ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

劇場版ファーストガンダムだって「新訳」だった

 イセリナの泣き声が色っぽい、ということも、今回“いまさら”気づいたことのひとつだ。
 大人の女の色香のようなものは、マチルダにもハモンにも感じてはいたが、イセリナの泣き声の色っぽさはそれとは違って、かなり生々しいものを感じた。子供だったころには感じなかったことだ。そうか、こんなに色っぽかったのか。

 イセリナの声優をチェックしたら、のちにララァにも採用される潘恵子。「なるほど、そういうことか」と、かなりわかってきた。ララァにはイセリナの色っぽさを期待されたのだろう。生々しい性的な何かを。

 TV版から劇場版になるうえで、カットされたものが多数ある。
 そのなかで、アムロがイセリナに「ガルマ様の仇」といって銃を向けられる場面がある。
 アムロが戦争とは人を殺し人生を破壊する行為でもあると自覚することになる大事な場面ではなくって?的な感じで、セイラ役の井上瑶が座談会で富野監督に疑問を呈したこともある。俺もそれはそうだよな、と当時は思ったものだ。「アムロの物語」にとって欠けてはいけないピースではないのか。

 しかし、いまは、なぜカットしなければならなかったのか、俺なりに理解できるようになった。

 TV版はエピソードごとに完結していく連作形式であり大河ストーリーではなかったからだ。
 TV版には「アムロの物語」というものは、ちゃんとしたかたちでは存在していない。内的連続性がない。井上瑶が指摘したような「重い出来事」を受け止めて「変化する」という内面的変化は、TV版のどこを探しても存在しない。劇場版において「アムロの物語」を捏造しなければならなかった富野監督にとっては、そのような「重い十字架」はアムロに背負わすわけにはいかなかったのだろう。

 同じことは、ララァを失った直後のアムロにもいえる。TV版のアムロはセイラたちに心配されるが、わりと平気にしているのである。ここにも内的変化を引き起こさないTV版のフラットキャラクターのアムロがいる。劇場版では、このケロっとしているアムロの場面がまるまる削除されていた。落ち込んでいる描写はTV版にないわけだが、劇場版では描かないことによってそれを暗示させている。

 劇場版はファーストガンダムの頃から「新訳」以外のなにものでもなかったのだろう。

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ガンプラを買ったことのない俺でもファーストガンダムは楽しめた

 ファーストガンダムは特別である、という人間も多い。俺もそのなかの一人だが、当然ながらその理由は人様々であろう。

 俺の場合、ファーストガンダムが特別な理由のひとつは、俺自身がメカとかに興味のない人間だから、ということにある。
 というのも、ファーストガンダムにおけるロボットバトルは、俺には人間が戦っているように見えるのだ。メカにみえない。乗り物にみえない。それが俺にとってファーストガンダムが特別な理由である。

 ガンダムの斬新さのひとつはもちろん、ロボットをごく普通の兵器として扱った点である。設定上はたしかにそうだ。
 しかし大河原邦男のデザイン(鎧武者とガスマスク近代兵士)や、安彦良和たちの描く金属とか関係なくまがる腰をもったロボットたちのおかげで、俺の目には人間同士の戦いに見えるのだ。

 げんに、ファーストガンダムまでは、画面分割によってロボットとパイロットが同時に登場するカットはない。
 ロボットの絵のままで、敵にやられて悲鳴をあげることもある。ロボットの絵がそのままキャラクターになっていた。だから必ずしもパイロットを画面に出すこともなかった。ロボットが悲鳴をあげればいいのだ。

 ファーストガンダムまでは、ロボットは「キャラクター」であったし、もっといえば「男の肉体」でもあった。
 だからそれが問題になるケースは巧妙に回避されていた。
 女性たちも、アムロと同陣営でありアムロより肉体的に頑健そうなスレッガーも、ロボットではなくて、非人型のメカに乗ることになる。
 女性たちのキャラクターを表現できる(おっぱいミサイルがついてるような)メカは登場しないし、スレッガーの肉体を表現できるようなガンダム以上に強そうな味方ロボットも登場させるわけにはいかなかったからだろう。

 リアルロボットの最初だけあって、まだまだスーパーロボットの残滓をたっぷり残しているのが、ファーストガンダムであった。
 リアルロボット系としてロボットに超常の力はないが、まだスーパーロボット系の肉体表現としてのロボットの扱いが残っているのだ。これが、俺の場合いちばん具合がいいさじ加減になっていた。

 つまり俺のような人間からすると、ファーストガンダムはちょうどロボットアクションに見えない「狭間」にはまってくれているようにみえる。
 これ以上リアルロボット寄りにしても、あるいはスーパーロボット寄りにしても、ロボットアクションにみえてくる。
 ファーストガンダムだけは、俺にはガンアクション&チャンバラにみえるんだよね。だから、好きなんだ。

「アニメ」とか「アニメファン」とかの起源論を俺の肌身に則して描いてみる

 『宇宙戦艦ヤマト』から「アニメ」という言葉が使われるようになった、という話は、たぶん本当のことなんだろうな、と思う。
 とはいえ、この話が、俺の実感としてそくわないのは、『ヤマト』ブームの後かつ『ガンダム』ブームの前の時代、『ガンダム』のラミネートカードを同級生にみられて恥ずかしい思いをした経験があるからだ。
 その時代、俺の周辺では「アニメ」なるものが認知されているとは、とうてい言えなかったのである。

 『ヤマト』がヒットしたときの世間様の反応は、俺の記憶からすると、「アニメ」がヒットした、といったものではなかった。「アニメ」というカテゴリーで世間様には認知されてなかった。
 では何か?というと、じつは「SF」なのである。

 70年代といえば、日本ではSFブームだったのだ。日本の世間様が、初めて「SF」なるものを認知しはじめたときでもある。
 なにやらけったいなものがはやっている、という認識だ。
 『猿の軍団』と同時代の作品、ということでだいたい当時の空気がわかるだろう。『猿の軍団』には当時ベストセラーを連発していたSF作家たちも参加し、『ヤマト』には『猿の軍団』にも参加していた豊田有恒も関わっている。
 TV局レベルでは、SFブームらしいから、それでゴールデンいってみようか、という感じだったのだろう。

 だから『ヤマト』のファンも、自分ではSFファンだと思っていたのだ。
 そこで都市伝説の類かもしれないが、手塚治虫がSF大会かなにかで、ヤマトファンはお帰りください、ここはSFファンの集いです、と言ったとか言わなかったとかいう話になるのだ。
 『ヤマト』は当のファンの間でも、「アニメ」ではなくて、「SF」だったのだ。

 当時の先鋭的な一部の人たちが、「SF」ではなくて「アニメ」と言い出したのだろう。
 だから一部では、『ヤマト』起源説は正しい。しかしそれは、アニメ側からの史観だ。
 世間様的には、『ヤマト』は、当時流行っていた「SF」の一作品にすぎなかったのである。

 では、世間様に「アニメ」が発見されたのはいつか、というと、御察しのとおり、『機動戦士ガンダム』からである。
 もちろん世間様的には「またSFか」になりかけたわけだし、ファンたちも『ヤマト』のときと同様『ガンダム』の好きな自分は「SFファン」だよなと思いこみかねかった。
 そこに高千穂遙が斬り込んでくれたわけだ。前述の経緯のとおり、高千穂遙の「ガンダムはSFじゃない」という言葉は、彼ひとりだけの思いではなかったのだ。彼の発言はSFを守る側からのものだったが、結果として、『ガンダム』は『ヤマト』の二の舞を踏まずにすむことになった。

 もうひとつ、アニメ新世紀宣言というイベントに象徴される、「アニメ」を表看板にしようとした当時の松竹の宣伝戦略の影響が大きかったろう。
 松竹が「アニメファン」の力を意識していたのは、俺のある体験でも裏づけられる。
 『ガンダム』劇場版第一作の公開前、当時中学生だった俺のもとに、いきなり松竹から分厚い封筒が送られてきたのだ。なかには、宣伝グッズ、ポスターだのシールだのが大量に入っていた。どこでどう俺のことを調べたのかわからないが、「宣伝してね」とかなんか手紙つきであった。『ヤマト』の成功、長浜忠夫作品のロボットアニメの年長ファンたちの噂などもあったのだろう、映画会社の宣伝部あたりには「アニメ」が可視化されていたのだ。

 「“アニメ”ってなんでー、“TVマンガ”と違げーのか」という戸惑いとともに世間様が「アニメ」を認知していったのは、だから『ガンダム』ブームのなかでおきた出来事だ。それが俺の実感だ。

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新房のやろう、茶も出しやがらねー

 俺は礼儀正しい男だ。人様の家にお邪魔したら玄関のたたきの端っこに靴の踵を揃えておきたい。
 だから俺はたたきの端っこを探した。だがない。たたきがずっと続いている。
 あれ? これたたき? ただの廊下じゃね?とひやりとする。家間違えたかな。念のため戻って表札をみるとやっぱり新房家「ダンスなんとかバンパイア」。うむ、ここじゃここ。
 玄関に入る。たたき。たたき。たたき。廊下みたいなたたき。すげーなこれが新房家か。ずっとつづく。お。やっとたたきが終わった。ふう。靴を脱ぐ。ドアがある。客間かな。開ける。外に出る。裏口だった。
 これが俺の何度目かの新房体験。あのやろう。
 『ダンス イン ザ ヴァンパイアバンド』は、設定とかあらすじを読んだぎりでは、俺でも楽しめそうだと思った。それがこの体たらくだよ。

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出崎統について(3/3)アニ出崎編

 一方で、アニメ界に影響を与えた出崎がいる。アニメ界にとっての出崎、「アニ出崎」と呼ぶ。
 純技術的な部分でも「凄い」影響を与えている男であり、そのあたりは俺もWikipediaで知った。

 俺が考えるアニ出崎は、もう少し映画というイデアに関わる部分で革命を起こしたらしい、と想像する。

 映画は基本的に演劇から派生したジャンルである、と考える。舞台があり、役者がおり、それを撮るのが映画だ、という立場である。
 映画の正統派、あるいは古典派は、この系統である、とする。
 映画には「演劇の尻尾」がついているのだ。この「尻尾つき」が正統派ということである。

 上手下手の心理的影響、天地(上下)の心理的影響を考えて、役者の立ち位置、カメラの位置などを考えろ、というのは、正統派であろう。
 大衆に支持される娯楽大作映画などは、基本「端正」な映像のメカニズムに忠実な作品が多いように思う。

 で、アニ出崎の革命とは、この舞台をとっぱらちまったことだ、というのが、俺なりの理解である。
 グリフィスかエイゼンシュタインががんばっている時代に、デニス・ホッパーがいきなりバイクで乗り込んできた。それがアニ出崎だ。

 たしか蓮實重彦だったと思うのだが、「ゴダールが映画を終わらせた」と言っていたはずだ。
 グリフィスかエイゼンシュタインを映画の始発点とした場合、ゴダールが終点になる。
 そのあとの映画は結局、始発点とゴダールの間のグラデーションのなかの色のひとつに甘んじるしかない。

 アニ出崎の革命とはそういうことだ。「出崎がアニメを終わらせた」
 高畑勲との縁のなかで映画について学習している富野が、いきなり出崎に出遭ったときの衝撃は、だから大変なものであったろうと思う。ひとつの極北を視たわけだ。

 富野が出崎的なものを使えこなせないにせよ、作家として必要としているのは、この「舞台の消失」だろうというのが、俺の理解だ。
 「現実に舞台なんかねーじゃねーか、とっぱらちまえ、んなもん」という出崎文脈ではなく、あくまでも舞台を前提とした正統派の映画監督として、「舞台のどんでん返し」に出崎的な力を使う、というのが、富野流なのではないか。舞台はあとにもさきにも残す。舞台チェンジをするときだけ、出崎的力を使う。それが富野文脈かなと。

 出崎に影響を受けた(俺が苦手な)監督たちは、この「舞台」をメタ的に作品内で扱うタイプの作家さんなんだろうなと想像する。
 なにせ生理的に受けつけないので想像するしかないのがもどかしいが、たぶんそういうことなんだろうと思う。

 いきなりデニス・ホッパー、いきなりサム・ペキンパー、いきなりアメリカンニューシネマだったアニ出崎のあと、すっぽり抜けおちた映画史のミッシングリングを埋めようと健気にがんばっている、それが出崎に影響を受けた(俺が苦手な)監督たちだ、と遠くから眺めている。映画史を溯行してヌーヴェルヴァーグあたりの“ヌケ”を埋めている健気な連中なのではないか。
 とくに『ウテナ』は面白そうだな、と思うのは、演劇の要素を取り入れている点だ。舞台をとっぱらちまう、という点で「演劇の尻尾」を断ち切ったのがアニ出崎であるのに、もう一度演劇的なものを取り入れる、というのは、かなり確信犯的で「すげーな」と直感するのだ。でも俺は生理的に無理なんだけどネ。

 このあたりが、俺のアニ出崎語りの限界である。

 富野語りの脈略でいえば、富野が「みた」出崎は、やっぱり「アニ出崎」の方だったんだな、というのが俺なりの結論だ。
 富野は役者(アニメーター)を信じないもの。ただし役者の一割か二割を担当する声優は信じているかも。このあたりは長浜忠夫の流儀ですかね。

出崎統について(2/3) 俺出崎編

 映画について俺なりに考えるきっかけのひとつになった体験があった。
 昔、テレビのクイズバラエティ番組で、面白いクイズがあったのだ。
 一分ぐらいのワンシーンを、素人と映画監督が撮って、どっちが監督のものか当てる、というクイズだ。

 (A)は、舞台の紹介(ロングで景色)→役者の紹介(フルショット)→芝居、という流れ。
 (B)は、役者のクローズアップが長くつづき、それからもうひとりの役者にパンして、芝居がはじまる、という流れ。

 さあどっちだ?

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出崎統について(1/3)

 『少女革命ウテナ』は観ないといけないな、と思いつつ、観られないでいる。『エヴァ』によってアニメに引き戻されているときだったので、放映当時に観たのだが、一話を耐えるのが精一杯だった。劇場版にも挑戦したのだが、これも最初の数分でギブアップ。俺には生理的に受けつけないタイプの作品だった。評判がいいのはわかるし、その評判の内容から「うおおお、面白そう!」と思うのだが、入口でお断りされてしまう。こんなに悲しいことはない。
 俺はほんとうに偏食野郎である。少女が苦手だ。メカが苦手だ。少女マンガなんて目が滑る。どうにもならない。少女マンガの最高峰のひとつ萩尾望都を読んだとき、確かに読んでいるはずなのに、主人公の名前すら頭に入ってこないという体験をした。記憶にかすらないのだ。認知できない。「目が滑る」というのを初めて経験した。ありえねーだろ俺。でもそういう生理なのだ。

 『おにいさまへ…』などは全話録画しているのに(VHSでw)、とうとう観ることができなかった。出崎ですらダメなのだ。なんという因果な体をしているのだ俺は。

 出崎統ファンのまっつねさんに導かれて、出崎を始祖とする血統の監督たちを見回して、戸惑ったのは、俺の好みの監督がひとりもいない、という点である。
 好みどころか、苦手な監督ばっかりじゃねーか、出崎好きなのになんでだ、どうなってんだ、と。

 俺が好きな出崎と、俺が苦手とする監督さんたちが影響を受けた出崎。
 出崎が二人いるとでもいうのだろうか。

 以前書いたエントリでまっつねさんにコメントをいただいたのだが、そのエントリのモトネタはじつは富野自身の著作にあった。自伝エッセイ『だから僕は……』だ。この本に彼が影響を受けた三人のアニメ監督の名前が出てくる。高畑勲は素直に尊敬し、長浜忠夫には負けた自分なのだから盗めるだけ盗むという態度で学び、そして出崎統はその天才の前にシャッポを脱いだということが書かれていた。実本がないので、例によって記憶頼りに書いてしまうが、こんな内容だったと思う。

 俺はいまのいままで、俺の好きな出崎と、アニメ界のプロたちに影響を与えた出崎は、同一人物だと思っていた。しかし前述のとおり「なんか違う」わけだ。俺が大好きな監督、富野由悠季が「みた」出崎統はどっちの出崎だ、となにやら正月早々から考えるはめになってしまった。

 出崎統は何者だったのか、これは富野語りをメインにすえたい当Blogでも避けて通れない問題なのだ。

 しかし出崎と富野を語るということは、映画について語る、ということである。知識も見識もない俺にできるかどうか。いやできねーけどさ、そこは無理やり、なんかテキトーに書いてみる。
 仕上げまでいかないラフデザインみたいなものだ。富野の描いたモビルスーツのデザインみたいな。

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