ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

『Gの閃光』について

 『Gの閃光』については以前にもいろいろ書いた。

 ・俺とはちょうど交錯しない距離にある。
 ・『Gのレコンギスタ』のラストにピンとこないので微妙な曲に感じる。
 ・老人の諦観と、孫をもつ爺やとしてのあがきもある。
 などだ。
 基本的には俺にはその素晴らしさがわからない曲だった。
 しかし『G-レコ』という作品にとっては、とても重要な曲である、ということが俺なりに理解できるようになった。

 ひとつはkaito2198さんの『Gの閃光』論だ。
 「「コスモスに君と」や「月の繭」に比肩するものだ」という指摘にびっくりし、

 そんな中、作品のテーマを固定して、最初から最後まで持たせたのは、実質的に「Gの閃光」というエンディング曲といっても過言ではないだろう。富野がこの曲を「真のテーマソング」と呼んでいるのも、きっとこれのためだろう。



 という指摘に教えられることがあった。「な、なんじゃとてー!!」という感じだ。

 もうひとつは富野のアニメツーリズムについてのインタビューだ。

 

なので、100人中99人はただ単純に「あー、聖地楽しかった」だけでも全然構わないけど、残りのひとりかふたりが外の世界の刺激を受けてなんらかの才能を開花させてくれたら嬉しいのです。そういう子らが次代の日本を引っ張るような存在になってくれるはずだから。



 という思いを語っている。
 これは『G-レコ』のラストにおけるベルリを彷彿とさせる。なぜいまさらバックパッカーというモラトリアムに退行するのか、謎だったのだが、「外の世界」という言葉で納得できるようになった。

 『G-レコ』のエンディングは敵味方関係なく皆でラインダンスを踊るというものだ。これを俺は「なんとなく」観ていた。『OVERMANキングゲイナー』のモンキーダンスと似たようなものだろうと。諸事情あってエンディングに回された真のオープニング曲だと「なんとなく」思いこんでいた。
 しかし違うのではないか、というのが今回俺が得られた感触だ。

 『Gの閃光』はエンディング曲でならなければならなかったし、『G-レコ』のラストにもその映像とともに流される曲でならなければならなかった。
 「外の世界」というのがキーワードなのだと思う。

 俺の理解するところでは、映画には演劇の尻尾がついていて、富野作品もまた正統派の映画として演劇的要素がふくまれている。
 『G-レコ』は「世界周遊記」だ。世界を見て回るお話である。しかしその世界は富野がつくった演劇の舞台でもあるのだ。

 その舞台から舞台の「外の世界」(この場合リアル)に帰すのが毎回カーテンコールじみた映像に流される『Gの閃光』だった。だからこそエンディング曲でならなければならなかったのではないだろうか。

 それは『G-レコ』全体のラストにも言える。
 『Gの閃光』が流されなければならなかったのは、舞台の主役ベルリを舞台の「外の世界」(この場合アンノウン)に送り出すために必要だったのではないだろうか。
 だとすればバックパッカーのラストも納得できる部分がある。ベルリは富野のつくった作品世界、舞台からただ退場するのではなく、「外の世界」へ旅立たなければならなかったからだ。

 『Gの閃光』とは「外の世界」を見つけて欲しい、そこから何かを学んでほしい、という富野の願いがこめられている曲なのかもしれない。
 根源的な文明批評の果てに見出された諦観を越えるためには、富野自身が知らない「外の世界」が必要とされたはずだからである。


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『G-レコ』劇場版はどう約されるのか

 『ガンダム Gのレコンギスタ』はわかりづらい作品だ。

 ひとつには『F91』以後顕著になった「劇世界にいきなり放り込む手法」によるところが大きいだろう。劇の「はじまり」を端折っているのだ。観客は「世界の紹介」をされないまま世界に放り出されてしまう。『F91』と『リーンの翼』が代表的な例だろう。挫折した観客もいたかもしれない。
 それでも『F91』や『リーンの翼』は『G-レコ』よりマシだった。それが巻き込まれ型のストーリーだったからだ。『F91』でも『リーンの翼』でも観客はいきなり劇世界に放り込まれ「何が何だかわからない」ことになるが、作中人物たちもまた「何が何だかわからない」状況に巻き込まれている。「何が何だかわからない」という感覚はそれで「正解」なのだ。
 『G-レコ』は違う。観客は「何が何だかわからない」感覚に襲われるが、作中人物たちには「わかる」状況なのである。ここに乖離がある。わかりづらさの原因のひとつだ。

 もうひとつは戦い合う勢力が多すぎることだ。『Ζ』の三つ巴どころではない。最低でも五つの勢力が数え上げられる。ひとつひとつ戦っていくストーリーなのだが、戦った各勢力が脱落していく構造ではなく、最終的には一堂に会してしまうのだ。マンガ映画らしく戦艦やMSのデザインやカラーリングで識別できればまだよかったが、各勢力によるそうした統一性はない。少なくともメカ音痴の俺には判別できなかった。これで状況を理解をしろというのは初見殺しにもほどがある。

 もうひとつは物語の不在だ。諸所を巡って世界を体験する構造だが、行った先行った先で待ち構えているのは、人間ドラマではなく、その地その地の政治勢力との戦いである。行った先は違えど政治的確執に巻き込まれ戦闘することは同じある。これでは世界設定の紹介にすらなっていないのではないだろうか。その地に「生きる人間」、その地における「日常」が描かなければ、その地を体験したことにならないように思う。印象に残らないのだ。その地のその地の「設定の意味」にピンと来なくても、人間ドラマさえあれば、行った先行った先の印象がエピソード記憶として残ったはずだ。

 『G-レコ』は「みたこともないような世界設定」をつくった見事な作品である。その「みたこともないような世界設定」がラジカルであればあるほど、語り口にはもっと神経を使うべきだったと思う。
 神の視点で語るのか、視点人物で語るのか、どっちつかずだった。作劇においては神の視点でつくられているが、芝居においては視点人物を必要としているつくりである。ネジレているのだ。
 芝居の魅力が富野作品の真骨頂だとするのなら、視点人物の不在は悪手だったし、神の視点による作劇も悪手だったと思う。
 作劇の段階で物語を仕込み得ていないこと、場面場面における視点のあやふやさなど、そういう点では富野の欠点が出てしまっている作品といえる。

 しかし「そこ」さえ乗り越えれば、愛おしい人間たちの織りなす芳醇な世界が待ち受けている。
 そして「そこ」こそが、劇場版にするうえで問題になるところであろう。

 「状況にいきなり放り込む」というのはテレビ的というより映画的なので、大きな問題にならないかもしれない。
 第一話の緊張感を映画途中のダレ場まで引っ張っていければ、そのあたりの問題はクリアできるのではないだろうか。

 戦い合う勢力の多さは、あるいはいくつかの勢力をオミットするかもしれない。レコンギスタ、反レコンギスタ、主人公勢力の三つ巴に整理できるだろう。例えば、ビーナス・グロゥブ、キャピタル・アーミィ、主人公勢力だ。

 物語の不在は、初代ガンダム劇場版で「アムロの物語」を捏造したように、再構成の妙で捏造するしかないだろう。
 ここが一番大きな見どころだ。
 『G-レコ』から「ベルリの物語」を捏造できるだろうか。初代ガンダムには各エピソードに人間ドラマがあったが『G-レコ』はそうではない。そういう意味ではむしろ『Ζ』に近いかもしれない。
 劇場版『Ζ』ではカミーユ以外のストーリーラインが大胆にオミットされた。しかし『Ζ』はもともとテレビ版でもカミーユの主観世界に近い描き方をしていた作品だ。『G-レコ』はどうだろうか。同じ手法をとることは可能だろうか。
 しかし同じ手法を取りたがらないのが富野でもある。疲弊期には手癖で仕事をしてしまったきらいはあったが、つねに新しいコンセプトワークを求めているタイプだ。『G-レコ』劇場版でも新しいコンセプトを打ち出してきてくれるのではないだろうか。
 『G-レコ』はアイーダが女王になる話だと伝え聞いている。だとすればベルリではなくアイーダのストーリーラインをメインにすえた再構成になるのだろうか。しかしテレビ版から「アイーダの物語」を捏造するだけの量のストーリーが抽出できるとは思えない。
 とすれば、「ベルリとアイーダの関係性」をメインにすえた再構成になるのではないか、というのが俺の予想だ。「ベルリの物語」に必須のもうひとつの要素マスクのストーリーラインが大胆にオミットされるのではないか、という気がしているのである。

 あれだけの情報量の『G-レコ』である。映画として成立させるためには暴力的なほどの無茶な再構成が必要になるだろう。
 無茶をしなければ、テレビ版以上の、わかりづらい作品になってしまうはずだ。

 ナレーションを入れてもらってもいい。とにかく、わかりやすい、一見さんが楽しめる映画にしてほしい、という気持ちでいっぱいだ。

『G-レコ』劇場版はどう訳されるのか

 『ガンダム Gのレコンギスタ』は音響監督や作画監督の手腕もあって、フィルモグラフィー的に画期になった作品になった。初代、『F91』以来の第三の画期と言っていいだろう。ヴァージョンアップではない。
 芝居における隙の無さが突出しているのだ。富野節を必要としないぐらいだ。
 富野が手に入れたがったであろう、ヒトの身体性が、よく描かれていたように思う。生々しい息遣いが聴こえてきそうな芝居をみせてくれた。結局ヒトはオスとメスであるというところまで踏み込めていた。

 ただそれゆえに、わりを食ったのが主人公のベルリだ。慕ってくれる美少女が傍にいるにも関わらずオスとメスをやってみせない、というのはこの作品のなかでは浮いていた。作品の都合があったのだろう。主人公がヒロインと結ばれてしまうと話がそこで一端一息吐いてしまうのである。それを嫌ったのだろうと思う。おかげでベルリは恋人をもてないしノレドは大泣きすることになる。つまり完結感より続編の存在を匂わせるラストになっている。

 富野は『機動戦士Ζガンダム』を劇場版にするうえで、主人公カミーユふくめ、セックスを感じさせる方向に改変したことがある。作品全体がセックスの匂いが強くなっているのだ。「ああ、このあとカミーユはレコアでヌイたなー」と想像できてしまうのである。映画版のカミーユはファと寝ていて、それでも他の女にも気が行っている、ファがそんなカミーユをちゃんと見てる、とそういう芝居に見えた。
 劇場版『G-レコ』はそのあたりどうなるのか、いまから楽しみにしている。テレビ版でもじゅうぶん生々しかった作品がさらに艶めくのか、胸を躍らせているところだ。
 ベルリはちゃんとアイーダでヌイていると感じさせる芝居をみせてくれるのだろうか。ちゃんとノレドなりラライヤなりと肌を重ねることができるのだろうか。そういう雰囲気をもつ芝居になるのだろうか。

 作品の都合上、ベルリ以上にわりを食ったのはアイーダかもしれない。かつてカーヒルという恋人がいたとはいえ、作中では男っ気ゼロである。『F91』のセシリーはシーブックと行き違いになるとザビーネになびく気配をみせた。メスとして当然の心の動きだと思う。アイーダにはそれがない。ロマンチックなお姫様救出劇を描いた10話以降、アイーダがベルリを自分を守るオスとして意識しても良さそうなものだが、そうした描写はない。
 このあたりをどう膨らませるのか、それも楽しみだ。アイーダがベルリにオスとしての魅力を感じる展開になるか、メスとしてねんねすぎて男っ気を必要としていないか。後者だとしたら、カーヒルはよっぽどセックスが下手だった可能性がある。
 ベルリとスカッシュをやりたがるアイーダ。しかしラ・グー総裁のムタチオンの身体をみて、私は人類の女性として健康!と確かめるように(別の男性と)スカッシュをやる。メスとして健康ということだ。スカッシュは何を暗喩しているのだろうか。

 作品のお約束的に、ベルリとアイーダは、セックスの匂いのするフィルムから切り離されている。
 劇場版でかれらは果たしてセックスを取り戻すのか。その場合、アイーダの相手役はベルリになるのか。インセストの問題はどうするのか。
 手塚治虫だったらインセストなど気にしないだろうが、富野がそれを描くとはとうてい思えない。このあたりもスリリングだ。

 あるいはアイーダは処女に改変されるかもしれない。ヴァージン・クイーンだ。富野がカーヒルと寝たことにしたのを失敗と言ったという話はそのあたりかもしれない。
 アイーダが女王になるという話だけでは『∀』のヴァリエーションになってしまう可能性があるからだ。

 何はともあれ劇場版第一作が成功するのが第一である。成功を祈るばかりだ。

Gのなんじゃとて のなんじゃとて

 『ガンダム Gのレコンギスタ』は第1話からうかがえるように必ずしも富野色全開というわけではない。
 しかしそれにしたって面白芝居の少なさは例をみないのではないだろうか。
 面白芝居とは文脈関係なく楽しめる、エキセントリックなアレのことだが、それが思いのほか少なかった。

 「Gのなんじゃとて」は『G-レコ』の魅力を面白芝居をフックとして描き出すつもりだったのだがアテが外れた。
 だが俺にとり回を追うごとにはっきりとする面白芝居の少なさは新鮮な体験となった。

 富野脚本でどうなっていたのかは知らないが、音響監督の手腕も光る今作、面白芝居の少なさはよい選択だったと思う。
 あるいはこれが富野の本領かもしれないと思えるのなら、それはそれで興味深いことである。

 以前、JINさんとのコメント欄でのやりとりで、ある意味俗にいう富野節は認めていない、作劇の弱いところに頻出するからだ、と書いたことがあるのだが、今作はその点では「成功」したのではないだろうか。
 “わかりづらさ”はじめ「失敗」も散見できる今作だが、芝居における隙の無さでは突出して出来のいい作品であったといえる。

 遺作というにはあまりにももったいない、フィルモグラフィー的に分岐点となる重要な作品で、早くも次回作を期待したくなった。
 なにより“処女作”の熱気をもった作品を突如つくりだす鬼才ぶりは驚くばかりで、まだまだ現役でがんばって欲しいと願わずにはいられない。

Gのなんじゃとて 第25話から第26話 ネタバレあり

 ・第25話「死線を越えて」
 凄惨な殲滅戦のなか女司令マッシュナー・ヒュームの指示で生き延びた戦艦クノッソスであってももはや戦えるといった状態ではなかった。それでも戦えると主張するのがマッシュナーであれば艦長の態度も煮えきらないものになるのは仕方のないことであったろう。フルムーン・シップの乗っ取りを仕掛ければいいと明言されても「我々はガランデンの下を潜りぬけなければならないが」という話にはさすがに聞き捨てならなかったのだから艦長は片手を挙げて制止しようとする。その手をパチンと払れれば話の腰を折ることに失敗したことを知る。払われた手を見つめながら話のつづきを聞かされることになる。それでも「我々を追っているサラマンドラがガランデンとやりあってくれる。そうなれば我々が勝ちにいける」などと言われれば顔を上げて「そーんなにうまくいくか」と相手をするしかない。この一連の芝居がいい。「うまくいくってロックパイが言ってるんだよぉ」と目を見開きながら宙をみつめるマッシュナーの様子は尋常なものではなく、地球に引っ張られるんだぞと艦長が言ってもきかないのだから、さすがのクルーも投降しましょうと口出しをせざるをえない。「引っ張られないように加速!」と自ら操作したマッシュナーは見開いた目で宙を見つめながら楽しそうだ。この場面のマッシュナーの演技がいい。
 「大丈夫?」と心配げに声をかけるベルリには応えずにいられるアイーダだが「お父様のこと、ご愁傷様でした」とラライヤに真面目に言われれば「ありがとう」と応えるしかない。ここの流れもいい。目をつむるアイーダ。少しの“間”ができる。その“間”のあいだにハロビーが下から上へと動く。「父は……」と語りだすアイーダ。“間”のあいだに黙考をしていたことをうかがわせる場面だ。時代や組織にどう向き合ったか、父の人生の輪郭を描いてみせるアイーダ。平静な声だ。「ヘルメスの薔薇の設計図に踊らされて」具体的な話になると高ぶってくる。「イノベーションだ、宇宙の革新だなんて」父の夢について語りだすと涙をこらえる様子になる。ここの芝居がいい。
 マニィはMAジーラッハで戦場に駆けつけることを決意する。モニターごしに引きとめようとするフラミニア。そのモニターをさえぎるマニィの背中。同時にフラミニアの話もさえぎられる。ここの場面がいい。バララが心配だというのが表向きの理由だから「バララに手柄を立てられたらルインを」という独白は胸中に秘めていなければならないはずで「とられちゃうじゃない!」と出撃の気合とともに思わず叫んでしまうマニィは「女の力で~!」とかつて無茶をした少女であったこととかわりがない。
 お悔やみを言われても傷心をみせず的確な指示を出してみせるアイーダであっても艦隊の指揮を執れと言われれば泣き出しもする少女にすぎない。窓?越しに手のひらを合わせているのはドニエル・トス艦長だから優しいいたわるような声で説得もしてくれる。「そんなの無理です!」首をふるアイーダ。掌を離す艦長。「姫さまの義務なんですよ!」そこにドンと叩く。この流れがいい。作品内で二度目の“姫さまの義務”。後ろのステアの表情もいい。泣くのをこらえている。涙をこらえきれず画面外にでるステア。ここの芝居もいい。涙は窓越しのふたりをつなげる。「私にはできないよステア!」「あんたにはできるんだよ!」ここもいい場面だ。第五話以来アイーダとステアの親密さを知らされる場面でもあるしそのときはグルーミングで慰めてもらう後ろ姿を映すだけの場面であっただけに、“互いに顔を映す・慰めより激励・触れ合えない窓越し・こらえきれない涙”という対比がいきてくるからだ。
 G-ルシファーの一部武装を失って「ハッパたちにどやされるぞ」とケルベスに言われていただけにメガファウナデッキで「遅いんだよ!みんなは!」と殺気立っているハッパにその勢いのまま話かけられるものだから「こわい~」と怯えて身をのけぞらすラライヤとノレドなのだ。このときのふたりが可愛い。仕草も台詞も完全に同期しているのはアニメならではの可笑しさでもある。
 「ビームシールドを張るんだよ!」と指示するマッシュナー。「出力は分散できません!それもロックパイの指示だってのか?」と艦長。「そりゃそうでしょう!」と嬉しげに断言するマッシュナー。でしょう!の演技がいい感じだ。
 戦場の火球の数を観て「マスクと敵も互角の数ってこと?」とマスク呼ばわりをするマニィだって初めて実戦に突入するのだから「ルイン先輩!お手伝いします!」と気合をいれるのは自然なことだ。呼び名の違いが面白いのがマニィの芝居だから目が離せない。
 ジット団のビーナス・グロゥブ製のモビルスーツはその性能で敵モビルスーツを圧倒する。「ビーナス・グロゥブの技術に土下座させてやる!」と敵を撃破するクン・スーンの台詞は気持ちいい。「が!死に物狂いの人間は怖いぞ!」実戦を知らないジット団の連中に独白するマスクだから「トワサンガ人は月を見てりゃいいのだ!」と弾幕のなか駆ける勢いがカッコいい。 
 マスクの直撃をくらうクノッソス。マッシュナーはかがみながら耳に両手をあてている。この芝居がいい。耳をふさいでいるだけのか、聞き耳をたてているのか、両方なのか、判然としないところがいい。ついに撃沈されるクノッソスではマッシュナーが爆炎に包まれる。「一緒だねええ」と笑いながら蒸発する。宇宙をはしるニュータイプの音に魅入られた者の末路なのか。正気を失っていく過程を見せられていただけにある種の安堵感を覚える不思議な味わいのあるいい場面だ。
 敵戦艦の壮絶な最期を見つめながら「これが戦争かぁ」と感動するチッカラ・デュアル。「戦争が文化を進歩させるとは、キア・ムベッキ隊長のお言葉でした」と胸のロケットペンダントにそっと手をあてるクン・スーンは感無量といった趣だから「なにか?マスク大尉」とこわねが急変するところは噴く。
 ジット団とマスクとの温度差を描いてきただけにMAジーラッハがきてくれたと知って「マニィの光」と呟くマスクのこわねも変わるところもいい。
 「クンパ大佐もここで降りたのです。怖がっている職員は励ましてあげないと」と言われれば法皇とて沈黙せざるをえない。ウィルミット・ゼナム運行長官の決然とした態度に感動とも気圧されたともとれる判然としない芝居がいい。微妙な表情のままの法皇が画面に向かって手をにぎにぎして挨拶するのが可笑しい。
 ドレット艦隊が全滅したのだから後はアメリアのサラマンドラだけだと息巻くジュガン・マインストロン司令官にメガファウナの話をもちだすクンパ・ルシータ大佐は手に持った紙束のなかから一枚をみせる。ウィルミットは「メガファウナに私の息子がまだいるんじゃないんですか」と言ってクンパから紙束をとりあげる。ここの紙束をめぐる芝居がいい。
 「あの四機はビーナス・グロゥブのもの!」とミック・ジャック。「ならば互角か!」とクリム・ニック。ここは可笑しくもカッコいい場面だ。会話が成立しているように聞こえるのが可笑しい。もちろん会話が成立しているわけではない。ミックと同時に「ビーナス・グロゥブのもの」と視認していたからクリムも「ならば」と言えたのだ。同じビーナス・グロゥブ製のものならば二機と四機で互角だと言い切ってしまうクリムがカッコいい。
 「出稼ぎ部隊など沈めぇ!」とミック・ジャック。ここの台詞も噴く。出稼ぎ部隊って(笑)。
 宇宙育ちがいぶかる「足元って下だろ?」という台詞が「あいつら重力は気にならないのかい?股がすーすーするのに」という台詞につながるのがうまい。地球に対して足を向けるかたちで機体を制御していることがわかる。「おしっこ出そう!」という台詞にもかかる。 この流れをマッチョなチッカラが言うのだから可笑しい。「気合を入れよ!」「せいの!」「ふん!」ここも可笑しい。直後にアイキャッチである。ここも笑える。テレビならではの面白さだ。
 二機のモビルスーツが接近し戦闘になるだろう局面でベルリは編隊から離脱することを命令される。「出撃前の命令どおり、ベルリはガランデンを説得する!」とアイーダが言っても「ジット団のモビルスーツかもしれないのに!」とベルリはためらう。「姉貴の!私の命令でしょ!」とアイーダが突き飛ばす。ここのやりとりが好きだ。
 「ビーナス・グロゥブの人は武器は使わない!」ジット団と戦闘になったときのアイーダの台詞も印象に残る。使わないはず、と言いたいのか、使ってはだめ、と言っているのか判然としないのがいい。
 「ベルリ、お願いだからルインのために負けてやって!」「ベルリ、マニィのためにやられてやってくれ!」ここの場面が好きだ。マニィとルインの思いが伝わってくる。
 「ベルリはいっぱいいい目にあってきたんだから、残りの運は私たちに頂戴よ!」と叫ぶマニィがせつない。二人がかりでもかないそうにないベルリがついにルインを追いつめたような場面ででた台詞だ。圧倒的なベルリはしかし戦いに勝利することが目的ではない。「もう残っているのは二隻だけなんだから戦うのは止められるでしょう!」このすれ違い。
 大気圏突入を前に緊迫する戦艦サラマンドラではクルーのひとりが耐熱フィルムは本当に大丈夫なのかと懸念を表明するが「大丈夫だから本艦にも塗ったんでしょ!」と航海日誌とマッシュナーが趣味の艦長がテンパってどなる。塗ったんでしょ!の声が可笑しい
 大気圏突入寸前の戦艦ガランデンでは「マスクのカバカーリーはどうしたんだ?」と艦長が怒鳴っていた。「マスク機、画像出ます!」「これか!よくわからん!」ここも噴いた。即答というのが可笑しい。
 大気圏突入前のメガファウナへはベルリG-セルフが武装の性能を利用してG-アルケインとG-ルシファーを推進していた。「そのまま、まっすぐです」「さすがベル!」「メガファウナです」三人の少女の声が華やかだ。「こういう使い方もあるんだ」とベルリも嬉しそうである。殺気立ってない主人公勢力。他のニ勢力との対比がいい。
 「サラマンドラはなんで逆噴射をかけないんだ!」ミック・ジャックは苛立っていた。艦長はまったく要領を得ない。耐熱フィルムを塗ったのだから大丈夫だし最新鋭の船なのだから大丈夫と言う。「船体に傷はないな?」「へ?」「かたちが複雑なのは気にならないか?」「かたちが複雑すぎるって」「問題なんだよ(イラッ)、大尉ぃ」このやりとりが可笑しい。「冷却システムがわかったぞ! ミック!来い!」「クリム大尉!」このクリム・ニックの頼り甲斐。艦長との対比。まるで男の胸にとびこむようにミックのMSが飛ぶ。ここもいい場面だ。
 マニィのMAジーラッハとマスクのMSカバカーリーは大気圏突入中だった。マスクの指示に「はい」「はい」と応えるマニィ。「俺とマニィが一緒に助かるためには」マニィが聴いている。「この方法しかないと思った」髪をかきあげるルイン。「失敗したら一緒に死ぬことになる」「いいわよ、ルイン」ここの芝居も好きである。いいわよのとき突然こわねが変わる。今までハイハイだったから余計に印象的だ。
 戦艦ブルジンに乗らずウィルミットが操縦する大気圏グライダーに搭乗したクンパは「私はただ物事を観察する傍観者ですから」とその理由を述べる。「ブルジンを呼び戻したのは大佐でしょうに」と思うウィルミット。ここのやりとりも引っかかるものがある。戦争に勝利できたかもしれない局面でブルジンを撤退させたのがクンパだからだ。傍観者ということはありえない、なにを考えているんだ、と視聴者を気を持たせる場面だ。
 「空気抵抗だ、ダーマを放出する」「いきなり実戦でダハックですよ」「だれが操縦していると思っているんだ」「あはは 天才クリムでしょ!」ここのやりとりもやっぱり好きだ。抱き合う二機のモビルスーツもいい。
 G-セルフの存在をキャッチしたMAジーラッハのマニィ。「よし、一撃で仕留めてみせる。それが友人であった者への礼儀だと思っている」とルインが決意を言葉にすれば「そうしてやってください。そのための手伝いはします」とマニィも覚悟を言葉にする。ここのやりとりもいい。悲壮感が漂っている。
 「クン!地球ってさ、あったかいね」「キア隊長、これがほんものの土の色ですよ。緑もみえる」クンはロケットペンダントのキア・ムベッキの写真に緑の大地を見せる。ここはやはり感動的な場面である。

 ・第26話「大地に立つ」(完)
 G-セルフ単機で大気圏突破をしてみせたベルリであっても戦果どころか母艦ともはぐれてしまえば反省もする。ヘルメットを脱ぎパイロットスーツの前も開けるのだから油断していたと言われてもおかしくはない。水分補給はボトルで片手がふさがれるので一息入れたいときになる。敵影が急迫していることに気づいたのはそんなときで、あまりの動揺にボトルをしまえずどこかに放り投げてしまう。この流れが面白い。超人ベルリの単純なヘマが物珍しいし、なによりその慌てぶりが可笑しい。水分補給用のボトルをなくしてしまうというのも暗示的だ。一息つけないのではないかという予感である。
 G-セルフの上空から急迫してきたのはMSカバカーリーとMAジーラッハの二機でマスクとマニィの機体だ。マスクは狂喜しつつベルリG-セルフに戦いを挑もうとするが「G-セルフの上空にも二機、あります!」とマニィに指摘されてしまう。G-セルフ上空を駆けるもう一方の機影はMSダハックとMSトリニティの二機でクリム・ニックとミック・ジャックの機体だ。ミックは初搭乗のダハックで実戦にでることを心配するがクリムは機体性能を使いきってみせると言い切る。「天才は天才だろう」と平然と告げたときクリムもまた上空に機影を見る。MSジャスティマとMSマズラスターの二機でチッカラ・デュアルとクン・スーンが乗っている機体である。コンソール画面をみるクンはジット団が製造したビーナス・グロゥブのマシンが集結していることを知る。「センターのアンノウン以外は」ここの流れも面白い。G-セルフの上空に続々登場する編隊(笑)。その中央に位置するG-セルフ(笑)。この流れも楽しい。
 G-セルフのベルリが大ピンチかもしれないという流れのなかで「姫さまがベルリを救けるって」という場面になるのだからアイーダの弟への愛は本物だというのが伝わってもくる。温かくなる場面だがアメリア軍の新手が現れキャピタル・アーミィのブルジンすら降下してくると知ればメガファウナだって危ないと流れていく。その流れのなかでアーミィのジュガン・マインストロン司令がマスクだって戦っているらしいと知らされればG-セルフの戦闘場面へと繋がっていく。この疾走感がいい。
 G-セルフの戦闘場面はマスクとのものではなくマニィとのものだったのだからベルリはあっさり逃げ去るわけでそこで混戦を予感することにもなる。混戦のなか「なんでこうなるまで混戦をやるんです?地球人は戦争オタクですか?」と慨嘆するローゼンタール・コバシはビーナス・グロゥブの男だが「ガランデンの働きは観たいのですが」と言ってしまえるクンパもまたビーナス・グロゥブ出身とあれば人類の業とは根が深いものだと知る。ここの皮肉がきいている流れも好きだ。クンパを乗せたグライダーがガランデン上空を横切るのだからそこにマスク機がいてもおかしくはなく「ガランデンに合流しろ」とマニィに告げることもできる。パイロットスーツの前を開いているマスクなのだから余裕があったことも知れてベルリを見失っていたことも知れる。「飛び級生は何を考えてるんだ!」と吐き捨てるのは混戦のなか戦争をしているようにはみえない姿で単機飛行するG-セルフを発見したからだ。対マスク戦に繋がっていく。いよいよか!と感じさせてくれるいい流れである。
 G-セルフを駆るベルリは「艦隊の戦いは止めさせる」と宣言しているのだから隙もうまれる。隙はマスクの急襲を呼びMSカバカーリーから放たれたビーム・リングはG-セルフを捕捉する。捕捉されれば電撃をくらうのだからベルリは痺れて金縛りにあう。金縛りなどは全方位レーザーで破ってみせるのだから「G-セルフは悪魔か!」と罵られもする。ここはG-セルフの独壇場だ。いつもの流れではあるが楽しい。G-セルフは悪魔などではないのだから出力が続かないのが現実ともいえる。現実はビーナス・グロゥブのマシンが強力であることも教えてくれる。この流れもいい。G-セルフの優位性がなくなってきていることを知らせる場面だからだ。ビーナス・グロゥブのマシンが強力であるとはいっても同じビーナス・グロゥブのマシン同士であれば戦闘も激化する。製造者のジット団はマシンの機能を知っているだけに有利に戦闘をしてみせもする。「ミック、迂闊だ!我々のマシンは彼らが建造したものなんだぞ!」とクリムが言えばミックも「そうでした。しかし彼らの戦い方の手の内もわかったんですよ!」「そうだな。ビーナス・グロゥブのジット・ラボの正体も想像がついたというものだ」と会話がつづく。正体を想像されたビーナス・グロゥブのクン・スーンはキャピタル・アーミィの大編隊を目撃する。ここの流れもいい。クリムとミックの会話に興味を惹かれたそばから場面は艦隊戦に移行するからだ。気を持たせるいいのがいいのだ。艦隊戦などはモビルスーツがいれば撃沈されるのが艦船の宿命といえる。宿命なのだから艦隊戦などではなくモビルスーツ戦を楽しんでしまうのがクリムであって「七機!いや九機め!」と余裕で撃墜もする。ここのクリムは文句なくカッコいい。天才の面目躍如だ。撃墜しまくるクリムははしゃいでいるともいえるのだが「あの軍艦に乗っている大人って大きなおもちゃをもらってはしゃいでいるんです!」と生真面目に言えるのはラライヤだからで「あなたたちはそういうものを使う意味をわかっていません!」と軍艦を撃沈してみせる。ここのラライヤは『ブレンパワード』の比瑪ちゃんみたいで凛々しくも可愛いカリスマだ。ここも好きな場面である。ラライヤとノレドをねぎらうアイーダ機が両手をひろげて迎える芝居もいい。
 G-セルフのベルリにだって思いどおりにならないこともある。「今になって!こうも立て続けでは!」という台詞だって吐くことにもなる。追いつめられ感が珍しい場面だ。視聴者があれ?と引っかかるのがいい。マスクとの戦いがあったのだから水分補給もままならないベルリであればG-セルフだって困憊もする。マスクに発見されれば「地上を這いずっていたとは、似合わんぞ!飛び級生!」と嗤われることだってある。そこまで追いつめられていたことを知る衝撃的な場面だ。このときのマスクの台詞まわしがいい。パーフェクトバックパックは伊達ではないのだから多彩な攻撃だって繰りだせる。アサルトで狙撃したのだから威力がなければならないはずでカバカーリーも小破でもしてくれなければマスクにだってバッテリー切れを見ぬかれる。「バッテリー切れだな。ベルリ・ぜナム君!」と言われるのだから戦慄もする。この流れもいい。G-セルフの危機があらわになった場面だからだ。ここでアイキャッチが入るのだから心憎い。バッテリー切れを見ぬかれたってパーフェクトバックパックは伊達ではないのだからトリッキーモードで逃げることだってできる。必死に逃げれば陥没した穴に落ちてしまうことだってある。無線が使えないってわかってしまえば仲間の動向すらつかめないことを知る。「みんなはどうなっちゃっているんだ」と困り果てることにもなる。ここも好きな場面だ。頬を両手でつよく挟んでしゃべるから声がくぐもってしまうのである。声も仕草も可笑しい場面だ。ベルリが初めてみせる仕草なのだからよっぽど困惑しているという場面なのだろう。穴の底にいるのはベルリなのだから上空のモビルスーツ戦は一瞬であったって観る。上空であってもモビルスーツ戦は格闘が基本といえる。「なにがビーナス・グロゥブのジット団だ」とクリムが言えば「しょせん懐古主義の歴史オタクってわかったんだよ」と言い放つミックには油断ができる。油断はビーム・ウィップを呼びミックは電撃に痺れる。ミックのそばにいるのはクリムなのだからビーム・ウィップだって斬ってみせる。ビーム・ウィップを斬られればダハックのビームの強さにクン・スーンだって驚愕をする。「ダハックめ!」とチッカラ・デュアルはもともとジット団の機体であっても吐き捨てる。チッカラの駆るジャスティマはベルリも苦戦した真の強敵といえる。ジャスティマをあっさり撃破してみせるクリムは真の天才といえる。撃墜される瞬間チッカラが「キア隊長!」と最期の言葉を口にするのも印象的だ。彼のカリスマ性が本物であったことが知れるからである。ここのクリムもカッコいい。ビーナス・グロゥブ製の機体性能があるとはいえそれを初搭乗で常人以上に使いこなすのだから天才ぶりが際立つ。最終回はクリムの強さが目立った。強い人間といえるウィルミット・ゼナムだって息子を心配する母なのだから動揺もする。動揺する母は戦況すら知らず息子の姿だけを求める。戦況を見渡すクンパは「まるで戦いになってない」と冷静に論評してみせる。この対比がいい。望遠鏡をのぞくウィルミットは上空ばかりを探している。「ベルなんだからベルを鳴らして頂戴!」台地の下をみる。G-セルフが下から上へジャンプへする。この流れが素晴らしい。上空ばかりを探しているもどかしさ、やっと台地の下をみる安堵感。そこに下から上に……だ。
 G-セルフだってジャンプをする。ジャンプをしたからって逃げてまわっているわけではないのだからベルリの意志は固いといえる。戦いを止めさせることが意志のベルリなのだからパーフェクトバックパックの新らたな使い道だって覚えもする。「わかったよ!フォトン・サーチャー!」と叫ぶベルリにしてみれば希望はすぐにそこにある。ここの場面もいい。G-セルフが逃げまわっていただけにカタルシスが大きいからだ。反撃の手がかりをつかんだらしいことがわかってワクワクがする場面だ。G-セルフのフォトン・サーチャーを使うベルリなのだから戦いの根源だって知る。「パワーの高いところを黙らせれば人を死なせないで戦いを終わられるんだ!」ここも好きな流れだ。ついに反撃がはじまると思っていたらベルリはもっと大局をみていたからだ。そんなベルリは真のヒーローといえる。バッテリー切れのG-セルフだってベルリの覚悟があるのであればジャンプだってしてみせる。戦場を不審な挙動で移動するG-セルフなのだからマニィのMAジーラッハであっても発見される。ルインのために必死なマニィだから「G-セルフです!」と発見すれば血気にはやるのは自然なことである。
 G-セルフのベルリであっても「ベルリ!ルインのためにいなくなって!」と血気にはやるMAジーラッハをみればパイロットはマニィかもしれないと思えるのだから防戦一方のなかで洞窟に逃げこんでみせる。すでにヘルメットを脱いでいたマニィなのだからG-セルフ探索に時間をかけていたことがうかがえても巨大MAジーラッハでは洞窟まで追撃できないと知れば口惜しさに泣く。ここもいい。マニィがベルリ撃破にみせる迫力も「ルイン先輩!ごめんなさい。なんの手伝いも、できなくて」と口惜しさげな仕草もいい芝居だ。
 G-セルフが逃げこんでみせた洞窟だってMSカバカーリーであれば容易に入ってこれるのだから追撃は終わっていないといえる。ライトを照らし周囲を見渡せばマスクだって化石じみた旧式モビルスーツの残骸をみる。残骸を見せられたマスクなのだから宇宙世紀時代の遺跡だと断定してみせる。ここは燃える場面だ。初代ガンダムで舞台になった戦場の跡だからだ。サービスシーンなのだろうが嬉しいものは嬉しい。マスクは宇宙世紀時代の遺跡だと断定できるのだからベルリの居場所だって見当もつくし無様なジャンプを繰り返すG-セルフの姿をみればバッテリー切れであることだって見当もつくのだから「勝負、かけた!」と意気込んでみせる。実際カバカーリーは着実にG-セルフを追いつめるのだからベルリだって困窮する。「姉さん、どうしたらいいんだよ!」と独白することにもなる。アイーダが呼んだのかベルリG-セルフはかろうじて遺跡から脱出することに成功する。ここはちょっと微妙な場面だ。わかりづらい。
 G-セルフが脱出してみせるとそこにはケルベル機とリンゴ機がいるのだから緊張だって多少はとける。大気圏グライダーを発見すれば母のもとにだって舞い降りることができる。ここはホッとする場面だ。しかしそれは一瞬のことである。MSマズラスターに搭乗するクン・スーンは戦意など失っていないのだからアンノウン機にだって急襲する。戦意に燃えるクン・スーンなのだからマズラスターが崖下に蹴落としたグライダーのことなど意に介さなかったことは想像できる。グライダーのそばにいればクンパ大佐だって崖下に転落する。ここも印象に残る。あまりにもあっけない死である。思わず「ええ?」となる場面だ。
 G-セルフのベルリであればマズラスターを撃墜することはたやすいのだからトラクター・ビームで捕捉するのは慈悲ともいえる。MSマズラスターのクン・スーンだって撃墜する意思もなく捕捉されれば「なんだ、この縛りは なんで私を縛る」と戸惑いもする。「縛ったんじゃなくて繋がっているんです。もう僕は攻撃はしません」と言われればクン・スーンだって慈悲を知る。この場面も好きだ。ベルリの理想が敵対者にハッキリと理解された初めての場面だからである。直後に理想を解さない最大のマスクが「Gめええ!」と飛び出し来るのだから対比としてもいきてくるのがいい。
 G-セルフだって不意打ちをくらうことはなくはないのだからMSカバカーリーの奇襲にだって対応もする。カバカーリーが狙撃すれば避けもするし応射もする。ビーム・セイバーがふられてもシールドで受けもする。シールドが破損したってバックパックの武装で仕留めにいける。出力が足りないのは悲惨なことだと知ったときには顔がつくほど接近されて動きもとまる。ビーム・ライフルが蹴落とされればショックも受ける。間合いをあけられビーム・ショットガンの銃口を目撃すれば手でそらすしかない。左脚を蹴られたって隙をもらえればビーム・サーベルをふるうことにもなる。左腕、右腕と斬っていっても、斬って宙を舞う右腕のビーム・ショットガンが右脚を破損してくれれば機体に未練もない。コア・ファイターで脱出する。ここの戦闘場面も面白かった。ビーム・ライフルが蹴落とされた場面で、アイーダ、ラライヤ、ノレドがそれぞれ「あ」「え」「い」などと声をあげたのが可笑しかった。同場面ではクン・スーンが若干心配げに見守っているのも印象に残った。同場面で一番尺をつくってカメラが追うのが母ウィルミットだというのがベルリを象徴しているのかもしれない。コア・ファイターで脱出するとき「レイハントン!」と言うのも意味があるだろう。「スコード!」ではないのだ。
 MSカバカーリーの残骸のうえではマスクが「ベルリー!」と悔しげに叫んでいる。その上空にはコアファイターが飛行している。ベルリは「動いているなら」と安心する。動いているなら(生きているだろう)ということだ。だから「動いているなら」にかぶさるように「生存者は……」とはじまるのが心憎い。コアファイターはそのまま演説するアイーダ機を横切る。この流れも好きだ。これにて一件落着!という場面である。
 駆け寄る母ウィルミットに「走らないでよ」と声をかけるベルリは両手をひろげている。そこでカットはクン・スーンにかわるのだが、彼女のみつめる先に抱き合う母子がいたことがうかがえる。「キア隊長 地球にはああいうやつもいるんですよ。ここで……会わせたかったな」と呟くクン・スーンはロケットペンダントのキア・ムベッキの写真にベルリたち母子をみせている。母なる大地をみせた場面との対比。
 後日譚。フラミニアがムタチオンであったことがわかる。絵面としてビックリする。誰にも知られなかったと言われアイーダも驚く。ボディスーツをひとりで着られるんですかと気を使うノレドにフラミニアは腰を下ろせばひとりでできると答える。そこにMSグリモアに乗ったベルリが迎えにくる。彼女たちをグリモアの手のひらに乗せて運ぶ。「ほんとうなんですか?」とノレドが問えば「トワサンガに帰ってから考えます」とフラミニアがかすかに笑いながら答える。「すごいなー女の人って」とベルリは呟く。この流れも面白い。流れから考えれば「女の人」はフラミニアのことだろう。しかし何で「すごい」のかは明かされない。そこがいい。
 後日譚。ウィルミット運行長官が定刻どおりに出発しなさいと電話越しに命令している。法皇が彼女の肩をたたく。「なんです」とキツい調子で振り返る彼女は相手が法皇であったことに驚く。法皇の後ろの窓越しに出発するクラウンと出航するクレッセント・シップの姿がみえる。ウィルミットは「ああっ出発しちゃった」と悲鳴めいた声をあげる。ここも可笑しい。時刻がどうの出発がどうのと厳しく管理している彼女自身がベルリの見送りに失敗する。
 後日譚。チアガールたちが華やかに声援している。たくさんの人々が見上げている。クレッセント・シップは見送られる。キャピタル・テリトリィに平穏な日常が戻っていることを知る。今作は“現代世界の諸問題を一応は解決した”世界が舞台なので重要な要素である平穏な日常がこうして描かれる。大団円したんだなーと実感させてくれる場面だ。だから後日譚ととらえていいと思う。
 後日譚。夕焼けと青空がまじりあう空にクレッセント・シップが航行している。「ついに世界一周旅行かい」「ルイン?コーンスープ」「おうすまない」テントとシャンク。綺麗ねとマニィが言えば、ああとルインもこたえる。この場面が嫌いなやつはいないだろう。
 後日譚。満月の夜。「クレッセント・シップで大統領を叩き潰せ」とクリム・ニックが言う。「了解」とステアが軽く即答する。ここで噴く。艦長は止めるが結局クレッセント・シップは演説中の大統領につっこんでいく。要人たちは逃げ惑う。ここはスカッとする場面だ。ちょっとした意趣返しである。また艦内の日常場面が一瞬垣間見えるのもいい。リンゴを食べているベルリ、本を読んでいるノレド、編み物をしてるクン、ラライヤ、アイーダ。クンはすでにお腹が大きくなっているような気がする。
 後日譚。ミック・ジャックはクン・スーンの大きくなったお腹を触りながら「キア・ムベッキ・Jr.?」と驚く。「おかしい?」とクン・スーンがきく。「いいけど」とミックが言う。「ミック!」とクリム・ニックが呼ぶ。「ありがと」とミックが言ってグライダーに走る。「お気をつけて」とクンが声をかける。「おまたせ」とミックが言う。グライダーが飛んでいく。快晴。エメラルドグリーンの島々。クリムとミックにふさわしい。お腹の大きなクンがひとりだけ見送りきた、という謎をふくんだ場面でもある。その思わせぶりが印象に残った。
 後日譚。ノレドが「いない、いないよー」と大騒ぎしている。クレッセント・シップを探しまわり、メガファウナのブリッジまでやってくる。「ベルハドコダ」とハロビー・ノベルが機械音声で訊く。「ベルがいない!」とノレドは焦ったように言う。「さっき降りたよ」とステアが言えば「日本で、留まったろ」と艦長も言う。ふたりとも当たり前のように言う。ええッとノレドは絶句する。「ノレドさん!預かり物!チュチュミィの世話は頼むって伝言でした」とにっこり笑うアイーダはノレドにチュチュミィを投げ渡す。ノレドは顔をチュチュミィにつけて大泣きをする。この様子だとベルリの一人旅は皆も承諾するところだったようだ。ノレドには気の毒だがベルリの意思をくんだのだろう。誰もノレドに気を遣っていないのもポイントである。ノレドにだけ秘密にしていたのだから悲しむのはわかっていたはずだがいたわりのそぶりはない。ノレドがふられたわけでもないらしいというのがわかる。こういう細かい芝居が好きだ。クレッセント・シップ内では、ラライヤとケルベスは雑誌を読み、リンゴがパフェを二人ぶん持っている、という場面が印象に残った。特にパフェを二人ぶん持って突っ立てるリンゴの絵面が可笑しかった。
 後日譚。ベルリはシャンクに乗った老夫婦に富士山についていろいろと質問している。「シャンクで登れんですか」と訊けば「山道はあるよ」と答えてもらえる。「15分だな」とはじめて口を開いた老爺が言う。ええっとベルリは驚く。あははと笑いながら「下山するときスバシリを使うと15分だってこと」と奥さんの方が教えてくれる。ベルリはさっそく富士山を登っていく。やがて山頂に着く。雪。青空。光。雲海。「そうか!」とベルリは誰とはなしに言う。「後ろが太平洋で!前が日本海!」と両手を広げて伸びをする。「海を渡って!大陸に入るぞ!」とベルリは下山をはじめる。道もない下り斜面でスバシリを試してみる。「そうか!」感覚はつかめる。「跳べ!」とシャンクを跳躍させる。「僕はこれで!世界一周するぞ!」左腕を天に突き上げる。ここの場面は山肌が色合いのベースになっていて青空が占める割合が少ないのが印象に残った。まさに大地に立つだが、大地だけでは寂しいのだ、人間は。どうしても空を求めてしまう、青空を。

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