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『機動戦士Vガンダム』について 5/5 孤児と犬と大地

 『機動戦士Vガンダム』は前述したとおり、前半の失敗を後半で糊塗しようとしてさらに失敗を重ねてしまったというのが俺の評価だ。

 とはいえ駄作と言い切るには俺は『V』を愛し過ぎている。「富野宇宙世紀ガンダムの完結編」としてとても重要なフィルムであることは間違いない。

 たとえばニュータイプ論だ。以前にも書いたが、ニュータイプ論は『V』で完結したと思っている。

 初代『機動戦士ガンダム』はニュータイプという希望をもったラストを迎えて見事に完結した物語であった。“初代で完結した版”の『ガンダム』はニュータイプという人類の革新を夢見ることによって甘美な希望の物語たりえた。「大人になって何になる、いやしないのさ、そんなひと」と唄われるように、大人になったところで戦争のない世界をつくれないのないのなら、世俗的な意味での人格形成物語など無意味だからだ。
 しかし『機動戦士Ζガンダム』以降、ニュータイプから“未来への希望”が剥ぎ取られることになる。『Ζ』は決して優れた作品だとは思わないが、この作品のおかげで手に入れたものはあまりにも大きい。ガンダムビジネスが継続可能になったこと、ガンダムシリーズが年代記になったこと、なによりニュータイプ論の否定だ。カミーユの悲劇はニュータイプを未来への希望として描いた初代の否定である。

 ニュータイプ論の否定のうえに語られてきた富野ガンダムは、「疲弊期」を脱して復活した富野の「新章」とでもいうべき『機動戦士ガンダムF91』で唐突にその理念を蘇らせる。
 『F91』の主人公シーブックは、そのニュータイプのちからを使って、ヒロイン・セシリーを救うのだ。子供たちがヒーローを救って未来への希望を暗示させた初代と違うところで、ここにはニュータイプ論とともに生殖論も暗示されているとみていいだろう。
 初代の富野メモにおいて、かれがこだわった気配があるのが、ニュータイプ論と対になる生殖論だが、『F91』では対としてではなくひとつのものとして統合される。ニュータイプ論にひとつの決着がついたのだ。

 『V』はもっと先をいく。ニュータイプ論にはエリーティズムが残っていた。先鋭化すればシャアになる。
 『V』に至ってニュータイプ論と生殖論は“共存”することになる。それは対でもなく統合でもない。誰がニュータイプで誰がそうでないのか判然としない。大切なのは至極真っ当な人間であるかどうかだ。ここにニュータイプのエリーティズムは完全に姿を消すことになる。

 ニュータイプはサイキッカーと呼ばれ、身も蓋もない超能力者として扱われるが、「戦争のない世界を築く」という点で、かつての夢の欠片をもっている。
 それを主人公たちは否定する。
 女とこども、老人たちだけで戦ってきたのだ。いまさら母性原理による人類の去勢によって「戦争のない世界を築く」と言われても欺瞞にしか聴こえない。女とこども、老人たちには屹立する男性原理などないからだ。
 
 争いをふくめた「汚い世界」を人為で歪ませ「清浄な世界」を築こうとする意思そのものが否定されるわけだ。

 「汚い世界」……汚い自然のなかにあって、ひとは泥だらけのなかで生命の営みをつづけていく。素朴な生活の積み重ねこそがひとをして狂気から遠ざける。

 素朴な生活者として生きることを願う子供ヒーローには、ニュータイプ論は関係がない。本人がニュータイプだとしても関係がない。
 地に足の着いた大人の言葉だけが、かれのよって立つ大地だ。

 女たちに守られ、女たちを殺してきたウッソであっても、素朴な子供ヒーローであるがゆえに、大地はかれを迎え入れてくれる。
 大地はウッソがガンダムでそらに戻ることを許さない。シャクティの方こそそらから舞い降りてくる。

 大地からはじまり大地でおわる『V』は、ヒーローが子供であるがゆえに“往きて還りし物語”になりえた。通過儀礼の物語ではないのである。その点で『V』は「映画」的というより「テレビ」的といえるだろう。

 宇宙より地球、憧れより心安らぐ隣のひと、孤児と犬と大地、『V』はまごうことなき『ブレンパワード』のさきがけだ。

 カテジナはすべてを失って故郷に帰ってくる。シャクティは彼女を救うこともできたかもしれない。シャクティは彼女を選ばない。選べるはずもない。ただふたりの涙だけが別離の歌になる。
 『V』は、その終幕の哀切によって、愛さずにはいられない作品なのだ。
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コメント

この作品においては

「昔そんな人たちがいた」という程度でしか語られていないニュータイプですよね。

とにかく『V』は最終回のラストで伝説になった感じというか。



Re: この作品においては

 コメント、ありがとうございます。

 仰るとおりだと思います。

 年代記的にいえば、「ガンダムの伝説」は受け継がれているのに「ニュータイプの伝説」はたいして受け継がれていないのがミソですよね。『F91』の時代から何があったのか想像すると楽しい。
 いつから「パイロット特性のあるひと」から「サイキッカー」になったのか、なにが起きたのか、想像がふくらみます。

 最終回については、この作品の序盤でも垣間見られた“F91以後”の“正統”志向を感じちゃうんですよね。
 “F91以後”の富野は本来こっちだったのになー、と作中の哀切さとともにメタ的に一富野ファンとして哀しく切ない思いがありました。

 初代好きの俺にとっては、音楽と映像が見事に組み合わせられた素晴らしい演出という点で、初代劇場版ラストに匹敵するものでした。

いくつもの愛を重ねて

は前の回の特攻場面でも使ってましたよね。


ああいう演出というのは、まさに「映像」だから出来るという感じ。

それこそ解釈は見た人に任せるという感じ。

ある意味では「ここ」に行きつくまでの今までの物語だったのかといった感じであり、それによって今までの錯綜を極めた展開は全て「浄化」「昇天」されると。

Re: いくつもの愛を重ねて

 コメント、ありがとうございます。

 特攻のあたりは、俺には安易なセンセーショナリズムにしか見えませんでしたね。「あざといなー」という感想です。錯綜し破綻した物語にやけくそ気味に手練手管で対応したという以上のものを感じませんでしたね。

敢えていうなら

老人組の「お祭り」というところでしょうか。

「バチがあたったんだ」という部分も含めての。

Re: 敢えていうなら

 コメント、ありがとうございます。

 富野作品は芝居が面白いんで、「バチがあたったんだ」というあたりなどはさすがですよね。

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