味ではない。
馴致の程度問題でもあるし、まだ見ぬ世界への興味をもつかどうか、ということでもある。
「ディズニーとGoogle」に馴致された人々を、『ガンダム Gのレコンギスタ』では「愚民」と呼ばない。
「愚民」に鉄槌を下したい、という悪役が出てこない。
では「ディズニーとGoogle」に馴致された人々は登場しないのか?
登場する。
彼らはスコード教徒と呼ばれる。
スコード教は地球人の……人間のためのよすがだ。
彼らは凡庸さのなかで生きていられる。
なぜなら、彼らは善意の上位者のふところになかにいるからだ。
まるで親のふところのなかのこどものように。
アイヒマンは描かれない。
そういう「毒」とは無縁なのが『ガンダム Gのレコンギスタ』だ。
こどもの心にトラウマを刻み込むようなことはしない。
こども向けにつくった、というとき、こういう優しい世界を用意するのだから、富野由悠季に惚れ直すというものだ。
こどもは親のもとから旅立つ。
世界の果てまで冒険したこどもは、スコード教徒ではありえない。
では親が住む世界を否定したか、といえば、そうではない。
反抗期の幼さを飛び越えて、主人公たちは世界の真相を知り、日常に帰還する。
スコード教に生きる人々への蔑視も憐憫もない。
「愚民」など存在しない。
それは世界の真相を知るレコンギスタ勢力との戦いで知ったことだ。
レコンギスタ勢力とは、大人のことだ。
親から見捨てられたオルファンの成長した姿だ。
大人たちもまた親のふところに戻ろうというのなら、安逸を生きる人々をどうして否定できよう。
『ガンダム Gのレコンギスタ』において、人類は「愚民」ではない。
人類はこどもであるだけだ。幼年期であるだけなのである。
こどもを見守る大人もいる。
彼らはグロテスクな存在に成り果てる。
こどもでしかない人類が、大人の真似事をすれば、そうなる。
大人とは、劣化したこども、グロテスクなこどもでしかないからだ。
人類は幼年期の終わりを迎えることができるだろうか。
グロテスクな大人になるのではなく、健やかなセックスを通して、世代を重ねながら、いつか到達できるのだろうか。
急進的なニュータイプではなく、ほんとうの成熟を果たした種全体として。
『ガンダム Gのレコンギスタ』は富野由悠季が見出した新境地だ。
いまだ誰も到達したことのない地平であって、そう易々と理解されたら、そちらの方が問題だ。
傍流の主流化について
2019-08-06
傍流の主流化について、一番わかりやすいのは宮崎駿だ。
『未来少年コナン』で主人公の少年が美味しそうにタバコ?を吸うシーンがある。俺にとって宮崎駿という監督はそれが全てだ。
一方で高畑勲は代表作のひとつになる傑作『赤毛のアン』の制作準備に入っていただろう。
優等生と不良。高畑勲と宮崎駿。主流と傍流。
『火垂るの墓』と『となりのトトロ』である。
高畑勲が傍流に降りたわけではない。
宮崎駿が主流になったのだ。
なぜなのだろうか?
もうひとつ、わかりやすい例を挙げよう。
『週刊少年ジャンプ』である。
『週刊少年ジャンプ』はいわゆる“作家”が描かない雑誌だった。
海の物とも山の物ともつかぬ新人を採用して、作品のクオリティなどお構いなしに、ただ商業主義だけを指針に発行しつづけた。
新人育成など思いも寄らない。一発屋上等の雑誌であった。
『週刊少年キング』『週刊少年サンデー』『週刊少年チャピオン』『週刊少年マガジン』などに連載されている作品とはクオリティにおいて雲泥の差があった。
そしていつのまにやら『週刊少年ジャンプ』はまるで少年漫画の王道のような顔をするようになる。
なぜなのだろうか?
そしてそれは『機動戦士ガンダム』にも言える。
1979年、あの奇跡の年、『機動戦士ガンダム』は素晴らしい作品のひとつだった。
言葉を変えれば、ひとつでしかなかった、と言えるだろう。
出崎統が劇場版『エースをねらえ!』を、りんたろうが劇場版『銀河鉄道999』を、宮崎駿が『ルパン三世 カリオストロの城』を手掛けた年である。
そのなかにあって、『機動戦士ガンダム』が、傍流のなかのさらなる傍流であるのは、説明するまでもないだろう。
それがいまではまるで主流であるかのような顔をしている。
なぜこのような倒錯が起きたのか?
それは、吉本隆明に象徴されるような1980年代の消費社会の肯定にあるのではないか。
吉本隆明の意図はどうであれ、彼をカリスマと仰ぐ全共闘世代に自己肯定感を与えたことは確かだろう。彼らの「転向」を追認したかたちになった。かつて資本主義を批判していた若者は、「おいしい生活」を謳う成人になった。いまや働き盛りの彼らの下で欲望は肯定され分散し充足された。
橋本治は(彼は吉本隆明に批判的だったが)、1980年前後のサブカルチャーの変化に「80年安保」を視たという。それはハイカルチャーの不在がもたらした奇妙な倒錯だったと言えるだろう。マイナーな諸作品がマイナーなままでメジャーになった、という倒錯である。
「80年安保」のなかで人気を得ていたタモリが(誰がサングラスをかけた胡散臭い男がお茶の間の顔になると想像できただろう)、『機動戦士ガンダム』のなかに、暑苦しくないクールな群像劇を見出し評価したのは、そういうことであったのだろう。
富野由悠季は『機動戦士ガンダム』の成功のあと、いくつも佳作をつくるが、どれも大ヒットとはいえない結果を残し、ハイターゲットの市場の縮小を受けて、『機動戦士Ζガンダム』をつくらざるをえなくなる。
それはガンダムの敗北だった。ゲリラ戦法の終わりであった。
富野由悠季はキャラクタービジネスの最前線から遠のき、それ以後は微温的なかたちで現在まで引き継がれることになる。
『機動戦士ガンダムF91』は懐古主義をメタとして扱うという点で野心的な作品であったが、商業的に失敗する。
「リア充」であるところの主人公は、バブル崩壊後の「オタク」と化した観客には程遠い存在であったろう。
「オタク」が等身大の主人公として選んだのは、碇シンジであった。
1995年のことだ。阪神淡路大震災、オウム事件の年である。
一方でWindows 95が発売され、パソコンが身近になった年でもある。
「90年安保」があるとしたら、この年だったかもしれない。
社会不安と、個人が直接世界にアクセスすることが可能になったセカイ。
のちにいう「セカイ系」の登場こそが、「90年安保」ではなかったのではないだろうか。
「セカイ」系をひっくり返せば、個人の生のありようから社会を語る社会学者になる。
1990年代以降、富野由悠季は時代から取り残されることになる。
『機動戦士Vガンダム』は、『機動戦士Ζガンダム』以上に、スポンサーへの悪意に彩れた作品だが、サンライズがバンダイに買収される時期につくられたこともあって、その悪意も徹底していた。
富野由悠季は鬱になる。
1997年は『もののけ姫』が上映され『ONE PIECE』が連載を開始する。
傍流の主流化はここに極まったと言っていいだろう。
リハビリ作『ブレンパワード』を挟んだ『∀ガンダム』では、メカニックデザイナーにシド・ミードを採用するといった挑戦が見られたが、キャラクタービジネスとしては必ずしも成功したと言えず、作品性だけで勝負する、といったところがあった。
そこには主流化した自負がみえる。
『ガンダム Gのレコンギスタ』は違う。
富野由悠季は容赦なく先に進む。
ガンダムが、中年たちの主流文化に成り果てた今、もう一度、傍流から這い上がろうとする意志である。
「ガンダムではない」「大人ではなくこどもに観て欲しい」というのは、そういうことではないだろうか。
いまのこどもにとって「ガンダム」も「巨大ロボット」も“届かない”だろう。
傍流も傍流、傍流以下だ。
そこに富野由悠季の挑戦をみる。
かつて富野由悠季は、『機動戦士ガンダム』で、ミラクルを起こした。
巨大ロボットものでは“届かない”はずのヤングアダルト層にまで、確かに届いたのだ。
『ガンダム Gのレコンギスタ』は逆だ。
富野由悠季自身が一役買ってつくりあげたヤングアダルト市場が“主流化”した今このときに、こども向けにつくろうと言うのである。
俺は誤解していたかもしれない。
『ガンダム Gのレコンギスタ』はキッズ市場をレコンキスタをするものだと思っていた。「こども」に観て欲しいとは、そうことなのだと思っていた。
しかしキッズ市場も“主流化”した現在、富野由悠季が言う「こども」とは、まだ見ぬ「こども」ではなかったか。
ガンダム市場をキッズ市場にまで拡張するものではない。
こどもたちに届けることができたとしたら、かれらは「かつてガンダムと呼ばれた何か」を体験することになるだろう。
傍流だけがもつ鮮麗な何かを。
はからずも、2019年公開の映画になった。カギカッコ付きの「2020年安保」だ。
果たして、『ガンダム Gのレコンギスタ』は、新しい時代を切り拓くことができるだろうか。
今度こそ未来のニュータイプに期待したい。
『未来少年コナン』で主人公の少年が美味しそうにタバコ?を吸うシーンがある。俺にとって宮崎駿という監督はそれが全てだ。
一方で高畑勲は代表作のひとつになる傑作『赤毛のアン』の制作準備に入っていただろう。
優等生と不良。高畑勲と宮崎駿。主流と傍流。
『火垂るの墓』と『となりのトトロ』である。
高畑勲が傍流に降りたわけではない。
宮崎駿が主流になったのだ。
なぜなのだろうか?
もうひとつ、わかりやすい例を挙げよう。
『週刊少年ジャンプ』である。
『週刊少年ジャンプ』はいわゆる“作家”が描かない雑誌だった。
海の物とも山の物ともつかぬ新人を採用して、作品のクオリティなどお構いなしに、ただ商業主義だけを指針に発行しつづけた。
新人育成など思いも寄らない。一発屋上等の雑誌であった。
『週刊少年キング』『週刊少年サンデー』『週刊少年チャピオン』『週刊少年マガジン』などに連載されている作品とはクオリティにおいて雲泥の差があった。
そしていつのまにやら『週刊少年ジャンプ』はまるで少年漫画の王道のような顔をするようになる。
なぜなのだろうか?
そしてそれは『機動戦士ガンダム』にも言える。
1979年、あの奇跡の年、『機動戦士ガンダム』は素晴らしい作品のひとつだった。
言葉を変えれば、ひとつでしかなかった、と言えるだろう。
出崎統が劇場版『エースをねらえ!』を、りんたろうが劇場版『銀河鉄道999』を、宮崎駿が『ルパン三世 カリオストロの城』を手掛けた年である。
そのなかにあって、『機動戦士ガンダム』が、傍流のなかのさらなる傍流であるのは、説明するまでもないだろう。
それがいまではまるで主流であるかのような顔をしている。
なぜこのような倒錯が起きたのか?
それは、吉本隆明に象徴されるような1980年代の消費社会の肯定にあるのではないか。
吉本隆明の意図はどうであれ、彼をカリスマと仰ぐ全共闘世代に自己肯定感を与えたことは確かだろう。彼らの「転向」を追認したかたちになった。かつて資本主義を批判していた若者は、「おいしい生活」を謳う成人になった。いまや働き盛りの彼らの下で欲望は肯定され分散し充足された。
橋本治は(彼は吉本隆明に批判的だったが)、1980年前後のサブカルチャーの変化に「80年安保」を視たという。それはハイカルチャーの不在がもたらした奇妙な倒錯だったと言えるだろう。マイナーな諸作品がマイナーなままでメジャーになった、という倒錯である。
「80年安保」のなかで人気を得ていたタモリが(誰がサングラスをかけた胡散臭い男がお茶の間の顔になると想像できただろう)、『機動戦士ガンダム』のなかに、暑苦しくないクールな群像劇を見出し評価したのは、そういうことであったのだろう。
富野由悠季は『機動戦士ガンダム』の成功のあと、いくつも佳作をつくるが、どれも大ヒットとはいえない結果を残し、ハイターゲットの市場の縮小を受けて、『機動戦士Ζガンダム』をつくらざるをえなくなる。
それはガンダムの敗北だった。ゲリラ戦法の終わりであった。
富野由悠季はキャラクタービジネスの最前線から遠のき、それ以後は微温的なかたちで現在まで引き継がれることになる。
『機動戦士ガンダムF91』は懐古主義をメタとして扱うという点で野心的な作品であったが、商業的に失敗する。
「リア充」であるところの主人公は、バブル崩壊後の「オタク」と化した観客には程遠い存在であったろう。
「オタク」が等身大の主人公として選んだのは、碇シンジであった。
1995年のことだ。阪神淡路大震災、オウム事件の年である。
一方でWindows 95が発売され、パソコンが身近になった年でもある。
「90年安保」があるとしたら、この年だったかもしれない。
社会不安と、個人が直接世界にアクセスすることが可能になったセカイ。
のちにいう「セカイ系」の登場こそが、「90年安保」ではなかったのではないだろうか。
「セカイ」系をひっくり返せば、個人の生のありようから社会を語る社会学者になる。
1990年代以降、富野由悠季は時代から取り残されることになる。
『機動戦士Vガンダム』は、『機動戦士Ζガンダム』以上に、スポンサーへの悪意に彩れた作品だが、サンライズがバンダイに買収される時期につくられたこともあって、その悪意も徹底していた。
富野由悠季は鬱になる。
1997年は『もののけ姫』が上映され『ONE PIECE』が連載を開始する。
傍流の主流化はここに極まったと言っていいだろう。
リハビリ作『ブレンパワード』を挟んだ『∀ガンダム』では、メカニックデザイナーにシド・ミードを採用するといった挑戦が見られたが、キャラクタービジネスとしては必ずしも成功したと言えず、作品性だけで勝負する、といったところがあった。
そこには主流化した自負がみえる。
『ガンダム Gのレコンギスタ』は違う。
富野由悠季は容赦なく先に進む。
ガンダムが、中年たちの主流文化に成り果てた今、もう一度、傍流から這い上がろうとする意志である。
「ガンダムではない」「大人ではなくこどもに観て欲しい」というのは、そういうことではないだろうか。
いまのこどもにとって「ガンダム」も「巨大ロボット」も“届かない”だろう。
傍流も傍流、傍流以下だ。
そこに富野由悠季の挑戦をみる。
かつて富野由悠季は、『機動戦士ガンダム』で、ミラクルを起こした。
巨大ロボットものでは“届かない”はずのヤングアダルト層にまで、確かに届いたのだ。
『ガンダム Gのレコンギスタ』は逆だ。
富野由悠季自身が一役買ってつくりあげたヤングアダルト市場が“主流化”した今このときに、こども向けにつくろうと言うのである。
俺は誤解していたかもしれない。
『ガンダム Gのレコンギスタ』はキッズ市場をレコンキスタをするものだと思っていた。「こども」に観て欲しいとは、そうことなのだと思っていた。
しかしキッズ市場も“主流化”した現在、富野由悠季が言う「こども」とは、まだ見ぬ「こども」ではなかったか。
ガンダム市場をキッズ市場にまで拡張するものではない。
こどもたちに届けることができたとしたら、かれらは「かつてガンダムと呼ばれた何か」を体験することになるだろう。
傍流だけがもつ鮮麗な何かを。
はからずも、2019年公開の映画になった。カギカッコ付きの「2020年安保」だ。
果たして、『ガンダム Gのレコンギスタ』は、新しい時代を切り拓くことができるだろうか。
今度こそ未来のニュータイプに期待したい。
Twitterは楽しいが、猿の俺にはちょっと無理。
2019-07-28
Twitterを今月の15日に始めたのだが、フォローしたかった肝心のあでのいさんがお止めになられていて、がっくりきた。
肝心のグダちんはフォロワーが多くてリムーブしたというし、寂しいスタートになった。
それでも、富野ファンの多さにびっくりしたり、Twitterの醍醐味をほんの少し味わうことができた。
また俺は政治オタクなところがあり、そのあたりのツイートのやりとりは楽しかった。
だが今日やめた。
Twitterをやるには、俺は不器用すぎる、とわかったからだ。
育ちがバレるが、俺は「会食」というのが苦手である。談笑しながら食事というのが苦手だ。
同じように、音楽を聴きながら作業をするというのも苦手だ。
ふたつのことを同時にできない。
人生半分損してるよね、言われたりするのだが、こればかりはスペックの問題だ。人よりメモリが足りないのである。
Twitterには凄いひとがたくさんいて、彼らのツイートを追うだけで、日が暮れるようだった。
知見が広がり、達成感や承認欲求が満たされたりして、楽しいのだが、それゆえに危険な感じがした。
俺は学業が壊滅的にできず、少しでも勉強をしないと、あっという間に退嬰的な自堕落な生活になってしまうのだ。
年齢的にも、頭も感性も錆びついてきて、かなり自分でも危機感を覚えていたところだった。
すでに確立した知見とそれをもとにした実践をなさっている学者や芸術家、活動家などとは、俺は違うのだ。
まったく確立していない。まったく知見が足りない。勉強するしかない。
忙しい合間には、少しでもいいから、勉強しておきたい。
そのためにTwitterは邪魔だ。
劇場版『ガンダム Gのレコンギスタ』パリ公開のおりに書いた記事は全面的に改稿しました。
よろしければお暇なときにご笑覧ください。
肝心のグダちんはフォロワーが多くてリムーブしたというし、寂しいスタートになった。
それでも、富野ファンの多さにびっくりしたり、Twitterの醍醐味をほんの少し味わうことができた。
また俺は政治オタクなところがあり、そのあたりのツイートのやりとりは楽しかった。
だが今日やめた。
Twitterをやるには、俺は不器用すぎる、とわかったからだ。
育ちがバレるが、俺は「会食」というのが苦手である。談笑しながら食事というのが苦手だ。
同じように、音楽を聴きながら作業をするというのも苦手だ。
ふたつのことを同時にできない。
人生半分損してるよね、言われたりするのだが、こればかりはスペックの問題だ。人よりメモリが足りないのである。
Twitterには凄いひとがたくさんいて、彼らのツイートを追うだけで、日が暮れるようだった。
知見が広がり、達成感や承認欲求が満たされたりして、楽しいのだが、それゆえに危険な感じがした。
俺は学業が壊滅的にできず、少しでも勉強をしないと、あっという間に退嬰的な自堕落な生活になってしまうのだ。
年齢的にも、頭も感性も錆びついてきて、かなり自分でも危機感を覚えていたところだった。
すでに確立した知見とそれをもとにした実践をなさっている学者や芸術家、活動家などとは、俺は違うのだ。
まったく確立していない。まったく知見が足りない。勉強するしかない。
忙しい合間には、少しでもいいから、勉強しておきたい。
そのためにTwitterは邪魔だ。
劇場版『ガンダム Gのレコンギスタ』パリ公開のおりに書いた記事は全面的に改稿しました。
よろしければお暇なときにご笑覧ください。
プロデュースについて 2/2 G-レコ編
2019-07-08
富野由悠季は、セルフプロデュースが下手だ。
彼にはプロデューサーという側面には才能がないと思う。
プロデュースはプロデューサーがやるものであって、演出家である自分の出る幕ではないと思っているのかもしれない。
だとしたら、彼が講演等で漏らす情報は、プロデューサーの権限の範囲であるべきだ。
たとえ自分の監督作品とはいえ、勝手に喋っていいわけがない。
『夜の巷を徘徊する』を観ていて、サンライズのスタッフが富野監督に対して遠慮している気配を感じて、かれを制御できる人間が払底してしまっているのではないか、という懸念をもった。
マツコが笑いを誘いつつもスタッフにダメ出しする場面を観て、富野監督はそうとう孤立してしまっているのではないか、という懸念だ。
スタッフとは年齢も離れているし、そもそも彼らの上司であるガンダム世代が大リスペクトしている人間である。
触らぬ神に祟りなしとして神棚に祭り上げられ、孤立していても不思議ではない。
『ガンダム Gのレコンギスタ』について、以前からプロデューサーが富野監督をうまく抑え込めていないという印象をもっていた。
「子供向けにつくりました。しかし大人でも楽しめるものになっています。親子の会話の一助になれば幸いです」と、なぜ言えないのか。なぜ言わせないのか。
「大人相手にはつくっていない。子供向けにつくった」と言うバカがどこにいるんだ。言わせるバカがどこにいるんだ。商売を舐めているのか。
「テレビ版、Blu-ray版はゼロ号でしかなかった」。これもおかしいだろう。
「テレビ版を応援してくれた皆様のおかげで映画版をつくれました。テレビ版よりさらに面白くなっていますので、ぜひ映画館に足を運んでください」。これぐらいのことがなぜ言えないのか。なぜ言わせないのか。
映画には監督なりの意図、思い入れがあるのは当然だ。
それを制御するのがプロデューサーの仕事のひとつであるはずだ。
才能と世間とのせめぎあいを取り持つ必要があるからである。
ディレクターズ・エディションはたいてい面白くない、というのはそういうことだ。
黒澤明のように巨匠に祭り上げられたあげく、晩節を汚した例もある。
富野由悠季を巨匠に祭り上げるつもりか。
富野由悠季もおかしいだろう。いつまで道化をやっているのか。商売から逃げなかった職人の自負はどこにいったのだ。
ネットで珍獣扱いされていることを知らないのか。
キャラクタービジネスの最前線にいられていると思っているのか。『仮面ライダー』や『プリキュア』をきちんと研究しているのか。小賢しい読書家であることを誇る前に、現役としてやるべきことをやっているのか。「(そのときそのときのヒット作)を潰す!」という気概はどこにいったのか。
『G-レコ』プロデュースには邪魔な人間がいる。
監督だ。
大人なんだからちゃんとしてくれ。
頼むよ、ほんと。
プロデューサーは、禿げ上がった前頭部に手形をつけるぐらいの勢いで仕事をしてくれ。
素敵な作品なんだからちゃんとしたかたちで世に送り出して欲しい。
頼むよ、ほんと。
スコード!
↑(2019/7/9追記)
とはいえ、富野由悠季ファンとしては、元気に弾けているお姿を拝見できるのは嬉しいかぎり。
普遍性を意識していて欲しいと思うのは俺の我儘かもね。
狙ったストライクゾーンに投げた、投げられた、という感触を得られているのであれば、それでいいや、と思えてしまう俺もいて、それはなんだかんだ言って愛情なんだろうな。
『G-レコ』を孫世代に向けた遺言のようなものにはして欲しくないんだよ。オープンエンターテインメントを目指す富野サンであって欲しいんだよ。
ちゃんとヒットさせましょう。
彼にはプロデューサーという側面には才能がないと思う。
プロデュースはプロデューサーがやるものであって、演出家である自分の出る幕ではないと思っているのかもしれない。
だとしたら、彼が講演等で漏らす情報は、プロデューサーの権限の範囲であるべきだ。
たとえ自分の監督作品とはいえ、勝手に喋っていいわけがない。
『夜の巷を徘徊する』を観ていて、サンライズのスタッフが富野監督に対して遠慮している気配を感じて、かれを制御できる人間が払底してしまっているのではないか、という懸念をもった。
マツコが笑いを誘いつつもスタッフにダメ出しする場面を観て、富野監督はそうとう孤立してしまっているのではないか、という懸念だ。
スタッフとは年齢も離れているし、そもそも彼らの上司であるガンダム世代が大リスペクトしている人間である。
触らぬ神に祟りなしとして神棚に祭り上げられ、孤立していても不思議ではない。
『ガンダム Gのレコンギスタ』について、以前からプロデューサーが富野監督をうまく抑え込めていないという印象をもっていた。
「子供向けにつくりました。しかし大人でも楽しめるものになっています。親子の会話の一助になれば幸いです」と、なぜ言えないのか。なぜ言わせないのか。
「大人相手にはつくっていない。子供向けにつくった」と言うバカがどこにいるんだ。言わせるバカがどこにいるんだ。商売を舐めているのか。
「テレビ版、Blu-ray版はゼロ号でしかなかった」。これもおかしいだろう。
「テレビ版を応援してくれた皆様のおかげで映画版をつくれました。テレビ版よりさらに面白くなっていますので、ぜひ映画館に足を運んでください」。これぐらいのことがなぜ言えないのか。なぜ言わせないのか。
映画には監督なりの意図、思い入れがあるのは当然だ。
それを制御するのがプロデューサーの仕事のひとつであるはずだ。
才能と世間とのせめぎあいを取り持つ必要があるからである。
ディレクターズ・エディションはたいてい面白くない、というのはそういうことだ。
黒澤明のように巨匠に祭り上げられたあげく、晩節を汚した例もある。
富野由悠季を巨匠に祭り上げるつもりか。
富野由悠季もおかしいだろう。いつまで道化をやっているのか。商売から逃げなかった職人の自負はどこにいったのだ。
ネットで珍獣扱いされていることを知らないのか。
キャラクタービジネスの最前線にいられていると思っているのか。『仮面ライダー』や『プリキュア』をきちんと研究しているのか。小賢しい読書家であることを誇る前に、現役としてやるべきことをやっているのか。「(そのときそのときのヒット作)を潰す!」という気概はどこにいったのか。
『G-レコ』プロデュースには邪魔な人間がいる。
監督だ。
大人なんだからちゃんとしてくれ。
頼むよ、ほんと。
プロデューサーは、禿げ上がった前頭部に手形をつけるぐらいの勢いで仕事をしてくれ。
素敵な作品なんだからちゃんとしたかたちで世に送り出して欲しい。
頼むよ、ほんと。
スコード!
↑(2019/7/9追記)
とはいえ、富野由悠季ファンとしては、元気に弾けているお姿を拝見できるのは嬉しいかぎり。
普遍性を意識していて欲しいと思うのは俺の我儘かもね。
狙ったストライクゾーンに投げた、投げられた、という感触を得られているのであれば、それでいいや、と思えてしまう俺もいて、それはなんだかんだ言って愛情なんだろうな。
『G-レコ』を孫世代に向けた遺言のようなものにはして欲しくないんだよ。オープンエンターテインメントを目指す富野サンであって欲しいんだよ。
ちゃんとヒットさせましょう。

