ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

富野由悠季への愛を告白するBlogです。熱狂的なファン時代は過ぎ、今はちょっと遠くから眺めている感じでしょうか。 『伝説巨神イデオン』で“ゴーチンby小松左京”されたクチです。

富野監督作品 入門編

 富野由悠季はご本人が“客観視”する以上に偉大な映画作家だが、いざ富野監督作品の入門編を考えると難しいことに気づく。
 富野由悠季の代表作はもちろん『機動戦士ガンダム』だが、他に二三本を挙げるとしたら、『伝説巨神イデオン』『聖戦士ダンバイン』あたりになるのではないかと思う。

 しかしそれを実際観ようと思えば「長すぎて挫折する人」が続出することも容易に想像できる。
 TVシリーズが代表作、というのは、後世の人間にとって、気軽な入門編がない、という欠点がある。もちろん大物脚本家のTVシリーズなどもあり、あまり一般化できるものではないのだが。

 俺の場合、世代的なものもあって、富野監督作品の入門編を語るのが難しい。俺の世代は、別に「オタク志向」でも何でもないやつが富野監督作品を「なんとなく」観ることになっていたのだ。同世代の人間なら共感してくれるはずだ。かつて「富野アワー」とでも言うべき番組帯があったのである。入門編もへったくれもない。

 子供の頃から富野監督作品に触れ、面白がり、『機動戦士ガンダム』以降、その存在を意識しながら、土曜夕方の「富野アワー」が放送される、という“多作の時代”に付き合ってきたわけだ。
 富野監督がどうこうというよりも、新作のたびにコンセプトを変え、世界観を変えてくる「富野アワー」が楽しみだった。
 「富野アワー」を経験したことは、良かれ悪しかれ、俺の偏向性につながったことは確かだ。

 とにかく観た、とにかく観た、とにかく観たのだ。
 蓮實重彦は「自分がジョン・フォードを論じるのは若い頃にたくさん観たからで、それ以上の意味はない」という旨の発言をしていたが、どこまで信用していいのか、俺にはわからない。
 俺と富野監督作品との関係にも似たようなところがある。「若い頃にたくさん観たからで、それ以上の意味はない」のかもしれない。

 ただ、富野監督作品の変化が、俺の成長と重ね合わさったと錯覚できるところがあり、卒業しそこねたという言い訳もある。
 偶然だが、富野監督品は俺の成長とともに、子供向けからヤングアダルト向けへと進化していった。

 かつてライトノベルはヤングアダルト小説と呼ばれていた。
 角川春樹の指揮のもとスニーカー文庫が創刊、そこには大人向けでも子供向けでもない作品がラインナップされていた。
 アニメ作家、ゲーム作家、ジュブナイル作家が名を連ねていた。

 ライトノベルの源流は諸説あるが、SF、アニメ、ゲームといったところだろう。俺のライトノベル観では決定的役割を果たしたのはゲームである。ゲーム的発想が、それ以前の小説群との断絶を生んだのだと思う。

 しかしライトノベルのそもそもの発端は「ヤングアダルト市場」の発見にあったはずだ。

 その「ヤングアダルト市場」をつくり発展させたのが、(今からでは信じられないだろうが)「トミノの時代」の作品群である。

 90年代、「ヤングアダルト市場」は専門化をし、アニメ史的にいえば、「トミノの時代」から「アカホリの時代」へとバトンタッチがおこなわれた。
 もちろんそのなかには『新世紀エヴァンゲリオン』という「トミノの時代」の“残党”が出現し、その成功のあと作家主義的な作品がつくられることにもなるのだが、“産業をつくる”というレベルにまでは至らなかった。

 (宮崎作品が80年代半ばから人気を博することになるわけだが、俺のいう「誰々の時代」という産業に与えた影響はないので除外する)

 メディアミックス前提という「アカホリの時代」に、小説分野の“一本立ち”とでもいうべき『ブギーポップは笑わない』等が現れ、決定的に「ライトノベル」になっていく。スニーカー文庫の時代から電撃文庫の時代へと移る。

 アニメはふたたび、トミノ以前の時代にもどり、原作を外部に頼るようになっていく。

 90年代以降、富野由悠季は苦戦することになる。
 すでに「トミノの時代」は去り、作品内容の是非は別としても、時代から取り残されることになる。

 『ブレンパワード』など、俺は大好きな作品だが、(マイケル・ジャクソンも魅了したという)「いのまたむつみ」という稀有な画家の“華”を理解できないあたりに、かれの「時代とのズレ」が如実に現れているといえるだろう。(現行のキャラデザに不満があるわけではない)

 富野監督作品はこうして、「従来の富野ファン」と「少数の感度のいいファン」、「アニメに偏見のないインテリ」のものになっていく。
 「ガンダムの一発屋のくせになんでコイツでかい面してんだろう」「エキセントリックなおじさん」といったネットのアンチ寄りの富野観が現れてくるわけだ。

 もちろん富野由悠季が大衆のことを忘れることはなかった。かれは「愚民」という言葉を使うこともあるが、平井和正の人類ダメ小説と同じようなもので、人類全体が愚民なわけで、選民思想があるわけではない。あるわけではないのだが、実際に富野監督作品をいくつか観なければ伝わらないものだから、反撥を招くこともある。

 『∀ガンダム』『OVERMANキングゲイナー』などは、「観るだけで楽しい作品」だが、ヤングアダルト市場の“浸透と拡散”以後のアニメとしては、「時代とのズレ」があったことは否めないだろう。「世界名作劇場」を家族でみるような層と、かぎかっこ付きの「アニメ」をみる層との分離、「引きこもりの理由が的外れ」など、「時代とのズレ」、時代遅れ感は否めかった。

 時代遅れといえば、いま現在、「巨大ロボットアニメ」というジャンルが、キッズ層にどれだけ歓迎されているか、という問題がある。

 「巨大ロボットアニメ」は、『スーパーロボット大戦』等のゲームから入ってきてくれる(比較的に)広い層を除けば、狭い層の「オタク」のものになってしまったといえるのではないだろうか。

 「トミノの時代」が去り、「アカホリの時代」が去り、またヤングアダルト市場の“浸透と拡散”のあとに残されたのは、「巨大ロボットアニメ」は「オタク」のものである、という現実であった。

 その現実に立ち向かうのが富野監督である。

 『ガンダム Gのレコンギスタ』では「子供向け」を目指したという。

 これは『機動戦士ガンダム』以上に困難なミッションである。
 『機動戦士ガンダム』の時代には、子供向け巨大ロボットアニメという市場があった。
 いまでいえば、ゲーム原作アニメのような位置づけの市場である。
 子供向け巨大ロボットアニメという市場のなかでグラデーションのように色合いをかえ進化してきたのが富野監督作品であった。

 劇場版『ガンダム Gのレコンギスタ』は、従来からのファンのファンアイテム以上のものになることを祈るしかない。

 あのごちゃごちゃした漫画『ワンピース』を楽しんでいるキッズ層にとって、『ガンダム Gのレコンギスタ』が“難解”ということはないだろう。おもちゃ箱をひっくり返したような燦燦たる魅力に映るかもしれない。
 しかし「巨大ロボットアニメ」で“届く”かどうか。

 かつて『機動戦士ガンダム』に有利に働いた「巨大ロボットアニメ」は、ヤングアダルト市場の“浸透と拡散”以降、不利に働いている。
 『ガンダム Gのレコンギスタ』においても同様だ。“届く”のだろうか。届いてほしい。

 劇場版『機動戦士ガンダム』第一部は、俺のような素人中学生を動員した広報戦略もあったし、夕方再放送で「毎日」観れたし、ガンプラ・ブームの後押しもあった。

 劇場版『ガンダム Gのレコンギスタ』はどうなるのだろうか。キッズ層向けの時間帯で再放送(できれば「毎日」)はぜひして欲しいし、当時のガンプラに相当するとしたら、現在ではゲームになるのだろうか。スマホ展開はどちらにしても必須だろう。

 富野監督作品の入門に最適なのは何か、と問われれば、いまの時代、絶句するしかないのが現状だ。

 アニメへの忌避感がないこと、巨大ロボットに抵抗がないこと、このふたつをクリアできている人であれば、入門編たる作品が数多くあるのだが………。
 なかでも『∀ガンダム』『OVERMANキングゲイナー』はその双璧と言っていいと思っている。

 とはいえTVシリーズは長すぎる。また映画もいくつか撮っているが、三部作や二部作である。入門編には不向きだろう。

 そうなると、手軽に楽しめるのは、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』『機動戦士ガンダムF91』の両作品ということになる。
 しかし両作品ともガンダムシリーズについての基礎知識がないと分かりづらいという問題がある。

 だから絶句するしかない。

 “わかる”ことがそんなに大事か、という問いもありえて、古典映画や外国映画など、現代日本の文脈から外れた作品は、じゅうぜんに理解できるとは言えないだろう。

 そういう意味では、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』『機動戦士ガンダムF91』が、いまのところ入門編ということにしてしまってもいいかもしれない。なかでも、わからない状況に観客とともに主人公たちが巻き込まれる、という構造をもつ『機動戦士ガンダムF91』が、俺としては入門編としてぎりぎりふさわしいのではないかと思う。

 富野監督作品の入門編にはもうひとつの考え方がある。

 富野監督作品の魅力のひとつは、キャラクターとその関係性にある。
 作中人物の誰でもいい、好きになってもらえれば、それがその人の富野監督作品の入門編になる。

 劇場版『ガンダム Gのレコンギスタ』第一部がどうなるのかわからないが、ベルリ君たちを好きになってくれる子供たちが多くいることを願う。

 五部作をつくるぐらいなら、一本の新作映画を撮って欲しい、俺が絶句しないためにも、と思うが、これは仕方がないのかな。
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『母性のディストピア』を読んだ

 予感としては「母性が云々」というのは江藤淳文脈かなと思った。(だから「風にひとりで」などを書いてしまったのだが)
 予感はだいたい当たったのだが、想像していた以上に「大きな話」になっていて、驚いた。

 宮﨑駿論は「なるほど、そういう見かたもあるのか」と分かりやすかった。
 富野由悠季論は「えっとどういうこと?」と分かりづらい。
 押井守論すら「なんとなく」分かったのだが、肝心の富野論が分からん、という事態に陥ってしまった。
 構成的にいえば宮﨑駿→富野由悠季→押井守と連なって論が展開されているはずで、アタマの宮﨑論とオシリの押井論が分かって、真ん中の富野論が分からないというのはちょっとありえないのだが、俺の頭ではいまひとつ焦点を合わすことができなかった。

 おそらく「母性のディストピア」という問題意識の外にはみ出すかたちで、富野由悠季が語られているからだろう。冗長で散漫なのだ。
 なぜかといえば、富野を語るのに「母性のディストピア」という問題意識は、いささか小さすぎるからだ。
 「母性のディストピア」という文脈で語れるものがあるとすれば、いくつかの作品に絞り込めたはずであり、そうすればもっと分かりやすくなったはずだ。

 それだけ多くの富野監督作品が語られているともいえる。
 『海のトリトン』からはじまり代表的な作品がほぼ全部網羅されているのだから、その情熱に圧倒され、賛嘆せざるをえない。
 富野ファンだったら楽しめるのか、という点では微妙なところだ。宇野常寛が自身の文脈に引き寄せすぎているからだ。それを覚悟して読む必要がある。評論家は批評家を兼ねることはできるが、批評家は評論家を兼ねることはできないということだろう。

 印象に残ったのは、富野監督作品のなかに、予見性を視ている点だ。
 そこに宇野のテーマがあるからだろうか、「ニュータイプ」を語るとき「イデ」を語るとき「黒歴史」を語るとき、筆致は生き生きとし華やかな魅力を放つ。

 『海のトリトン』、『無敵超人ザンボット3』に対する言及は、それほど特色のあるものではない。児童向け作品のお約束に現実が殴り込んでくるというものであり、このあたりは富野ファンであれば周知のとおりだ。

 『無敵鋼人ダイターン3』の読解は面白い。少年がロボットに乗って自己実現を果たすジャンルにおいて、なぜ大人の男である破嵐万丈はロボットに乗って戦うのか。父との関係、成熟の問題、すべてがロボットアニメのフォーマットのアンチテーゼだというのだ。

 『機動戦士ガンダム』のラストにおいてアムロが帰還するのが“擬似家族”であることを強調して見出していているのが興味深かった。そこに「ニュータイプの可能性」を見出すのが今作のミソだ。宇野の富野論はその「ニュータイプの可能性」を縦軸として語られていく。そこに「母性のディストピア」を超克する鍵があるからだ。

 『伝説巨神イデオン』と『聖戦士ダンバイン』に「ニュータイプになれないオールドタイプの悲劇」を視るというのは新鮮だった。ガンダムシリーズ以外の作品にも、ニュータイプ/オールドタイプを視るというのは今作の白眉だろう。
 
 『機動戦士Ζガンダム』にオウム真理教のポアの思想に近いものがあるという指摘は、俺が同作に感じていた違和感をうまく言語化してくれていた。『ダンバイン』を経由した『Ζ』のニュータイプはエゴが直接ぶつかり合うディストピアとして描かれるというのは説得的だ。

 『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』に富野のニヒリズムを視るというのも面白かった。シャア寄りの視点であり俺に近い。ただ俺は富野の「ニヒリズムとデカダンスに陥らない」という言葉も信じたい。

 「母のつくったガンダム」「母に導かれてのヒロイン救済」を描く『機動戦士ガンダムF91』がそれほど強く批判されていないのは意外だった。富野はこのとき「母性のディストピア」との融和を図ろうとしたのではないか、という指摘に留まる。『F91』に画期を見出すというのは俺と同じで、その点では嬉しかった。

 「母性のディストピア」という言葉から真っ先に想起されるのは『機動戦士Vガンダム』だが、意外にもそこにはあまり紙数を使っていない。ただしっかりとカテジナ・ルースの名が刻まれている。案の定そこに可能性を見出していて微笑ましかった。

 『ブレンパワード』の評価は辛辣だ。その「思想」はオウム真理教となんら変わりがないと断言される。俺はそうは思わないが、同作にある種の独善性を感じたことも確かである。「母性のディストピア」の文脈でいえばそれに抗う意思、そして絶望が描かれなかった。和解を許さない絶望──シャアや鉄仮面が不在なのだ。葛藤はすべて家族/男女の話として和解されてしまう。

 『∀ガンダム』は絶賛に近い。「母性のディストピア」から“自由”を勝ち得たことを評価している。「黒歴史」に物語からデータベースへの時代の移行をみ、ロランに中間的な存在をみ、ディアナ/キエルには母になることも拒否することもない自律した物語をみる。『∀ガンダム』好きの俺ですらここまで絶賛できない。『∀ガンダム』に『伝説巨神イデオン』との関連を見出す点、「敵の設定」が弱かったという指摘は、俺と感じたこととほぼ同じだ。

 『OVERMANキングゲイナー』で「大人の男」を描きそこねた、描き出し得なかった、という指摘はハッとさせられるものがあった。また「引きこもり」の理由が的外れだ、という指摘も納得だ。宇野はカミーユ・ビダンというキャラクターを時代に先駆けて創造した富野が、この時点では時代に乗り遅れてしまったという。悔しいが、説得的だ。

 『機動戦士Ζガンダム A New Translation』に「極めて良心的な原作者」を見出すのは意外だった。俺は極めて“迷惑な”原作者という感想しか抱けなかった。2クールのアニメをきっちり二時間半の一本の(良質な)映画に仕立て上げた『STAR DRIVER 輝きのタクト』の五十嵐卓哉監督+脚本榎戸洋司コンビに編集して欲しかったとすら思ったぐらいだ。

 『リーンの翼』はアナクロニズムとして捉えられてしまう。バイストン・ウェル・シリーズは日本を描く虚構なのだが、宇野はその点でなぜか冷たい。「母性のディストピア」という問題意識から遠い物語群だからかもしれないし、宇野が「世界市民」の側に立っているからかもしれない。

 『ガンダム Gのレコンギスタ』は物語をつくりえていないという指摘は、宇野とは別の文脈だが、俺も感じたところだ。作品の難解さは現在の情報社会への反時代的メッセージと受け止めているが、ここは過剰な読み込みに思えた。富野はもともと「物語」の人ではない、というのが俺の考えだ。「コンセプト」の人である。その富野が全話脚本をしてしまったのが難解さにつながったと思っている。難解さは「意図」ではなく「失敗」だったのではないだろうか。

 宇野は富野が「ニュータイプ」を諦めるべきではなかったという。
 もう一度、アムロがそうであったような(希望としての)「ニュータイプ」を語ることが富野の仕事だというのだ。

 その点においては、俺もまったく同感である。

 もちろん富野“喜幸”が人類文明の未来に希望を抱ければの話だが。

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『無敵鋼人ダイターン3』について

 『無敵鋼人ダイターン3』の一挙放送がアニマックスではじまったようだ。
 ようだ、というのは、俺はアニマックスをみていないからである。

 当Blogのコメント欄によく書き込んでくださって、いろいろと啓発してくださるJINさんが、「出来ればこちらの作品評も」と仰ってくださったので、記事を書いてみようと思った。

 思ったのだが、よく覚えてないのである。俺の記憶力のなさ、あるいは記憶違いのしょうもなさは、当Blogの読者なら知っていると思う。いやおめえのことなんざ興味ないヨという方もいらっしゃると思うが、俺はまあそういう奴である。

 しかしせっかくのJINさんのご指名である。かるく触れてみようかと思う。

 富野監督という存在を意識するようになったのは『機動戦士ガンダム』からである。貧乏だった子供時代、友達のつてで映画をよく観ていたのだが、監督を意識するようなタイプの観客ではなかった。古ぼけた映画館の方だって映画青年向けの「作家主義」的ラインナップではなく、スティーブ・マックィーン三本立てとか映画スター目当てのラインナップだった。
 しかし『ガンダム』はアニメである。映画スターもへったくれもない。監督を意識するしかなかった。それ以来、実写映画の方もぼちぼちと監督を意識するようになっていく。

 俺にとり『ダイターン3』は、監督が誰かをまったく意識しなかった最後の作品ということになる。富野ファンとしてではなく、一ちびっことして観た最後だ。

 『ダイターン3』は正しく子供番組だ。
 小学校を卒業する前には自然と観なくなっていくタイプの子供番組だ。
 ゴールデンタイムで放映されていたような、基本子供向けだが、家族でも楽しめるタイプの番組ではない。(特撮ヒーローものはゴールデンタイムで放映されていた番組だが、子供時代とともに卒業していくという点では、同様の位置にあった。たしか『仮面ライダー』の次の時間帯に世界名作劇場が放映されていたのだが、ライダーがおわり名作劇場がはじまると、親がほっと息をぬき、一緒にテレビを観てくれる空気があった。それが名作劇場だからという理由ではない。出崎統が夢のような凄い作品群を生み出し「お茶の間」で──ああ、これはいまは伝わらないかな──楽しんでいたのだ)

 昭和のおっさんがどう伝えていいか苦慮するところだが、昭和ではテレビ漫画はもっと普遍的だった。いまのようにたとえ『ワンピース』であろうとアニメがテレビに映った瞬間チャンネルをかえられるような時代ではなかった。そのなかであってすらロボットアニメは特撮ヒーローものと同様、中学生以上がみるような番組ではなかったということだ。オタクが文字通り“少数精鋭”だった時代だ。庵野秀明の世代だ。

 『機動戦士ガンダム』ブーム以前以後でまったく違うのである。良かれ悪しかれ、いまのアニメは、広い意味で、ガンダムの末裔である。

 当時の俺にとり『ダイターン3』は、数あるロボットアニメのひとつであり、『無敵超人ザンボット3』の後番組でしかなかった。

 でしかなかった、という表現はしかしちょっと違うかもしれない。『ザンボット3』は強烈な印象を残した作品であり、その後番組には大きなワクワク感をもっていたようにも思う。

 そのワクワク感はいい意味で裏切られた。泥臭い苛烈な作風の前作とまったく違い、洗練された軽妙洒脱な作風の作品だったからだ。

 暗い作品と明るい作品が交互につくられるというリズムがあるのではないか、という後年俺が思うようになるのは、このインパクトがあったからだろう。
 「黒富野」「白富野」という分類に俺がノレないのもそこにある。『伝説巨神イデオン』の次は『戦闘メカザブングル』なのだ。『機動戦士Ζガンダム』の次は『機動戦士ガンダムΖΖ』なのだ。

 作風の変化があったとしたら『機動戦士ガンダムF91』からだ。『F91』から富野は“異端”ではなく“正統”を目指すことになる。
 “正統”志向は『∀ガンダム』でいったん頂点を迎え、『リーンの翼』で作家主義が復活、『ガンダム Gのレコンギスタ』に繋がっていく。

 『ザンボット3』は強烈な印象を残した作品だったが、キャラクターの魅力という点ではいまひとつだった、というのが俺の記憶だ。
 トリトンやひびき洸といった絶大な人気を博すキャラクターを生み出してきた富野にしては珍しく「キャラが弱かった」と思っている。

 『ダイターン3』で富野はキャラクターを取り戻す。
 破嵐万丈である。
 『ダイターン3』という作品の魅力は、ほぼ彼にあったといっていい。小学生の俺は彼の登場にびっくりし喝采をあげた。

 破嵐万丈はハンサムで金持ちでキザでおちゃめな男だ。有能な執事に仕えられ悠々自適の生活をしている。富野ワールドで、これほど完璧に近い男はいない。スピンオフ小説の主人公になるわけである。
 彼は女にモテるし、本人も女好きなのだが、子供番組の制約もあってか、色っぽい話にはならない。しかしどこかでなっていてもおかしくないと思わせるのが万丈で、俺はそこにルパン三世(アニメ版)よりもジェームズ・ボンドに近いものを感じていたように思う。

 ヒロインがふたりいて、紅一点という構図になっていないのも新鮮で、作品に華を添えるだめだけではなく、自立した大人のいい女として描かれていたはずだ。そこにも惹かれていたような気がする。俺が覚えているかぎり、とんでもない異色作だった。

 そんな異色作のなかに、視聴者と同年齢のトッポを放り込むことによって、子供でも気楽に楽しめる構造になっていた。(エンディングのトッポの歌がまた可愛らしく好きだった)

 長浜忠夫はたいへん尊敬している監督だが、彼のロボットアニメの内容はほぼ完全に忘れてしまっているのに対し、『ダイターン3』の記憶が若干でも残っているのは、それだけこの作品が時代性を超えた魅力を帯びているからではないだろうか。

 「時代性を超えた魅力」というのは富野作品の特徴で、彼は「ベストセラーよりロングセラー」型の作家であるという指摘は、たしか富野語りの先輩のどなたかがしていたはずだ。今回こうして純粋子供番組として記憶を掘り返してみて、俺もその意味がようやくわかってきた気がする。

 破嵐万丈はソフィスティケートされた伊達男というだけではない。
 彼には重い因縁があり、そのことが彼を縛り、作品に奥行を与えている。

 その奥行のなかで、万丈は謎めいていて、彼が視聴者にすべてを晒していないことがわかる。
 ここに『ダイターン3』の魔術があり、忘れがたい作品にしている。

 万丈の怪力、コロスの死に対する台詞、屋敷に灯る明かり。すべてが謎めいている。

 『ザンボット3』は幕を閉じた。『ダイターン3』は幕を閉じない。役者だけが舞台から去り、観客は誰もいない舞台をただ眺めるだけだ。こんな作品がほかにあるだろうか。

ナイフを持った少年

 少年にはふたつの選択肢がある。「ナイフ」を持つかどうかだ。

 俺は「ナイフ」を持たない方を選んだ。自分の性格から、殺人に繋がる可能性を鑑みての判断だ。
 俺は「いい感じ」の鉄パイプと出逢ったことがある。振ってみると「いい感じ」なのだ。しかし俺はそれを拒否した。誘惑に打ち勝った。
 喧嘩の最中、ナイフを取り出した奴がいるのだが、全力で逃げたことを思い出す。喧嘩に勝って変な因縁をつくるよりかは、俺のような気弱な人間は、負けたり逃げたりした方がマシなのだ。
 渋谷をしめる不良と勘違いされ、駅口という駅口を封鎖され、タクシーで帰宅したこともある。それからしばらくは渋谷から遠ざかった。引きこもった。それくらい気弱なのだ。
 だがそれでも俺は「ナイフ」を持たないことを選んだ。

 旧小説『リーンの翼』を読んだとき、違和感があったのは、リーンの翼が靴から生えていることだ。これは当然ギリシャ神話のヘルメスの靴からヒントを得たものだろう。
 しかし途中まで読んでいたかぎりでは靴から生えているという印象はなかった。リーンの翼が迫水本人ではなく靴に宿るという展開に驚いた。なぜいまさら本人ではなく靴なのか不思議だった。
 もはや英雄といっていい迫水が、リーンの翼の靴を失って激しく動揺するエピソードが非常に印象に残った。「え。そんなにショックなの?」という違和感だ。
 迫水は剣術も空手もやるという男だ。そのうえですら、リーンの翼の靴が必要なのか、そこに驚いたわけだ。
 富野由悠季という人間は、実際はともかく、姿勢としては「ナイフを持った少年」だったのではないか、とそのとき思った。
 ロボットアニメであれば、もちろん「ナイフ」とはロボットのことだ。
 ヒーロー然としない少年アムロはガンダムに乗って初めてヒーローになる。だからアムロがガンダムに固執したのはわかる。しかしヒーロー然とした迫水ですらリーンの翼の靴に固執するのだから、富野ワールドではどうしても「ナイフ」が必要らしいと想像する。
 富野の裡には「ナイフを持った少年」が息づいている。
 富野が主としてロボットアニメの監督をして成功しているのはそのためかもしれない。

富野作品と音楽

 俺は音楽についてはまったくわからない。テレビはあったがラジカセのない家に生まれた。レコードは高級品だった。レコードプレイヤーを買うという発想自体なかった。十代の頃、貸しレコード屋が出来、バイトで買ったコンポでいろいろな曲を聴いたが、結局のところ俺の血肉になることはなかった。昭和の大昔の話である。
 だから俺には井荻麟を語る資格がない。語る言葉がないのだ。kaito2198さんの偉業に対して賞賛の意味をこめて一言でもコメントの反応ひとつもできればいいのだが、それすらできない。ただただスゲーなと感心して読み耽させてもらうだけだ。

 そんな音痴な俺でもかろうじてわかるのは、富野由悠季は音楽を使うのが抜群にうまいということだ。俺のお気に入りの『F91』は井荻麟作詞ではないものの、ダレ場でうまく使われている。エンディングでも素晴らしいタイミングで流れはじめる。「ETERNAL WIND」という曲がうまく作品に合っていたのだろう。(同じ曲が二度使われるのは迷走した企画を“監督の腕力でねじ伏せた”『F91』らしくて俺などは微笑ましく好意的に受け取ってしまう)
 まして井荻麟作詞でうまく使われたときは鳥肌が立つほどの名場面になる。
 『めぐりあい宇宙』のラストなどはその典型だろう。監督富野と作詞家井荻が融合した名場面だ。『V』や『∀』のラストも忘れがたい。

 『ガンダム Gのレコンギスタ』劇場版ははたしてどうなるのか、そこが興味深いし楽しみである。
 テレビ版ではラストに「Gの閃光」が使われたが、第一部になるという映画では使われないのではないだろうか。ぜひ新曲で臨んでほしいところだ。「作品に合った曲」にめぐりあえることを願う。

 俺個人は「Gの閃光」がどうもピンとこないところがある。メッセージが直接的すぎるような気がする。テーマソングにしたってあからさますぎるんじゃないかと思う。絶望を一巡りした後の希望という点も(一番で)表現しきれていないと感じる。音楽がわからない俺には気づかない何かがあるのだろうか。
 音楽というより『G-レコ』のラストにピンとこなかったということなのかもしれない。半ば社会人だった主人公がバックパッカーというモラトリアムに退行するのが不可解であった。宇宙でいろいろ体験したことは何だったのか。文字通り「世界を見て回った」道中記だったはずだ。それがなぜバックパッカーなのか。

 富野作品のエンディングは叙情的にしめてほしい、というのが俺の勝手な思い入れだ。そこが俺が富野に見出した魅力のひとつだからだ。
 激しい情念のぶつかり合いの劇が終幕するとき流れるのは、叙情的な曲であってほしい。

 いや『哀・戦士』のラストの素晴らしさを思えば、必ずしもそうとは限らないか……やはり俺が『G-レコ』のラストにピンとこなかったというだけなのだろう。鳥肌がたつような感動は覚えなかった。

 『G-レコ』、劇場化するにあたって諸事情出てくるのは想像つくのだが、ぜひ富野が腕をふるえる挿入歌が出てきてほしい。できれば作詞家井荻麟と演出富野由悠季が融合した名場面を期待する。

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プロフィール

shiwasu5

Author:shiwasu5
どんな奴か?
自己紹介。最終学歴は専門学校卒。(東京デザイナー学院アニメーション科)
小学時代→遊び時間と授業時間の区別がつかず。
中学時代→校内暴力をのびのびとエンジョイ。
高校時代→管理教育で次々と仲間が退学していくなかなんとか卒業。
浪人時代→二年間、進学/就職浪人をする。
本屋でバイト→本屋潰れる、古本屋でバイト→古本屋潰れる。クラブ通いで某事件を起こし警察に捕まったのもこの頃。
専門学校時代→馬鹿みたいに楽しかったが、周囲の才能に圧倒される。同期に吉田健一や長濵博史がいて、三人でつるんで歩いたこともある。やつらと較べた俺が間違いだった。
虫プロ入社。最低限の固定給が約束されているいい会社でした。『うしろの正面だあれ』の生活描写についていけず退社。絵が下手なのを実感。
バイト時代→バイトしながら漫画家を目指す。気に入ったコンテが描けず挫折。
デザイン系の会社のバイトから正社員へ。
現在は鬱(双極性障害)のため地獄を彷徨う。彼女と別れる。誰か背中抱いていてくれ。

好みの傾向
・アニメ五選(TVシリーズは除く)
『白い牙』
『機動戦士ガンダムF91』
『AIR』
『もののけ姫』
『アリオン』
・漫画五選
『メトロポリス』
『がんばれ元気』
『デビルマン』
『GANTZ』
『天然コケッコー』
・小説五選
『砂の惑星』
『狼の紋章』
『逃れの街』
『ながい坂』
『剣』
・映画五選
『ブレイブハート』
『ダークシティ』
『夜の大捜査線』
『用心棒』
『イージー・ライダー』
・音楽はわかりません。
世代的にいえば
サザン、YMO、尾崎、マイケル・ジャクソン、U2あたりが直撃です。
クリス・レアとかビリー・ジョエルとかも好きでした。(英語歌詞わからんけど)
・政治傾向
公武合体、天皇機関説、大きな政府、死刑廃止論者。
・女性の好み
シャアにとってのララァみたいな。
・男性の好み
元気くんのお父さん。
・富野由悠季の好きなところ
一生懸命なところ。

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