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ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

富野由悠季への愛を告白するBlogです。熱狂的なファン時代は過ぎ、今はちょっと遠くから眺めている感じでしょうか。 『伝説巨神イデオン』で“ゴーチンby小松左京”されたクチです。

プロデュースについて 2/2 G-レコ編

 富野由悠季は、セルフプロデュースが下手だ。
 彼にはプロデューサーという側面には才能がないと思う。

 プロデュースはプロデューサーがやるものであって、演出家である自分の出る幕ではないと思っているのかもしれない。
 だとしたら、彼が講演等で漏らす情報は、プロデューサーの権限の範囲であるべきだ。
 たとえ自分の監督作品とはいえ、勝手に喋っていいわけがない。

 『夜の巷を徘徊する』を観ていて、サンライズのスタッフが富野監督に対して遠慮している気配を感じて、かれを制御できる人間が払底してしまっているのではないか、という懸念をもった。
 マツコが笑いを誘いつつもスタッフにダメ出しする場面を観て、富野監督はそうとう孤立してしまっているのではないか、という懸念だ。
 スタッフとは年齢も離れているし、そもそも彼らの上司であるガンダム世代が大リスペクトしている人間である。
 触らぬ神に祟りなしとして神棚に祭り上げられ、孤立していても不思議ではない。

 『ガンダム Gのレコンギスタ』について、以前からプロデューサーが富野監督をうまく抑え込めていないという印象をもっていた。
 「子供向けにつくりました。しかし大人でも楽しめるものになっています。親子の会話の一助になれば幸いです」と、なぜ言えないのか。なぜ言わせないのか。
 「大人相手にはつくっていない。子供向けにつくった」と言うバカがどこにいるんだ。言わせるバカがどこにいるんだ。商売を舐めているのか。

 「テレビ版、Blu-ray版はゼロ号でしかなかった」。これもおかしいだろう。
 「テレビ版を応援してくれた皆様のおかげで映画版をつくれました。テレビ版よりさらに面白くなっていますので、ぜひ映画館に足を運んでください」。これぐらいのことがなぜ言えないのか。なぜ言わせないのか。

 映画には監督なりの意図、思い入れがあるのは当然だ。
 それを制御するのがプロデューサーの仕事のひとつであるはずだ。
 才能と世間とのせめぎあいを取り持つ必要があるからである。
 ディレクターズ・エディションはたいてい面白くない、というのはそういうことだ。
 黒澤明のように巨匠に祭り上げられたあげく、晩節を汚した例もある。
 富野由悠季を巨匠に祭り上げるつもりか。

 富野由悠季もおかしいだろう。いつまで道化をやっているのか。商売から逃げなかった職人の自負はどこにいったのだ。
 ネットで珍獣扱いされていることを知らないのか。
 キャラクタービジネスの最前線にいられていると思っているのか。『仮面ライダー』や『プリキュア』をきちんと研究しているのか。小賢しい読書家であることを誇る前に、現役としてやるべきことをやっているのか。「(そのときそのときのヒット作)を潰す!」という気概はどこにいったのか。

 『G-レコ』プロデュースには邪魔な人間がいる。
 監督だ。
 大人なんだからちゃんとしてくれ。
 頼むよ、ほんと。

 プロデューサーは、禿げ上がった前頭部に手形をつけるぐらいの勢いで仕事をしてくれ。
 素敵な作品なんだからちゃんとしたかたちで世に送り出して欲しい。
 頼むよ、ほんと。

 スコード!




 ↑(2019/7/9追記)
 とはいえ、富野由悠季ファンとしては、元気に弾けているお姿を拝見できるのは嬉しいかぎり。
 普遍性を意識していて欲しいと思うのは俺の我儘かもね。
 狙ったストライクゾーンに投げた、投げられた、という感触を得られているのであれば、それでいいや、と思えてしまう俺もいて、それはなんだかんだ言って愛情なんだろうな。

 『G-レコ』を孫世代に向けた遺言のようなものにはして欲しくないんだよ。オープンエンターテインメントを目指す富野サンであって欲しいんだよ。
 ちゃんとヒットさせましょう。
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プロデュースについて 1/2 ユニコーン編

 福井晴敏の凄いところは、セルフプロデュースができるところである。

 『機動戦士ガンダムUC』という企画はもったいないなと思っていた。
 ベストセラー作家・福井晴敏にガンダムをやってもらう、としたらアナザー系がベストだというのが俺の直感だった。

 宇宙世紀系はマニアが観るものであって、オタクでも何でもない“一般人”に支持される福井晴敏なら、宇宙世紀に匹敵する新たな世界設定を生み出せる、それは長期的な商売になりうる、と直感したので、「おい。この企画、誰だよ? 後ろ向き過ぎんだろ」と思ったものだ。

 イラストに安彦良和を起用するのも、後ろ向きだと思っていた。「宇宙世紀・ミネバ・安彦良和」、一般人向きの企画ではない。安彦良和を『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』という仕事に巻き込んだ『ガンダムエース』という雑誌は、やっぱり好きになれない。

 それが後で知ったことなのだが、企画「宇宙世紀・ミネバ・安彦良和」は、福井晴敏が立てたものだった。
 安彦良和に日参して口説いたらしいと聞いたとき、「ええっ!」と思ったものだ。
 企画意図は、初代ガンダム・ブームの渦中にあった“かつてのガンダム・ファン”、いまでは普通にアニメを卒業した“一般人”の大人がターゲットだと言う。

 見事、としか言いようがないではないか。
 これをバンダイでもなくサンライズでもなく、福井晴敏個人が立てたというのである。
 さすがベストセラー作家になるわけだ。

 安彦良和ファンが『ORIGIN』に時間と労力を消費させられるのを苦々しく思ったのと同様に、福井晴敏ファンが『UC』に複雑な思いをもったことは想像できる。
 安彦良和の初代愛、福井晴敏のガンダム愛がそれをさせた、という面もあり、一概に不満を表出できなかったファンも多かったろう。

 企画は作品論的には成功したらしい。宇宙世紀ファンはもとより、“かつてのガンダム・ファン”である非アニメファンの大人でも満足できる出来だったようだ。
 受容論としては、企画の大きさに比べ、いまひとつだったろう。なにせ団塊ジュニア世代という大ボリュームを巻き込むというものだ。社会現象になるほどではなかったという点で、いまひとつ「物足りない」ものだったのではないか。

 『ガンダム』ブランドは、富野由悠季から福井晴敏に、支柱を移す、という気配も感じる。
 福井晴敏のような“セルフプロデューサー”は稀有だろう。
 それも仕方ないのことかもしれない。




 ↑(2019/7/9追記・本文も手直し)
 福井晴敏は同世代を相手に作品をつくる(グダちんさんのいう)“オトナ帝国”の人だったね。
 原恵一は自分の同世代に向けて作品をつくっていると明言する人だから、彼自身も“オトナ帝国”の人だしね。

 やはり“未来”は『Gのレコンギスタ』がつくるのだ!

『劇場版 ガンダム Gのレコンギスタ』を観たくてしょうがない。

 パリで最初のお目見えということで、本国展開も一工夫あるのではないか、と期待している。

 パリでの感想を求めていつも拝読させてもらっているblogを彷徨ったのだが、当然ながら感想はない。そりゃそうよね。

 ところがさすがグダちんである。Twitter?から引用してくれた! Twitterをやっていない俺にはたいへん助かる!  引用元?の「あでのい@17歳女子高生」さまにも感謝である。十六歳では早すぎる、十八歳では遅すぎる。つまりそういうことか!?

 しかし映画館で観られない俺もいる。
 聴覚過敏になってしまったのだ。

 精神科医に相談すると、鬱が原因では、と言われる。
 対処法は? と尋ねると、別にない、と言われる。

 どうすればいいのだ。

 鬱に対抗するには、身体性が大事だ、ということを以前書いたが、実際なってみると、そんな甘いものではないとつくづくわかった。

 個人差あるだろうが、俺の場合、鬱が身体性を通して発現したのだ。
 涎が止まらなくなる。内科にいく。精神科にいけと言われる。
 買い物依存症になる。ハイ鬱ですネ。
 過食気味になる。ハイ鬱ですネ。

 なんでも鬱かよ、テメー。
 寛解しているつもりだが、鬱につきまとわれて、うざくてしょうがない。
 お祓いしてもらうかな、もう。

 聴覚過敏で検索したら、耳栓をしたら、とかぬかしやがる。
 それで映画をみた気分になれるかーい!

 オタクの友達がいない、ということは以前にも書いた。
 俺も啓蒙するタイプではないので、無理に富野監督作品を薦めることはない。
 自分は観ないが、前売り券を買いまくって応援する、ということもできない。

 やはり耳栓か、耳栓しかないのか。


 『劇場版 ガンダム Gのレコンギスタ』の話に戻そう。

 ララァの死に対してケロッとしているアムロというTV版に対して、その場面をまるまる削ることによってララァの死の重さに苦しむアムロというニュアンスに変えてきた劇場版、という過去がある。

 カミーユが童貞だったTV版に対して、いつのまにかファとくっついていた劇場版という過去もある。

 この違いは何か?
 もはやお気づきだろう。

 “愛”である。
 作品の核心が“愛”に変化する。
 
 “愛”によって、まるで別の作品になるのだ。

 『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』も『機動戦士ガンダムF91』も、珍しく男女の“愛”が前面に出ていた。

 富野由悠季にとって、映画とは“愛”の物語なのだ。

 だとすれば、全五作の五作目が大事になってくる。

 五作目まで辿りつけるか?
 実績次第ということになるのだろうか?

 やはり耳栓しかない。 





 ↑(2019/7/9追記)
 完全に躁転してるねコレ。
 ここ最近、抑鬱感がない代わり、躁転していて、セルフコントロールが効かない。

 元気のGをくれ!

 いやいや今は元気を欲してはいけないな!

 ラライヤさんに落ち着きなさいと注意されたい。
 
 ビョーキ芸をみせて申し訳なかった。

ネタバレと『ガンダム Gのレコンギスタ』

 ネタバレが嫌いなひともいるだろうから、俺の場合、ネタバレかどうかはなるべく書くようにしている。

 ネタバレが極端に嫌いな人間もいる。それはわかるが、わかるのだが、いったいどうしたらそこまでネタバレ嫌いになれるのか不思議に思うことがある。

 たとえば映画だ。
 完全入れ替え制ではない映画の場合、中途半端な時間に入場することになっていた。それこそラストシーンやクライマックスから映画をみることも多かったのである。
 それで魅力が半減したか? と言えば、そんなことはないのである。

 面白い映画はどこから観ても面白い。
 映画に「物語」を求めてしまう俺のような映画音痴ですら、そうなのだ。

 美は細部に宿るというが、ほんの数カットを観ただけで、その映画の良し悪しはわかるものだ。だから予告編を観ただけで、ある程度は作品の出来がわかるつもりである。
 表層批評をできるだけのリテラシーのない俺ですら、そうなのである。
 映画通を自認できる、映画評論家を自称できる人間たちが、映画のなかに勝手に「内容」を幻視してしまうのは、どうしてなのだろうか。

 そんなに「わかる」ことが大事か?
 試験じゃあるまいし、「正解のないもの」なんて、いくらでもあるだろう。
 なぜ点数を点けたがるのか?
 なぜジャッジをしたがるのか?
 お客様は神様だから?
 自分が理解できるもの、自分を楽しませてくれるものだけが「優れた作品」だとでもいうのだろうか。
 「わからない」から「駄作」と言い切ってしまう風潮に、俺はいまひとつ馴染めないでいる。

 小中学生の俺は『機動戦士ガンダム』を「わかって」いなかった。
 ブームになる前からのファンである。ガンプラすら販売されていなかった。
 それでいて「わかって」いなかったのである。
 なぜ惹かれたのか?
 「理由」が必要だろうか?

 『ガンダム Gのレコンギスタ』は「わからない」から「駄作」だという人たちがいる。
 それはそれで構わない。
 いまの時代、そういう人間たちが溢れていることは、前述したとおりだ。

 だが俺は断言できる。
 作品を「わかって」しまう人間たちは、自分自身を越えることはできない。
 「他者なるもの」と向き合うことができない。

 俺は『機動戦士ガンダム』で「理解できない他者」に出会った。
 そんな「他者」を、自身の感性、教養、嗜好を越えて「好き」になったのである。
 
 『ガンダム Gのレコンギスタ』は「わからない」。
 富野由悠季作品に数多く触れてきた俺でも、「わからない」のだ。
 「他者なるもの」がここにいる。

 富野由悠季はもう一度、俺の前で「他者」になってくれた。
 これほどエキサイティングなことはない。
 富野由悠季は俺を置き去りにして新境地に至った。

 俺は小中学生のときと同じように、「わからない」なりに、富野由悠季の背中をもう一度追うことができる。
 この至福。

 『ガンダム Gのレコンギスタ』は「わからない」からキッズ市場に届かないという人たちもいる。
 ガンダムブームを中学生時代に経験した俺が言えるのは、当時から「わかる」キッズ市場はあったのだ。
 そうした作品群は、当然人気もあり、視聴率もとっていた。
 『機動戦士ガンダム』がまったく人気がなかったことは以前書いた。「わかなかった」からだ。

 だがそうした作品がいまや四十周年を迎える。
 そのことが意味することは大きい。

 『ガンダム Gのレコンギスタ』は四十年前の『機動戦士ガンダム』と同じだ。
 「わからない」作品である。

 『機動戦士ガンダム』をオンタイムで経験できなかった若い方もいるかもしれない。
 だが今チャンスが巡ってきた。
 『ガンダム Gのレコンギスタ』だ。

 「わからない」作品である。「惹かれる」作品である。
 あとはそう、富野由悠季の「背中」を追えばいい。スタッフたちの「背中」を追えばいい。
 そこに「理解できない他者」がいる。
 自身の感性や嗜好、教養を越えた「未知の荒野」がそこに広がっているのだ。
 それは「閉じた自分」を解放して、未知なるものへの「洞察力」を得る選択肢があるということだ。

 中年たちの“思い出補正”で、『機動戦士ガンダム』は「わかった」うえで面白かった、それに比べ『ガンダム Gのレコンギスタ』は「わからない」という妄言は信じなくていい。

 小中学生の俺が保証する。
 池袋のサイン会で、せいぜい俺くらいしかサインを求めることがなかった富野由幸を知っている俺が保証する。

 『機動戦士ガンダム』はキッズ市場に届いていなかった。
 届くには時間がかかった。

 『ガンダム Gのレコンギスタ』とて同じことが起きないとは言えないだろう。
 子供にとって「わかる」ことが、それほど重要なことではないからだ。

 『ガンダム Gのレコンギスタ』は冒頭から観る必要はない。
 どこから観ても、いや途中のキャラクター芝居から観た方が、あるいは楽しめる作品かもしれない。
 美は細部に宿るものなのだ。

 フィルムのもつ感触に魅力を感じられたら、ぜひ劇場まで足を運んでほしいものだ。
 自身の感性に「引きこもる」のか、「未知の荒野」に踏み出すのか。

 年齢は関係ない。錆びついた感性で自足する「老害」かどうか、それで判明するだろう。

 俺は若いやつを信じる。
 若さゆえの「理解できない他者」に惹かれる感性を信じる。

 『ガンダム Gのレコンギスタ』は文明批評の作品だ。
 人類への絶望のうえで語られた寓話だ。

 絶望を越えた真の叡智のありようを、若者たちに示して欲しい、と勝手に願う。

 俺をふくめて「ガンダム世代」はニュータイプになりえなかった。
 醜態をさらして申し訳ない。
 「わかる」作品を、『ガンダム』と称して、商売をする同世代を、俺は恥ずかしく思う。

 だからこそ『ガンダム Gのレコンギスタ』だ。

 そこには容易に理解できない「他者」がいる。
 「他者」に触れ、「わからない」という事実から出発するのが、人を人足らしめているのである。

 映画にどれだけ「真剣」に向き合えるのか、錆びついた感性のなかで自足する人間にはわからない。

 『ガンダム Gのレコンギスタ』は違う。
 錆びついた感性では追いつけない。
 「わからない」ことを恥じる必要はない。
 本当に恥ずべきなのは、自身の錆びついた感性のなかで自足して、「わからない」から「駄作」と言い切ることだ。

 富野監督作品は、劇場版で、大化けする。
 劇場版がいまから楽しみだ。

 どうか「他者」に向き合える方々に届きますように。

劇場版『AIR』が好きだ

 原作ゲーム未プレイ、TV版も未鑑賞の人間の感想になる。
 例によって記憶頼りに書いてしまう。
 出崎統は好きな監督で、劇場版という認識が薄く、俺のなかで出崎版という位置づけである。
 そのあたりも勘案して読んで欲しい。
 
 劇場版『AIR』は、序盤から俺の好みだった。

 作品世界にたちまち魅了されたのは、国崎往人が神尾観鈴にラーメンを奢ってもらう場面だ。
 この場面で、往人はラーメンセットを注文したがいいか、と尋ねる。遠慮がちにだ。
 ここに惹かれたのは、そこに貧しさが描かれているからだ。
 往人が腹を空かしている描写でもあるだろうが、観鈴が貧乏人にみえたのだろうという想像もつく。
 こういう貧乏人の恥ずかしさへの共感を、往人がもっているらしい、というところで、もう作品世界にどっぷり浸かることになる。
 実際、そのあと、貧しい母子家庭──正確にいえば違うのだが──であることが判明する。
 この作品の、貧しさを「わかってる」感が、いいなと思う。

 病気が理由で不登校が続く観鈴を見下したような同級生が出てくるのだが、その場面でハンサムな往人が登場し、その同級生が羨ましげにする場面も好きである。ざまあみろってものだ。

 「好きになってもいいのだよ」
 ドキッとする場面だ。
 多層的なセリフである。天然かあざとさか判らないのがいい。観鈴の魅力を描いた場面でもあるし、恋愛への憧れを描いた場面でもあるし、神秘的な因縁を予感させた場面でもある。

 神秘的な因縁は、観鈴が夏休みの研究として描かれる。輪廻転生が事実かどうかは問われない。
 観客の鑑賞体験と同じように、翼人伝説の展開が、観鈴の運命とかさぶってくる。
 伝説のとおりにはならない。国崎往人は観鈴を救済する運命の男かどうかわからない。
 この「ズレ」がいいのである。
 「ズレ」はこの作品の中心的な魅力だ。
 予定調和にならない。
 ここに観客を牽引する謎があって、和太鼓の迫真のちからによって、「運命の到来」を予感させる。
 キューブリックならクラシックを流すところを、和太鼓で表現するのだから心憎いし、ひとりの日本人として血が騒ぐのである。

 「がお」
 というセリフに、往人が「可愛くないからやめろ」という場面も好きだ。
 「萌え」に対する距離感がしっかりあって、「萌え」文化を理解できない層にまで訴求できる普遍性が宿っている。
 しかしそればかりではない。
 「がお」というセリフを、「萌え」文化から脱色したことは、孤独な子供時代を過ごした観鈴の人物描写にもなっているのである。
 観鈴は、子供番組から「卒業」する機会がなかったと匂わせているのだ。いまだに恐竜の出てくる子供番組をみているのではないかというニュアンスなのである。そして実際みているわけだ。

 こういう人間臭い重層的な人物造形は、フラットキャラクターと対極にあるもので、そこに出崎統の真骨頂をみることもできる。
 出崎統は手塚治虫から「エンターテインメントであることを忘れてはいけない」とよく言われたらしい。その発言の主旨を理解できなかったと告白している。
 俺にとり出崎統は「文芸」のひとだ。「夢」を語るエンターテインメントのひとではない。「人物」と「キャラクター」」でいえば、つねに前者を選んできた男である。「理想化」されたキャラクターを、「愛」に殉じる人物に改変してしまった過去もある。
 原作改変の多くは、この文芸性の付与にある。

 “京アニ以後”の原作に寄り添った文芸性の付与ではない。(“京アニ以後”にアニメの進化をみてもいい)
 私小説的な、出崎統というひとりの「人間」に引き寄せた文芸性の付与なのである。それは自らの絵コンテ通りに画を上げてくるアニメーターへの叱責にもなってくる。
 原作者という「人間」、脚本家という「人間」、そうした「人間」たちに、ひとりの「人間」として向き合うのが出崎統であり、そこに俺などは魅了されている部分もある。

 国崎往人もまた人間臭い人物として描かれる。
 往人は逃亡者だ。
 「現実」から逃避して、あてのない旅をつづけている若者である。
 子供たちに「いっときの夢」を売って生活をしている。
 物語中盤、神尾家の物置小屋に住まわせてもらうのだが、そこでも稼ぎもせず、茫洋とただ時間が経つのを待っているだけだ。往人はただ雨露が凌げればそれでいいと考えている。

 祭りという「ハレ」の日に「子供たちの夢」を売る国崎往人は、網野善彦風にいえば「無縁のひと」である。
 アジールからアジールへと漂泊する人間なのだ。
 その彼が、「縁」と出会ってしまう。
 往人はどうするのか。
 そこが今作の見どころであるのだ。

 母の願いから逃避して、運命とやらからも逃避して、観鈴からも逃避して、往人は「無縁のひと」であろうとする。
 往人は「無縁のひと」になりきれていない。そうであろうと意識しているだけだ。「人生」という「呪い」から逃避しているにすぎない。
 往人という人物の根っこが「逃避」にあることがわかる。
 いままで「逃避」だけをしてきた若者が、突如「覚醒」するだろうか。淡い恋のようなもので「豹変」するだろうか。
 しないのである。人間はそう簡単には変われないのだ。

 往人はカラスにインスピレーションをえる。
 翼人の白い翼からは逃避した往人は、黒い翼のカラスに何を見たのか。
 それは逃避をつづける自分自身だったのではないだろうか。
 カラスは飛翔する。飛翔できる。
 往人はまだ飛翔できる自分をそこにみるのだ。

 観鈴が消えたのは祭りという「ハレ」の日だ。
 日々、「人生」と向きあう観鈴は、「ハレ」から程遠い人間だ。
 観鈴の憧憬はそこにある。
 飛翔を禁じられた少女に自分を重ね合わせる。運命にあらがう貴公子に往人を重ね合わせる。
 束の間でもいい、飛翔したい。
 難病という「ケ」に束縛された観鈴は、祭りのなかで消失することによって、象徴的な「死」を暗喩する。
 観鈴は確かに飛翔したのだ。伝説の翼人のように。

 同じ景色、おそらく子供時代から同じ番組を見続けた観鈴と、違う景色を子供時代の因縁から逃れるために見続けた往人。
 ふたりは対称の関係にある。
 同じ想いを知らず共有している。「人生」という「呪い」から「飛翔」したいという想いだ。
 翼人の伝説は、そのためにある。
 対称の関係にあるふたりをつなぐのが翼人の伝説なのだ。
 生まれ変わりかどうか、だからこそ、ぼかされている。そんなことはどうでもいいことだからだ。

 橘敬介は観鈴の実父だ。
 世俗的な成功者であることが仄めかされている。
 「ケ」の人間なのだ。
 彼は救済者として現れる。
 彼の救済は、観鈴をさらなる「ケ」に突き落とす行為だ。
 観鈴は「ハレ」を選ぶ。晴子を選んだわけではない。
 「飛翔」を選ぶのだ。

 往人は事情を知る。敬介を殴る。往人の怒りは「ハレ」の日に「ケ」を持ち込んだ者への制裁だ。
 「飛翔」する観鈴は、「飛翔」する往人だけが見つけることができる。
 彼らは、このとき、空を生きているからである。

 「ハレ」の夜空を「飛翔」した観鈴は、青空の浜辺で力尽きる。
 祭りは終わったのだ。

 観鈴は晴子を選ぶ。
 往人は二番目に好きなひとだ。往人が二番目であることを軽くぼやくのがいい。このズレがいい。

 観鈴は「ハレ」ではなく「ケ」を選ぶ。
 「飛翔」した観鈴は、もう「ハレ」の夢をみないのだ。

 「ケ」の日々をともに生きた、生きてくれた晴子が、最愛のひとなのだ。
 飛翔の夢をみても、人生という現実から逃避したわけではない。
 だからこそ晴子であり、「頑張って生きた」といえるのだろう。

 観鈴という、か細い糸で結ばれたかもしれない「縁」は永遠に失われた。
 往人は、「無縁のひと」になったのだ。

 往人がその後どうなったのか、わからない。
 暗示すらされない。
 それでいいのだろう。

 往人は、カラスになったからだ。
 もはや飛翔こそが人生だ。空を生きるのだ。

 劇場版『AIR』は、ラブストーリーではない。青春ストーリーですらない。お泣かせものであるはずがない。
 「人生」の物語である。

 俺は傑作であることを疑わない。

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