ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

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『宇宙戦艦ヤマト』と「大きなお友達」

 俺はヤマト世代ではない。そんな俺が俺からみた『ヤマト』の歴史的意義について書いてみる。

 「大きなお友達」という言葉をご存知だろうか。たとえば女児向けアニメなどにハマっている青年以上の人々である。
 ただ、この「大きなお友達」という言葉は、アニメの歴史的にいうと、ちょっと悲しい。

 『ヤマト』を一から盛り上げたのは俺より一回り上の世代のアニメファンだ。世間的にはアニメという言葉すらなかった時代である。
 彼らのうけてきた抑圧を俺は体験として知らない。しかしガンダムブーム前の中学時代、ガンダムのラミネートカードをみられて思い切りヒかれたw経験があるので、わずかながら想像がつく。
 よっぽど周囲に理解のある人以外、青年にもなってアニメが好き、とは公言できなかったんだろうなー、ということだ。
 なぜなら、彼らが熱心にみていたアニメは、それこそ女児向け魔女っ子ものや男児向けSFアクションもの、児童向け名作ものだったからだ。まさにアニメファン全員が「大きなお友達」状態だったわけだw。

 そんな彼らが一般向けのオリジナルアニメ『ヤマト』を観たときの喜びは、それはもう凄かったろうなー、と想像する。
 隠れずに好きといえる。隠れずに凄い作品なんだといえる。
 彼らがどれだけの喜びと解放感のなかで、『ヤマト』という作品を愛したのか、俺はそんな風に想像している。体験できなくて残念だ。

 「大きなお友達」という言葉はだから、アニメの歴史的にいえば、悲しい言葉だ。

 しかし男児向けの作品は、劇場版『ドラえもん』をはじめとした優れた映画作品のおかげで、もはや世間に舐められることはない、あるいは少なくなっていると感じる。
 女児向け作品にも、なにかそうしたブレイクスルーになるようなタイトルがいつか出てくるかもしれない。対世間というレベルでの話ね。そうなったらいいなと思っている。
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新『エヴァ』と劇場版『マクロスF』について

 数年前、新『エヴァ』を観ようと思っても観られなくなっている自分に気づいて愕然とした。「アニメ」を観る、ということが俺にとり敷居が高いものになっていたのだ。
 『ガンダム』無料放送からチラホラ最近の「アニメ」を観るようになって、「あれ? 今ならいけんじゃね」と思って再挑戦、今度こそ新『エヴァ』を観ることができた。そういう意味でも『エヴァ』は「アニメ」の最高峰のひとつなんだろう。

 「ヌルくなった」と一部で騒がれていたので、もしや新訳『Ζ』のような「大人チェック」を入れて旧作を改変したのかな、と思っていた。
 ところが実際に観てみたら「大人チェック」的にマズいところがまるまる残っていてw「うん、これでこそエヴァだ」と安心した。ヌルいどころか、俺にはやっぱりキツかった。児童虐待アニメにしか観えないw。もちろん見方が逆で、戦場での子供たちの悲鳴は“思春期の痛み”をあらわしているのだろう。
 旧『エヴァ』TV版にあった“必死さ”はないのだけど、優等生的に穴を埋めようとした「序」に対して、高く高く積み上げていこうとする「破」以後の“エヴァっぷり”はほんとうに痛快だった。嬉しかったし懐かしかった。そうそう、これこれw。この芝居のなってなさwと迫力の戦闘シーン、全体を覆う薄気味悪さ。これでないとな。“マクロス以後”のロボットバトルなんてわからない俺だけど、エヴァのバトルだったらわかる。極上のエンターテイメント「アニメ」だった。

 劇場版『マクロスF』もまた極上のエンターテイメント「アニメ」だった。「うん、これでこそマクロスだ」と安心できる出来になっていて嬉しかった。「私をつかまえてごらんなさい」とか平気でやるんだもん。つくってる側が笑ってないの。すげーよな。そこがもうマクロスw。あと戦闘シーンがなにがなにやらわからないあたりもマクロス。でも歌声を背景に跳ねまわる花火たちはあいかわず美しい。

 「アニメ」が好きで「アニメ」監督になったおふたりの作品は、見事なまでにかわらずにいてくれた。それが嬉しい。それが懐かしい。変わらないってことは、商業的にも大事だけど、同時におふたりとも自分の本質に近いところでつくってきた、という証だものね。

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『新世紀エヴァンゲリオン』について

 俺にとり旧『エヴァ』とは、アニメで何かを語ろうとしている、久しぶりの作品だった。
 90年代に日本のサブカルチャーには大きな変化があらわれた。それはライトノベルの登場だ。「中高生向けの楽しい作品」という点で、それは以前には存在しなかったものだ。
 その変化はアニメにもあらわれる。はじめから中高生を標的にしたアニメがつくられることになった。これも以前にはなかったものだ。ガンダムブーム後のオリジナルロボットアニメも子供向けの作品という前提であった。ガンプラブームは小学生に支えられたのだから当然である。
 それが90年代に、あらかじめティーンエイジャー向けにつくられた娯楽作品がでてきたわけだ。俺にいわせれば「アニメ」の90年代とは、“あかほりさとる”に象徴される時代だ。玩具屋から、出版社やレコード会社の商売になった。
 ガンダムの前後でアニメが変化したのが80年代なら、ライトノベルの前後でアニメが変化したのが90年代ということだ。80年代TVアニメがトミノの時代なら、90年代TVアニメはアカホリの時代だ。
 その時代にあって、監督が言いたいことがある作品、というのはほんとうに特異だった。トミノの後継者がついに現れたのか、と一話から注目していた。
 しかし一話は俺の期待するものとはずいぶん違っていた。人物造形の不自然さ、芝居の不自然さ。フィルム全体に感じる気持ち悪さ、薄気味悪さ。
 文芸方面の品質の低さに戸惑ったが、同時に興味もわいた。ここまで人間性に対する理解から程遠い人間が、何を言いたいのか、何を必死になっているのか、と。そして観ていくうちにその“必死さ”にどんどん惹きこまれていった。そして最終回で少し泣いた。

 俺にとりその“必死さ”とは、『エヴァ』の気持ち悪さに気づかず自然と主人公シンジに感情移入して観てくれている「シンジ君たち」に自己肯定感を与えたい、という祈りのようなものに感じられた。
 TV版最終二話は、「シンジ君たち」に肯定感を(無理矢理wにでも)与えようとする庵野の“必死さ”に感動した。
 それにTV版最終回で「アニメって作り物なんだよ」ということと「きみの現実はきみにしか作れないんだよ」ということを同時に表現してしまったことはやっぱり凄い。

 また可能性の一つとして提示されたラブコメアニメ「学園エヴァ」の描写も俺には楽しいものだった。あれは“お土産”だなと俺は素直に解釈した。

 ところがこれを受けつけない人たちがいた。「学園エヴァ」まで悪意でとらえる人たちがいると人づてにきいたとき、庵野が可哀想すぎると思った。
 でも時代は、あかほりさとるの時代だったのだ。ティーンエイジャーが“お客様”になっていた時代だ。子供向けの作品のなかから、大人の製作者たちの意図を汲み取ろうとする「昔かたぎの」アニメファンたち(ばかり)ではなかった。まさに『ヤマト』ではじまった何かは『エヴァ』で終わったわけだ。
 興味深いことに、あかほり自身は『エヴァ』に肯定的で、そのラストがアレな感じになることまで言い当てていたという話もある。

 映画版はTV版ほどの迫力は感じなかった。祈りがない。“必死さ”がない。観てくれている人達への“想い”が……歪んでしまっている。これは無理もない。
 しかしアスカに「気持ち悪い」と言わせたことで、エヴァというタイトルは歴史に完全に残ることになったと思う。だってほんとに気持ち悪いもんね、エヴァって。よく言わせたよなー。ほんと凄い。


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プロットの時代 アニメの気持ち

 物語の方向性にはいくつもあると思うが、プロット重視かドラマ性重視か、で、作品のタイプがだいぶ違ってくる。
 俺がここでいうプロットとは出来事のことだ。事件の顛末。一方、ドラマ性とは人間の心理や関係性の変化のことだ。

 1980年代にクサイとかダサイとかいってドラマ性を笑う風潮が出てきた。もちろん大衆レベルではドラマ性が軽視されるまでにはいたらなかった。クサさを笑いつつドラマ性が描かれ、あるいはクサさを回避する洗練化を通してドラマ性が描かれた。
 しかし一方で、たしかにドラマ性を軽視する流れもあり、その流れのなかで、たとえば本格ミステリが復権し、ライトノベルが台頭してきた。市場傾向という文脈でいえば、小説全般の凋落とともに、マニアが書きマニアが買う、という「手堅い」市場性が評価されたともいえるだろう。これは小説にかぎらず、バブル後の長期不景気のなかでの大方の方向性にもいえることだ。オタク産業がどうの動物化がどうのという前に、不景気のなかでの「手堅い」商売の問題として捉える視点も必要ではないかと思う。
 ミステリはプロット重視の典型ジャンルであるし、ライトノベルもじつは「設定とプロット」が生命線のジャンルである。またミステリやライトノベルのような「リッチな設定(アイディア)」「リッチなプロット」ではないにせよ、脱ドラマ志向かつ「設定の妙」と「出来事の妙」で楽しませる四コママンガの隆盛も同時代現象といえるだろう。これにビデオゲームも追加できるかもしれない。物語論という文脈でみた場合、ビデオゲームもまた「設定とプロット」が生命線のジャンルといえるからだ。
 80年代の時代の追い風を受けつつ90年代の不景気のなかで人気を確立した、物語を扱うサブカルチャーは、プロット重視というタイプの作品で占められることになった。

 もはやお気づきだろうが、じつはこのプロット重視タイプのジャンルの隆盛は、「萌え」の隆盛ときれいに同期している。
 この文脈でみれば、「萌え」キャラの特異性は、ドラマ性と関連しない人格性、とまとめることができるだろう。
 「ストーリーラインから外れた人物造形」は、原理原則的にいえば、ペケである。しかしミステリなどは昔からエキセントリックなキャラクターたちを創造してきた。ストーリーラインと結びついたキャラクターではすぐに犯人がバレてしまう。ミステリにおいては結びつかないのが大事なわけだ。
 ミステリのエキセントリックなキャラクターと、萌えキャラクターは、構造論のレベルでは、同じものである。プロット重視タイプの作品の隆盛は、だから「萌え」キャラの隆盛でもあったわけだ。
 もちろんこの時代にも、ドラマ性重視の作品は、たとえばケータイ小説などで書かれていたようだ。設定レベルやプロットレベルでは文字通り失笑されるような類の作品が多かったとしても、ドラマの感動を求める層は、たしかにいなくなったわけではなかったのだ。なにより恋愛ものはドラマ性重視以外になりようがない。

 原作未読、アニメ未見なんだが、『とらドラ!』の“受け方”は気になっていた。評判の内容からいえば、ドラマ性の復権に位置づけられるだろう。ケータイ小説の受け方と一緒じゃねーか、と揶揄する声もあったようだが、まさにそこが大切なところじゃないのか、と思った。
 だから去年2009年は、ポスト『とらドラ!』という方向にアンテナをセッティングしていたのだが、どうも引っかかるものがなかった。ただそのなかで興味深かったのは、ある四コママンガのアニメ化作品が、原作とは違ってドラマへの志向性を垣間見せていた点だ。スタッフはドラマ性重視の作品をつくりたいのかな、と感じさせるものがあった。しかし作品論的にはドラマのフックを用意しながらドラマをはじめないというビミョーなことになっていた。受容論的にはそれが魅力にもなっていた可能性があるが、俺が感じたのはドラマをやりたいのにやれないアニメスタッフの気分だ。

 『とある科学の電磁砲』は最終回までばっちり楽しませてもらったのだが、見事なまでにドラマ性重視タイプの作品に仕上がっていて驚いた。
 原作未読なので、どこまで原作の範囲なのかわからないが、 『とある魔術の禁書目録』を観るかぎり、電撃文庫の看板作品のひとつだけあって、原作はおそらく「リッチな設定」「リッチなプロット」で魅せるタイプの作品なのだろうと思われる。
 『電磁砲』はスピンアウト作品だからか、『禁書』に比べて「設定」や「大事件」への比重がないぶんだけ、キャラクター描写に尺が使われていて観やすいなー、と軽い気持ちで観ていたら、最終回まで観てビックリ。ドラマ仕込んでやがったw。すげー。
 「事件性」はともかく主人公の「ドラマ性」は『禁書』本編に繋いでいく構成だと思っていたのだが、『電磁砲』だけで完結させやがった。すげー。
 某四コマ原作アニメのようにドラマ性のフックだけあってドラマは描かないという「???」なことになっていた、プロット重視原作とドラマにテーマを重ねながら描きたいアニメスタッフとの不幸な関係が、『電磁砲』では見事に調和しているわけだ。ブラボー。

 監督・長井龍雪とシリーズ構成・水上清資の手腕が一番の功績だろう。それにスピンアウト作品ということ、原作者・鎌池和馬の協力と理解が得られたことも大きかったのではないだろうか。劇場版『999』などは原作者の協力と理解のもと、別ジャンル、といってもいい作品になり成功した。
 鎌池和馬もかなりアニメに理解があるという話だし、『禁書』の方もぜひ、アニメ版は別ジャンル、ぐらいの勢いで、「設定とプロット」を軽く薄くする方向で改変してくれると、二期にはドラマで魅せたいアニメスタッフの腕のふるいどころが出てくるように思う。『禁書』本編は「設定とプロット」がリッチすぎて、ドラマ性を差しはさむ余地があまりにもないような気がするのだ。アニメ用にカスタマイズしてくんないかなーと。贅沢か。……いや鎌池和馬とJ.C.STAFFならきっとやってくれる! 黒子がお姉さまを信じるくらいに信じますの! プロット主義はアニメじゃキツイんだよ! つかアニメスタッフはドラマやりたいんだよ! たぶん!

スケールダウン問題とか、ルールを巡る温度差とか

 まっつねさんの「レールガンの世界は」からあれこれ思うこと。

 『レールガン』の「蓋を閉じられた感じ」というのは、まっつねさんご自身が「もっとも」以下で指摘しているとおり、『レールガン』は『禁書』のスピンアウト作品である、ということがあるのだろう。
 俺は『レールガン』の「蓋で閉じられた感じ」というのは、むしろ逆側から評価していた。
 スケールダウン問題だ。
 本編以上の派手なこと、物語世界の本質に迫ることなどは、スピンアウト作品ではできない。では、どうするか、という点で、『レールガン』は「ちくしょう、うまくやりやがって」という感想をもっていた。

 なんで「ちくしょう」なのかというと、いまから約30年くらい前に、『Zガンダム』という作品があって、この作品の数ある問題点のひとつにスケールダウン問題があったからなんだ。
 『Z』の世界は、『ファースト』からあきらかにスケールダウンしている。にもかかわらず、そのスケールダウン問題を、製作者がまったく処理していない、ということがあったのだ。
 「自己反省の男」富野は次作『ZZ』では冒頭からさっそくスケールダウン問題に取り組んで一定以上の成果をえるが、スケールダウン問題に関しては、『レールガン』の方がうまくやってやがるなー、と感じていた。だから「ちくしょう」。

 また主人公・美琴に説教したい、という声が一定以上あるのも、かつての初代『ガンダム』におけるセイラとセックスしたい、というのと同じで、製作者の思惑通りなんだろうな、という点でも、感心していた。
 美琴はいづれ本編でヒーロー上条に説教されることになる、と予感させるものがあるからだ。説教したい、と思われたら、キャラクター描写としては成功なのだろう。

 「蓋で閉じられた感じ」というのはもう一点あって、それは『禁書』にも若干感じているところでもある。
 去年のガンダム無料放送からちらほらアニメを観ているのだが、ちょっと気になるのは、俺の観た狭い範囲でのことなんだが、「ルール」を疑わない、「ルール」との葛藤のない作品が多いように思われる点だ。
 約束の時間にこない、というルール破りがあってもペナルティなしとか、ルール下で抑圧的立場にある人間がルール自体を疑うことをしない、とか、どうにもこうにも中学時代校内暴力で高校時代管理教育を受けた俺からすると、どうしても違和感をぬぐいえないのだ。

 たとえばこれが、深夜アニメより広い層を狙った作品、『ワンピース』とか『FF13』とかになると、とたんにルールを疑う・従わない主人公たちが暴れることになる。
 この差はいったいなんだろうな、というのが、俺がいまちょっと興味をそそられている点だ。

 ルールのなかでがんばっている人間に正義や正当性、正統性があることはじゅうぶん承知しながら、大衆はルール破りのヒーローたちを喝采してきたからだ。

 マルセル・グラネのいう「戦士の到来」。
 正義が、正しさが、あまりにも行き渡り息詰まるとき、ふらりとあらわれる無法者によって、囚人の縛り首のロープが切断される。
 いきすぎた正義によって社会から失われた人間性を回復する者が、無頼漢、無法者、遊侠の徒だ。

 『ワンピース』などはその典型だ。『ワンピース』をひっくり返すと『デスノート』になる。デュメジル風にいえば、ルフィがインドラなら、ライトはヴァルナだ。
 しかし大衆が愛するのは、自由の戦士であって、正義の司祭ではない。だからライトは自滅するダークサイドに堕ちる必要があったのだろう。

 しかし、アニメであるとかライトノベルであるとか、一部の層向けの作品では、この解放者としての無頼漢が出てこない。
 これはちょっと興味深い傾向ではあるよなーと。

 富野語りの文脈でいえば、そのアニメファンたちに、「エクソダスするかい?」と言ってしまうズレが悲劇ではある。どうすりゃいいんだろうなー。

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