ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』について 富野の恩返し?

 [3925]『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』、雑論かつ総論
 [3929]頑張り過ぎの富野由悠季

 を読ませていただきました。

 『逆襲のシャア』とは何か、という点で新しい視点をいただきました。ありがとうございます。
 大塩さんのBlogにコメントさせていただいたものと多少重複しますが、こちらにも書かせてもらいます。

 『逆襲のシャア』は、はじめからガンダムファン、アニメファンのための映画だった、という解釈は俺には手厳しいものに感じました。仮にそうだとしたらマニア市場向けのOVAと変わらないと俺は思うんですよね。映画の皮をかぶったOVAだった可能性がある、という俺の解釈が仮に正しいとしたら、富野ファンとしてはさすがに悲しいものがありますね。(OVAが劣っているという意味ではないです)
 新キャラを多数登場させ一本の映画として成立させる努力の痕跡があるだけに、それに「失敗」しているのが『逆襲のシャア』だったのかもしれない、というのが俺なりの理解です。

 大衆に支持されるのが「芸能」で、一部の篤志家に支持されるのが「芸術」である、という遠藤ミチロウと吉本隆明の対談の文脈でいえば、一般大衆ではなくガンダムファン、アニメファンに支持されることを目的にした『逆襲のシャア』は「芸術作品」だったという解釈になり、(俺の)OVA説より愛が感じられるので、(大塩さんの)芸術説をとりたいですね(笑)。いささかくすぐったいですが(笑)。

 クェスやハサウェイは当時の富野の若者論だった、という解釈も「なるほど……」という感じでした。俺の解釈ではクェスやハサウェイに「当時の若者」が描出されているとしたらそれは実に富野作品らしいなと思えるからです。富野は時代時代に独特の目線で若者たちを描出してきましたから。ただ俺の場合『Ζ』『ΖΖ』に魅力的なヒーロー・ヒロインを見出していただけに、クェスやハサウェイにそれを期待しすぎたところがありました。尺の問題か、コンセプトの問題かはわかりませんが、かれら「困った若者たち」がヒーロー・ヒロインに成長する物語がなかったがゆえに俺には難解な作品になっているのでしょう。
 「クエスのように人生の最後の五秒だけ自立しても遅いんです」という発言があったとしたら、俺のクェス理解にひとつのヒントが加わったことになります。

 「人類は地球のノミだ」というのが(当時の)富野由悠季の認識と考えられる、というのは俺の解釈と違うところです。アムロもブライトも富野だったと思うんですよね。ラディカリズムに対する共感と警戒心の葛藤というのは富野らしい気がします。ただ『逆襲のシャア』に関しては、いかにせんアムロとブライトにはパトスが足りてないんですね。だから俺なんかもシャアの独壇場にみえてしまったきらいはあります。

 大塩さんの記事を読んで痛感したのは、『逆襲のシャア』の情報が俺には決定的に欠けている、ということです。俺はたしか『装甲騎兵ボトムズ』を最後にアニメを卒業してしまったのですね。ですから当時のアニメ雑誌に載っていた富野発言というのは知らないのです。
 「ロボットアニメを離れて考えてくれたらとても嬉しいことだと思います」という発言があったとしたら、俺にとっては皮肉なことになってしまっているのが面白かったです。『逆襲のシャア』のためだけに久々にロボットアニメに“帰ってきた”俺はどうなるんだと(笑)。

 『逆襲のシャア』で富野が目指したもののひとつが、アニメ業界、アニメファンへの恩返しだった、という解釈は新鮮でした。映画志向の富野はアニメ界に外様意識をもっていて、なおかつそこで食わせもらっている恩義を感じたがゆえのものだった、という大塩さんのストーリーはとても魅力的です。
 恩返しというのは『逆襲のシャア』の成功によって“文化人”ポジションにつき、アニメ界隈の地位向上を狙うというストーリーで、もしもそうであったなら、もう一度「アニメという看板」を背負おうとする覚悟があったのかもしれませんね。

*1/20 修正しました。大塩さんのご意見を誤解する部分があり、大塩さんの正確なご意見はリンク先を辿ってください。コメント欄を参照してくださるとありがたいです。
*1/21 修正しました。「ガンダムファン」→「ガンダムファン、アニメファン」

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『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』について 「自分の枷」から解き放たれることはあるのだろうか。

 世代などで縛られる「自分の枷」を取っ払うのは困難だ。
 今回、『逆襲のシャア』について書いていてつくづく思った。

 初代世代の“俺”にとって「ガンダムの続編」は許せない、というのがそもそも「枷」だ。しかもその「ガンダムの続編」というのが疲弊期の富野らしくカタルシスのない戦闘と陳腐な悲劇を描くものだったのだからなおさらである。『ΖΖ』の“新風”がどれだけ新鮮に映ったかということでもある。

 だから『Ζガンダム』は複雑な思いをもった作品である。『Ζ』を中和したとでもいうべき『ΖΖ』の方がよっぽど好感がもてる。

 シャアが生き延びている、というのが初代世代の俺にとっては、失望を感じさせるものだった。
 初代ラストでせっかく格好良くキメたのに「それはないよ」と思った。親友を謀殺した卑劣漢の最期の言葉がその親友への手向けだというのがカッコよかったのだ。それがのうのうと生きているのだからガッカリだ。これも初代世代である「俺の枷」なのだろう。

 『ΖΖ』を気に入っているひとつは、この作品では比較的「俺の枷」に縛られないで済む、ということもあげられるかもしれない。「なーにがガンダムよ」という気分が「ガンダムはシリアスでなければならない」という呪縛を解き放っていた。初代は子供番組だったのだ。ガンダムはもっと気軽なエンタメであっていいはずなのである。
 若いスタッフに任せたところがあったせいか、疲弊期の富野作品では珍しく、繰り返される陳腐な悲劇を描かなかったのが気に入っている。(終盤富野色が濃くなって台無しになるわけだが)

 『逆襲のシャア』に『Ζガンダム』の要素(地球連邦政府への絶望、忌まわしい記憶をもったアクシズ)を入れたのは、失敗だったと思う。たださえ続編映画であるがゆえに不分明な作品である。初代の要素ばかりか『Ζ』まで入れては観客は置いてけぼりだ。
 このあたりに苛つくのも「俺の枷」だろう。

 『逆襲のシャア』を制作するのであれば、『Ζ』『ΖΖ』という作品はいらなかったのではないか、という思いがある。
 アムロとシャアの因縁をもっとララァに集約させ、ふたりの男の確執をもっと前面に出した方が、続編映画の要素を軽減できたような気がする。
 これも初代世代の「俺の枷」なのかもしれない。

 俺は「自分の枷」からどう抜け出していいのかわからない。
 いや評論家ではないのだし、求道者のごとき本格アニメファンではないので、それはそれでいいのかもしれない。
 当Blogは、こんなバカなやつもいましたよ、という証言のひとつであるからだ。

 しかし俺は悔しい。尊敬する諸先輩方やアニメファンたちが、『逆襲のシャア』を絶賛しているのに、俺にはさっぱりわからないからだ。

『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』について 6/6

 主人公ふたりと、敵ひとり、というのが『機動戦士ガンダム』の基本構造だと書いた。敵ひとり、というのは敵の描写を減らすためではないか、というのが俺の憶測だった。おかげでシャアは忙しい男になった。指揮官とパイロットを同時にこなすという嘘っぽい設定になってしまっている。子供番組の気安さがある。
 子供番組の基本構造は『逆襲のシャア』にも引き継がれている。シャアは総帥とパイロットを同時にこなす。軍事方面に完全に疎い俺だが、大人向けの映画でこの設定はリアリティレベルを混乱させているのではないかと思う。初見殺しである。

 作品冒頭、さっそく戦闘場面があり、シャアはみずから単騎で出陣することになる。誰も止めない。ここでシャアの紹介がある。作品世界の紹介にもなっている。作品のリアリティレベルを疑わせない強引な措置とも言える。
 シャアがなぜ単騎で出陣しなければならなかったのか、といえば強化人間ギュネイが苦戦しているからである。強化人間とは常人を超えたパイロットだ。そのパイロットすら凌駕するのがシャアというわけだ。普通の兵士では無理なのである。しかし強化人間の説明がないだけにシャアの凄さを表す場面とはわからない。わかりやすさより世界内ロジックを優先させている。富野の魅力であり欠点でもある。その点でも初見殺しだ。

 シャアとアムロが対立し旧知の仲であること、隕石落としの成功、隕石落としの意味、シャアの野望、あえてファンネルをつかわない謎、ついでのように強化人間のMSを難なく破損させるアムロ、はやるギュネイ、そんな若者をさとすように撤退を指示する冷静さ、などなどこれほどの情報量が「シャアとアムロの芝居」という表層の魅力の下に凝縮されている。さすがの富野であり、さすがの初見殺しである。
 
 表層の芝居の魅力や巧みなストーリーテリングで、「なんとなく」で充分観れる作品だ。アクションとメロドラマ、フィロソフィーなどぞんぶんに楽しめることができる。よくできた映画なのだ。しかしその楽しさだけでは娯楽作品としては“弱い”のも確かだ。富野フィルムらしく、緻密に圧縮された情報を読み取ることによって、よりいっそうの魅力を発揮する作品といえる。

 『逆襲のシャア』は一本の映画として観るのがつらい。“本気”の富野がみられる作品なだけに、もどかしく、悔しく、残念なことだ。
 映像表現とは別のところ、脚本レベルに関しては、富野の作家性が剥き出しになった小説作品の愛読者だっただけに、これといった新鮮味が感じられず、「作家としての富野の疲弊」を感じさせられたことも残念に思ったことのひとつだ。映画作家としての凄みに比して、内容があまりにも「いつもの富野」であった。拍子抜けをした。

 しかしシャアとアムロの決着をつける本作の場合、「いつもの富野」である必要もあったのだろう、と今となってはわかる部分もある。「どこかでみた」繰り返される対決の「陳腐さ」が本作のテーマのひとつだからだろう。シャアとアムロの対立は、その壮大な背景に比して、あまりにも矮小である。芝居の魅力が情念の葛藤だとしても、シャアとアムロの確執は、青臭い若者のそれと少しも変わらない。

 若き日のシャアはアムロと対決し、そのなかで二重の意味で最愛の女性ララァ・スンを失うことになる。ひとつはララァがアムロに惹かれたこと、もうひとつはララァがアムロに殺されたこと。そのことは、最低限の続編要素として作中で説明される。しかしそれは説明でしかない。作品の根幹をなすほどの重量が与えられていない。このことも今作をわかりづらいものにしている。
 シャアがララァという寝言を言う男であることが明かされ、それが事実らしいということは彼の現在の恋人ナナイ・ミゲルがララァの再来と言われる13際の小娘を意識してしまう場面で表現されている。シャアがナナイの胸に甘えるように顔を寄せたあとの芝居なだけに余計に印象に残る。その印象がのちのち活きてくることになるのだから周到な作劇といえる。その周到さが続編映画の要素のなかに埋もれてしまうのが惜しいのだ。

 今作においてシャアは大量虐殺者だ。これから虐殺しようとするという展開だが、作品がはじまる前にも隕石を落として大量の人命を奪っている。
 しかしそこを描かない。作中人物の台詞を借りてその事実が語られるだけだ。シャアが巨悪にみえない。意図的なものだろうか。ここもまた今作をわかりづらいものにしている。

 シャアが巨悪にみえないことは、アムロとブライトの正当性をわかりづらいものにしてしまっている。腐敗した現実であっても巨悪からは守る、という正当性である。
 シャアの大望に対して、守勢に回るしかない情けないキャラクターにみえてしまうのだ。悪くいえば体制の走狗にしかみえない。ヒーロー然としていない。活劇としてのバランスが悪い。シャアに偏りすぎている。今作の「失敗」のひとつだと思う。

 シャアに偏りすぎたという「失敗」はクライマックスで表出する。
 愚かな人類をいますぐ矯正してみせろ、と言い放つシャアの情念に対して、アムロの抗弁はあまりにも綺麗事だ。
 ララァ・スンは私の母になってくれたかもしれない、という告白に対して、アムロは絶句するしかない。

 表面上は「対決」している二人だが、実質は対立にすらなっていない。シャアの独擅場だ。アムロはただのシャアのインタビューアーでしかない。
 人類の業を背負いララァへの恋慕を語るシャアの前にあって、最低限の正当性すら持たされなかったアムロは空々しい正論しか吐けない。
 そんなアムロが最終的にシャアに勝てるわけがないのである。

 だからこそラストはご都合主義の奇跡にしかみえない。
 俺にとり今作にいまひとつノレなかった最大の理由はそこだ。

 とってつけたようなラストをのぞけば、今作は苦いペシミズムが横溢している。苦いペシミズムは手塚治虫から富野由悠季が継承したもののひとつだ。そこに殉じきれなかった不徹底さを残念に思う。

 若いニュータイプの勝利と青年シャアのけじめを描いた初代ガンダムから、若いニュータイプの陳腐な悲劇と中年シャアの陳腐な戦いを描いた今作までで、ガンダムは完結したことになる。(『F91』で再起動される予定になるのだがそれはまた別の話だ)
 ガンダムはこの変遷によって、ジュブナイルの甘美な希望の物語から、陳腐な現実に埋もれていく大人の物語までを描いた一大ビルドゥングスロマンになったと言っていいだろう。

 ガンダムを卒業できなかった大人のための物語である。ガンダムを語るうえで決して外していけない作品であることは間違いない。

 オトコという、過去を清算できない生き物を描いた興趣つきない映画だ。

『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』について 5/6

 初代『機動戦士ガンダム』は本来は「ダブル主人公もの」だったのではないか、というのは以前書いた。“本来”はアムロと同時にブライトもまた主人公だったのである。
 『逆襲のシャア』は星山・安彦ワールドと切れているだけ、“本来”の構造が際立って表面化している。ブライトの重要性を抜きにして『逆襲のシャア』は成立しない。

 ブライトを要にすれば、アムロ─ブライト─ハサウェイ─クェス─シャア─アムロ……という連環がみえてくる。この連環こそ『逆襲のシャア』の核だったのだろう。連環が各人の物語を繋ぐからである。
 しかし初代ガンダムで脇役にされたのが祟った。“本来”の構造に戻そうにも、ブライトはすでにメインストーリーから外されてしまっているからである。「もうひとりの主人公」たらしめるほど、作品の主筋にからめていないのだ。

 富野ワールドではブライトは主人公たる男だが、いざ映像化するとなると、初代ガンダムからのルックスが邪魔をして脇役にみえてしまう。もちろん、常識人を代表するブライトだからこそ、あのルックスでいいという見かたもある。しかしもう少し何とかならなかったのか、というのが俺の見かただ。
 それはハサウェイにもいえる。ハサウェイのキャラクターデザインはあれでよかったのだろうか。クェスとはあまりにもかけ離れたルックスである。美男子である必要はないが、もう少し何とかならなかったのか。
 ハサウェイは『逆襲のシャア』の後日譚とでもいうべき小説『閃光のハサウェイ』でヒーローをつとめる若者である。
 ブライトやハサウェイのキャラクターデザインは、もう少し主人公格の“華”をもったものにした方がよかった気がするのだ。富野ワールドとルックスとの食い違いを一番感じる箇所だ。

 『逆襲のシャア』は一本の映画として観た場合わかりづらい。続編映画という要素のせいもある。しかしそれだけではない。各人の物語がバラバラなのだ。「とっ散らかった」印象がある。
 それは連環が機能しなかったからではないか、というのが俺の感想だ。
 連環が機能するには、ブライトという要は弱すぎたのだと思う。キャラクターに“華”がなく、一本の映画とした場合、「もうひとりの主人公」にみえないのである。

 初代にみられた富野ワールドと星山・安彦ワールドとの齟齬が生んだ「失敗」だったのだろう。

『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』について 4/6

 『逆襲のシャア』は、「アムロとシャアの物語」として観ると、いまひとつ物足りない。俺の場合はそうだ。続編映画としてではなく、一本の映画として観た場合、彼らの背負った物語は、わかりづらい。
 しかし『逆襲のシャア』に物語がないわけではない。「クェス・パラヤの物語」である。

 前述したとおり、俺にはクェスの魅力がわからない。富野ヒロインは悪名高いカテジナ・ルースふくめてみんな好きだが、クェスだけは「わからない」。嫌っているわけではない。文字通り「わからない」としか言いようがない。
 それはまっつねさんのご指摘どおり、クェスは「富野が挑んだ出崎的ヒロイン」だったからかもしれない。ララァ・スンからさらに踏み込んだ出崎的ヒロインなのだ。どちらかと言えば「よくできた作劇」を愛好する俺の嗜好からすればクェスはそこからはみ出しすぎていた。
 出崎ヒロインはもちろん好きなキャラクターばかりだが、それは出崎ヒーローというお相手がいる場合にかぎる。俺の場合少女マンガがわからないのでそうなる。あまり上等な視聴姿勢ではないのかもしれないが、俺は「感情移入型」の観客である。クェスのお相手たるヒーローがいない場合、どうやって彼女を「見つめて」いいかわからないのだ。
 ハサウェイやギュネイでは足りない。足りているのはアムロとシャアだが、彼らは「お相手」ではない。アムロやシャアの立場で「見つめて」しまうと、ただの小娘に映ってしまう。これはこれで富野の狙い通り、「正解」のひとつなのだろう。
 しかし『逆襲のシャア』が「クェス・パラヤの物語」でもあるとしたら、その「正解」はあまりにも貧しい。

 JINさんにご指摘していただいたのだが、一口に「ニュータイプ」といっても変遷があるようなのだ。
 ニュータイプの理想は「誰とでも」交感することだ。しかしアムロとララァの交感が「密会」であるように、それはセックスに似たものになる。
 そしてカミーユという女性名をもった美少年が「男女問わず誰とでも」交感することにより壊れていくのが初期ニュータイプの到達点だ。
 ニュータイプがゆえに自他ともに破滅を迎えるような衝動性を抱えたのが“カミーユ以後”のキャラクターだという。
 その“カミーユ以後”の究極がクェス・パラヤらしいのだ。

 この変遷のなかでわかるのは、富野はニュータイプの理想を少しづつ捨てていった、ということだ。
 初代ガンダムラストの甘美さは星山テイストだと思うのだが、富野はそれに抗うようにニュータイプの理想を捨てていく。

 ニュータイプの交感がセックスに似たそれだとしたら、「密会」の甘美さばかりではなく「レイプ」の悲惨さを招くこともありうるのだ。
 富野ガンダムにおいて「勝手に交感され激怒する」のが女性キャラクターなのはそのためである。
 そしてそれをなだめるために「生身のコミュニケーション」をとろうとするのが男性キャラクターである。
 小説『機動戦士ガンダム』でアムロがクスコ・アルを口説くのに失敗したように、「勝手に踏み込んだ」男性キャラクターたちは口説く手順を間違えている。ヒロインたちが怒るのは無理がないのだ。

 クェスは「交感」よりも「衝動性」が強調されたキャラクターだ。「娼婦性」が欠落した「処女性」をもったニュータイプといえるだろう。「誰とでも寝る」のではなく「誰とも寝ない」のだ。
 そこには初期ニュータイプの面影はない。“カミーユ以後”のリビドーに振り回される若い衝動性が描かれることになる。

 リビドーは富野作品の根幹だ。「クェス・パラヤの物語」においてはクェス、ハサウェイ、ギュネイのそれが描かれている。
 なかでもクェス・パラヤの「生きた感じ」は突出している。ハサウェイやギュネイすら「役割を演じているだけ」にみえるほどだ。

 クェスは、アムロとシャアをつなげ、若者と大人をつなげる作劇上の位置にいた。
 しかし「誰とも寝ない」ニュータイプの彼女は、誰と誰ともつなげることなく、作劇上の役割を果たさない。

 アムロやシャアにとっては「ララァの再来」になれず、ハサウェイやギュネイにとっての「ララァ・スン」になれない。

 クェス・パラヤとは「作劇上の役割を果たさない」のが「役割」である特異なキャラクターだった。彼女はノイズであり、『逆襲のシャア』をペシミスティックな物語にするための生贄だ。「作劇上の役割を果たせない」クェスは「作劇の外」に放置されたまま本筋にからむことなく「作劇の外」に放逐される。
 こうして「クェス・パラヤの物語」は終幕する。
 作劇を阻害させていた彼女の不在によって、『逆襲のシャア』は本格的にそのメカニズムを作動させていく。あとは物語が終盤に向けて展開していくだけだ。

 クェスという歯止めを失った物語は、一気にアムロとシャアの対決に向かっていく。その対決は「作劇上の範囲内」でしかない。
 「クェス・パラヤの物語」が必要になるのはそのときだ。
 それは『逆襲のシャア』が「ガンダム」のお約束から解放されるためのレイヤーだった。繰り返す悲劇に囚われた『Ζガンダム』の反省がそこに活かされている。
 「ララァの再来」たりえないクェスの運命は「ガンダム」が囚われた悲劇の反復たりえない。ララァ・スンの悲劇の反復に囚われてきた「ガンダム」は「クェス・パラヤの物語」によって回避される。クェスが「役割」を遂行しなかったからだ。

 「クェス・パラヤの物語」は続編映画『逆襲のシャア』で描かれた唯一のちゃんとした物語だ。
 クェス・パラヤはヒロインではなく、主人公と言っていいだろう。

 クェス・パラヤの魅力がわからない俺でも、そのことだけは認めなければならない。

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