ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

『機動戦士Vガンダム』について 5/5 孤児と犬と大地

 『機動戦士Vガンダム』は前述したとおり、前半の失敗を後半で糊塗しようとしてさらに失敗を重ねてしまったというのが俺の評価だ。

 とはいえ駄作と言い切るには俺は『V』を愛し過ぎている。「富野宇宙世紀ガンダムの完結編」としてとても重要なフィルムであることは間違いない。

 たとえばニュータイプ論だ。以前にも書いたが、ニュータイプ論は『V』で完結したと思っている。

 初代『機動戦士ガンダム』はニュータイプという希望をもったラストを迎えて見事に完結した物語であった。“初代で完結した版”の『ガンダム』はニュータイプという人類の革新を夢見ることによって甘美な希望の物語たりえた。「大人になって何になる、いやしないのさ、そんなひと」と唄われるように、大人になったところで戦争のない世界をつくれないのないのなら、世俗的な意味での人格形成物語など無意味だからだ。
 しかし『機動戦士Ζガンダム』以降、ニュータイプから“未来への希望”が剥ぎ取られることになる。『Ζ』は決して優れた作品だとは思わないが、この作品のおかげで手に入れたものはあまりにも大きい。ガンダムビジネスが継続可能になったこと、ガンダムシリーズが年代記になったこと、なによりニュータイプ論の否定だ。カミーユの悲劇はニュータイプを未来への希望として描いた初代の否定である。

 ニュータイプ論の否定のうえに語られてきた富野ガンダムは、「疲弊期」を脱して復活した富野の「新章」とでもいうべき『機動戦士ガンダムF91』で唐突にその理念を蘇らせる。
 『F91』の主人公シーブックは、そのニュータイプのちからを使って、ヒロイン・セシリーを救うのだ。子供たちがヒーローを救って未来への希望を暗示させた初代と違うところで、ここにはニュータイプ論とともに生殖論も暗示されているとみていいだろう。
 初代の富野メモにおいて、かれがこだわった気配があるのが、ニュータイプ論と対になる生殖論だが、『F91』では対としてではなくひとつのものとして統合される。ニュータイプ論にひとつの決着がついたのだ。

 『V』はもっと先をいく。ニュータイプ論にはエリーティズムが残っていた。先鋭化すればシャアになる。
 『V』に至ってニュータイプ論と生殖論は“共存”することになる。それは対でもなく統合でもない。誰がニュータイプで誰がそうでないのか判然としない。大切なのは至極真っ当な人間であるかどうかだ。ここにニュータイプのエリーティズムは完全に姿を消すことになる。

 ニュータイプはサイキッカーと呼ばれ、身も蓋もない超能力者として扱われるが、「戦争のない世界を築く」という点で、かつての夢の欠片をもっている。
 それを主人公たちは否定する。
 女とこども、老人たちだけで戦ってきたのだ。いまさら母性原理による人類の去勢によって「戦争のない世界を築く」と言われても欺瞞にしか聴こえない。女とこども、老人たちには屹立する男性原理などないからだ。
 
 争いをふくめた「汚い世界」を人為で歪ませ「清浄な世界」を築こうとする意思そのものが否定されるわけだ。

 「汚い世界」……汚い自然のなかにあって、ひとは泥だらけのなかで生命の営みをつづけていく。素朴な生活の積み重ねこそがひとをして狂気から遠ざける。

 素朴な生活者として生きることを願う子供ヒーローには、ニュータイプ論は関係がない。本人がニュータイプだとしても関係がない。
 地に足の着いた大人の言葉だけが、かれのよって立つ大地だ。

 女たちに守られ、女たちを殺してきたウッソであっても、素朴な子供ヒーローであるがゆえに、大地はかれを迎え入れてくれる。
 大地はウッソがガンダムでそらに戻ることを許さない。シャクティの方こそそらから舞い降りてくる。

 大地からはじまり大地でおわる『V』は、ヒーローが子供であるがゆえに“往きて還りし物語”になりえた。通過儀礼の物語ではないのである。その点で『V』は「映画」的というより「テレビ」的といえるだろう。

 宇宙より地球、憧れより心安らぐ隣のひと、孤児と犬と大地、『V』はまごうことなき『ブレンパワード』のさきがけだ。

 カテジナはすべてを失って故郷に帰ってくる。シャクティは彼女を救うこともできたかもしれない。シャクティは彼女を選ばない。選べるはずもない。ただふたりの涙だけが別離の歌になる。
 『V』は、その終幕の哀切によって、愛さずにはいられない作品なのだ。
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『機動戦士Vガンダム』について 4/5 手紙

 『機動戦士Vガンダム』を否定的に語るのは心苦しい。俺が尊敬する富野語りの天才・鬼才が『V』世代だというのだ。
 「な、なんじゃとてー」という驚きは隠せないが、『V』をして富野ファンの増加に繋がった、富野ファンの世代継承になった、というのなら、富野のヤケクソ気味の奮闘も無駄ではなかったということだろう。これほど嬉しいことはない。

 「初代が好きな俺が『機動戦士Ζガンダム』を嫌う」という表明にはためらいはない。むしろ歴史の証言として書き残しておくことに意味がある。その後のガンダムファンの間でおきる世代交換劇の典型例だからだ。『Ζ』は決して優れた作品だとは思わないが──それを言ったら初代だってそうだ──独特の魅力があることは確かだ。ラディカルな企画を未熟な若いスタッフに任せたのが原因なのかもしれないが、混沌、迷走などが逆に魅力になっていた。安易とでもいうべき悲劇の連続は主人公カミーユの精神を蝕み、あの衝撃的なラストにつながる。

 『機動戦士Vガンダム』にも似たようなところがある。作品の出来は決してよくはないのだが、それゆえにある種の魅力を獲得したことは間違いだろう。

 それは“痛み”なのだと思う。
 『V』放映当時すでに大人だった俺には安易なセンセーショナリズムによる“どきつい”描写にしかみえなかった数々の場面は、当時こどもだった視聴者にとってリアルだったのかもしれない。

 『V』のリアルタイム世代とはロストジェネレーションであろう。バブルの余韻を味わえた団塊ジュニア以上に未来への展望をもたないのが特徴かもしれない。俺からみれば、そこにあるのはペシミズムだ。ネトウヨすらもっていた(安い)プライドもない。すがるものがない。徹底的なペシミズムをそこにみる。

 その彼らに確かに届いた手紙が『V』だったのかもしれない、と俺からはみえる。
 “痛み”だけが、ペシミズムの底に沈んだ少年少女たちにとって「やっと届いた他者からの手紙」だったのではないだろうか。

 そういう意味では、送り手と受け手に大きなズレがあるのが『V』だといえる。
 「作品論」と「受容論」に大きな落差があるのだ。

 富野由悠季自身ですら、そのあたりは理解できていないと思える。『V』を否定する富野は明らかに「作品論」として語っている。

 確か高橋良輔が指摘していたことだが、『V』が成功していれば『新世紀エヴァンゲリオン』の出番はなかったとまで言っていたはずだ。ちょっと言い過ぎな気もするが、“痛み”だけが届けられる何か、という点でも、両作品には似た匂いを感じる。「作品」として成立しなかったことは残念だ。
 とはいえ『V』が「作品」として成立したとしたら“痛み”のようなものは生まれなかったかもしれない。富野の迷走、悪意、手練手管の頽廃などが、あのフィルムを生んだだろうからだ。(“スッキリ”した小説版を読めばよくわかる)

 『V』世代が、これだけの優れた富野語りをしてくれるような人々になっているのだとしたら、「受容論」としては成功したといっていいだろう。

『機動戦士Vガンダム』について 3/5 加速する迷走

 『機動戦士Vガンダム』はまず序盤からおかしい。主人公ウッソ・エヴィンの凄さを表すためなのかもしれないが、かれは盗んだ敵機を何話にも渡って乗り回すのだ。もうその段階で間違っている。何のアニメだ。
 ウッソのトリッキーな戦いは手に汗握るもので大好きなのだが、それだけにロボの性能が不分明になってしまったきらいがある。乗り手の優秀さの方が目立ってしまうのだ。乗機がガンダムである必然性がないのである。これでは『装甲騎兵ボトムズ』の世界だ。

 子供向けの単純な勧善懲悪の“構図”になっていない点も問題だ。
 「設定」段階でどうであろうと、フィルムに現れるのは、子供を平気で巻き込む主人公勢力と、それに批判的な敵対勢力という“構図”である。
 この倒錯した“構図”は『V』の失敗の最たるもので、終盤にいたって敵の「悪」をえげつなく描かれざるをえなくなる。作劇の失敗を糊塗しようとして登場させられた最大の犠牲者はもちろん(ご都合主義的に担ぎ出された)カテジナ・ルースだ。

 カテジナはごく序盤には主人公勢力の内部の批判者だった。彼女の批判は作品にバランスをもたらすものだったはずなのだが「頭でっかちのお嬢さん」として否定されてしまう。主人公勢力の批判者でもあるがゆえに客観視させてくれるカイ・シデンの役割があっさり否定されてしまうのだ。

 カテジナは敵対勢力のひとり、とっさに子供たちをかばうクロノクル・アシャーの人柄に惹かれ、敵対勢力に身を投じることになる。そこで彼女が敵対勢力の強烈な「悪」を目撃する展開になって「主人公勢力の言い分も理解できた」というのなら、この作劇も無駄ではないのだが、そうではない。

 「設定」上はどうであれ、フィルムに現れたかぎりでは、カテジナはウッソのことを憎からず思っている風であり、シャクティの存在を意識している芝居もみせた。カテジナがクロノクルについていく決定打になったのはシャクティの存在である、そんな芝居である。
 その芝居が、「敵対勢力の絶対悪を目撃しての帰還」という作劇につながらないので、カテジナはウッソのもとに戻る理由を失うわけで、シャクティとの緊張感も失われることになる。
 こうしてカテジナは作劇の外に放り出されて、何のために登場したのかわからないキャラクターになってしまう。

 前半の作劇の不具合は、後半から、弥縫策のような手練手管で埋め合わされることになっていく。
 クロノクルはその人柄が急変して「悪」を平気でおこなう男になり、作劇の外で“宙ぶらりん”になっていたカテジナも性格が急変して敵役として「悪」の狂女になっていく。
 終盤に向けて敵対勢力の「悪」がえげつないぐらいにエスカレートし、視聴者にショックを与えるようになる。

 こうしたどぎつい展開に、富野色をどうみるか、意見の分かれるところだろう。

 『機動戦士ガンダムF91』前後で作風が変わったと考える俺は、ここに現れる富野色を否定的にみる。

 みえるのは作劇の失敗であり、それを糊塗しようとしてさらに失敗を重ねる醜態だ。ベテランの手練手管があるだけに余計に見苦しい。

『機動戦士Vガンダム』について 2/5 富野のドラゴンボール

 俺は『機動戦士Vガンダム』が好きだ。放映当時、夢中になって観ていたものだ。『Ζ』のように「うーむ」と複雑な思いで観ていたわけではない。純粋に面白かった。

 放映当時、いい歳である。面白がり方もちょっと大人のものだったことは否めない。

 スポンサーの無茶ぶりに富野がどう応えるのか、そこが見どころだった。そこに俺は『ドラゴンボール』を視ていた。
 「ああ、これは富野のドラゴンボール、ジャンプマンガだなー」という感想である。

 『ドラゴンボール』が鳥山明の“才能”で応えた異色作なら、『V』で感じていたのは富野由悠季は“ベテランの技量”で応えているということだ。
 毎週毎週、カタルシスを覚える話を、よくもまあ作れるな、と感心していたものだ。毎週ごとのカタルシスは「疲弊期」にはなかったことだ。

 『機動戦士ガンダムF91』から『V』までは企画が迷走しているというのが俺の印象だった。
 『F91』が“映画監督としての豪腕”で迷走をねじ伏せたように、『V』は“ベテランの技量”で迷走をねじ伏せようとしていると感じた。

 しかし『V』の場合ねじ伏せるところまではいかなかった、というのが俺の評価だ。それどころかむしろ迷走を自ら加速させたのではないかと思っている。

 カタルシスもある。インパクトもある。感動もある。しかしその底に流れるのは安易なセンセーショナリズムなのだ。これは回を追うごとに酷くなっていく。 
 こんな安直なことを、疲弊期を脱した“『F91』以後の富野”がやってしまうのであれば、俺はそこに“ベテランの技量”の頽廃をみる。

『機動戦士Vガンダム』について 1/5 富野が悪い

 富野由悠季ファンとしては口惜しいのだが、『機動戦士Vガンダム』は“総監督”が悪い、としか言いようがない。
 作画や音楽、脚本、美術など、これといった粗があるわけではない。いや素晴らしいとしかいいようがない。たとえば富野自ら指摘するように音楽が抜群にいい。
 “フィルムの新しい感触”などは、『機動戦士ガンダムF91』で手に入れたそれで、それは『∀ガンダム』に受け継がれていくものだ。

 部分部分は魅力的なのに、全体が「あんなもの」になってしまうのだったら、総監督がどうかしている、と思わざるをえないのである。

 もちろん裏の事情は仄聞している。スポンサーにかなりの無茶ぶりをされたというものだ。
 しかし話を逆にすれば、視聴率がとれ、玩具が売れれば、スポンサーとて「テコ入れ」をする必要性は感じなかったということだ。

 富野にも同情できる要素があるだろう。この時期はサンライズがバンダイに買収されるためゴタゴタしていたらしいのだ。バックアップ体制が“薄く”なったと後年述懐していたはずだ。
 スポンサーの横槍があったにせよ、それでも何とかしてしまうマジックが富野の才能であったはずである。
 それが『V』では「あんなもの」なってしまう。

 プアな環境で異色作をつくってきた富野由悠季が、あの素晴らしいスタッフに恵まれながら、『V』をつくってしまったことは哀しいものがある。
 富野の他作品、商業的には大ヒットしないが、作品的には面白い、といった類の「失敗」ではない。

 コマーシャリズムに富野が負けた、というより、コマーシャリズムの無茶ぶりに、それ以上の無茶ぶりで応えてしまったのだ。
 そこに富野の悪意を感じるのは俺だけだろうか。

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