ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

富野作品と音楽

 俺は音楽についてはまったくわからない。テレビはあったがラジカセのない家に生まれた。レコードは高級品だった。レコードプレイヤーを買うという発想自体なかった。十代の頃、貸しレコード屋が出来、バイトで買ったコンポでいろいろな曲を聴いたが、結局のところ俺の血肉になることはなかった。昭和の大昔の話である。
 だから俺には井荻麟を語る資格がない。語る言葉がないのだ。kaito2198さんの偉業に対して賞賛の意味をこめて一言でもコメントの反応ひとつもできればいいのだが、それすらできない。ただただスゲーなと感心して読み耽させてもらうだけだ。

 そんな音痴な俺でもかろうじてわかるのは、富野由悠季は音楽を使うのが抜群にうまいということだ。俺のお気に入りの『F91』は井荻麟作詞ではないものの、ダレ場でうまく使われている。エンディングでも素晴らしいタイミングで流れはじめる。「ETERNAL WIND」という曲がうまく作品に合っていたのだろう。(同じ曲が二度使われるのは迷走した企画を“監督の腕力でねじ伏せた”『F91』らしくて俺などは微笑ましく好意的に受け取ってしまう)
 まして井荻麟作詞でうまく使われたときは鳥肌が立つほどの名場面になる。
 『めぐりあい宇宙』のラストなどはその典型だろう。監督富野と作詞家井荻が融合した名場面だ。『V』や『∀』のラストも忘れがたい。

 『ガンダム Gのレコンギスタ』劇場版ははたしてどうなるのか、そこが興味深いし楽しみである。
 テレビ版ではラストに「Gの閃光」が使われたが、第一部になるという映画では使われないのではないだろうか。ぜひ新曲で臨んでほしいところだ。「作品に合った曲」にめぐりあえることを願う。

 俺個人は「Gの閃光」がどうもピンとこないところがある。メッセージが直接的すぎるような気がする。テーマソングにしたってあからさますぎるんじゃないかと思う。絶望を一巡りした後の希望という点も(一番で)表現しきれていないと感じる。音楽がわからない俺には気づかない何かがあるのだろうか。
 音楽というより『G-レコ』のラストにピンとこなかったということなのかもしれない。半ば社会人だった主人公がバックパッカーというモラトリアムに退行するのが不可解であった。宇宙でいろいろ体験したことは何だったのか。文字通り「世界を見て回った」道中記だったはずだ。それがなぜバックパッカーなのか。

 富野作品のエンディングは叙情的にしめてほしい、というのが俺の勝手な思い入れだ。そこが俺が富野に見出した魅力のひとつだからだ。
 激しい情念のぶつかり合いの劇が終幕するとき流れるのは、叙情的な曲であってほしい。

 いや『哀・戦士』のラストの素晴らしさを思えば、必ずしもそうとは限らないか……やはり俺が『G-レコ』のラストにピンとこなかったというだけなのだろう。鳥肌がたつような感動は覚えなかった。

 『G-レコ』、劇場化するにあたって諸事情出てくるのは想像つくのだが、ぜひ富野が腕をふるえる挿入歌が出てきてほしい。できれば作詞家井荻麟と演出富野由悠季が融合した名場面を期待する。
スポンサーサイト

『伝説巨神イデオン』について 3/3 ガンダムのビョーキとコロニーの空

 ロボットアニメとしての『イデオン』は正しくスーパーロボット系列の作品だ。兵器ではなく遺跡だ。見立てとしては「戦艦」である。
 なかに何人もの人間が乗り込んでいるという設定が素晴らしかった。小説では書かれた「部下をもったアムロ」を『ガンダム』では描けなかったのだが、『イデオン』では主人公は戦闘部隊の隊長だ。

 ガンダムが嫌いだという人はたくさんいる。戦争をエンタメとして扱っているのだから嫌う人が大勢いるのが正常だろう。
 しかしもうひとつある。ガンダムのフォーマットだ。ロボに独りで乗り込んで戦う。たまに敵と議論してもさ。もうね、この絵面がさ、ビョーキなんだよね。ビョーキを誘う。だからニュータイプが対としてあるんだろうけど。
 「ガンダムのビョーキ」を正しく継承しているのが『エヴァ』だね。ATフィールド。凄いよなー、このアイディア。まさにそこに「ガンダムのビョーキ」がある。

 スペースコロニーに「空」を描いちゃうのが富野なんだ。富野がSFの人ではないという証でもあるし、「ガンダムのビョーキ」に付き合う男でもない、ということがわかる。
 『マクロス』は、人型に変形する戦艦と人型に変形する戦闘機を発明して、メカ的にはガンダムとイデオンを一気に過去のものにしてしまったけど、「空」の方を継承しているんだよね。だから富野的には『マクロス』は若さゆえの稚拙さがあっても許せるし愛せるが『エヴァ』はねーだろという心境なんだろうw。キモチはわかるが、俺的には『エヴァ』も大事な作品だ。

 『イデオン』や『ザブングル』は、「ガンダムのビョーキ」から自由だ。それだけでも俺は観ていて安心する。楽しいなと思う。
 だから『ダンバイン』のチャム・ファウって、富野の“悲鳴”のようにみえるんだな。

『伝説巨神イデオン』について 2/3 ものがたりのたたり

 ご都合主義をなんかこう……カッコよく言うと、デウス・エクス・マキナというらしい。機械仕掛けの神像のことで、神々が信じられていた時代のギリシア演劇で使われたものだ。物語の内部の論理で収拾がつかなくなった劇を、外部からの強制的な介入によって収拾することで、近代以降は禁じ手とされる。
 『イデオン』が恐るべき作品なのは、近代のただなかにあって、のこのことこのデウス・エクス・マキナを登場させてしまったことだ。
 とはいえ、作中に登場するご都合主義の化身「イデ」は、事態を収拾するためではなく、事態を悪化させるために使われる。コスモスの回復のためではなく、より一層のカオス化のために。
 なぜか。「芝居」のためである。会うはずのない人物同士が「イデ」によって邂逅し、情念の芝居をみせてくれる。物語は収拾するどころか破断し、芝居だけが場面場面のうえに直接載ることになる。ちょっと他では味わえない異様な作品、それが俺にとっての『イデオン』だ。

 作者が作品にとり憑かれる、ということがおきる。
 たとえば俺が押井守監督の『ビューティフル・ドリーマー』を観たときの感想のひとつは、非常に技巧的だなー、というものだ。サザエさん型の作品、人物が変化しない作品は、本来「映画」に向いていない。『うる星やつら』もそうだ。まして原作連載中、TVシリーズ放送中である。「映画」になるわけがない。なぜなら人物を変わらない世界に帰還させなければならないからだ。
 『ビューティフル・ドリーマー』は「技術論」として、あのように作るしかなかった、という点で、映画の頂きのひとつであることは間違いない。
 しかし、押井守は、ご存知のように、その後、『ビューティフル・ドリーマー』にとり憑かれてしまう。
 『ビューティフル・ドリーマー』の凄さは、「映画」にならないものを「映画」にしたことだ。不可能を可能にした。芯にあるのは、「映画」への執着と、変態的な技巧、「技術論」である。「作家」や「哲学」をそこにみてはいけないはずだった。批評家やファンがどう受容しようとかまわないが、押井自身がそれに巻き込まれるのはどう考えてもおかしな話なのだ。俺からすると「とり憑かれた」としか思えない。

 『イデオン』という作品は、富野にとっては、押井の『ビューティフル・ドリーマー』と同じだ。「引き返す」ということができなくなる作品というものがどうやらあるらしい。
 富野由悠季は『イデオン』に「とり憑かれた」と俺は思う。物語を破断し、やりたい芝居のために「イデ」というデウス・エクス・マキナを使う。これもまた技術論だし、いやもっと悪い、禁じ手を使った技術論だ。技術論としては最低である。
 しかしそのかわり富野の「作家」性が(情念の芝居をとおして)剥き出しになってくれた、という面白さがあるのだ。……こう書いていて気づいたのだが、俺のなかでは、『イデオン』と『ビューティフル・ドリーマー』は対称的な関係になっているんだなーということだ。最高の作家論であり最低の技術論の『イデオン』、作家論ではありえず技術論としては最高の『ビューティフル・ドリーマー』。どう足掻いても宮崎になれない富野と、いつでも宮崎になれる押井。この対称は、高畑(映画)と宮崎(マンガ)のそれだ。富野は宮崎(マンガ)に憧れ、押井は宮崎(マンガ)でもある自身の才能を封印して、凝った技巧で「映画」を“発明”していく。

 富野は『イデオン』後、他の作品でも往々にして物語を見失い、芝居だけでフィルムをつないでいくことになる。もしも「物語の神様」がいるのなら、物語をぶっ壊しても芝居を優先させる『イデオン』をつくったがために、罰が当たったということかもしれない。

 『イデオン』後、その呪縛を振り払った作品がある。そう『F91』だ。映画館で『F91』を観た俺が、どれだけ感激したか想像できるだろうか。「よかった……富野さん、復活できたんだ」ということに尽きる。
 そして『ターンエー』だ。とくに地球にいる間はほんとうに面白い。そして後半の失速感にまたイヤな予感もしないわけではなかったw。

 アニメ『リーンの翼』は、またまた物語を見失っている。物語という梯子がないのにいきなり二階で芝居しちゃってるw。いやいや俺は好きだけどもネ。
 ショートフィルム『リング・オブ・ガンダム』にいたっては、設定と芝居の面白さしかないw。いやいや俺は好きだけどもネ。

 富野監督はやっぱり今後も『イデオン』に祟られるのかなーという気がする。
 もちろんそれだけ富野語りには重要な作品ということでもある。

続きを読む »

『伝説巨神イデオン』について 1/3 遅れてきた男

 富野由悠季の代表作を一作だけあげろ、といわれたら、世間的にはもちろん『機動戦士ガンダム』なんだろうが、俺の感じるところでは、作家論的には『伝説巨神イデオン』、作品論的には『ターンエー』あたりになるような気がする。
 『イデオン』はそれほど富野の作家性が色濃い作品である。富野の限界、欠点がそれだけわかりやすく表出もされてもいる。そういう点でも富野語りに欠かせない作品だろう。

 富野由悠季は本来「遅れてきた男」だ。
 『アトム』からキャリアを積んでいる男だが、新しい何かをはじめたということはなかった。ロボットアニメでいえば、タツノコがフォーマットを準備し、永井豪がヒーローロボットをぶちこみ、長浜忠夫が完成させた。
 そこに現れたのが富野由悠季である。彼は何をしたのか。フォーマットの拡張か、バージョンアップか。いやそうした“伝統”に貢献することはしなかった。
 富野がしたのは、フォーマットの自己批評である。

 日本におけるニューウェーブSFの紹介者・伊藤典夫が、作品の名前こそあげないものの、『無敵超人ザンボット3』に言及したことがある。
 ニューウェーブ運動とは歴史の必然か否か、という話題のときに、ひとつのジャンルが成熟するとジャンルのお約束を自己批評して乗り越えようとする作品が出てくる、最近何気なくみたTVのロボットものでも(ニューウェーブと)似たようなことやっていて驚いた、といった内容の発言だった。
 発言の内容から、伊藤典夫が、『ザンボット』に「ロボットアニメのニューウェーブ運動(と相似形の何か)」を感じていたことは間違いないだろう。
 
 富野由悠季が「遅れたきた男」というのは、そういうことだ。パーティに現れたとき、すでに料理はさめていた。美女たちはすでに男たちの腕のなかだった。
 そうした人間に残されていたのが、ジャンルのお約束を意識してズラしていく、という手法だ。シリアスにズラせば『サンボット』になり、軽妙洒脱にズラせば『ダイターン』になる。
 そういう意味では、『無敵超人ザンボット3』と『無敵鋼人ダイターン3』は、一対の作品といえるかもしれない。

 『ザンボット』『ダイターン』でフォーマットへの自己批評をすました後、本来なら、『機動戦士ガンダム』でフォーマットからの完全離脱をする意図があったと思われる。
 しかしそれには失敗した。ガンダムの前にガンダム的なものはなく、スタッフに理解されなかったこともあっただろう。
 そういうわけで、あくまでも富野文脈でいえば、『ガンダム』は失敗したが、今度こそ、という意図ではじめたのが、おそらく『伝説巨神イデオン』であった。
 富野はガンダムの次作『イデオン』で、早くもガンダムのリベンジをやっているわけだ。早すぎるw。

 早すぎたことは、その後の富野の運命を変えたといってもいいかもしれない。
 今度こそ「ちゃんとしたガンダム」をつくるという意気込みの『イデオン』を製作中に、「挫折したガンダム」である前作の人気がブレイクするからであるw。
 富野は『ガンダム』の“成功”を自己理解しないまま、『イデオン』に臨み、その後もそのまま疾走しつづけることになる。身過ぎ世過ぎのレベルでいえば、『ガンダム』の“成功”を利用して成り上がるチャンスを、疾走のなかで取りこぼした、ともいえる。
 『イデオン』はそうした意味でも富野ワールドの真髄だ。フォーマットを意識せず、ガンダムの成功も意識せず、ただ純粋に富野ドラマが語られることになったのだから。


続きを読む »

『わたしが子どもだったころ アニメ監督・富野由悠季』を観た

 冒頭からちょっと意地悪な感じがして、面白かった。
 仕事場のセットつくるらしいから、小道具はぜんぶ自分で持ってきたのよね、という冒頭シーン。机のなかの小道具を自前で用意するあたりから、富野のこだわりがみえて楽しい。以前、松田優作がTVの刑事ドラマで自分の机の小道具が何の考えもなく設置されているのをみて激怒したというエピソードを思い出した。そのあたり、やっぱり発想が映画の人なんだなーと。
 ところがTVスタッフは、つくりものをつくる富野、という絵を撮ってしまうわけだw。これが面白かった。意地悪だなーと思うと同時に、いわゆる「ヤラセ」とは逆の発想で、へーTVの人はこういうこともするんだなーと感心もした。

 親父さんがもっていたカメラを大事そうに取り出して説明する富野、親父さんが開発したという「宇宙服」(与圧服)の写真を誇らしげにみせる富野。
 一方で肝心のお袋さんの話はぜんぜん出てこない。せいぜいポマードをつけた小学生というくだりで、お袋の仕業じゃないか、と口にするだけ。
 そのあたりが、「おいいい」と身悶えしそうになった。

 しかし少年時代の再現ドラマで、そのあたりの、富野少年のなかのお袋さんの位置づけが描かれて、たいへん満足である。さすがNHK。
 富野少年の誇り、親父さん。親父さんの手伝いができるという喜び。チビと女を遠ざけた男の世界での手伝いだ。しかしその聖域を土足で踏みにじる女がいる。お袋さんだ。「喜幸ちゃんは明日学校なのよー」。翌日か写真をメチャクチャにされてフテる親父さん。この流れがよかったね。

 富野ワールドでもっとも興味深いのは、富野のマザコンっぷりである。若い亡母への思慕から女性全般を崇拝し女性たちとのロマンスを繰り返すタイプの、エンタメ主人公にありがちなマザコンではない。もちろん『ブレンパワード』で描かれたジョナサン的な、女性的なマザコンでもない。あるいは母親によって去勢された昔懐かしの冬彦さん的なマザコンでもない。富野のそれは誰しもが一度は通過する、中学生男子的な、「うっぜーんだよ、くそババア」的なマザコンである。
 しかし富野の場合、その中学生男子的な「うっぜーんだよ、くそババア」的なマザコンが、中年以降になっても(少なくとも作家論レベルでは)持続した、というのが興味深いのだ。
 どんだけ“強烈な”お袋さんだったんだろうな、と以前から気になっていたのである。今回、この番組では、さすがにキャラクター性に触れることはなかったが、関係性における富野ママンの有り様を描いてくれて、俺としてはじゅぶん楽しめた。

 そのほかのエピソードも、興味深いものばかりだ。

 小田原に郷土愛を感じていなかった、というのは、意外だった。小田原は関東の武士たちの中心地のひとつだった地だ。
 俺のみるところ、富野ワールドにはあきらかに一所懸命を尊ぶ関東武士の独立精神が息づいている。これを俺は小田原の産土神の影響だと思っていたのである。
 未読だが、橋本治が『ガンダム』を「任侠ヤクザと腐敗警察の戦い」と捉えた本があるらしい。しかし、俺にいわせば、富野ワールドは、むしろ関東武士の世界観である。ヤクザではない、サムライだ。
 俺のヘンテコ史観wによれば、「ヤクザと官軍」の二分法は、中国大陸から西日本までの文化圏の話だ。熊本出身の尾田栄一郎が描く『ワンピース』が中国学者マルセル・グラネの話にピタリと一致するのはそういう理由がある。「任侠ヤクザvs腐敗警察」では水滸伝だし『ワンピース』だ。橋本治は東京人だが教養人すぎて文字文明の重力に囚われているのだろう。
 ユーラシアから東日本までは自主独立を尊ぶ文化圏だ。「地方豪族(サムライ)と中央政権(朝廷)」の二分法である。西日本の戦士文化がヤクザ(任侠)なら、東日本の戦士文化はサムライなのだ。武装商人と武装農民の差だ。ぜんぜん違う。生存圏を守護するために戦う富野ワールドの戦士たちは、敵も味方もサムライだ。
 ……という俺のヘンテコ解釈もあって、小田原出身という自意識はない、東京にいつか帰るという意識があった、というのは、俺にはほんとうに意外だった。いや東京は別にいいけどもさ、小田原はそんな嫌わなくても……と思った。
 アニメ『リーンの翼』では、日本人の主人公が異世界で建国した王国の名は「ホージョー」になっている。「ホージョー」が北条であれば、小田原だ。これは矛盾か、そうでもないのか。このあたりは、東京土人の俺にはちょっとわからない感覚なのかもしれない。

 幼き日の富野少年には友達があんまりいなかったのか、というのも、なるほど、という感じである。
 富野ワールドでは、主人公の若者に友達がいない、というのが特徴である。俺のお気に入りの『F91』は富野が富野ワールドの偏向性をできるだけ抑制したところに魅力があるので主人公には珍しく友達がいるw。しかし小説版を読むと友達というのとは少し違っていて「あれれ」と思っていたのである。映画版の印象と違って主人公が友達のいない内向的な趣味人みたく描かれていて「いつもの富野主人公」に近かったのだ。小説版は富野ワールドの偏向性を抑制しきれていない。
 「いつもの富野主人公」というのが、時代の要請とか、アニメファンの鏡像とか、そういうことじゃないんだな、と今回の番組で理解できた。本人じゃねーか。

 風呂の薪を削ってつくった、という飛行機のフィギュアは、ビックリするような出来で、趣味人としてハンパなかったんだなーと思った。なんかジオラマ?風の写真まで撮っているし。どんだけ筋金入り。
 飛行機への偏愛も、富野のロボットアニメが結局ガンダムに収斂していくことを暗示している。ガンダムは飛行機、イデオンは戦艦、ウォーカーマシンは自動車なのだ。しかし『聖戦士ダンバイン』以降、富野は結局ガンダムモドキを量産するしかなくなる。手癖ということもある。しかしネタの尽きたロボットアニメの仕事しかやらせてもらえない富野だとしたら、仕事を仕事以上のものにするモチベーションのひとつがあるいは“飛行機の夢”だったのかもしれない。そんなことを考えさせられた。

 少年時代の再現ドラマのその後もせつない。
 勉強もだめ、運動もだめ、そして唯一のプライドだった絵もだめ、となっていくあたりは、富野ドラマ的な苦さだ。
 そのなかで、月世界旅行の研究レポートを発表するくだりで、ちょっと救われるのは、この番組スタッフの構成力の凄さか。

 富野少年の宇宙への憧れが、SF映画やSFマンガ、SF小説経由ではなかった、つまりSFジャンルからの影響はゼロだった、というのも面白かった。後年の「ガンダムはSFじゃない」という話に繋がっていく大事な傍証だろう。

 番組の最後は川原でペットボトルロケットを打ち上げて、「どうなのこれ」的な顔をしている富野で締められた。この「どうなのこれ」的な中途半端さを撮るTVスタッフは意地悪だし優秀だなーと思った。ひどいよね。富野監督はキメたいヒトなのにさー、とニヤニヤした。

続きを読む »

 | HOME |  古い日記に行く »

文字サイズの変更

プロフィール

shiwasu5

Author:shiwasu5
FC2ブログへようこそ!

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (1)
ガンダム (18)
富野由悠季 (7)
アニメ (13)
雑記 (3)
逆襲のシャア (8)
G-レコ (20)
ΖΖ (1)
Ζ (4)
F91 (7)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QRコード

FC2Ad

Template by たけやん