ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

『無敵鋼人ダイターン3』について

 『無敵鋼人ダイターン3』の一挙放送がアニマックスではじまったようだ。
 ようだ、というのは、俺はアニマックスをみていないからである。

 当Blogのコメント欄によく書き込んでくださって、いろいろと啓発してくださるJINさんが、「出来ればこちらの作品評も」と仰ってくださったので、記事を書いてみようと思った。

 思ったのだが、よく覚えてないのである。俺の記憶力のなさ、あるいは記憶違いのしょうもなさは、当Blogの読者なら知っていると思う。いやおめえのことなんざ興味ないヨという方もいらっしゃると思うが、俺はまあそういう奴である。

 しかしせっかくのJINさんのご指名である。かるく触れてみようかと思う。

 富野監督という存在を意識するようになったのは『機動戦士ガンダム』からである。貧乏だった子供時代、友達のつてで映画をよく観ていたのだが、監督を意識するようなタイプの観客ではなかった。古ぼけた映画館の方だって映画青年向けの「作家主義」的ラインナップではなく、スティーブ・マックィーン三本立てとか映画スター目当てのラインナップだった。
 しかし『ガンダム』はアニメである。映画スターもへったくれもない。監督を意識するしかなかった。それ以来、実写映画の方もぼちぼちと監督を意識するようになっていく。

 俺にとり『ダイターン3』は、監督が誰かをまったく意識しなかった最後の作品ということになる。富野ファンとしてではなく、一ちびっことして観た最後だ。

 『ダイターン3』は正しく子供番組だ。
 小学校を卒業する前には自然と観なくなっていくタイプの子供番組だ。
 ゴールデンタイムで放映されていたような、基本子供向けだが、家族でも楽しめるタイプの番組ではない。(特撮ヒーローものはゴールデンタイムで放映されていた番組だが、子供時代とともに卒業していくという点では、同様の位置にあった。たしか『仮面ライダー』の次の時間帯に世界名作劇場が放映されていたのだが、ライダーがおわり名作劇場がはじまると、親がほっと息をぬき、一緒にテレビを観てくれる空気があった。それが名作劇場だからという理由ではない。出崎統が夢のような凄い作品群を生み出し「お茶の間」で──ああ、これはいまは伝わらないかな──楽しんでいたのだ)

 昭和のおっさんがどう伝えていいか苦慮するところだが、昭和ではテレビ漫画はもっと普遍的だった。いまのようにたとえ『ワンピース』であろうとアニメがテレビに映った瞬間チャンネルをかえられるような時代ではなかった。そのなかであってすらロボットアニメは特撮ヒーローものと同様、中学生以上がみるような番組ではなかったということだ。オタクが文字通り“少数精鋭”だった時代だ。庵野秀明の世代だ。

 『機動戦士ガンダム』ブーム以前以後でまったく違うのである。良かれ悪しかれ、いまのアニメは、広い意味で、ガンダムの末裔である。

 当時の俺にとり『ダイターン3』は、数あるロボットアニメのひとつであり、『無敵超人ザンボット3』の後番組でしかなかった。

 でしかなかった、という表現はしかしちょっと違うかもしれない。『ザンボット3』は強烈な印象を残した作品であり、その後番組には大きなワクワク感をもっていたようにも思う。

 そのワクワク感はいい意味で裏切られた。泥臭い苛烈な作風の前作とまったく違い、洗練された軽妙洒脱な作風の作品だったからだ。

 暗い作品と明るい作品が交互につくられるというリズムがあるのではないか、という後年俺が思うようになるのは、このインパクトがあったからだろう。
 「黒富野」「白富野」という分類に俺がノレないのもそこにある。『伝説巨神イデオン』の次は『戦闘メカザブングル』なのだ。『機動戦士Ζガンダム』の次は『機動戦士ガンダムΖΖ』なのだ。

 作風の変化があったとしたら『機動戦士ガンダムF91』からだ。『F91』から富野は“異端”ではなく“正統”を目指すことになる。
 “正統”志向は『∀ガンダム』でいったん頂点を迎え、『リーンの翼』で作家主義が復活、『ガンダム Gのレコンギスタ』に繋がっていく。

 『ザンボット3』は強烈な印象を残した作品だったが、キャラクターの魅力という点ではいまひとつだった、というのが俺の記憶だ。
 トリトンやひびき洸といった絶大な人気を博すキャラクターを生み出してきた富野にしては珍しく「キャラが弱かった」と思っている。

 『ダイターン3』で富野はキャラクターを取り戻す。
 破嵐万丈である。
 『ダイターン3』という作品の魅力は、ほぼ彼にあったといっていい。小学生の俺は彼の登場にびっくりし喝采をあげた。

 破嵐万丈はハンサムで金持ちでキザでおちゃめな男だ。有能な執事に仕えられ悠々自適の生活をしている。富野ワールドで、これほど完璧に近い男はいない。スピンオフ小説の主人公になるわけである。
 彼は女にモテるし、本人も女好きなのだが、子供番組の制約もあってか、色っぽい話にはならない。しかしどこかでなっていてもおかしくないと思わせるのが万丈で、俺はそこにルパン三世(アニメ版)よりもジェームズ・ボンドに近いものを感じていたように思う。

 ヒロインがふたりいて、紅一点という構図になっていないのも新鮮で、作品に華を添えるだめだけではなく、自立した大人のいい女として描かれていたはずだ。そこにも惹かれていたような気がする。俺が覚えているかぎり、とんでもない異色作だった。

 そんな異色作のなかに、視聴者と同年齢のトッポを放り込むことによって、子供でも気楽に楽しめる構造になっていた。(エンディングのトッポの歌がまた可愛らしく好きだった)

 長浜忠夫はたいへん尊敬している監督だが、彼のロボットアニメの内容はほぼ完全に忘れてしまっているのに対し、『ダイターン3』の記憶が若干でも残っているのは、それだけこの作品が時代性を超えた魅力を帯びているからではないだろうか。

 「時代性を超えた魅力」というのは富野作品の特徴で、彼は「ベストセラーよりロングセラー」型の作家であるという指摘は、たしか富野語りの先輩のどなたかがしていたはずだ。今回こうして純粋子供番組として記憶を掘り返してみて、俺もその意味がようやくわかってきた気がする。

 破嵐万丈はソフィスティケートされた伊達男というだけではない。
 彼には重い因縁があり、そのことが彼を縛り、作品に奥行を与えている。

 その奥行のなかで、万丈は謎めいていて、彼が視聴者にすべてを晒していないことがわかる。
 ここに『ダイターン3』の魔術があり、忘れがたい作品にしている。

 万丈の怪力、コロスの死に対する台詞、屋敷に灯る明かり。すべてが謎めいている。

 『ザンボット3』は幕を閉じた。『ダイターン3』は幕を閉じない。役者だけが舞台から去り、観客は誰もいない舞台をただ眺めるだけだ。こんな作品がほかにあるだろうか。
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ナイフを持った少年

 少年にはふたつの選択肢がある。「ナイフ」を持つかどうかだ。

 俺は「ナイフ」を持たない方を選んだ。自分の性格から、殺人に繋がる可能性を鑑みての判断だ。
 俺は「いい感じ」の鉄パイプと出逢ったことがある。振ってみると「いい感じ」なのだ。しかし俺はそれを拒否した。誘惑に打ち勝った。
 喧嘩の最中、ナイフを取り出した奴がいるのだが、全力で逃げたことを思い出す。喧嘩に勝って変な因縁をつくるよりかは、俺のような気弱な人間は、負けたり逃げたりした方がマシなのだ。
 渋谷をしめる不良と勘違いされ、駅口という駅口を封鎖され、タクシーで帰宅したこともある。それからしばらくは渋谷から遠ざかった。引きこもった。それくらい気弱なのだ。
 だがそれでも俺は「ナイフ」を持たないことを選んだ。

 旧小説『リーンの翼』を読んだとき、違和感があったのは、リーンの翼が靴から生えていることだ。これは当然ギリシャ神話のヘルメスの靴からヒントを得たものだろう。
 しかし途中まで読んでいたかぎりでは靴から生えているという印象はなかった。リーンの翼が迫水本人ではなく靴に宿るという展開に驚いた。なぜいまさら本人ではなく靴なのか不思議だった。
 もはや英雄といっていい迫水が、リーンの翼の靴を失って激しく動揺するエピソードが非常に印象に残った。「え。そんなにショックなの?」という違和感だ。
 迫水は剣術も空手もやるという男だ。そのうえですら、リーンの翼の靴が必要なのか、そこに驚いたわけだ。
 富野由悠季という人間は、実際はともかく、姿勢としては「ナイフを持った少年」だったのではないか、とそのとき思った。
 ロボットアニメであれば、もちろん「ナイフ」とはロボットのことだ。
 ヒーロー然としない少年アムロはガンダムに乗って初めてヒーローになる。だからアムロがガンダムに固執したのはわかる。しかしヒーロー然とした迫水ですらリーンの翼の靴に固執するのだから、富野ワールドではどうしても「ナイフ」が必要らしいと想像する。
 富野の裡には「ナイフを持った少年」が息づいている。
 富野が主としてロボットアニメの監督をして成功しているのはそのためかもしれない。

富野作品と音楽

 俺は音楽についてはまったくわからない。テレビはあったがラジカセのない家に生まれた。レコードは高級品だった。レコードプレイヤーを買うという発想自体なかった。十代の頃、貸しレコード屋が出来、バイトで買ったコンポでいろいろな曲を聴いたが、結局のところ俺の血肉になることはなかった。昭和の大昔の話である。
 だから俺には井荻麟を語る資格がない。語る言葉がないのだ。kaito2198さんの偉業に対して賞賛の意味をこめて一言でもコメントの反応ひとつもできればいいのだが、それすらできない。ただただスゲーなと感心して読み耽させてもらうだけだ。

 そんな音痴な俺でもかろうじてわかるのは、富野由悠季は音楽を使うのが抜群にうまいということだ。俺のお気に入りの『F91』は井荻麟作詞ではないものの、ダレ場でうまく使われている。エンディングでも素晴らしいタイミングで流れはじめる。「ETERNAL WIND」という曲がうまく作品に合っていたのだろう。(同じ曲が二度使われるのは迷走した企画を“監督の腕力でねじ伏せた”『F91』らしくて俺などは微笑ましく好意的に受け取ってしまう)
 まして井荻麟作詞でうまく使われたときは鳥肌が立つほどの名場面になる。
 『めぐりあい宇宙』のラストなどはその典型だろう。監督富野と作詞家井荻が融合した名場面だ。『V』や『∀』のラストも忘れがたい。

 『ガンダム Gのレコンギスタ』劇場版ははたしてどうなるのか、そこが興味深いし楽しみである。
 テレビ版ではラストに「Gの閃光」が使われたが、第一部になるという映画では使われないのではないだろうか。ぜひ新曲で臨んでほしいところだ。「作品に合った曲」にめぐりあえることを願う。

 俺個人は「Gの閃光」がどうもピンとこないところがある。メッセージが直接的すぎるような気がする。テーマソングにしたってあからさますぎるんじゃないかと思う。絶望を一巡りした後の希望という点も(一番で)表現しきれていないと感じる。音楽がわからない俺には気づかない何かがあるのだろうか。
 音楽というより『G-レコ』のラストにピンとこなかったということなのかもしれない。半ば社会人だった主人公がバックパッカーというモラトリアムに退行するのが不可解であった。宇宙でいろいろ体験したことは何だったのか。文字通り「世界を見て回った」道中記だったはずだ。それがなぜバックパッカーなのか。

 富野作品のエンディングは叙情的にしめてほしい、というのが俺の勝手な思い入れだ。そこが俺が富野に見出した魅力のひとつだからだ。
 激しい情念のぶつかり合いの劇が終幕するとき流れるのは、叙情的な曲であってほしい。

 いや『哀・戦士』のラストの素晴らしさを思えば、必ずしもそうとは限らないか……やはり俺が『G-レコ』のラストにピンとこなかったというだけなのだろう。鳥肌がたつような感動は覚えなかった。

 『G-レコ』、劇場化するにあたって諸事情出てくるのは想像つくのだが、ぜひ富野が腕をふるえる挿入歌が出てきてほしい。できれば作詞家井荻麟と演出富野由悠季が融合した名場面を期待する。

『伝説巨神イデオン』について 3/3 ガンダムのビョーキとコロニーの空

 ロボットアニメとしての『イデオン』は正しくスーパーロボット系列の作品だ。兵器ではなく遺跡だ。見立てとしては「戦艦」である。
 なかに何人もの人間が乗り込んでいるという設定が素晴らしかった。小説では書かれた「部下をもったアムロ」を『ガンダム』では描けなかったのだが、『イデオン』では主人公は戦闘部隊の隊長だ。

 ガンダムが嫌いだという人はたくさんいる。戦争をエンタメとして扱っているのだから嫌う人が大勢いるのが正常だろう。
 しかしもうひとつある。ガンダムのフォーマットだ。ロボに独りで乗り込んで戦う。たまに敵と議論してもさ。もうね、この絵面がさ、ビョーキなんだよね。ビョーキを誘う。だからニュータイプが対としてあるんだろうけど。
 「ガンダムのビョーキ」を正しく継承しているのが『エヴァ』だね。ATフィールド。凄いよなー、このアイディア。まさにそこに「ガンダムのビョーキ」がある。

 スペースコロニーに「空」を描いちゃうのが富野なんだ。富野がSFの人ではないという証でもあるし、「ガンダムのビョーキ」に付き合う男でもない、ということがわかる。
 『マクロス』は、人型に変形する戦艦と人型に変形する戦闘機を発明して、メカ的にはガンダムとイデオンを一気に過去のものにしてしまったけど、「空」の方を継承しているんだよね。だから富野的には『マクロス』は若さゆえの稚拙さがあっても許せるし愛せるが『エヴァ』はねーだろという心境なんだろうw。キモチはわかるが、俺的には『エヴァ』も大事な作品だ。

 『イデオン』や『ザブングル』は、「ガンダムのビョーキ」から自由だ。それだけでも俺は観ていて安心する。楽しいなと思う。
 だから『ダンバイン』のチャム・ファウって、富野の“悲鳴”のようにみえるんだな。

『伝説巨神イデオン』について 2/3 ものがたりのたたり

 ご都合主義をなんかこう……カッコよく言うと、デウス・エクス・マキナというらしい。機械仕掛けの神像のことで、神々が信じられていた時代のギリシア演劇で使われたものだ。物語の内部の論理で収拾がつかなくなった劇を、外部からの強制的な介入によって収拾することで、近代以降は禁じ手とされる。
 『イデオン』が恐るべき作品なのは、近代のただなかにあって、のこのことこのデウス・エクス・マキナを登場させてしまったことだ。
 とはいえ、作中に登場するご都合主義の化身「イデ」は、事態を収拾するためではなく、事態を悪化させるために使われる。コスモスの回復のためではなく、より一層のカオス化のために。
 なぜか。「芝居」のためである。会うはずのない人物同士が「イデ」によって邂逅し、情念の芝居をみせてくれる。物語は収拾するどころか破断し、芝居だけが場面場面のうえに直接載ることになる。ちょっと他では味わえない異様な作品、それが俺にとっての『イデオン』だ。

 作者が作品にとり憑かれる、ということがおきる。
 たとえば俺が押井守監督の『ビューティフル・ドリーマー』を観たときの感想のひとつは、非常に技巧的だなー、というものだ。サザエさん型の作品、人物が変化しない作品は、本来「映画」に向いていない。『うる星やつら』もそうだ。まして原作連載中、TVシリーズ放送中である。「映画」になるわけがない。なぜなら人物を変わらない世界に帰還させなければならないからだ。
 『ビューティフル・ドリーマー』は「技術論」として、あのように作るしかなかった、という点で、映画の頂きのひとつであることは間違いない。
 しかし、押井守は、ご存知のように、その後、『ビューティフル・ドリーマー』にとり憑かれてしまう。
 『ビューティフル・ドリーマー』の凄さは、「映画」にならないものを「映画」にしたことだ。不可能を可能にした。芯にあるのは、「映画」への執着と、変態的な技巧、「技術論」である。「作家」や「哲学」をそこにみてはいけないはずだった。批評家やファンがどう受容しようとかまわないが、押井自身がそれに巻き込まれるのはどう考えてもおかしな話なのだ。俺からすると「とり憑かれた」としか思えない。

 『イデオン』という作品は、富野にとっては、押井の『ビューティフル・ドリーマー』と同じだ。「引き返す」ということができなくなる作品というものがどうやらあるらしい。
 富野由悠季は『イデオン』に「とり憑かれた」と俺は思う。物語を破断し、やりたい芝居のために「イデ」というデウス・エクス・マキナを使う。これもまた技術論だし、いやもっと悪い、禁じ手を使った技術論だ。技術論としては最低である。
 しかしそのかわり富野の「作家」性が(情念の芝居をとおして)剥き出しになってくれた、という面白さがあるのだ。……こう書いていて気づいたのだが、俺のなかでは、『イデオン』と『ビューティフル・ドリーマー』は対称的な関係になっているんだなーということだ。最高の作家論であり最低の技術論の『イデオン』、作家論ではありえず技術論としては最高の『ビューティフル・ドリーマー』。どう足掻いても宮崎になれない富野と、いつでも宮崎になれる押井。この対称は、高畑(映画)と宮崎(マンガ)のそれだ。富野は宮崎(マンガ)に憧れ、押井は宮崎(マンガ)でもある自身の才能を封印して、凝った技巧で「映画」を“発明”していく。

 富野は『イデオン』後、他の作品でも往々にして物語を見失い、芝居だけでフィルムをつないでいくことになる。もしも「物語の神様」がいるのなら、物語をぶっ壊しても芝居を優先させる『イデオン』をつくったがために、罰が当たったということかもしれない。

 『イデオン』後、その呪縛を振り払った作品がある。そう『F91』だ。映画館で『F91』を観た俺が、どれだけ感激したか想像できるだろうか。「よかった……富野さん、復活できたんだ」ということに尽きる。
 そして『ターンエー』だ。とくに地球にいる間はほんとうに面白い。そして後半の失速感にまたイヤな予感もしないわけではなかったw。

 アニメ『リーンの翼』は、またまた物語を見失っている。物語という梯子がないのにいきなり二階で芝居しちゃってるw。いやいや俺は好きだけどもネ。
 ショートフィルム『リング・オブ・ガンダム』にいたっては、設定と芝居の面白さしかないw。いやいや俺は好きだけどもネ。

 富野監督はやっぱり今後も『イデオン』に祟られるのかなーという気がする。
 もちろんそれだけ富野語りには重要な作品ということでもある。

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