ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

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ジオンは戦中日本であるという説がやっと胸落ちした

[3489]映画版『Gのレコンギスタ』で私が期待する問い
 を読ませて頂きました。

 いい勉強になりました。
 いろいろと示唆されるところがありました。

 ワイマール共和政のドイツと「戦後日本」の状況は互いに入れ替え可能というのも面白い見かただと思いましました。欧州にとって第一次大戦のトラウマは大きいんですよね。あれが最後の「大戦」だと思った。大戦後の恒久平和というものをどこか本気で模索していた節がありますし(そこをヒトラーに突かれるわけですが)、その点で、第一次大戦の「戦後欧州」と、第二次大戦の「戦後日本」がダブります。

 

つまり「戦後民主主義」は連合国からの贈物で、米国の懺悔の証で、「ナチス体制」を回避して欲しいという欧州からの祈りの言葉と理解できたのです。


 というのは美しい言霊だと思いました。

 シオニズムと日本の西洋化の道程を重ねあわせるという視点も新鮮でした。国家の夢を語る時代はよいが、実際に国家運営を始めると悲劇がおこる、という点で、なるほどキレイに説明がつきます。素晴らしい。ジオンはナチスではなく戦中日本なわけですね。

 メスが王になるためには「悲劇」が必要というのは重い認識です……
 「王になる」には通過儀礼が必要でしょうから、アイーダはあるいはその「悲劇」を乗り越えることが通過儀礼になるのかもしれません。



 民主主義については俺には手に余る話題です。ただ民主主義がナチスを生んだことも確かなわけで、戦前戦中一貫して日本が民主主義国家であったことなどを考えると、全体主義を抑止できる政治制度は存在しないのではないか、と俺などは考えてしまいます。
 戦後日本がそれなりにうまくまわったのは経済的復興に成功したからではないでしょうか。衣食足りて礼節を知るではありませんが、経済的繁栄のなかに反体制の若者たちも埋もれていきました。
 ただそこにオウム事件がおこった。虚構と現実がフラットになったという点では「現実」が押井守的世界観に追いついたと言っていいでしょう。経済的繁栄も民主主義も宗教過激派による無差別テロを抑止できないことが判明したことも衝撃的でした。

 戦後復興は間違いなく日本人の努力の賜物ですが、同時に幸運に恵まれていたことも確かですね。朝鮮戦争による特需や、合衆国の巨大市場などに助けられました。GHQによる農地開放、財閥解体などを含めて、戦後復興は「何もかもアメリカ様のおかげ」という側面があります。一日本人としては癪ですがw。戦後日本とはニューディーラーたちの実験国家といえるかもしれません。
 戦後日本は一応は「成功」したと言っていいでしょう。第二次大戦では敗北しましたが、冷戦では勝利しました。ジオンが「戦中日本」なら初代『機動戦士ガンダム』はそれと戦う「戦後日本」の物語ということになります。旧小説『リーンの翼』が戦中日本への徹底的な批判をしつつ戦後日本を肯定して終わるのも同じことだったのでしょう。そういう意味ではやはり初代ガンダムもまた「富野の作家性が根底にある」と確信できます。

 「冷戦の勝ち組」の右傾化が深刻な問題になっています。グローバリゼーションによって貧窮する層が増えれば増えるほどこの勢力は衰えることを知らないでしょう。
 「冷戦の勝ち組」は“平和ボケ”ならぬ“経済ボケ”をしてしまったのでしょうね。資本主義が正しいと思うあまり、雇用の流動化や中産階級の没落、格差の拡大など、国民生活を蹂躙してしまいました。

 自由主義に封じられていたランドパワーの逆襲も始まっています。現代世界で常に勝ち組だったシーパワーは、「冷戦の勝ち組」に罹患した“経済ボケ”のため、地政学すら忘れ、彼らの思うようにされています。
 戦後世界秩序の崩壊どころか、現代世界の崩壊を目の当たりにしているのかもしれません。

 日本は非常に危機的状況におかれています。戦後世界秩序は実質的に崩壊すると思いますが、ロシアや中共などは「第二次大戦の勝ち組」というアドバンテージを捨てないでしょう。一方「冷戦の勝ち組」には大したアドバンテージはありません。“経済ボケ”のなか自由主義をドブに捨てたからです。
 日本は国家としての正当性を奪われることになります。果たして「戦後民主主義」はそれを担保してくれるでしょうか。巨大な悲劇のあとの希望として。

 「君は生き延びることができるか?」という問いはいまこそ必要なのかもしれません。
 ガンダムの文脈でいえば、小さな生活者を守ること、それだけが、正当性を担保してくれるはずなのですから。
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富野はなぜ「女王」の夢をみるのか

 『F91』以後、富野は「女王」に取り憑かれてきた。

 『F91』では、ヒロイン・セシリーは敵役組織に「女王」になるように要請される。
 『V』では、敵役組織にマリアという「女王」が出てくる。ヒロイン・シャクティは彼女の娘である。
 『∀』では、対立組織にディアナという「女王」が出てくる。ヒロイン・キエルはディアナと入れ替わりに「女王」になる。
 『G-レコ』もまた、ヒロイン・アイーダが「女王」になるという。

 お気づきのように、『F91』『V』と、『∀』の間には断絶がある。
 『F91』『V』では「敵役組織」のシンボルだが、『∀』では「対立組織」のシンボルだ。『F91』『V』では女王は否定されるが、『∀』では女王は肯定される。『∀』では、『F91』で否定された貴族主義や、『V』で否定された母なるものの人類の去勢が肯定されていると考えていいだろう。『F91』『V』まではかろうじて繋がっていた「現実」(戦後民主主義を是とする現代日本)と完全に切れてしまっているのである。
 20世紀に書かれた旧小説『リーンの翼』では戦後日本の肯定で終わる。しかし21世紀に書かれた『リーンの翼』では近代化を肯定しつつも現代日本を否定してみせる。それがなぜなのか、ではどうすればいいのか、書かれていない。断絶があるだけである。ただ戦後日本を肯定した迫水は21世紀に蘇って現代日本を攻撃する。
 明治の近代化(西洋化)を肯定しつつも昭和の帝国主義(西洋化)を否定してみせた司馬遼太郎はその断絶を言葉にできなかったという。おおかたの日本人もそうだろう。俺も同じだ。ただ「戦後民主主義」という神話によってしか敗戦国が戦後世界秩序を受け入れることができなかったということだ。言葉を失うほかないではないか。だからこそガンダムは「戦後民主主義」という神話のうえで語り継がれたのである。腐敗し堕落した「現実」であってもしぶしぶ守ってきたのだ。
 しかし『∀』という20世紀の終わりに語られたガンダムは「戦後民主主義」という神話から完全に自由だ。そこに現代日本との繋がりはない。20世紀の終わりにガンダムはファンタジーになり、21世紀にバイストン・ウェルは「現実」に反攻する。

 『G-レコ』はどうだろうか。
 『G-レコ』に至ってガンダムはもう一度「現実」を取り戻す
 しかしその「現実」は、“うまくいっている”未来世界にとっての敵になる。「現実」から自由になった『∀』、「現実」に反攻した『リーンの翼』を越えて、ついに富野は「現実」の諸問題を(一応は)解決した世界を手に入れたのだ。
 “うまくいっている”未来世界もまたユートピアとは程遠い欺瞞に満ちた不完全な世界として描かれるが、それでも主人公たちは守るべき価値をもったものとして戦う。その構図は「かつてのガンダム」における「「腐敗し堕落した現実」(戦後日本)であっても守らなければならない」という点で似ている。違うのは「現実」を守る側から、「現実」の陰画である「脱・現実」を守る側に立っている点だ。
 富野はついに「現実」を、「現代日本」を、いや「現代文明」を根本から批判する言葉を手に入れたと言っていいだろう。
 そこに老人の諦観と、孫をもつ爺やとしてのあがきもある。「Gの閃光」がそれだ。
 レコンギスタとは「現実」を取り戻そうする戦いにほかならないだろう。しかしその「現実」は大量消費やイノベーションによる人間疎外という悪夢をも蘇らせてしまう。それを阻止しようとする勢力が一方にありながら、両者の不毛な戦いを阻止しようとするのがベルリだ。「現実」をも「脱・現実」をも越える正当性はあるのだろうか。諦観を越えた爺やの祈りは“孫”に届くのだろうか。

 富野が現代文明への諦観の果てに見出したのは、進歩を否定し停滞を肯定する世界だ。啓蒙を否定し無知を肯定する世界だ。開放を否定し自足を肯定する世界だ。
 こうなると「富野とニューエイジ」という主題もありそうだが、カウンターカルチャーの挫折のあとに流れ着いた反文明論ではないし、有閑階級の趣味にとどまる脱文明志向でもない。富野のそれはそんな甘ったるいものではない。
 『G-レコ』で描かれているのは、 「こうすればよくなる」「ああすれば救われる」といった“いい気な”文明論ではない。

 それは祈りだ。老人の諦観がそれを越えて“孫”に届ける祈りだ。
 ファンタジーを越えた、祈りの神話だ。 
 その神話はまだ語り尽くされていない。
 ある少女が「女王」になるまで。

 なぜ「女王」なのか。
 かろうじて「現実(戦後民主主義)」によって否定される「女王」を描き、「現実」から切り離されたファンタジーのなかで理想的な「聖なる女王」を描いてみせた富野が、なぜそれだけでは満足できないのか。
 なぜ『G-レコ』という画期になった作品にも関わらず、「女王」というモチーフだけは引きずっているのか。

 それは富野が“「文明」というものがもつ危うさ”を男性原理とみなしているからではないだろうか。
 “「文明」に疲れた”人類を癒やすのが女性原理だとみなしているからではないだろうか。

 『G-レコ』という富野の文明批評が根本的になった作品にこそ、「女王」が必要だったのではないだろうか。いままでの「女王」はそのための模索だったのではないだろうか。

 ベラ・ロナもマリアもディアナも、世界の一部勢力の「女王」だった。
 アイーダが「女王」になるということはそうした一部勢力のシンボルになるということなのだろうか。もう一度『∀』の「聖なる女王の話」を描くのだろうか。
 それとも世界そのものを象徴する「女王」を描くのだろうか。

 “「文明」に疲れた”世界に、“元気”を取り戻すのが女性の復元力だとしたら、「女王」とはその象徴でなければならないだろう。
 世界の生命であるアニマ・ムンディを宿したレギナ・ムンディこそ、富野が模索し描きたかった「女王」なのではないだろうか。
 
 富野が取り憑かれてきた「女王」は、アイーダによって顕現するのかもしれない。

俺にとり“ガンダムの続編”が意味したもの

 『機動戦士ガンダム』の続編が作られる、ときいたとき、俺が感じたのは、ある種の「挫折感」であった。
 一観客が挫折感もヘッタクレもないはずなんだがw、かりに言葉にしてみると「ああ、アニメは負けたんだなー」という感じであった。アニメというか、ガンダムが負けた、ガンダム的な何かが負けた、ということだ。

 『宇宙戦艦ヤマト』や劇場版『銀河鉄道999』は素晴らしい作品なのだが、その素晴らしさは見事に完結しているという点にもあった。テーマとドラマと映像が見事に融合した作品であった。
 それの続編をつくる、というのは、あきらかに作品内容への敬意をもたない商業主義の行き過ぎである、と思っていた。続編作品の出来不出来の問題ではない。
 企画の段階で無理がありすぎたのだ。地球は救われ、機械化の元凶は倒された。まともな続編がつくれるわけがなかった。『ウルトラマン』や『仮面ライダー』とは作品のタイプが違うのだ。
 しかし子供番組としてしか扱えない大人たちの商業主義が、『ヤマト』や『999』の続編を作らせてしまった。

 その「子供番組としてしか扱えない大人たちの商業主義」に対して、戦いを挑んできたのが、富野監督ではなかったか、というのが、俺の評価だったのだ。だからこそ、余計に悲しかった。

 続編などつくらなくても、オリジナル企画の新作がどんどんつくられていく、それがヤマトブームとガンダムブームの決定的な違いだったはずなのだ。
 ガンダムがもたらしたそれは、商業主義と作品性とがぎりぎり結べる健全な関係であったように俺には思えた。

 たとえば『ガンダム』『イデオン』から『超時空要塞マクロス』が生まれてくる過程は、俺は美しいものだったと、いまでも思う。
 『マクロス』の主人公が日本人とか、アフリカ系の美女を配するとか、そのあたりの富野ワールドへの批評性が好きだった。
 また『マクロス』に衝撃を受けた富野が、永野護を擁して『重戦機エルガイム』をつくる、という流れも、エキサイティングな出来事だった。『マクロス』の主役メカのデザインがそうとうショックだったんだと思う。

 アニメ界発のオリジナル作品の連発、若い才能による進化、それに対するベテランの応酬、俺がみたそうした心躍る光景こそが、ガンダムが勝ち取ったもの、アニメが勝ち取ったものだったはずなのだ。

 アニメをめぐるそうした光景を、富野が終わらせる、ガンダムが終わらせる、という話が、俺にとり“ガンダムの続編”が意味したものだった。
 これほどガッカリしたことはなかった。

 俺自身がアニメ自体を卒業しはじめていたことも、その無残さが、ひときわ印象に残ってしまったということかもしれない。個々の作品より、業界のパワーを好ましく思う、という視点で接していたからだろう。

 もちろん、後世のいまの俺が冷静に振り返れば、当時の「ロボットの玩具を売るからオリジナル作品やらせて」というゲリラ戦法こそ、まさに“時代の徒花”であったのだろうが……。

小説版『機動戦士ガンダム』

 『機動戦士ガンダム』には、三つのバリエーションがある。ひとつはもちろんTV版、もうひとつは映画版、そして三つめが小説版だ。この三つの『ガンダム』が、原作者・富野由悠季が生み出した“原典”ということになる。
 「アムロの物語」など存在しなかったTV版、「アムロの物語」を捏造した映画版。しかし小説版には最初からその意図をもって「アムロの物語」が描かれている。これが小説版を読む価値のひとつだ。
 映画版において捏造された「アムロの物語」は、“だいたい”小説版でも描かれている。しかし映画版で捏造された「アムロの成長物語」の部分は、小説版二巻途中までで描かれきっている。二巻途中から最後までは、だから「アムロのその後」が見られる、という楽しみがえられるわけだ。
 とはいえ、アニメ版と小説版ではかなり違うところがある。そしてその違いは、小説版の方こそが富野ワールド色が強い、という点で、富野語りには見逃せない作品になっているといえるだろう。

 作家はさまざまなヒーローを描き出すものだが、自身の内面に近いところで造形された場合、似たようなキャラクターになる。
 一時期の司馬遼太郎の小説のヒーローは、飄々とした野生児タイプであり、そんな男が戦国時代末期の忍者だったり鉄砲屋だったり幕末の志士だったりした。役柄は違うが主演俳優は一緒みたいなものだ。
 『ガンダム』の主人公アムロも、小説版では、この時期の他の富野世界のヒーローに似た性格をしている。小説版アムロは、『イデオン』のコスモ、旧小説版『リーンの翼』の迫水と、ほぼ同じ性格をしている。繊細なところもあるが、冷静で勇敢な下士官タイプといったところだ。これに将校タイプの、ブライト、ベス、アマルガンが組み合わさる。(アニメで富野ヒーローが描かれたのがコスモだけ、という点でも、『イデオン』がいかに富野色の強い作品かわかる)

ここからネタバレ

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ふたりのシャア

 ハルヒの憂鬱には二種類の版が存在している。憂鬱で完結したメタライトノベル版と、シリーズ第一作のラブコメSF版だ。
 同じことはガンダムにもいえる。初代で完結した版とシリーズ第一作版である。

 初代で完結した版において、シャアはガルマとセットのキャラクターであった。
 原作者富野による小説版ではシャアはガルマの謀殺をしない。それどころか青雲の志をもつ理想家の若者として描かれているのだ。Ζ以後のシャアはこちらの富野シャアである。
 しかし富野シャアであれば、あれほどの人気をえるキャラクターになったかどうか。シャアとガルマはどこか同性愛を匂わせる描写があり、かつガルマが大恋愛のすえ結婚しようかというその寸前の謀殺である。ザビ家への復讐というが、ガルマの謀殺以後、そのような態度は微塵もない。
 親友の謀殺という点で、初代で完結した版のシャアは、あきらかに悪人であり、その悪人がどう滅びるのかが、物語の焦点のひとつになっている。
 そのシャアが、最期の言葉はガルマへの語りかけであった、という点が初代で完結した版の素晴らしいところである。これでむざむざ生き残っていてはすべてが台無しなわけだ。

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