ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

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『わたしが子どもだったころ アニメ監督・富野由悠季』を観た

 冒頭からちょっと意地悪な感じがして、面白かった。
 仕事場のセットつくるらしいから、小道具はぜんぶ自分で持ってきたのよね、という冒頭シーン。机のなかの小道具を自前で用意するあたりから、富野のこだわりがみえて楽しい。以前、松田優作がTVの刑事ドラマで自分の机の小道具が何の考えもなく設置されているのをみて激怒したというエピソードを思い出した。そのあたり、やっぱり発想が映画の人なんだなーと。
 ところがTVスタッフは、つくりものをつくる富野、という絵を撮ってしまうわけだw。これが面白かった。意地悪だなーと思うと同時に、いわゆる「ヤラセ」とは逆の発想で、へーTVの人はこういうこともするんだなーと感心もした。

 親父さんがもっていたカメラを大事そうに取り出して説明する富野、親父さんが開発したという「宇宙服」(与圧服)の写真を誇らしげにみせる富野。
 一方で肝心のお袋さんの話はぜんぜん出てこない。せいぜいポマードをつけた小学生というくだりで、お袋の仕業じゃないか、と口にするだけ。
 そのあたりが、「おいいい」と身悶えしそうになった。

 しかし少年時代の再現ドラマで、そのあたりの、富野少年のなかのお袋さんの位置づけが描かれて、たいへん満足である。さすがNHK。
 富野少年の誇り、親父さん。親父さんの手伝いができるという喜び。チビと女を遠ざけた男の世界での手伝いだ。しかしその聖域を土足で踏みにじる女がいる。お袋さんだ。「喜幸ちゃんは明日学校なのよー」。翌日か写真をメチャクチャにされてフテる親父さん。この流れがよかったね。

 富野ワールドでもっとも興味深いのは、富野のマザコンっぷりである。若い亡母への思慕から女性全般を崇拝し女性たちとのロマンスを繰り返すタイプの、エンタメ主人公にありがちなマザコンではない。もちろん『ブレンパワード』で描かれたジョナサン的な、女性的なマザコンでもない。あるいは母親によって去勢された昔懐かしの冬彦さん的なマザコンでもない。富野のそれは誰しもが一度は通過する、中学生男子的な、「うっぜーんだよ、くそババア」的なマザコンである。
 しかし富野の場合、その中学生男子的な「うっぜーんだよ、くそババア」的なマザコンが、中年以降になっても(少なくとも作家論レベルでは)持続した、というのが興味深いのだ。
 どんだけ“強烈な”お袋さんだったんだろうな、と以前から気になっていたのである。今回、この番組では、さすがにキャラクター性に触れることはなかったが、関係性における富野ママンの有り様を描いてくれて、俺としてはじゅぶん楽しめた。

 そのほかのエピソードも、興味深いものばかりだ。

 小田原に郷土愛を感じていなかった、というのは、意外だった。小田原は関東の武士たちの中心地のひとつだった地だ。
 俺のみるところ、富野ワールドにはあきらかに一所懸命を尊ぶ関東武士の独立精神が息づいている。これを俺は小田原の産土神の影響だと思っていたのである。
 未読だが、橋本治が『ガンダム』を「任侠ヤクザと腐敗警察の戦い」と捉えた本があるらしい。しかし、俺にいわせば、富野ワールドは、むしろ関東武士の世界観である。ヤクザではない、サムライだ。
 俺のヘンテコ史観wによれば、「ヤクザと官軍」の二分法は、中国大陸から西日本までの文化圏の話だ。熊本出身の尾田栄一郎が描く『ワンピース』が中国学者マルセル・グラネの話にピタリと一致するのはそういう理由がある。「任侠ヤクザvs腐敗警察」では水滸伝だし『ワンピース』だ。橋本治は東京人だが教養人すぎて文字文明の重力に囚われているのだろう。
 ユーラシアから東日本までは自主独立を尊ぶ文化圏だ。「地方豪族(サムライ)と中央政権(朝廷)」の二分法である。西日本の戦士文化がヤクザ(任侠)なら、東日本の戦士文化はサムライなのだ。武装商人と武装農民の差だ。ぜんぜん違う。生存圏を守護するために戦う富野ワールドの戦士たちは、敵も味方もサムライだ。
 ……という俺のヘンテコ解釈もあって、小田原出身という自意識はない、東京にいつか帰るという意識があった、というのは、俺にはほんとうに意外だった。いや東京は別にいいけどもさ、小田原はそんな嫌わなくても……と思った。
 アニメ『リーンの翼』では、日本人の主人公が異世界で建国した王国の名は「ホージョー」になっている。「ホージョー」が北条であれば、小田原だ。これは矛盾か、そうでもないのか。このあたりは、東京土人の俺にはちょっとわからない感覚なのかもしれない。

 幼き日の富野少年には友達があんまりいなかったのか、というのも、なるほど、という感じである。
 富野ワールドでは、主人公の若者に友達がいない、というのが特徴である。俺のお気に入りの『F91』は富野が富野ワールドの偏向性をできるだけ抑制したところに魅力があるので主人公には珍しく友達がいるw。しかし小説版を読むと友達というのとは少し違っていて「あれれ」と思っていたのである。映画版の印象と違って主人公が友達のいない内向的な趣味人みたく描かれていて「いつもの富野主人公」に近かったのだ。小説版は富野ワールドの偏向性を抑制しきれていない。
 「いつもの富野主人公」というのが、時代の要請とか、アニメファンの鏡像とか、そういうことじゃないんだな、と今回の番組で理解できた。本人じゃねーか。

 風呂の薪を削ってつくった、という飛行機のフィギュアは、ビックリするような出来で、趣味人としてハンパなかったんだなーと思った。なんかジオラマ?風の写真まで撮っているし。どんだけ筋金入り。
 飛行機への偏愛も、富野のロボットアニメが結局ガンダムに収斂していくことを暗示している。ガンダムは飛行機、イデオンは戦艦、ウォーカーマシンは自動車なのだ。しかし『聖戦士ダンバイン』以降、富野は結局ガンダムモドキを量産するしかなくなる。手癖ということもある。しかしネタの尽きたロボットアニメの仕事しかやらせてもらえない富野だとしたら、仕事を仕事以上のものにするモチベーションのひとつがあるいは“飛行機の夢”だったのかもしれない。そんなことを考えさせられた。

 少年時代の再現ドラマのその後もせつない。
 勉強もだめ、運動もだめ、そして唯一のプライドだった絵もだめ、となっていくあたりは、富野ドラマ的な苦さだ。
 そのなかで、月世界旅行の研究レポートを発表するくだりで、ちょっと救われるのは、この番組スタッフの構成力の凄さか。

 富野少年の宇宙への憧れが、SF映画やSFマンガ、SF小説経由ではなかった、つまりSFジャンルからの影響はゼロだった、というのも面白かった。後年の「ガンダムはSFじゃない」という話に繋がっていく大事な傍証だろう。

 番組の最後は川原でペットボトルロケットを打ち上げて、「どうなのこれ」的な顔をしている富野で締められた。この「どうなのこれ」的な中途半端さを撮るTVスタッフは意地悪だし優秀だなーと思った。ひどいよね。富野監督はキメたいヒトなのにさー、とニヤニヤした。

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プロットの時代 アニメの気持ち

 物語の方向性にはいくつもあると思うが、プロット重視かドラマ性重視か、で、作品のタイプがだいぶ違ってくる。
 俺がここでいうプロットとは出来事のことだ。事件の顛末。一方、ドラマ性とは人間の心理や関係性の変化のことだ。

 1980年代にクサイとかダサイとかいってドラマ性を笑う風潮が出てきた。もちろん大衆レベルではドラマ性が軽視されるまでにはいたらなかった。クサさを笑いつつドラマ性が描かれ、あるいはクサさを回避する洗練化を通してドラマ性が描かれた。
 しかし一方で、たしかにドラマ性を軽視する流れもあり、その流れのなかで、たとえば本格ミステリが復権し、ライトノベルが台頭してきた。市場傾向という文脈でいえば、小説全般の凋落とともに、マニアが書きマニアが買う、という「手堅い」市場性が評価されたともいえるだろう。これは小説にかぎらず、バブル後の長期不景気のなかでの大方の方向性にもいえることだ。オタク産業がどうの動物化がどうのという前に、不景気のなかでの「手堅い」商売の問題として捉える視点も必要ではないかと思う。
 ミステリはプロット重視の典型ジャンルであるし、ライトノベルもじつは「設定とプロット」が生命線のジャンルである。またミステリやライトノベルのような「リッチな設定(アイディア)」「リッチなプロット」ではないにせよ、脱ドラマ志向かつ「設定の妙」と「出来事の妙」で楽しませる四コママンガの隆盛も同時代現象といえるだろう。これにビデオゲームも追加できるかもしれない。物語論という文脈でみた場合、ビデオゲームもまた「設定とプロット」が生命線のジャンルといえるからだ。
 80年代の時代の追い風を受けつつ90年代の不景気のなかで人気を確立した、物語を扱うサブカルチャーは、プロット重視というタイプの作品で占められることになった。

 もはやお気づきだろうが、じつはこのプロット重視タイプのジャンルの隆盛は、「萌え」の隆盛ときれいに同期している。
 この文脈でみれば、「萌え」キャラの特異性は、ドラマ性と関連しない人格性、とまとめることができるだろう。
 「ストーリーラインから外れた人物造形」は、原理原則的にいえば、ペケである。しかしミステリなどは昔からエキセントリックなキャラクターたちを創造してきた。ストーリーラインと結びついたキャラクターではすぐに犯人がバレてしまう。ミステリにおいては結びつかないのが大事なわけだ。
 ミステリのエキセントリックなキャラクターと、萌えキャラクターは、構造論のレベルでは、同じものである。プロット重視タイプの作品の隆盛は、だから「萌え」キャラの隆盛でもあったわけだ。
 もちろんこの時代にも、ドラマ性重視の作品は、たとえばケータイ小説などで書かれていたようだ。設定レベルやプロットレベルでは文字通り失笑されるような類の作品が多かったとしても、ドラマの感動を求める層は、たしかにいなくなったわけではなかったのだ。なにより恋愛ものはドラマ性重視以外になりようがない。

 原作未読、アニメ未見なんだが、『とらドラ!』の“受け方”は気になっていた。評判の内容からいえば、ドラマ性の復権に位置づけられるだろう。ケータイ小説の受け方と一緒じゃねーか、と揶揄する声もあったようだが、まさにそこが大切なところじゃないのか、と思った。
 だから去年2009年は、ポスト『とらドラ!』という方向にアンテナをセッティングしていたのだが、どうも引っかかるものがなかった。ただそのなかで興味深かったのは、ある四コママンガのアニメ化作品が、原作とは違ってドラマへの志向性を垣間見せていた点だ。スタッフはドラマ性重視の作品をつくりたいのかな、と感じさせるものがあった。しかし作品論的にはドラマのフックを用意しながらドラマをはじめないというビミョーなことになっていた。受容論的にはそれが魅力にもなっていた可能性があるが、俺が感じたのはドラマをやりたいのにやれないアニメスタッフの気分だ。

 『とある科学の電磁砲』は最終回までばっちり楽しませてもらったのだが、見事なまでにドラマ性重視タイプの作品に仕上がっていて驚いた。
 原作未読なので、どこまで原作の範囲なのかわからないが、 『とある魔術の禁書目録』を観るかぎり、電撃文庫の看板作品のひとつだけあって、原作はおそらく「リッチな設定」「リッチなプロット」で魅せるタイプの作品なのだろうと思われる。
 『電磁砲』はスピンアウト作品だからか、『禁書』に比べて「設定」や「大事件」への比重がないぶんだけ、キャラクター描写に尺が使われていて観やすいなー、と軽い気持ちで観ていたら、最終回まで観てビックリ。ドラマ仕込んでやがったw。すげー。
 「事件性」はともかく主人公の「ドラマ性」は『禁書』本編に繋いでいく構成だと思っていたのだが、『電磁砲』だけで完結させやがった。すげー。
 某四コマ原作アニメのようにドラマ性のフックだけあってドラマは描かないという「???」なことになっていた、プロット重視原作とドラマにテーマを重ねながら描きたいアニメスタッフとの不幸な関係が、『電磁砲』では見事に調和しているわけだ。ブラボー。

 監督・長井龍雪とシリーズ構成・水上清資の手腕が一番の功績だろう。それにスピンアウト作品ということ、原作者・鎌池和馬の協力と理解が得られたことも大きかったのではないだろうか。劇場版『999』などは原作者の協力と理解のもと、別ジャンル、といってもいい作品になり成功した。
 鎌池和馬もかなりアニメに理解があるという話だし、『禁書』の方もぜひ、アニメ版は別ジャンル、ぐらいの勢いで、「設定とプロット」を軽く薄くする方向で改変してくれると、二期にはドラマで魅せたいアニメスタッフの腕のふるいどころが出てくるように思う。『禁書』本編は「設定とプロット」がリッチすぎて、ドラマ性を差しはさむ余地があまりにもないような気がするのだ。アニメ用にカスタマイズしてくんないかなーと。贅沢か。……いや鎌池和馬とJ.C.STAFFならきっとやってくれる! 黒子がお姉さまを信じるくらいに信じますの! プロット主義はアニメじゃキツイんだよ! つかアニメスタッフはドラマやりたいんだよ! たぶん!

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