ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

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今年は富野由悠季イヤーだったな?

 今年は俺のなかで“トミノ年”だった。
 トミノについて、俺なりに考えたことを、今年中にいろいろと書いておきたかったが、どうやら間に合いそうにもない。
 このBlogは来年までちょっとだけ続くことになりそうだ。
 つかタイトルかえねーと。
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フラットキャラクターは初期配置が大事

 いまさら気づいたことの(4)でも触れたけど、今回驚いたのは『ガンダム』の登場人物はフラットキャラクターだったということね。
 フラットキャラクターというのは、おとぎ話から、子供番組、水戸黄門のような作品にまで登場する作中人物の造形のレベルのこと。
 ひとりの人間が、現実世界のように、複雑な内面をもっているのではなく、人物ごとに分割されて表現されているのが、このテの作品なんだな。

 俺の場合、小説版のイメージに引きづられて、『ガンダム』の登場人物たちは、ひとりひとりが人間的な内面をもって造形されていてるとばかり思い込んでいた。
 今回初代TVシリーズを観て、その思い込みが間違っていたことを知って、少なからず驚愕した。驚愕したとともに、なぜ初代ガンダムは「見やすい」のか、敷居が低いのか、という点で、なるほどそういうわけだったのか、と納得もいった。

 TVドラマの作中人物の造形レベルは、たいていフラットキャラクターである。
 それには以下の理由があると思われる。

 ・伝統的説話世界の登場人物たちは、フラットキャラクターである。大衆芸能の本道ということ。
 ・複数のシナリオライターによって書かれるので、解釈に幅のある文学の登場人物のごときでは処理するのが大変である。
 ・視聴者が毎週必ず観てくれるとは限らず、微細な内面の連続性をもった登場人物では、一周見逃したら理解不能という事態にもなりかねない。

 フラットキャラクターは、いわば「お約束」の人物たちなので、視聴者の負担が軽いのである。
 初代、TV版『ガンダム』では、そのあたりが、敷居の低さにつながっていたのではないか、と思われる。

 「リーダー」ブライト、「ヒーロー」アムロ、「巨漢の人情家」リュウ、「皮肉屋」カイ、「チビ」ハヤト。
 『ガッチャマン』以来の五人ヒーローものの人物構成であり、その容姿とともに、視聴者が「がんばって」理解する要素はゼロである。「みたまんま」なのだ。「よくできている」。

 おそらくこのあたりの功績は、星山ー安彦ラインのそれだろう。
 ブライトがなぜ「脇役顔」でなけれればならなかったのか、といえば、この「わかりやすさ」をえるためであった。
 いわば、おそらく富野監督が目論んだアムロとブライトの二重構造(ダブル主人公)は、 『ガッチャマン』以来の子供番組のフラットキャラクターの初期配置の常道から外れていたのである。結果として、安彦デザインは、富野ドラマよりわかりやすさを選んだことになる。当然ガンダムの成功の前なので、それはそれで判断としてはありえただろう。

 また人物造形をフラットキャラクターとすることにより、世界観の部分でも、いわば隠喩が機能することになったのも、わかりやすさの一貫であろうか。
 初代、TV版『ガンダム』では、地球連邦政府とは、現実そのものであって、特定の政治勢力の隠喩ではない。現実全体のことだ。そのような隠喩が機能できるのも、人物造形のレベルがフラットキャラクターであったから可能だったわけだ。

 フラットキャラクターとして、わかりやすいのは、カイである。
 カイは、たとえば、連邦政府(現実)に対する態度では、ブライトと対極にある。
 年長組で現実への適応を果たしつつある青年ブライトは、現実が不完全であると知りつつも批判してどうなるものでもないという立場であり、それに対してカイは不完全なものは不完全なものとして批判してみせる、という立場でもある。
 その中間に主人公のアムロを置くことにより、現実に対する態度のグラデーションを、三人一組で表現しているわけだ。現実世界に対する複雑な思いが、三人の人物に分割されて表現されているということだ。
 観ていて、これは疲れない。

 また、終盤において、フラウとハヤトの恋仲を揶揄したカイに対して、いやらしいと嫌悪するセイラ、それに対して、いいじゃないですか、とアムロがいうシーンがある。
 ここでも他人の恋路に対する態度としての三分割であり、真ん中がアムロ、一方の極がカイという構成である。

 主人公アムロを真ん中におさめて、刻一刻と推移する事態を、リアクションの三分割として腑分けしてみせてくれるわけだ。頭が悪過ぎて小学生の俺には理解できなかったが、多少ナマイキな小学生高学年なら『ガンダム』は理解できる、という感触を今回はえた。
 
 「良質のジュブナイル」としてのガンダム、というのは、こうした側面のことだ。
 これは星山ー安彦ラインの功績だろうと、俺は考えている。

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宮崎駿より前に宮崎駿になろうとした男

 若い方には、「安彦良和」が何者だったのか、という点について、ピンとこない方もいるかもしれない。
 「安彦良和」は、わかりやすくいえば、「宮崎駿より前に宮崎駿になろうとした男」である。もちろん「なれるだけの才能」のある男でもあった。

 昨今、日本テレビであるとか、フジテレビであるとか、ポスト宮崎を探している観がある。
 候補に上がっているのは、庵野秀明と、細田守あたりである。
 この両者には、たしかにポスト宮崎たる資格がある。アニメをアニメファンだけのものにしなくない、という強烈な意志が両者の監督からは伝わってくるからである。これに『東のエデン』や『新子』の監督などを加えてもいいかもしれない。ポスト宮崎をうかがう監督がこれだけいることはアニメ界にとっても日本経済界にとっても慶事といっていいだろう。

 ただし「狭い意味」で、これらの監督がポスト宮崎の位置につけるか、というと、根本的に無理な話でもある。
 宮崎駿はあまりにもスペシャルなのだ。
 宮崎駿はたんなるアニメ監督ではない。いやむしろアニメ「監督」としてはけっして一流といえる人ではないのだ。
 宮崎駿の凄さは、アニメーション(動画)という、アニメ作品の表現の末端部分に、みずからの作家性を付与できる点にある。
 つまり宮崎アニメとは、マンガ家がマンガを描くように作られた作品であって、通常のいわゆる監督さんがつくれるような類のものではないのだ。
 原作も演出も作画もぜんぶやります、やれます、という、「特別な才能」の人間にだけが可能な離れ業、それが宮崎アニメの本質なのである。「狭い意味」で、ポスト宮崎になりうる人材は現在のアニメ界にはいない、というのは、そういう意味である。

 宮崎駿的な才能をもった天才が、かつてアニメ界にひとりだけいた。
 そう、それが安彦良和だ。

 人間、年をとると、結局、人間の一生を決めるのは「運」だな、と実感することになる。
 それは自分の人生を省みることによって得られるというよりも、他人の、才能や実力のある人の行く末を見守っていく過程で自然と体得していくある種の人生の真理である。

 宮崎駿と安彦良和の運命を分けたもの、それはもう「運」としかいいようがない。
 チャンスは宮崎駿より安彦良和の方がはやくまわってきた。原作・監督としていくつかの作品をつくった。それはしかし、決して商業的に成功したものではなかった。

 宮崎駿が『風の谷のナウシカ』で復活したとき、かたわらには、鈴木敏夫と高畑勲がいた。彼らがナウシカのラストシーンを改変させたのである。
 しかし宮崎駿は『ナウシカ』『ラピュタ』までは、まだ「遠慮」があった。アニメージュを購読しているようなアニメファンへの遠慮である。
 宮崎駿の本来の資質である「子供向け作品」ではなく、もう少し大人の、ハイテーンから上の層への訴求力を気にしている気配があった。
 それがふっきれるのが、『となりのトトロ』だ。
 高畑勲の傑作『火垂るの墓』と同時上映であり、主だったスタッフは高畑兄貴にごっそりもっていかれたなかでの、TVアニメ『未来少年コナン』で培った省力アニメ作法を駆使してつくった小品である。この作品では「当時の空気」のなかでなかなか目指すことのできなかった「チビちゃん向けの楽しいアニメ」をつくることに成功したのだ。それもこれも高畑兄貴の影に隠れてる、という特殊事情が許したことである。
 この『トトロ』が日本人大衆に受け入れられる、ということがあって、「ほんとうの意味」で、宮崎駿は「復活」した、といえるだろう。
 いや、『カリオストロの城』の「失敗」を鑑みるに、世間様へのほんとうの意味での「デビュー作」は、『トトロ』だったのかもしれない、といまからでは感じられる。

 宮崎駿は、こうして『トトロ』を手にいれることができた。
 エンジンになってくれるアニメファンと、自身の作家的資との齟齬を、高畑勲の影に隠れたゲリラ戦法で切り抜け、見事世間様の評判をかちえたのだ。

 一方で安彦良和には、そうしたことはおきなかった。それがつまり「運」ということだ。
 アニメファン的なハイティーンから上の層への市場に訴求する作品を求められたし、自身でもそうしたタイプの作家であると思いこんでいた。

 しかし俺のみるところ、そしてファーストガンダムに安彦良和が星山博之とともにもちこんだものをを理解していれば、そうした仕事は、安彦良和の本来の美質に反していることがわかるはずだ。
 かれはジュブナイル作家なのだ。宮崎ワールドよりは上の年代に訴求できる作品の作り手たる資質であるが、それでもアニメファンの方を向いた作品ではなく、普通のお子様の方を向いた作品の方が本来の魅力・才能を発揮するタイプだったと思う。
 安彦・星山コンビの、子供向けアニメを見られなかったことは、こうなると痛恨の思いである。
 サンライズにロクなプロデューサーがいなかった、というより、鈴木敏夫が凄すぎるのだし、宮崎駿の「強運」というのもあったのだろう。
 
 宮崎駿は、演出の兄貴分は(日本アニメ界の最高峰の)高畑勲、作画の兄貴分は(日本アニメ界の最高峰の)大塚康生である。
 つまり『アルスラーン戦記』のアルスラーン皇子のごとき存在である。宮崎駿とは「日本アニメ界の王子様」だったわけだ。
 彼が王様にならなければ誰がなるのだ、という位置にいた人である。
 宮崎駿の「強運」とは、「天意」のようなものが働いていた、と俺などは半ば本気で感じている。

 「宮崎駿より前に宮崎駿になろうとし」てなれなかった安彦良和は、そのあとマンガ家として大成し、いくつもの問題作、佳作を描くことになる。
 これはこれで素晴らしい業績だが、俺のような彼の軌跡、そして可能性を垣間見てきた旧い人間には、ほんの少し物寂しい思いがあることもたしかなのだ、

『ガンダム』のキャラデザは失敗だった!?

 “ン年ぶりに『ガンダム』を観ていていまさら気づいたこと”の追加になるかな。

 今回毎日のようにオープニングを観ていて“いまさら”気づいたのは、「ブライトも主人公だったのか」ということ。
 オープニングでアムロと対になるように描かれているのが、ブライトなのだ。しかも前作『ダイターン3』の主人公の役者を起用、毎回タイトルの読み上げも彼である。
 アムロがロボットバトルの主人公としての役割を担わされているとしたら、ブライトは部隊全体の動向を視聴者に伝えるための役割が与えられていたのだろう。
 『ガンダム』は基本「ダブル主人公もの」として設計されていたわけだ。

 じゃあなぜ、それにいままで気づかなかったのか、というと、キャラクターデザインのイメージに引っ張られた、ということがある。
 安彦良和のデザインしたブライトは、どうみても「脇役顔」である。「もうひとりの主人公」というデザインではない。
 
 オープニングには登場しないが、もうひとりメインになるはずだったキャラクターがいる。もちろんシャアだ。
 シャアは、敵側の動向を視聴者に伝えるための役割だったろう。彼は、ロボットバトルでも、部隊同士のバトルでも、いわば(敵側の)視点人物になってくれる便利な存在だ。
 主人公側ではアムロとブライトに分割されていた役割が、敵側ではシャアひとりに集約されている。敵側の描写を無駄に増やさないための設置だろう。

 主人公ふたり、敵ひとり、という基本設計であったわけだ。
 しかし、そのキャラクターデザインが、絶望的にヒドかった、というのが、今回“いまさら気づいたこと”である。

 安彦主人公の典型顔のアムロはともかく、ブライトは「脇役顔」だし、シャアは「仮面」をつけてしまっている。
 これで芝居を組み立てろ、と言われても、かなり難しかったと思われる。

 富野監督が安彦良和のキャラクターデザインにブツクサ文句を言っていたことは知っていたのだが、子供の自分にはピンとこなかった。
 今回あらためて、作品の基本設計と、キャラクターデザインが齟齬を起こしていることを理解できた。
 そりゃね、文句を言いますよ。

 しかもおそらく富野的に腹が立つのは、安彦良和が自分で原画をやれば、あら不思議、「脇役顔」のブライトも微妙な顔の演技をし、シャアも口元だけで演技をしてしまうわけである。まさに天才の仕事ではあるが、「そんなんおめーが原画のときだけだろーがああ」と俺が監督の立場なら号泣するね。

押井守は苦手だ

 ゲーム系の人気Blog「はちま起稿」でおもしろい記事をみた。
 「Xbox360コレクターとして覚醒した人のゲーム棚  箱コレクターのゲーム棚、福袋の中身、おもちゃ行列 パンツポスト、押井守の髪型とか」
 の、真ん中あたり、押井守と富野由悠季の映画『アバター』への評価が対比的に紹介されているのだ。

 押井は「すいませんと言うしかない。あれにはすがすがしいくらいに完敗だった」と言い、富野は「あんなものは見るに耐えない」と言ったとされる。

 押井守のコメントは、映画の宣伝の文脈での「大人の発言」ととれなくもないけれども、この二人の差というのは、面白い。

 俺個人の偏りのなかでは、押井守は“苦手”な作家さんである。きっと素晴らしい映画監督なんだろうとは思うのだが、俺にはさっぱり理解できないのだ。
 押井守を理解できない、ということは、俺はたぶん映画のなかに映画を視てないのかもしれない、と自戒もするのだ。

 俺個人の偏り、というのはたぶん、文芸方面への傾斜であろうと思う。映画のなかであっても、「人間」を、「人間」たちが織りなす「ドラマ」を、求めてしまっているのだろうと思う。

 押井守の出世作といえば『うる星やつら』、とくにそれの劇場版第二弾『ビューティフル・ドリーマー』だと思うのだが、これが俺には評判になるほどの作品だとはどうしても思えなかったのである。
 話のキモであるところの、「文化祭の準備って楽しいね。永遠につづけばね」という“気分”がまったく理解できなかったのが大きいだろう。
 理解できないなら理解できないなりに、「理解できない他者としての押井」がどこかで出てくれば、まだ納得もいったのだが、これがこの作品では最悪の構造をしてしまっているのだ。

 「文化祭の準備って楽しいね。永遠につづけばね」というのが、モテない男の悲しい願望であれば、そういう設定であれば、まだよかったのだ。
 しかしご存じのとおり、「モテない男の悲しい願望」を、なぜかよりにもよって、狩猟中のモテ系女子であるヒロインに担わせしまっていた。当時観たときはもちろんこんなに分析的に欠点を理解していたわけではない。しかし直観的に「これはないよね」と思ったものだ。

 なかなか煮え切れない彼氏未満男友達以上のオトコをオトそうとがんばっている女子がいる。
 彼女にとって「文化祭当日」がどういう意味をもつか、一目瞭然ではないか。オトコの襟首を掴まえて、目ぼしい一年女子二年女子三年女子の間をまわるわけだ。これで手を出したら女の仁義にもとるぜ、女子グループでハブるかんね、という既成事実をつくってしまうわけだ。外堀をかためるというやつだ。

 一方でナンパ大好きのチャラ男クンであるところの主人公は、もちろん「新たな出会い」を期待して、「文化祭当日」が楽しみしょうがないはずである。

 「文化祭の準備って楽しいね。永遠につづけばね」というのは、あまりにも“特殊な感情”なのだ。普遍性のある感情ではない。
 それはそれでいい。そういう自分の“特殊な”世界観で勝負したい、というのなら、勝負すればいい。問題はそれが“特殊”だ、普遍性がない、ということを、自覚したうえでの処理を、押井守がまったくしていない点なのだ。
 自分の特殊さ、偏向を自覚しつつ、普遍性とのつながりのなかで、自己表現をしていく、という作家としてのしたたかさとしなやかさがまったく感じないのだ。
 だから俺は押井守が苦手だし、「理解できない他者」としても、あまり尊敬する気にはなれない。

 映画『スカイクロラ』のときも、戦闘機のドッグファイトが映画の興行成績に結びつくアクションシーンになれるかどうか、まったく理解していなかったように思う。
 映画の興行成績にむすびつく、メカを使ったアクションは、ガン、カー、がんばってもヘリぐらいである。戦闘機のドッグファイトなど、“特殊な”趣味なのだ。
 公開当時、その自分自身の“特殊さ”を自覚できないままヒットさせる気まんまんの押井をみて、さすがに同情した。周囲に押井をとめてくれる、普通の感覚をもった人間が払底してしまっているのかな、と。

 押井守は「人間」には興味ないんだろうな、たぶん自分自身もふくめて。だから“自分の特殊性”を自覚しないままなのだろう。
 『ビューティフル・ドリーマー』以来、テーマ性と映像性だけで評価され、ドラマ性はヒドい出来、といった作品をつくりつづけているのは、そうした理由があるのだと思う。

 富野由悠季はアニメーション業界に迷いんだ映画監督だが、彼の作品の面白さは、究極的には、「芝居」の面白さである。
 小説も映画も演劇から派生した芸術ジャンルである、という説に立てば、富野作品は、いわば王道路線である、といえるかもしれない。

 こういう俺なりの見立てのなかに、上記の二人の『アバター』評をおくと、『アバター』がどういう点で凄くてどういう点でダメダメなのか、観る前からわかるような気がしてくる(笑)。
 言葉をかえれば、北極と南極ほど資質のかけはなれた監督を両方とも包摂できるアニメ業界のゆるさは素敵だな、ということだ。
 富野レベル、押井レベルの監督には、コンスタントにアニメ映画をつくらせる環境があれば、もっと素敵なんだが。

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人気のなかった『ガンダム』

 『機動戦士ガンダム』は放映当時、まったく人気がなかった。
 本来スポンサーがターゲットにしているはずの小学生男子には、ほとんど知られていなかったのである。
 また東京地方では土曜日の夕方に放映していたので、当時の小学生男子には視聴することが困難だったこともあるだろう。
 俺はまさしくその小学生男子だったわけだが、土曜日の夕方といえば外で遊んでいるわけだ。まさか友達に「TVマンガ観るから帰るわ」とはいえない。
 だから俺の『ガンダム』本放送視聴体験は、「雨の日」と「日暮れがはやくなった晩秋」以降に限られるのだった(笑)。

 本放送も終わり、年末のクソ寒いなか、荏原町のプラモ屋をひやかしにいったら、奇妙な張り紙をみた。
 ガンダムとシャアザク、発売決定、といった内容の張り紙である。

 当時小学生男子の間では、アメリカのテレビドラマ『コンバット』の影響で、ちょっとしたミリタリーブームだった。
 宇宙戦艦ヤマトと間違えて買った戦艦大和の制作以来、俺にとりプラモは鬼門だったのだが、組み立て不要の艦載機や歩兵などを目的にプラモ屋をときどき覗いていたのだ。

 そこにガンダムの張り紙、あまりにも場違いだった。俺はそれを食い入るように見ていたのだろう、友達が「ガンダムってなによ? おまえ知ってんの?」と訊いてきたことをいまでも思い出す。

 「ガンダムって何よ?」と訊かれることほど、当時の俺を困惑させるものはなかった。
 なにせ本人にもよくわからないのだ。よくわからないなりに、「なにかが違う」「なにかが新しい」と直感させるものがあった。
 しかし言葉にはならないわけだ。“ガンダム的なもの”が世間で通用しない当時において、それを言語化するのは、平均にはるかに及ばない知能しか持ち合わせない小学生の俺には無理な話だった。

 その困惑は、俺が中学生になっても続いていた。
 当時、渋谷の東急文化会館の5Fだが4Fだかでは、非合法のラミネートされた写真が売られていた。ほとんどがアイドルのものだったが、アニメのものも若干混じっていた。それを俺はうっかり買ってうっかり生徒手帳に入れていたのだ。
 それをたまたま同級生に発見されたとき、俺は心の底からうろたえ、心の底から赤面した。
 「……。おまえ……まだ、こういうの、好きなんだ?」と、ためらいがちに確認されたものである。
 俺の恥部を発見してしまった同級生は、中学生ながらダンディズムを実践しようとするタイプの男であり、彼は紳士的に「この問題」に「深入り」しないでおいてくれた。男って美意識って大事よね、と俺は彼から学んだような気がする。

 やはりこれも中学時代の話。
 池袋のデパートだったと思う。マンガ家たちの合同サイン会が開かれたことがある。手塚治虫がひさしぶりにサイン会に出てくれる、という話だった。
 当時は手塚治虫は決して“人気作家”のひとりではなかったので、そういう機会が設けられるのは、かなりレアなことだったのだ。

 当時『まんが道』にハマり、将来フツーにマンガ家になっていると確信していた俺は、もちろんマンガ家としての相棒である友人と、手塚治虫のサインをもとめて「北極よりちょっとだけ南にズレた池袋」を目指して北上した。
 そこで見てしまったのだ、富野ヨシユキを。

 当時は“人気作家”とはいえない地位に甘んじていた手塚治虫だが、そこはやはり“まんがの神様”の貫録である。
 サイン会のひとつでも開けば、自然と長蛇の列ができる。俺と俺の相棒の友人も当然、蛇の一部を形成した。

 そのときにみた、みてしまったわけだ。『機動戦士ガンダム』のコーナーを。

 誰も並んでいない。見事なまでに無人である。
 『機動戦士ガンダム』の大きな看板の下、背筋をピンと伸ばしたおっさんがひとり、威儀を正して座っているだけだ。

 それがそう、ルシアンネーム「トミノフ・スケベヴィッチ・オンナスキー」を目撃した最初である。
 同じ一族「スケベヴィッチ・オンナスキー」に属するShiwasu5として、サインのひとつもほしかったのだが、なにせ誰も並んでいないのである。ちょっとそこでサインをもらうのは抵抗があった。なんか……こう……「きわめて特殊な変態」と思われたらいやだな……というひとしての当然の防衛本能が働いたためにほかならない。

 ガンダムの本放送はとっくに終わっている。
 ガンダムの看板の下、誰も並ばない、無人の空虚な空間。
 そのほかのまんが家たちは、手塚治虫は“別格”としても、そこそこ人気があって、子供たちがニコニコ笑いながら並んでいる。

 ガンダムの大きな看板の下には誰も、誰ひとり並んでいないのだ。
 そこに富野が一人、ポツンと座っているのだ。ピンと背筋だけを伸ばして。

 『ガンダム』がその後、社会現象になるまでにヒットしたとき、「ガンダムの成功の功績」に対して、功名争いがまったくなかったことは、この時代があったからにほかならないであろう。
 
 『ガンダム』の商業的“失敗”、評判的“失敗”を引き受けたのは、あのガンダムの大きな看板の下、誰ひとり並ばない閑散とした空虚な空間の前に、ピシッと背筋を伸ばして端座していたトミノフ・スケベヴィッチ・オンナスキーだったからだ。
 『ガンダム』はスポンサーレベルでは「失敗作」だったし、その「失敗作」の烙印を、きちんと引き受けて背負ってきたのは、富野監督ただひとりだった、ということである。

 富野がガンダムの成功を一人占めした、と当時のスタッフだったら口が裂けても言わないことをナゼカ口走る下種は、ちょっと俺に住所氏名を教えろと。そんな気持ちにもなるのである。

『ガンダム』の挫折

 『機動戦士ガンダム』のラストでは、カツ・レツ・キッカという次世代の子供たちが、「じつはニュータイプだった」という意外な展開で、その能力を発揮して、アムロを救済する。
 それまで「お荷物」以外のなにものでもなかったチビちゃんたちが、ラストにおいて主人公を救うのだ。これは美しい。
 そしてそれは「セックスを描かない」という制約のなかで「世代の継承」や「次世代への希望」を見事に描いてみせたことになる。つまり見事なまでにジュブナイルとしてのラストシーンなのだ。

 今回あらてめて見直して痛感したのは、『ガンダム』はジュブナイルだった、ということである。
 ガンダムの前にガンダム的なものはなかったので、「子供向け」につくらざるをえなかった、という事情もある。
 しかし、それ以上に、おそらくメインライターの星山博之、作画監督の安彦良和の才能と資質が、『ガンダム』をジュブナイルの方向に引っ張っていったのではないかと想像している。

 『ガンダム』のドラマが好きだ、というタイプのファンの間で評判がいいエピソードは、たいてい星山脚本回なのだ。安彦良和があげる『ガンダム』の良さを象徴する回のすべても星山脚本回である。
 星山脚本の魅力は、児童小説のジャンル分けでいえば「小学生高学年から中学生以上が対象」のヤングアダルト向けの作品がもっているそれだ。子供が現実の苦さを舐めて、それでも前にすすんでいく、という面白さである。
 また安彦良和も、作家としての彼は、大人の男が描けないという問題を抱えていて、子供から若者までを主人公に彼らの主観世界を描いたとき、その才能と魅力をフルに発揮するタイプである。

 二人の天才ジュブナイル作家を要所に配した『ガンダム』という作品は、高畑勲の影響も受けている富野監督の下、ジュブナイルとしての魅力が横溢している。『ガンダム』は好きだが、他の富野作品は苦手、というひとは、おそらく星山ファンである。
 ジュブナイル作品というレベルでみたとき、『ガンダム』は間違いなく成功した作品である。
 しかし、『ガンダム』は決して成功した作品ではなかった。ジュブナイルに徹しきれてないからだ。

 「ジュブナイルはいやじゃー」と必死に抵抗したメインスタッフがいるのだ。
 当の富野監督である。

 メインヒロインとして設定・造形されているはずのフラウ・ボゥを降板させて、セイラを登板させたのは、監督の意思のあらわれである、とにらんでいる。
 「セックスを描かない」ジュブナイルのレベルでみれば、セイラは本来「シャア物語のヒロイン」として設定・造形されていることがわかる。セックス、恋愛が御法度であれば、敵味方に分かれた男女の物語は、兄妹ということにするしかない。「セックスを描かない」という制約をもったジュブナイルがそのなかでドラマをつくっていくときのすり抜けの技法のひとつである。
 そのセイラを、アムロの性的成長物語のラストピースにしようと、担ぎ出したのが、おそらく富野監督であった。

 富野メモをみると、ニュータイプ論やセックス論を『ガンダム』で扱いたい、というのは、ジュブナイルで終わりたくない、という思いから出てきたものらしい。
 「ジュブナイルはいやじゃー」が先だったらしいのだ。
 なぜなのだろうか。

 じつは当時、チビ向けにロボットバトルを魅せ、ヤングアダルト向けにドラマを魅せる、という「ロボットモノ」は存在していた。
 そう、長浜忠夫監督の熱血ロボットモノである。
 長浜作品を横目に見ながら、『ガンダム』に向き合ってみると、それほど突出した作品ではないことに気付かされる。
 「子供向けによくこんなドラマやったね」と後年評価される『ガンダム』のドラマ性は、じつはすでに長浜作品でも描かれていたわけだ。

 おそらく、ジュブナイルで終われば、長浜忠夫に勝てない、負ける、という思いがあったのだろうと思う。
 また“ジュブナイルとしての『ガンダム』”の魅力は、監督が富野喜幸でなくても成立する、という自覚もあったのだろうと思う。星山-安彦ラインの功績だからだ。

 「ジュブナイルはいやじゃー」と富野監督が抵抗したのは、だから死活問題だったといってもいい。
 『ライディーン』で低視聴率に苦しめられ監督を降板させられ、その後釜の長浜監督はその後のシリーズも任されて商業的にも評判的にも成功する。
 ジュブナイル作家としての資質はアニメーション業界ではなくてはならないものなので星山博之が食いっぱぐれることはない。天才アニメーター安彦良和はむろんのことだ。

 『ガンダム』をジュブナイルで終わらせず、なんとか突出した作品にしなければならなかったのは、富野喜幸が業界で生き残るためにどうしても必要だったわけだ。

 『ガンダム』の異様さは、ジュブナイル、それも良質のジュブナイルが生成されるフィルムの力場のなかで、当の監督がひとりでそれに抵抗している点である。
 しかし富野の孤軍奮闘もむなしく、『ガンダム』はジュブナイルとしてのラストを迎える。
 それがカツ・レツ・キッカによるラストシーンだ。
 ラストシーンからストーリーを逆算してつくるとしたら、ヒロインはフラウ・ボゥ以外にありえなかった、ということでもある。

 これが『ガンダム』の挫折だ。

  アムロは彼岸(ララァ)から帰還できず、セイラは兄離れできず、シャアは悪人としての往生ができなかった。
 『ガンダム』がジュブナイルから脱出するための仕掛けがまるまる残ってしまったのだ。

 またこの挫折により、本来「セックス論」「生殖論」とバランスさせるはずだった「ニュータイプ論」が“宙に浮いたまま”になったしまったことは、後年いろいろと祟ることになる。

セイラがセックスシンボルになったわけ

 劇場版『ガンダム』のセイラの入浴シーンで、映画館でフラッシュがたかれたという話がある。
 アニメキャラクターが性の対象になる、はじまりだったとも言われている。それがポルノアニメレーベル「くりぃむレモン」発足につながったとも。
 真偽の程は知らないのだが、「セイラとセックスしたい」と思っていた視聴者は、かなり素直に『ガンダム』という作品を観ていたのではないかと思う。

 当時の俺はセイラファンとはいえ、ほんのおチビであり、そういう対象としては意識してはいなかった。(だから小説版はほんとうにびっくりした)
 しかし今回TVシリーズとしての『ガンダム』を観ていて、ストーリー展開のなかでかなり強引に「セイラのヒロイン化」が施されるを目の当たりにした。そこには原作監督の富野の強い意図があったはずなのだ。

 「セックスを描かない」という制約のあるジュブナイルの方法論であれば、ヒロインはフラウ・ボゥであるべきである。
 子供たちの世話をするフラウ・ボゥは、セックスをスキップして、主人公の家庭人としての未来を描くのにふさわしいからだ。
 フラウと結ばれ、子供たちの保護者になる主人公であれば、エンドマーク後の未来も、家庭人として一人前にやれそうだな、と予感できるからである。

 そのフラウ・ボゥがヒロインから無理やり外され、かなり強引にセイラがヒロインの座についたことの意味は、論理を逆にたどるとわかる。
 富野は『ガンダム』を、ジュブナイルの枠組みのなかにおきたくなかったのだろう。
 「どうにかしてセックスを描こうとした」のである。
 セイラは、「セックス論」を背負うために登板したヒロインだった、といえるだろう。

 「アムロの性的成長ストーリー」をかりに再建できるとしたら、その道筋はこういったものだったと思われる。

 「子供時代の異性」 → 「子供時代から離脱するための非日常の異性」 → 「日常のなかの不完全な異性」。
 
 この道筋をたどった『ガンダム』のキャラクターがいる。ミライだ。
 子供時代の異性カムラン、子供時代から離脱するための非日常の異性スレッガー、そして日常のなかの不完全な異性ブライトだ。
 アムロでいえば、これがフラウ→ララァ→セイラになる予定だったのだろうと思われる。セイラはかなり不完全な人間として描かれている。

 とくにアムロにおいては「ララァ問題」「ニュータイプ問題」があるので、そのカウンターウェイトとして「セックス論」「生殖論」は必要だったはずだ。
 その「セックス論」「生殖論」を引き受けた(引き受ける予定だった)のが、セイラなのだ。

 富野メモにおいて、富野自身がこだわった気配があるのが、「ニュータイプ論」と「生殖論」の対である。
 ララァと精神だけで遊ぶのも安らぐけど、セイラとは体を重ねたいから、面倒くさい女でも我慢できるさ、というのが人である。
 人類の覚醒による革新がかりにあるとしても、それでも世代をつないでいくという意味が希望でないわけではない、というのが、「ニュータイプ論」に対する「生殖論」なのだ。


 『ガンダム』の「打ち切り」は、だからセイラにとっても、アムロにとっても悲劇だった。
 「アムロの物語」は「ララァという転回点」で頓挫し、「セイラの物語」にいたっては「スタート地点」で休止である。

 そしてそれは「富野由悠季の物語」にとっても、悲劇であった。
 富野メモにたしかに直観されていたはずの、精神に対する身体性の問題が、その後鬱の回復期まで思い出されることはなかったのだから。

富野演出のハイブリット

 俺のみるところ、富野監督には「演出の引出」が、大きく分けて、三つある。
 ひとつは「高畑勲」とラベルを貼った「リアリズム演出」である。
 ひとつは「長浜忠夫」とラベルを貼った「演劇的演出」である。
 そして滅多に開けない秘密の引出は、たぶん「出崎統」というラベルが貼ってあるはずだ。

 『ガンダム』を観ていて、それぞれの「引出」が別々の作中人物を担当していた、という妄想をして楽しんだ。

 序盤から終盤近くまで、日常演出で描写されるアムロたち連邦軍の人々。担当監督は「高畑勲」。
 その日常に襲いかかる芝居じみた集団ジオン軍は、もちろん「長浜忠夫」が担当している。

 この構図が崩れるのが、ララァが登場する回。
 ここはいきなり「出崎統」になる。ララァだけが「出崎」担当キャラなのだ。

 この「出崎」の乱入により、『ガンダム』の舞台は、ぐるりと回転する。

 アムロはニュータイプに目覚め、カムランは愛していると呟き、スレッガーは軽口を叩いて特攻する。
 一方でシャアは部下に軽んじられ、整備兵と愚痴を言い合うことになる。

 アムロたちが芝居じみた集団になり、ジオンが日常になる。

 富野の秘密の引出「出崎」はあまりうまく使いこなせるものではないのだろう。だが、ある転調を必要とするとき、富野はためらうことなく、そのつかえこせない力を使う。
 キングゲイナーの一話のゲインにも「出崎」を感じた。


 てゆっか、ロボットなしで、原作富野由悠季・監督出崎統の「ゲインとゲイナーの物語」を観たかった。

富野コンテとアニメコンテ

『機動戦士ガンダム』(初代、TV版)を毎日のように観る、というのは、ほんと楽しかった。
全話はとても観れなかったんだけど、それでも日々の楽しみとして、ある「独りゲーム」をやっていた。
その日に放映された話の絵コンテが「富野監督かどうか当てる」という、ゲームである。うっわーっ我ながら暗ええっ。

んで、俺のようなトーシロでも、結構な確率で当たるわけだ、これが。
それだけ富野コンテはちょっと特徴的なんだよね。

どう特徴的か、というと、「アニメっぽくない」という、ただその一言に尽きるね。
アニメ制作で一番負担になるのは作画なんだな。だから、アニメのコンテは基本、作画の省力化を意識しているわけ。
ところが、富野は、そういう、アニメの都合のために考え出されたコンテ作法を、かたくなに拒否しているの。

具体的にいうと、奥行きのある構図で、手前から奥へ、あるいは奥から手前へ、という動きで芝居をさせようとしているコンテは、富野コンテと思って間違いない(笑)。
実写映画ならごく普通のコンテなんだろうが、アニメだとあんまりやりたがらないんだよね。作画にかかる負荷ほど、商品性を高めるものではないので。
もちろん、スピーディなアクションシーンとしてなら、そういう構図で動かす、というのは、ありなんだけどね。

逆に実写ではやりたがらないで、アニメでは普通にやるのは、真横とか真正面の構図だよね。アニメはキャラ表にも真正面・真横があるくらいだし、マンガ的表現でも多いからね、いまさら違和感もない。
でも実写だと、真正面とか真横とかって囚人の写真だからさ(笑)、画面に変な緊張感が出ちゃうよね。緊張感を出したいときにアクセントとして使う構図だわね、実写では。
で、そういう真正面とか真横の構図がでてくるコンテは、間違いなく富野コンテではない(笑)。
さあキミも今日から富野コンテ当てクイズを独り寂しくやるのだ。

富野コンテ回ってだから、作画が(無駄に)キツそうだな、と思うこともあるんだけど、軽々と富野コンテの負荷を乗り越えている回も多い。そういうときは決まって作画監督は安彦良和。
でもね、この頻度で各話作監をやっていたら、そりゃね、倒れますよ。天才ゆえに無茶ができて、それゆえに倒れてしまった、という悲劇なんだろうなー。
安彦良和が倒れた後、現場を支えた青鉢芳信さんとかの絵柄も、じつはけっこう好きだったけどね。
アムロが男臭く描かれていて、ストーリーの「流れ」を感じさせてくれた。「大河ストーリー」を幻視させるような塩梅になっていた。


んで最近ちょっと面白かったのは、『とある科学の電磁砲』第七話。八谷賢一コンテ回。
俺の好きな『天地無用』の2期3期の監督をやっている人で、日常的な人間ドラマも、マンガ的なノリも、両方こなせる人。
現代マンガ、現代アニメを、きちんとやれる人、ということね。

この『電磁砲』第七話では、普通にアニメコンテで叙述していって、話のポイントのところ、視聴者に「ん?」と違和感を覚えてもらうところを、奥行きのある構図で手前から奥へ、奥から前へというシーンをつくっているんだな。
もう実写と逆の発想になっていて、「おお、アニメコンテもここまで定着しているのか」と、感心してしまった。アニメはもうひとつの映像の型をつくっているんだなーと。


そういう意味では、富野由悠季はアニメ界に迷い込んだ映画監督なんでしょうね。

ン年ぶりに観たガンダムの“いまさら気づいたこと”ベスト30

いまさら気づいたこと(1)

 『機動戦士ガンダム』は、「一話完結の連作モノ」だった。
 映画版、小説版のイメージがあって、「大河ストーリー」だと思っていたのだが、今回ン年ぶりに観たら、前後の話は基本繋がってないので、びっくりした。そして自分の記憶力に呆れはてた(笑)。若き日の俺の理解力というか観賞力というのは、いったいどうなっていたのだ。
 たとえば、アムロのガンダム搭乗拒否話も、その前のアムロのバーサーク化の流れから繋がるものだと思っていたら、まったく繋がってなかったのね。もったいない、というか、「大河ストーリー」としてのプランはなかったんだなーと実感。
 この作品の成功体験から、「大河ストーリー」としてのプランを持たずに、「大河ストーリー」をつくる、という富野監督の無茶な作劇作法が生まれてしまったのかもしれない。そりゃその後に組んだ脚本家たちが苦労するのもわかるわな。


いまさら気づいたこと(2)

 『機動戦士ガンダム』は、「子供向け戦闘ロボットモノ」だった。
 これもびっくり。なんかこう、もっと大人っぽい話かと思っていたのよ。しかしン年ぶりに観たら、基本「子供向け戦闘ロボットモノ」なのね、モロに。
 もちろん考えてみれば当たり前の話で、ガンダムの前にガンダム的なものはなかったので、「子供向け戦闘ロボットモノ」として作るしかないわなー。
 それにしても、モロ、というところが今回とくに気がついた点。なんというのか、かなり「がんばって」るんだよね。とくに中盤。毎回毎回、違う敵ロボットが出てきて。しかもなんかモンスター的な形状しているしね。モロだったわー。
 富野アニメで、唯一小学生男子にも受けた作品、というのもわかる気がする。


いまさら気づいたこと(3)
 『機動戦士ガンダム』は、「未完」だった。
 これなんかも、映画版のイメージがガンダムになっていたんだろうな、俺のなかで。
 綺麗に完結した、と思っていたんだけど、TV版の流れでみていると、完全に「打ち切り」だものねこれ。
 いや「打ち切り」って頭では理解していたけどさ、今回あらてめて観て、「これ、あと2話で終わるのか?」→「うっわー、やっぱ終わってねー」と実感した。


いまさら気づいたこと(4)
 作中人物の造形のタイプが、「フラットキャラクター」だったこと。
 これも意外だったなー。これはもう小説版で脳内補完しちゃってたよね、俺。だから人間臭い連中だと思っていた。
 しかし今回観て、少なくとも脚本レベルでは、フラットキャラクターとして造形されているんだなと理解した。作中人物に内面があるという前提なら、(1)のような問題はおきない。


いまさら気づいたこと(5)
 セイラがヒロインだった。
 セイラは好きなキャラクターだったけど、ヒロインだとは思ってなかった。フラウ・ボゥがヒロインだと思っていた。
だから小説版は嬉しくて大のお気に入りになったわけだが、TV版もセイラをヒロイン扱いしているとは、今回おっさんになって初めて気づいた。どんだけ鈍感だったんだろうな俺。


いまさら気づいたこと(6)
 シャアの扱いがヒドすぎる(笑)。
(4)とも関係するけど、作劇の都合で、舞台から下りたり上ったりと、いいように使いまわされている感じがした。
 池田秀一がシャアのキャラをつかめなくて想像して演じた、と言ってけど、それはそうだよなー、と実感。


いまさら気づいたこと(7)
 ガンダムのキャラ造形って、声優の役作りの部分が大きいんじゃないの、ってこと。
 アムロにせよ、シャアにせよ、現在のキャラのイメージって、役者さんがつくったんじゃないかなー。
 脚本レベル、ストーリーレベルだと、アムロってわりと普通に勇敢な男の子だもんね。
 アムロがなんかオドオドした感じの子ってイメージは、古谷徹がつくったんじゃないかな、という気がするんだな。物語終盤、その演技のままででもよかったのかなという批判もありえて、それは大河ストーリーのプランをもたない作品ゆえの難しさでしょうね。TV版のアムロには内面の連続性がないんで(というか内面がないんだけどね、フラットキャラクターだから)、古谷徹といえどもアムロの変化を描くのは難しかったのかなーと。


いまさら気づいたこと(8)
 決して「成功」した作品じゃなかったこと。
 トシがバレるけど、俺は本放送を観てたからね、ぜんぜん人気なかったことは理解していた。
 「成功」云々というのはそっちのことじゃなくてね、作品の完成度のことね。「よくできた」作品ではなかったんだなーと。
 むしろ「勢い」とか「熱気」で押し切られる感じの作品だったのは、俺的には意外だったなー。



なんかこう……“いまさら気づいたこと”を、30個並べようと思ったけど無理っ。

ガンダムをン年ぶりに観て、“いまさら気づいたこと”が多すぎる俺は昔からきっと馬鹿だった。

 今年ガンダム30周年とやらで、『機動戦士ガンダム』(初代、TV版)がネットで無料で視聴できたので、楽しませてもらった。久しぶりに観て、いろいろと思うところを書いてみたくなったので、Blogをはじめてみる。

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