ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

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『機動戦士Ζガンダム』について 補遺

 『機動戦士Ζガンダム』は、俺からみると、企画の段階から無茶だった。そしてその無茶ぶりが、歪みとして作品に反映されてしまった不幸な作品だ。言葉を変えれば富野の周到さがもっとあればより面白くなったポテンシャルを秘めていた作品といえるだろう。

 とはいえ、その歪みそれ自体が、作品としての魅力にもなっている、というのだから、必ずしも「優等生的」な作品が面白いとは限らないという典型的な例かもしれない。
 だから俺にしてみれば、複雑な思い入れがある作品であるし、好きだという人間の気持ちも多少はわかるつもりだ。

 『Ζ』の魅力とは俺にとり、以上あげた三つの欠点が、そのまま魅力にもなっている点であるからだ。

 ヤラレメカ的なロボットが登場せず、敵であっても小破で撤退するのは、それだけ敵パイロットも優秀な証だ。MS初期の時代ではないのである。MSが通常兵器となり、その運用がきちん行き渡っていることを伺わせる。
 そんな時代であれば、かつて紅い彗星と異名をとったエースパイロットも、そこそこの操縦技術をもった敵味方に埋もれても仕方がない面がある。7年も前の、MS初期のパイロットなのだ。

 またパイロットだけで織りなす人間模様も、過酷な戦時下における緊迫したそれであって、だからこそ悲劇が際立つのである。

 政治的混乱を描いて“難解”になっているのは、そもそもカミーユがおかれた状況が、“混迷”をきわめているからである。

 カミーユを動かすのは正義感ではなく、ただ生き延びるためでもなく、敵の非人道的な行いに対する怒りからだ。それでもなければカミーユには戦う理由がない。
 「現実」の暗喩だった地球連邦はすでにその機能を失い、三つ巴の戦いの渦中にあって、ただ怒りと愛だけが、カミーユの「現実」なのである。

 カミーユは何度も愛を奪われ、何度も怒りを激発させる。やがて歴戦のシャアをも戦慄させる虚無の貌をもつ少年になっていく。
 ただ失われた愛によってのみ、最後の怒りは最悪の敵を打ち砕くことができるのである。そのときカミーユには「現実」など存在するわけがなかったのだ。

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『機動戦士Ζガンダム』について 3/3

 『機動戦士Ζガンダム』は、「続編もの」として野心的な「設定」と、「メカものとしてのガンダム」を“マクロス以後”へバージョンアップするための「若手中心のスタッフワーク」とが、うまく噛みあっていなかった。
 噛みあっていないのはもうひとつあった。「設定」それ自体にもあったのだ。

 大戦終結後の「政治的混乱」のなかに、“大戦を生き延びた大物”であるシャアやアムロを登場させてしまったことだ。

 数年後のかれらを描くという点では野心的な試みだし、かれらのその後がけっこう情けない……というのも富野らしくて好きである。

 しかし、パイロットの「強さ」がインフレを起こした大戦末期からの引き継ぎの登場のおかげで、今作で初登場するパイロットたちの「強さ」が不分明なものになってしまった。

 前作では若い無名のパイロットが、敵側の伝説的な古強者を打ち破っていくカタルシスがあった。そこでは最強のシャアがおり、ロボットバトルでは最後まで決着がつかないところで終わった。シャアとアムロは最強なわけだ。
 そんなシャアが登場し、前述のように、カタルシスのないロボット戦にあくせくするのは、情けない、というよりも設定段階でのミスではないかと思っている。「強さ」のインフレを起こした前作との摺り合わせができていない。(『逆シャア』はその点ではうまい)。
 
 ここでもわりをくったのは、主人公カミーユだ。かれは「最強」であるはずのシャアと共闘し、それなりの戦果を上げてしまう。ではカミーユがいきなり「強」かったのか、というと、前述したとおりカタルシスのないロボット戦である。これでは、「強さ」を通して描かれるはずの主人公のヒーロー性がでてこない。カミーユはロボット戦を通して「強く」なっていくことができないのだ。
 またカミーユのライバルは最強のシャアのような存在ではない。存在しない。かりにいるとしたら、「強さ」においてあきらかに格下のジェリドである。カミーユが気の毒でしょうがない。(好青年ジェリドも気の毒だった)

 最強のシャアと互角に戦える敵側の有象無象がそれほど「強」かったのか? ではシャアが弱くなったのか?

 そうした疑問は、「設定」段階に一工夫あれば解決できたはずなのである。
 前作に比してスケールダウンした作品世界に、前作の主要キャラクターを安易に登場させてしまったがゆえのチグハグ感である、と俺は考えている。
 以前書いた、『Ζ』におけるスケールダウン問題とは、このことである。

『機動戦士Ζガンダム』について 2/3

 『機動戦士Ζガンダム』は、前述のとおり、若いガンダムファンにガンダムをつくらせる、というコンセプトの作品であったのだろうというのが俺の解釈だ。普通ならこれは“マニアが作りマニアが買う”といったマニア市場の構図にハマるはずである。
 もちろん当時はまだビデオコンテンツ販売全盛期の時代ではない。しかし“受け方”としては当時すでに、作り手と受け手の同類意識のようなものがある作品がつくられていた。『超時空要塞マクロス』やTV版『うる星やつら』などだ。文化祭みたいな熱気をもった作品であり受容のされ方だった。
 『Ζ』もまた、本来なら、そうした“文化祭”アニメとして伝説になる可能性を秘めていたはずだ。しかしそうした受容のされ方はなされなかった。なぜか。

 それは富野監督が欲張りすぎたからではないか、というのが俺の理解だ。
 キャスティングディレクターに徹して“祭り”にすればよかったのだが、きわめて真面目に「ガンダムの続編」をつくってしまった。

 「ガンダムの続編」としての部分、大戦終結後の政治的混乱を描くという「設定」が、じつに野心的で素晴らしいのだが、これを若いスタッフにやらせる、というのは無謀であったように思う。
 富野監督は、基本的に「設定」と「演出」に才の走るタイプである。どれほど素晴らしい「設定」があっても、そこから「絵」と「話」を取り出すことが出来なければ、作品としては弱いものになってしまうだろう。
 素晴らしい斬新な「設定」であればあるほど、それと格闘して「絵」や「話」を取り出すのは、相応の実力が必要になるわけだ。「スタジオワーク」でじょじょに力をつければいいというパートではないはずだ。

 『Ζ』の“難解”さのひとつは、「設定」から「絵」や「話」を取り出せていない、というのが原因である。
 たとえば政治勢力の政治的意図が「絵」になっていない。初代でいえば「コロニー落し」という「絵」がない。「毒ガス」では「絵」にならないわけだ。これでは主人公の立場が伝わりにくい。
 主人公の立場を「設定」から取り出せなかった、ということは、ラスボス的なキャラクター、シロッコにも同じことがいえた。「設定」から悪人として取り出せていないのである。

 このときの富野監督は欲張りすぎたとも思う。
 メカが先鋭ならそれ以外は抑えるとか、設定が先鋭ならそれ以外は抑えるとか、そういうバランスがなかった。ぜんぶ先鋭でいこうとしてしまった。
 このあたり、「ニュータイプ論」の暴走、ということと似ている。富野監督のもっている危うさのひとつなんだろう。真面目すぎるしラジカルすぎる。

 もっともそれが魅力でもあるのだから、富野ファンをやめらない自分でもある。

『機動戦士Ζガンダム』について 1/3

 なぜ富野由悠季が『ガンダム』の続編をつくる気になったのか、長い間俺にはさっぱり理解できなかった。ただただ、商業主義に富野が負けた、ガンダムが負けた、という悲しい思いしか抱けなかった。

 しかし最近wikipediaで初めて知ったのだが、『Ζ』は永野護をメカデザイナーとして起用する予定だったらしい。キャラは安彦良和、メカは永野護だ。
 つまりガンダムを“マクロス以後”のリアルロボットアニメにアップデートするのが目的だったのかな、というのが最近の俺の理解だ。
 ガンダムブームでアニメ業界に入ってきたガンダム世代の先頭、当時二十代だった若者たちにガンダムをつくらせたい、というスタッフワークありきの仕事だったのではないか。

 新世代の登用ありきの企画である、と見立てると、俺が長年『Ζ』に対して抱いていた疑問がいろいろと払拭できるのだ。

 たとえば『Ζ』のロボットバトル。
 ロボットアニメの本来の構造論であれば、ロボットバトルはカタルシスを与えるためのものだ。そうであればこそ人間ドラマパートは製作者の自由にできる。長浜忠夫以前からロボットアニメがときとして良質のオリジナルドラマを描いてきた理由である。
 しかし『Ζ』はロボットバトルでカタルシスをえることがほとんどない。主要登場人物の操縦するロボットはたいていバトルすることがあっても決着がつかないで(せいぜい小破ぐらいで)戦闘を切り上げることになる。
 作劇の都合で登場人物を殺したくなくても、せっかくメカに乗っているのだから、メカだけドカンと派手に大破させれば、エンタメとしてスカッとするのに、なにもったいぶってんだ、と観ていてイライラしていたものだ。
 ロボットアニメのアドバンテージをなんで活用しないのかな、エンタメにする気あんのかな、と不思議に思ったものだが、新世代のメカありきの企画でもある、となると、通常のロボットアニメにおけるヤラレメカ的な扱いができなかったのだろう、と最近やっと気づいた。

 こうしたことは、結局ドラマパートにもしわ寄せがくることになった。
 主要登場人物が全員パイロットなのだ。全員、ロボットに乗る。主要ロボットの数を増やすためだ、と考えればこの措置も理解できる。
 しかしおかげで、恋人は軍人(でパイロット)、ライバルは軍人(でパイロット)、先輩は軍人(でパイロット)、後輩は軍人(でパイロット)、という狭い世界の話になってしまった。
 きわめて狭い世界の話だけで無理やりドラマをやろうとしたのが、『Ζ』であった。そりゃ無理がある。そんな無理のあるドラマパートもまた当時二十代の若い脚本家に任せたのだから“難解”になるはずである。

 『機動戦士Vガンダム』の製作時、富野と対立したバンダイのプロデューサーが、おそらく望んでいたのが、この『Ζ』のような作品であったと思う。10年早すぎたともいえる。しかし『Ζ』は、商業的には、初代『ガンダム』と違って、いきなり成功したらしい。そりゃそうだ。

 その後の、『V』製作時の軋轢を踏まえて『Ζ』を振り返ると、「も~なに墓穴掘ってんすか~」という気分になる。
 しかし当時のスタッフワークとしては「正しかった」んだろうな、と今の俺は考えている。それが『Ζ』のいちばんの宝物なのかもしれない。

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