ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

『機動戦士ガンダムF91』について 7/7 監督のちから、原作者の思い

 『F91』はひとつの「映画」として見事に完結したと思っている。

 「大きな事態」ではコスモ・バビロニアの勝利に終わる。しかしシーブックとセシリーの物語は一息ついてしまった。これ以上なにを語ればいいというのか。
 「大きな事態」を描きたがる富野であれば、これから主人公たちの反攻がはじまるという構想を練っていたのかもしれないが、それはもはや物語ではなくストーリーだ。

 『F91』が物語を復活させることに成功したのは、「大きな事態」を遠景に、「避難する若者たち」を近景においたことだ。
 このパースペクティブ、奥行きが、作品に物語をもたらす。初代ガンダムを思い出して欲しい。「大きな事態」にガンダムは絡んでいないのだ。「大きな事態」を遠景に、「戦争に巻き込まれた若者たち」を近景においていた。

 『F91』の続編構想が頓挫したことは、俺にとって、僥倖であった。見事に完結した「映画」の続編を観せられるほど哀しいものはないからだ。

 『F91』から『機動戦士Vガンダム』までは、プロデューサーがうまく立ち回れていないのかな、という印象をもつ。
 TVシリーズかと思えば映画です、とか、スポンサーがディレクターを直接呼び出してパワハラまがいの恫喝をする、とか、企画が迷走、メチャクチャ、ブレまくりなのである。

 よくこれで「作品」がつくれたな、と賛嘆するのが『F91』である。迷走する企画を「映画」監督の豪腕でねじ伏せたのだ。『ETERNAL WIND』が二度流れるなど迷走の痕跡がちらほら散見できるのだが、それでもひとつの「映画」として見事に完結させたのは、監督の豪腕があってこそである。

 『V』は残念ながら「作品」になれなかった。迷走に巻き込まれてしまった。安易なセンセーショナリズムに陥ってしまった。『F91』からはじまったフィルムの新しい感触、各話スタッフの努力がみられるだけに、『V』の無惨さは際立っている。総監督・富野がコマーシャリズムの無茶ぶりに負けたということなのだろう。無茶ぶりにつきあって「作品」として成功させた『ドラゴンボール』や『犬夜叉』にはなれなかった。鳥山明や高橋留美子の才能を富野由悠季に期待しても仕方ないのだろう。

 富野はしかし“豪腕”をもつ「映画」監督だ。『V』も「映画」なら「作品」として完成させることができたのではないだろうか。

 富野は自分が“豪腕”をもつ「映画」監督である、という自覚に乏しいというのが、俺は以前から不思議に思っていた。

 富野自身が『F91』を「映画」として見事に完結させたのに、それに無自覚なのである。
 『F91』の続編構想にかなり拘泥したらしいのだ。

 かりに、原作者と監督が別人だったとしたら、原作者は『F91』に激怒したと思う。
 原作構想の途中までで、見事に「映画」として完結させてしまったからである。

 ここでわかるのは、富野由悠季は、「映画」監督の自分より、原作者としての自分に重心があるということだ。

 迷走する企画を豪腕でねじ伏せて一本の「映画」にしてしまった監督の名前を、富野は知らないのだ。
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『機動戦士ガンダムF91』について 6/7 セシリー・フェアチャイルド

 富野作品にはお姫様キャラが出て来るのだが、メインヒロインになることは少ない。メインヒロインに“なりそこねた”セイラなどは典型だ。
 お姫様キャラの系譜だが、立場は女王というメインヒロインなら、小説版『リーンの翼』に出て来る。しかし小説である。セイラだって小説版ではメインヒロインだ。
 『聖戦士ダンバイン』のシーラ・ラパーナなど、もったいないな、とつねづね思っていた。メインヒロインじゃないんですね、ソーデスカ、というがっかり感である。
 せっかくお姫様キャラを造型できるのに、なんでメインヒロインにしないのかな、と不思議に思っていたものだ。

 セシリー・フェアチャイルドが登場したとき、「ああ、やっとか」という感慨深いものがあった。
 やっとお姫様キャラがメインヒロインになるのだな、とそれだけで『F91』はお気に入りの作品なのである。
 
 セシリーは不幸な少女である。母は出奔し、育ての父には裏切られる。しかし恵まれない家庭に育ったという印象はない。育ての父シオはダメな男なのだが、彼なりに家庭をやってみせていたのかな、と想像できる。
 出奔した妻ナディアの肖像画を飾っている男だ。彼女を愛していたことも事実なのだろう。セシリーのベットにぬいぐるみが映る。セシリーを可愛がっていたことも事実なのだろう。しかしロナ家に敵対できるほどの男ではなかった。大きな報酬に目がくらむような男だった。
 「せざるをえなかったのですよ、せざるを」と娘に言い「私が告げ口をしたのではない、見つけられてしまったのだということはわかってくれ」と妻に言う。事実なのかもしれないが、言い訳がましいのも確かだ。この男はその程度であるという演出がなされている。

 実父カロッゾ・ロナは鉄仮面と呼ばれるように仮面をつけた男だ。再会したとき、カロッゾの仮面をみて、セシリーがさっと部屋から退出しようとする芝居が好きだ。問答無用、お話にならないと言いたげな侮蔑のこもった素早い動きだった。
 富野作品はマスクをつけたキャラクターがときとして登場するが、ここまでマスクが嫌悪を集めた例は珍しい。特に身内の女性たち(ナディア、セシリー)から絶大な嫌悪を向けられている。
 「仮面をお取りください」「あなたはそれを素顔で言う勇気がなかったでしょう?」という娘と前妻に詰め寄られても、「人類はかほどの情念を抑さなければ地球がもたいなときがきているのだ」と取り付く暇もない。
 鉄仮面は脆弱な自分を強化したこと、コスモ・バビロニアが完成したあかつきには、わがロナ家千年の夢、と「強化した自分の話」「ロナ家の野望を実現することに協力する話」しかしない。人の話をまったく聞いていない。
 「その性格が受け入れられなくて母は別れざるをえなかったとなぜお認めになられないのですか」とセシリーに詰め寄られてもそれは変わらない。

 鉄仮面が心酔し、コスモ貴族主義を提唱するマイッツァー・ロナもまた人の話を聞かない男だ。
 お爺様と慕うセシリーに「寒くはないか」と気遣いをみせるマイッツァーなのだが、父について相談を持ちかけようとするセシリーに気づかず、自身の信念について語り始める。
 その信念の前では、孫の前でその母を外道と口にしてしまう男である。「私はその母の娘です」というセシリーの台詞が風に揺れる花を映す場面に消えるのが印象的だ。

 コスモ貴族主義はヒロイックだ。民主主義政府の腐敗、堕落を見せられていただけに余計に目立つ。“家”の紋章を表すビームフラッグなどはヒロイズムの真骨頂といっていい。
 
 『F91』の魅力のひとつは敵がカッコいいということだ。主人公サイドが雑多な抵抗派の集まりにすぎないということと対比的だ。

 カッコいいといっても勧善懲悪の悪の集まりにすぎない。これを悪の集団とみなすには工夫が施されている。
 大河原邦男のメカニックデザインだ。
 ゴーグルにガスマスクをつけた“胡散臭い”印象のモビルスーツが敵モビルスーツだ、というのは「直感的」にわかりやすい。
 俺が苦手なメカまわりも、大河原邦男のメカニックデザインのおかげで、敵味方をはっきり識別できた。『F91』が好きな理由のひとつだ。

 セシリーはベラ・ロナとして幼少期を過ごし、セシリー・フェアチャイルドとしてその後を経験している。
 彼女のアイデンティティはどこにあるのかという点が本作の見どころのひとつだ。

 ドレル・ロナが迎えにきたとき、「母を捜すための里帰り」という理由で、負傷したシーブックをおいて、あっさりとコスモ・バビロニア側についていってしまう。
 好意的にとらえれば、思わぬ事態の急転換に頭がついていかず、判断力が鈍っていたかもしれない、といえるだろう。
 その後、セシリーが自殺をはかったことが明かされ、一時的な判断力の低下でコスモ・バビロニア側についてしまったことを後悔していたらしいことをうかがわせる。
 シーブックが負傷したタンクのコックピットに血の跡を発見して「シーブック、私、どうしたらいいの」と嘆く彼女はセシリー・フェアチャイルドだと言えるだろう。

 「一人では生きられないし、覚悟もつかないし」と言ってセシリーが髪を切っている最中にシーブックが迎えにくる。シーブックが生きていたことを喜ぶとともに「もう遅いのよ」といって追い返す。暴漢に襲われたということにして事態を糊塗しようとする彼女はベラ・ロナを演じざるをえない立場に追いやられる。髪を切ってしまった彼女はあまり美人にみえないのは不思議だ。セシリーは美人キャラだがベラ・ロナは違うという意図的なものなのだろうか。髪をのばしたセシリーの方が好きだ。

 シーブックを生きたまま捕らえたい、という指示は、彼への未練でもあったろう。ベラ・ロナをやってしまうことを決意しつつも、シーブックを思う気持ちはセシリー・フェアチャイルドのそれだ。
 森口博子の名曲『ETERNAL WIND~ほほえみは光る風の中~』に引きずられた見かたかもしれないが、シーブックとセシリーの関係は、どちらかといえばセシリーの方に淡い想いがあるように感じられる。

 シーブックと行き違いになったセシリーは、ザビーネになびく素振りをみせたようにみえる。頼れるオスを求めるメスとして当然の心の動きだと思う。

 アンナ・マリー撃破後、セシリーはザビーネを後衛にさげさせる。そのときのセシリーの表情が侮蔑をふくんでいたようにみえる。女関係のしがらみではないかと直感したのかもしれない。

 セシリーはシーブックとそうとは知らず戦うことになる。シーブック機がセシリー機にとどめを刺す構図が、ザビーネとアンナ・マリーのそれと一緒というのは心憎い演出だ。

 「その息遣い、シーブック、シーブックよね」とセシリーが感知する場面はセンシュアルだ。セシリーはシーブックの息遣いを(普段から)意識していたのかな、という想像ができるからだ。だとしたら官能的な場面たりうる。

 セシリーはスペース・アークで友人たちに迎えられる。みな優しい言葉をかけてくれる。セシリーはしかしシーブックの胸を借りることを選ぶ。どんな不幸があっても決して涙をみせなかったセシリーがシーブックの胸のなかで嗚咽を漏らす。こめられた涙の意味は彼女の「不幸な物語」のぶんだけ混然として大きなものだろう。

『機動戦士ガンダムF91』について 5/7 シーブック・アノー

 俺の感ずるところでは、富野由悠季は企画(原作)と演出(絵コンテ)に才能を発揮する作家だ。
 企画(原作)から、「画」や「物語」を取り出すことを得意としていない。ましてそれがラディカルな企画ではなおさらである。ラディカルな企画を若い未熟なスタッフにやらせたのが『機動戦士Ζガンダム』の歪みにつながったのではないかというのは以前書いた。

 『F91』はその点で安心できる。そもそも企画がラディカルではない。わかりやすい勧善懲悪だ。
 また「画」には安彦良和と大河原邦男、「物語」には共同執筆者伊東恒久を迎えている。わかりやすい企画をベテランで固めているわけだ。
 これで面白くないはずはないのである。

 『F91』は抜群に面白い。俺の好み、嗜好にどんぴしゃりなのだ。

 主人公シーブック・アノーがいい。
 安彦良和のキャラクターデザインが素晴らしい。屈託を抱えたアムロやカミーユの顔と違って、すっきりとした顔つきをしていた。ハンサムだが、甘いマスクというより、凛々しいといった感じだった。いかにもヒーロー然とした顔つきの若者だった。

 屈託といえば、富野作品の主人公はたいてい何らかの屈託を抱えている。これが俺にはピンとこなかった。若きインテリの屈託なのだろうと想像したが、感情移入の対象にはならなかった。アムロやカミーユがぼんぼんであることも感情移入を阻害していた。感情移入の対象というより見上げるような憧れの存在だった。

 シーブックは違った。父親は溶接工であり、自身も機械科の生徒である。親しみがもてた。
 「お。美しい脚」とセシリーを褒める場面で、いっぺんに好きになった。「美しい」とはなかなか言えないが、それを屈託なく言ってしまえる明朗さがよかった。脚は性的なものの象徴だが、それを瞬間的に褒めることのできるシーブックなら、女の子を口説くのも不得意ではないのだろうな、と想像できたのも楽しかった。
 その想像が正しければ、セシリーを口説いたのはシーブックらしいと思え、ふたりの関係性が垣間見えるようで序盤から惹きつけられた。シーブックに口説かれてドレスを着たセシリーであれば、彼女の淡い想いも伝わるような気がしたのだ。そうであれば賭けの対象にされるためだった、というのはたんに怒るだけではなく、「機械科のあなたにそこまで馴れ馴れしくされることはないでしょう」とまで言ってしまうわけだ。そういう台詞をはいてしまっては、それまでは多少は馴れ馴れしくさせていたことが想像できるようで、くすぐったい気持ちになるのである。

 瞬間的というのはシーブックの特徴だ。「伏せて」と見知らぬ子供に言えてしまうからだ。エレベーターを待とうとする妹のリィズに「そんなのはいい!」と言えることから瞬間的な判断力をもってるらしいと想像できる。
 ドワイトを救けるため、自動車を寄せる判断もはやい。ドワイトは対照的に判断をマニュアルに任せしまっている若者として描かれる。
 ロイ戦争博物館の前で「敵がくる」と瞬間的に判断したのはシーブックひとりだ。ニュータイプ的感応ではなく、連邦軍のモビルスーツが構えているのをみたからである。
 退避口を潰されていたことがわかると、女友達はシーブックのもとに集まって判断を仰ぐ。マニュアルに頼りがちなドワイトでは急な判断ができなかったのだろう。

 友人のアーサーが死亡したとき、彼に駆け寄ってしまうのがシーブックだ。極限状況下で皆が必死で余裕のないときに、ひとりシーブックはアーサーのもとに駆け寄る。「アーサーのことは忘れて!」とシーブックに咄嗟に言えるのはセシリーで、彼女がシーブックを(普段から)見守っていたようにも感じられる。 
 セシリーはシーブックのもとに駆け寄って「妹さんもいるのよ!」と言って立ち上がらせる。シーブックは涙をセシリーに見せたくないのか、後ろを向いて涙を拭く。感傷はセシリーにはなく、シーブックにある。「君を見つめて」風にいえば彼はまだ戦士に育っていない。

 シーブックたちが基本的に「避難民」だ、というのも『F91』の魅力だ。彼らは軍人ではない。このあたりは今までの『ガンダム』にはなかった設定だ。

 ガンダムに乗る動機はきわめて特徴的だ。シーブックはガンダムに無理やり乗せられそうになり抗議するが、そこに好戦的な友人サムが俺が乗ると言い出せば、アーサーのこともあって自分が乗ることを決意するのだ。「逃げ回れば死にはしない」というのがシーブックの判断だ。
 シーブックは、母艦を発見され、敵モビルスーツを撃墜する。このときは無我夢中だったと想像できる。友軍機のビルギットが危険だと思えば二機を撃墜する。その段になって、やっと自分が人を殺したことを認識するのだ。このズレがいい。

 母がつくったロボット、というのが面白い。ロボットアニメにおいてはたいてい父がつくるからだ。母の影は薄い。男の子に“力”を与えるのがロボットで、それは強い男である父から授かるものなのである。
 『F91』は違う。
 「自分の子が兵器を扱うなんて、こんなことのためにF91の開発に協力したんじゃありません」と言い切れるのは、ロボットをつくったのが母だからだ。
 「じゃあなんですか奥さん、お子さん以外の者が戦って死ぬのはかまわないと仰るんですか」というメカニックチーフの台詞につながる。ここはぐっとくる。

 母がつくったロボットが動き出すのをみて、リィズが喜ぶが、搭乗者が兄のシーブックだと知ると、ぎょっとする、という芝居がよかった。
 再会した母とリィズの芝居もいい。リィズがむくれるように宙に浮くのがいいし、それを引き止める母の芝居がいい。娘の前でおろおろするしかできないモニカは母親している。

 家庭を顧みずに仕事に生きるのが母であり、家庭を守り子育てをするのが父という関係性が新鮮だった。いまどきの作品だな、と思わせるものがあった。ミスコンは女性差別的だからできない、でもミス・カントリーサイドという建前でやってしまおう、という設定(小説版を読んでいないとわかりづらいが)も、いまどきだな、と感心したところだ。シンプルなお姫様救出劇を拒んでしまったのも、いまどきな感じだが、このあたりはポリティカルコレクトネス的にアレだとしても、ロマンティックに描いてほしかった気がする。

 父は母への理解を息子に諭して息を引き取る。「ちゃんと育てた、ちゃんとな」という父の台詞どおり、シーブックもリィズも多少マザコンを拗らせているが、基本的に健やかなこどもたちといえるだろう。

 「大きくなったでしょ、リィズも僕も」とシーブックから母に声をかける。
 「ニュータイプって人類の革新、戦争なんか越えられるという説もありますよね」という場面につながる。そして和解。このあたりもぐっとくる。
 ニュータイプが「パイロット特性のある人」だけだったら、俺は『ガンダム』にハマることはなかっただろうし、SFとは違うんだ、という思いを抱くこともなかっただろう。

 『F91』は構成がいい。ここにきてニュータイプの理念をもってくるのがうまいのだ。母との和解を重ねあわせているのがいい。

 シーブックは宇宙を漂流するセシリーを探すためにレーダーを使ってくれと言うが、そこに母がくる。
 バイオ・コンピュータを使って探せるというのだ。母にバイオ・コンピュータを設定してもらうが「あとはあなたの感性次第」と言われる。
 母のつくったロボットは戦うためだけの道具ではないのだ。

 シーブックはついに“セシリーの花”をみつける。「バーニアだけじゃ無茶よ!」と言う母を背後にするシーブックは、すでに母の導きの外にいる。

『機動戦士ガンダムF91』について 4/7 「時間」が想像させる“前日譚”

 『F91』は「時間」を扱った作品である。
 映画は時間芸術だというが、『F91』ほどあからさまに「時間」を感じさせる作品は少ないだろう。

 物語冒頭から「時間」の途中である。
 ヒロイン・セシリーが主人公シーブックに手を引かれて登場するのだが、ふたりの台詞から、シーブックが彼女を口説き落としてミスコンにエントリーさせるところまで成功したことをうかがわせる。賭けの対象になると聞いたセシリーが怒る場面で、シーブックがセシリーを口説いた動機があからさまになる。セシリーがシーブックにそれなりの感情を抱いて口説かれたのではないかと想像させ、シーブックの方は美人の女友達を利用して金儲けをしようとする悪ガキであることが想像できる。そうした“前日譚”が、物語冒頭のふたりのやりとりで、想像できてしまう。「時間」の途中というのはそういうことだ。

 シーブックの友達が自動車に集まる場面で「時間」が飛躍したことがわかる。集合場所のあたりをつける“前日譚”が省略され、待ち合わせたように、自動車に集まる。操縦は当然のようにシーブックに任される。ここにも“前日譚”が隠されているだろう。

 電話で父と連絡をとろうとしていたドワイトが別の自動車に乗っているのも「時間」経過を現している。シーブックたちとの距離感も感じさせる。シーブックが彼を救けるのも距離感だ。

 ロイ戦争博物館から出てきたタンクがまるで使い物にならないことが描かれるが、それでもシーブックの男友達はタンクで反攻するという。言いくるめられた“前日譚”が省略され「時間」が飛んでいる。

 「10年以上前の変形モビルスーツだぞ」という台詞で、変形モビルスーツが過去の遺物であることが判明し、そこに『Ζ』『ΖΖ』の時代との断絶という“前日譚”が隠されていることがわかる。ここでも「時間」が飛んでいる。

 退避口が使えないとわかると、女友達がシーブックのもとに集まる。ドワイトが臨機応変に対応できなかった“前日譚”をうかがわせる。シーブックなら当てにできるかもしれないという女友達との距離感も表現できている。

 23桟橋から避難するためにタンクを利用するが当然のようにシーブックが操縦している。このあたりも「時間」の飛躍と、シーブックの立ち位置が表現されている。

 スペースボートに食料を(どこからか)もってくるアズマたちの場面で「時間」経過を現してる。「食料」というのがわかりやすく“前日譚”を想像させている。

 スペース・アークと合流後、「傷口がふさがったんならもう吊らなくもいいよ」と言われる場面で、傷がふさがるまで「時間」が経過していることがわかる。

 「昔、こんな顔のモビルスーツがあったわね」「ほーらガンダムといったわね」という台詞で、ガンダム・タイプのモビルスーツが過去のものになっていることも「時間」経過を現している。

 「ニュータイプって?」「パイロット特性のある人のことだよ」という台詞で、ニュータイプの方は歴史の彼方に置き忘れられていないことが判明する。ガンダム・タイプのモビルスーツは存在しなかったがニュータイプはいた、そんな“前日譚”を想像できる。
 そのニュータイプも、「昔さ、ニュータイプってモビルスーツに関してはスペシャリストがいたよな。そういうのってたいがい個人的には不幸だったんだよな」という台詞で、ニュータイプの存在も「昔」であることが判明する。想像できるには「ガンダムタイプの存在しない時期にニュータイプがいて、それすら一昔前だった」という“前日譚”で、絶妙な「時間」経過を現している。

 「ガンダムが操縦できるからって」と叱責されることで、シーブックがそれなりの戦果をあげていること、セシリーに会いにいったのは独断であったことなどがわかる。ここにも“前日譚”が隠されている。「時間」の飛躍がある。

 裏切ったアンナ・マリーについて「チビたちが懐いてちゃってなー」という台詞で、彼女の人柄と懐くだけの「時間」が経過したことを現している。

 セシリーが出撃するというときモニカが心配するが、ここにも「時間」の飛躍がある。「いい娘さんなんだよ」というモニカはセシリーをよく知っている風でここにも“前日譚”が隠されている。

 漂流するセシリーの名を連呼するシーブックがいて、そこにザビーネが来る。ラフレシア撃破後の「時間」経過を現しているのだろう。
 ザビーネがスペース・アークを見逃すのは、さらなる「時間」経過だ。
 それだけ長くシーブックがセシリーの名前を連呼していたことがわかる。

 そしてクライマックスに向けて、この「時間」の飛躍は、唐突に消える。
 あとは“リアルタイム”で進行することになる。
 “リアルタイム”に寄り添うようにシーブックはじりじりと感覚を開いていく。そして“リアルタイム”で流れていくセシリーの花をみつける。
 「時間」の飛躍を多用したフィルムだけがもつ静謐な“リアルタイム”のなかでシーブックとセシリーは見つめ合うことになる。

『機動戦士ガンダムF91』について 3/7 アニメ声優でなければならない理由

 富野由悠季は“声優”にこだわる作家である。なにも専業としての声優さんばかりではない。顔出しの役者もつかうこともある。
 また“発掘”“育成”にも力を注いでいるという。
 諸事情あるのだろう実写役者で揃えたアニメ映画もあるが、そうしたつくり手ではない。

 『F91』は声優で救われた映画だ。新人の発掘育成というよりも、すでにキャリアもあり実力もある声優で固められている。
 もの凄いスピードで展開する物語を、声優の演技のメリハリで、うまく回していた。

 今作は説明台詞が多いのだが、それをそうとは感じさせない芝居は、アニメ声優ならでは、と言えるのではないだろうか。
 数多くの作品を手掛けた音響監督の藤野貞義のオーソドックスなアニメ芝居が功を奏していた。

 「お肌の接触回線ね」とか「これは盗聴されないので言うんだがな」とか、説明台詞なのに、そうと感じさせないのが素晴らしい。

 ヒロインは、パン屋の娘セシリー・フェアチャイルドと、ロナ家の娘ベラ・ロナという二つの顔をもつのだが、このふたつの顔を冬馬由美がうまく演じ分けていた。
 セシリーのときは高ぶったところのない少女を演じ、ベラのときは少しぎこちなく演じている。
 ベラのときには、「下々の者」に対するこわね、お爺さまに対するこわね、ザビーネに対するこわねを、それぞれ演じ分けていた。このこわねの使い分けが、セシリーが現状に適応しようとしている努力を現しているのだとしたら、実力のある本業の声優さん以外やれるひとはいなかっただろう。
 また迎えにきた母親を拒絶する場面では必要以上にわざとらしく他人行儀なこわね、「お母様の自由はただのわがままにしか聞こえません」というときのこわねは(唾棄でも失望でもなく)内省するようなもので、このあたりのメリハリも素晴らしいし、作品展開の速度に貢献している。
 「ですが敵は何かってみてきたつもりです」という台詞では、背伸びしたこわねをつくっていて、セシリーの必死さが伝わってくる。

 主人公シーブックはヒロインと対称的で、変転する運命に流されることなくしっかりと地に足の着いた若者としてこわねにブレがなく、また感情を素直におもてにあらわし感傷にひたる性格もあって、それを辻谷耕史がうまく演じていた。
 印象に残るのは、台詞に息遣いをのせる演技で、シーブックの微妙な感情を表現していて、一本調子のヒーローにはしていない芝居だ。
 「敵がくる」と気づいたときの息の飲む声、そこから「さがれ」と指示するときの息を吐き出す声が、「一息」に聴こえる。ここでは緊迫感の醸成に成功している。
 友人のアーサーが戦死した場面では、激しい息遣いで死体に語りかけ、「だってアーサーなんだぜ」という台詞のときにはゆっくりと吐き出すような息遣いになっている。死を認めたのだろう。アーサーの死体から離れないシーブックにセシリーが語りかけるが、涙をぬぐうときの芝居はひきこむ息遣いだ。セシリーに泣いているところをみせないでこらえている感じが出ている。その息をひきこむ息遣いから「大人の都合だけで殺されてたまるか」と息を吐き出す息遣いにつながるのだから、ここも物語展開の速度に貢献している。
 戦闘場面では全般的に息を飲む息遣いはひかえめで、息を吐き出す息遣いが多いのも印象的だ。シーブックのパイロットとしての優秀さを現しているのだろうか。

 『F91』はTVシリーズとして企画されたものだという。
 その場合、声優のキャスティングがどうなっていたのか、興味深いものがある。
 富野は前述したとおり、声優の技量を認めながらも、新人や異業種の人も連れてくる監督だからだ。

 とはいえ音響監督に藤野貞義を迎え、声優で固めた『F91』は、それゆえに隙らしい隙の見当たらない芝居の連鎖が魅力的な作品になった。

 『F91』は声優の技量がなければで成立しなかった作品といえる。
 声優の技量がなければ、ここまでスピーディーに展開する物語に、ひとつのフォルムを与えることはできかっただろう。

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