ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

ガンダムのブレイク、あるいは富野と大衆との窓口

[∀][ガンダム]なぜガンダムは売れ、∀ガンダムは売れなかったか?
http://d.hatena.ne.jp/nuryouguda/20100130/1264822398

 うん、グダさんのご指摘のとおりだと思うな。富野は「芝居」をね、なによりも優先する人なんじゃないかな。それが長所でもあり、短所になることもある。
 歌舞伎的に見得を切るだけの芝居があってもいいよねー。芝居だけ「近代」なんだよね。長浜忠夫の引出が何のためにあるのかと思うよね。そのためじゃないか。
 初代ガンダム一話があれだけコンパクトにまとまったのは、富野演出が、高畑系と長浜系(と出崎系)のハイブリットだからじゃんねー、とか思います。
 物語作家としてはわりと平気で前近代なのに、芝居は近代でいこうとするんだよねー。とはいえ、ターンエーはそのあたりはかなり抑制している気もするけどね。

 ターンエーはさ、尊敬する富野語りの諸先輩方々もご指摘しているとおり、ガンダムじゃなくて、イデオンの文脈でとらえた方がいいんだろうね。
 ターンエーは、イデオンの裏、というか、対になる作品ってことじゃないかなー。
 富野の世間レベルの代表作はガンダムになるのだろうけど、作家論レベルでいえば、イデオンとターンエーの対が代表作なんだろうなー、と『F91』派の俺でも思いますわ。

 ターンエーという参照項のおかげで、イデオンのラストの解釈にも、いくつか筋道がついた気がしますね。
 富野ワールドの全裸幽霊は、あれは死の称賛じゃなくて、生命の本質の可視化なんだな、とかね、ターンエーのおかげで「わかる」部分もあるから。

 そうそう、初代ガンダムのブレイクは「再放送」という形態の功績が大きかったかな、ということかと思われます。

 初代ガンダムは富野アニメのなかでは抜群にカタルシス多めの作品だけど、それでも、毎回毎回スカッとするようなつくりの作品ではない。いまいちスカッとしないアニメを週イチで観せられても、ついてきてくれるお客は限られている。
 これが毎日観られる、となると、一話一話のカタルシスが少な目でも、あるいは少な目だからこそテンションが持続して、ついつい追って観ることになる。

 テレビでの再放送だから、観るともなしに観る、学校で話題にしやすい、人にすすめやすい、なども利点がある。
 富野が目指す普遍性ということでいえば、観るともなしに観る、というかたちで、衆目に触れる機会があるのは、非常に重要ではないかなー。

 富野の作家的資質は、じつは大衆的ではないのだけど、普遍を目指す姿勢のなかで制作された作品は、あきらかに大衆の方を向いている。
 しかし、その大衆との接点は、驚くほど小さかった。

 テレビでの再放送という「窓口」は、富野アニメのなかではファーストガンダムだけがえられた僥倖だったのかもしれない。
 ターンエーも、再放送を夕方とかにしてくれれば、アニメファンならぬ大衆が、観るともなしに観る、というかたちで触れてくれたかもしれない。そうすれば、いまよりはもっと人気が出たかもしれないなーと思います。
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アニメ版『リーンの翼』で俺が嬉しかったこと

 アニメ版『リーンの翼』は、ブルーレイ一枚にしてくれよ、という気持ちでいっぱいだ。DVDコンプリートボックスはリアル店舗まで足を運んでから買うかどうか決めようと思っている。

 アニメ版『リーンの翼』をはじめて観たとき、嬉しかったのは、そこに「作家」富野由悠季が「いた」からである。
 俺のみるところ、「作家」富野由悠季は、『ブレンパワード』後半から失踪してしてしまった。『ブレンパワード』後半からの富野は「純血の映画監督」になろうとしている、というのが俺の見立てだった。
 だから、アニメ版『リーンの翼』を観たとき、驚いたし、嬉しかった。
 またその流れで、「小説家」富野由悠季も復活するというのは、俺的には、おいこの企画組んだやつ誰だよー、キスさせろよー、という感じなのだ。

 バイストンウェルはもともとは小説用の設定ではなかったか、と俺は睨んでいる。
 ロボットアニメ用の世界設定なら、ロボット付きの世界にすれば、それだけで『聖戦士ダンバイン』はかなりスッキリした作品になっていただろう。なにせ『ダンバイン』ときたら現代地球人にとって異質なロボットが、現代地球人にとって異質な異世界人からも異質である、という「実感」できようもない構造になっているのだ。どうかしている。
 なにより、小説『リーンの翼』を読めば一発でわかる。バイストンウェルは、富野が文明批評とエンターテイメントを両方やろうとするための装置なのだ。その文明批評は、地の文でなされるので、地の文のないアニメでは無理よね、という単純な話だ。
 バイストンウェルを舞台にした物語は、小説が本道なのだ。
 この時期、富野はけっこう本気で小説家への転向を考えていたのではないかと想像している。

 この時期は、アニメ監督としての富野はあきらかに「疲弊」していた。同時期の作品、小説『リーンの翼』における荒削りだが迫力のある筆致とは別人のようである。が、これが同一人物というのであれば、そのようにも疑えるわけだ。
 俺のなかではアニメ監督富野の「迷い」とか「疲弊」とかを感じさせられたのが、この『ダンバイン』からなのである。
 たとえばOPを観てほしい。カッコいいことはカッコいい。しかし弾幕張った飛行戦艦から人型戦闘機が飛び立ち、チャンバラとガンシューティングを披露するという絵面は、ガンダムそのものである。『ガンダム』で戦闘機、『イデオン』で戦艦、『ザブングル』で自動車という「見立ての斬新さ」をもっていた「富野ロボットアニメ三部作」に比して、『ダンバイン』は(そしてそれ以後の作品は)あまりにもガンダムのままである。やる気の問題ではなくて、アニメ監督としてのスタミナが底をついてしまったのかな、と感じた。ヘロヘロになりながら手撃ちであってもパンチだけは出す、という風に俺には見えた。

 だから俺的には、『ダンバイン』から『逆襲のシャア』までの、疲弊期のアニメ作品は、かなり観るのがつらい。『ダンバイン』のOPが「ガンダムの手癖」でつくられているように、吐き出すものがないのに吐き出そうとして、過去からの手癖に頼るところが垣間見えて、つらいのである。
 たとえば『Zガンダム』。あれを『ファースト』の「直後」に観たら頭痛がしてくるのではないか。『イデオン』で解禁になった「幽霊」「母殺し」、『ザブングル』で解禁になった「パイロット同士の会話」、『ダンバイン』で解禁になった「ハイパー化」「聖戦」、『エルガイム』で解禁になった「美貌の悪魔」など、過去のモチーフの大集成なのだ。いきなり『Z』を観たらビックリする。逆に『Z』をビョーキと評する安彦良和は健全だと思うと同時に「あ。安彦さん、富野作品、ロクに観てないわ」と富野ファンにはバレるわけであるw。

 バイストンウェルは小説が本道、というのが、俺の考えだったので、アニメ版『リーンの翼』は、じつはかなり不安だった。その不安は半分は的中した。アニメの設定としては、筋はよろしくないなと。とはいえ、『ダンバイン』で成功した「東京上空三部作」をメインにすえたような作りは、バイストンウェルのアニメの世界設定としての筋の悪さを、富野なりに自覚しているようで安心した。
 そしてなにより意外だったのは、わりと「本気の富野」が帰ってきていたことだ。「純血の監督」を目指そうにも、サコミズがそうはさせなかったらしい。

 『ブレンパワード』はジョナサンのママンガーという回あたりから、「作家」富野は姿を消した。
 ジョナサンのマザコンは、女性のマザコンに見えるのだ。愛される側の人間が、愛の不足を、愛する側への「貸し」にする、というロジックは、女性のものである。個人的例外はあるだろうが、普遍を目指す富野ワールドではこのような現れ方はしないだろうと思う。
 ジョナサンはジョナ子でなければならなかったし、ジョナ子が、母への反発からパーフェクトマザーを目指し、別の抑圧をわが子に施す、という地獄の輪廻を、富野なら描いたはずだ。
 また後半の比瑪無双もヒドい。宮崎アニメかと思うくらいに、比瑪の正しさが一本調子で描かれる。
 また後半の正当性の多くが、家族話、男女話にオチているのも、ニュータイプの夢をみずにはいられない組織論を抱える富野らしくない。富野が絶望している組織は、なにも政府とか政治活動する組織ばかりではない。富野が絶望している組織は、家族レベル、男女レベルまで入るのだ。
 だから『ブレン』後半には、あきらかに、作家富野は「いない」。

 『ターンエー』では、ところどころ、肝心なところでは作家富野が顔を出す。しかし全般的に出ずっぱりということもなかった。富野自身ではこのバランスが気に入っているのかもしれない。
 たとえば、比瑪声の村田秋乃が演じるソシエのラストは、富野なりの『ブレン』へのアンサーだろう。
 家族話、男女話をメインにしすぎるソシエは、『ブレン』(後半)の世界観の体現者だ。彼女では結局、ロランと空を飛ぶことはかなわなかった。

 『キングゲイナー』には、奇妙な光景をみた。
 富野が大河内一楼にフィーチャーさせようとし、大河内が富野にフィーチャーさせようとして、ふたりでグルグル廻っているイメージだ。なんだあれ。
 とはいえ大河内たちの富野ワールド・キャラクター図鑑的な楽しさが、『キンゲ』にはあった。

 そしてアニメ版『リーンの翼』だ。そこにいたわけだ、作家富野が。サコミズがどうやら呼び水になったらしい。
 「男と女、あれは戦争なんだぜ」というあたりは、いかにも富野だ。だからニュータイプの夢もみる。
 『ブレン』後半の小娘の夢想する甘ったるい世界観からどれだけ距離があるか、ということでもある。
 作家富野の復活、俺はなにより、これが嬉しかった。

スケールダウン問題とか、ルールを巡る温度差とか

 まっつねさんの「レールガンの世界は」からあれこれ思うこと。

 『レールガン』の「蓋を閉じられた感じ」というのは、まっつねさんご自身が「もっとも」以下で指摘しているとおり、『レールガン』は『禁書』のスピンアウト作品である、ということがあるのだろう。
 俺は『レールガン』の「蓋で閉じられた感じ」というのは、むしろ逆側から評価していた。
 スケールダウン問題だ。
 本編以上の派手なこと、物語世界の本質に迫ることなどは、スピンアウト作品ではできない。では、どうするか、という点で、『レールガン』は「ちくしょう、うまくやりやがって」という感想をもっていた。

 なんで「ちくしょう」なのかというと、いまから約30年くらい前に、『Zガンダム』という作品があって、この作品の数ある問題点のひとつにスケールダウン問題があったからなんだ。
 『Z』の世界は、『ファースト』からあきらかにスケールダウンしている。にもかかわらず、そのスケールダウン問題を、製作者がまったく処理していない、ということがあったのだ。
 「自己反省の男」富野は次作『ZZ』では冒頭からさっそくスケールダウン問題に取り組んで一定以上の成果をえるが、スケールダウン問題に関しては、『レールガン』の方がうまくやってやがるなー、と感じていた。だから「ちくしょう」。

 また主人公・美琴に説教したい、という声が一定以上あるのも、かつての初代『ガンダム』におけるセイラとセックスしたい、というのと同じで、製作者の思惑通りなんだろうな、という点でも、感心していた。
 美琴はいづれ本編でヒーロー上条に説教されることになる、と予感させるものがあるからだ。説教したい、と思われたら、キャラクター描写としては成功なのだろう。

 「蓋で閉じられた感じ」というのはもう一点あって、それは『禁書』にも若干感じているところでもある。
 去年のガンダム無料放送からちらほらアニメを観ているのだが、ちょっと気になるのは、俺の観た狭い範囲でのことなんだが、「ルール」を疑わない、「ルール」との葛藤のない作品が多いように思われる点だ。
 約束の時間にこない、というルール破りがあってもペナルティなしとか、ルール下で抑圧的立場にある人間がルール自体を疑うことをしない、とか、どうにもこうにも中学時代校内暴力で高校時代管理教育を受けた俺からすると、どうしても違和感をぬぐいえないのだ。

 たとえばこれが、深夜アニメより広い層を狙った作品、『ワンピース』とか『FF13』とかになると、とたんにルールを疑う・従わない主人公たちが暴れることになる。
 この差はいったいなんだろうな、というのが、俺がいまちょっと興味をそそられている点だ。

 ルールのなかでがんばっている人間に正義や正当性、正統性があることはじゅうぶん承知しながら、大衆はルール破りのヒーローたちを喝采してきたからだ。

 マルセル・グラネのいう「戦士の到来」。
 正義が、正しさが、あまりにも行き渡り息詰まるとき、ふらりとあらわれる無法者によって、囚人の縛り首のロープが切断される。
 いきすぎた正義によって社会から失われた人間性を回復する者が、無頼漢、無法者、遊侠の徒だ。

 『ワンピース』などはその典型だ。『ワンピース』をひっくり返すと『デスノート』になる。デュメジル風にいえば、ルフィがインドラなら、ライトはヴァルナだ。
 しかし大衆が愛するのは、自由の戦士であって、正義の司祭ではない。だからライトは自滅するダークサイドに堕ちる必要があったのだろう。

 しかし、アニメであるとかライトノベルであるとか、一部の層向けの作品では、この解放者としての無頼漢が出てこない。
 これはちょっと興味深い傾向ではあるよなーと。

 富野語りの文脈でいえば、そのアニメファンたちに、「エクソダスするかい?」と言ってしまうズレが悲劇ではある。どうすりゃいいんだろうなー。

ポニョをみた

 『崖の上のポニュ』を観たのだが、前知識が中途半端にあったせいか、肩透かしをくらった。
 なんか、ほんとに他愛もない可愛い話で、難解とかアバンギャルドとか神話性とか、俺は感じなかったなー。でも楽しかった。

 前評判からすると、宮崎版『ブレンパワード』だと予感していたんだけど、実際は宮崎版『涼宮ハルヒの憂鬱』のように感じた。ラブコメマンガだった。
 面倒見のいいキョンが面倒くさい女ハルヒの面倒をこれかもみるわしょうがねーなーというのが『ハルヒの憂鬱』なら、フォローの達人ソースケが暴走女ポニュのフォローをこれかもするよという話として受け取めた。

 ソースケの母親のリサがこう、いい感じだった。小娘ががんばって母親やってます、という感じで。可愛かったね。そのいたらない若い母親を健気にフォローするソースケがいい子すぎて微笑ましかった。
 で、フォローの男ソースケの資質を嗅ぎ当てて、リサと同じタイプの我の強いオンナがわらわら集まってきているのも笑った。まー宮崎作品はサビ抜きなんで、批評的な意図はないんだろうけど。
 宮崎アニメの見やすさのひとつは、女性登場人物がぜんいん同じというところかな。山犬に育てれたナウシカがサンだし、山賊の女房をやらされたり苦労したナウシカがエボシだし、牛飼のダメ男と結婚したナウシカがタタラ場の島本須美声の女だろうし。だから作中人物の内面を洞察する必要もない。みたまんまだもの。

 ただ『ポニュ』がわかりづらいとしたら、冒頭から魔術師が画面に写って魔術を使ってしまっているので、ぜんぺんこれ魔術的不思議現象のオンパレードになっているんだなー。これは宮崎らしくない、というか、「高畑兄貴の目線」って、いまはもう気にしてないのかねー。「高畑勲」という枷を外したのは『未来少年コナン』以来だよねー。今回『コナン』以上にやりたい放題だけどな。これも興味深かったなー。

 敵対的存在である魔術師の声優が所ジョージというキャスティングは、やはり作品の締りのなさにつながっている気がする。
 あの魔術師は「ハウル」だよね。「ハウルの可能性のひとつ」というか。もう一回キムタクを連れてこれないなら、イケメン声の声優を使ってほしかったよなー。グランマーレの愛人なんだし、ポニュのオヤジさんなんだし、いい男じゃなきゃダメだと思うんだけどな。

 初稿というか準備稿というか、推敲なしでそのままフィルムにしてしまったかのような「本」の弱さがあって、その弱さは声優の芝居である程度糊塗できたはずなんだけどね。今作だけはちゃんとした声優使わないと。

 あと、「正体は魚ですがいいですか」とか「人面魚だけど」というのは、デメリットになってないのも困るよね。むしろフォローの男ソースケの懐にとびこむためにはアドバンテージになっちゃってる。これも笑った。ソースケ狙いの幼なじみの女の子がその場にいればね、「ポニュ、ずるい」って言ったはずだよな。金魚として入り込むとはなんたる女。
 むしろポニョは性格が問題だよね。グランマーレもそちらを気にして欲しかったよな。「暴走バカ女だけどいいですか」「自分、お袋で慣れているんで、大丈夫っす」みたいな。暴走女フォロー検定一級余裕でしたみたいな。

 俺は楽しめたし、可愛らしい作品だと思うけど、やっぱり長さが足りないなとは感じたな。もういっそのこと絵本作家とかに転向してくれないかしらw。映画の尺じゃ足りてないよ。『もののけ姫』しかり。
 『もののけ姫』はアニメ版『ナウシカ』のリベンジかつマンガ版『ナウシカ』のテーマ的進化版だったというのが俺の考え。
 『千と千尋の神隠し』は『となりのトトロ』のヤングアダルト版って感じ。
 『ポニュ』はなんというのか、『コナン』の宮崎が帰ってきた、という感じがする。『コナン』の場合は、高畑、大塚的リアリズムに対するアンチだったんだけど、『ポニュ』はもう宮崎の魔術的イマジネーションがただ漏れだったね。あとロリ。ロリ全開。ロリただ漏れ。ミヤザキエフ・ムッツリーニ・ロリスキーどころじゃない。ミヤザキエフ・あ、ただ漏れしてますよ?・ロリスキーだった。もうね、やりたい放題だな、お爺ちゃん。どんどんやっちゃってください。

 しっかし宮崎ピャヤオーはズリーよなー。好き勝手に妄想垂れ流したら、こんな可愛らしい話になっちゃうんだもん。そりゃね、大衆に愛されるわけだよ。どんだけ可愛い妄想なの。お爺ちゃんなんだよ?

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