ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

大人なのに『G-レコ』観ちゃってごめんな、たった1~3話だけだけどな!

 ネタバレなしでいこう、たぶん。言うまでもなく個人の感想だ↓

 ・まず映画でいう「だれ場」がなかったので、1~3話をぶっつつげで観るのはつらかった。(TVシリーズなのでこれで正解かな)
 ・1~2話はさすがの富野であったが、3話からあやしくなる。4話以降を観ないと何ともいえない。本放送時「3話で切る」とは思わずでいて欲しいと願う。
 ・映画っぽいところとマンガじみたところが混在している。
 ・ギャグっぽい場面は滑っていて手塚治虫の短所を受け継いでいる。手塚はピノコを発明してユーモア場面をキャラに集約させ空回り感を払拭したが、『G-レコ』は今後はどうするのか不安である。
 ・とりあえずいまのところは「ガンダムのビョーキ」からは距離をおいているのでひと安心。
 ・冒険活劇としてはロボットバトルが邪魔をして活劇分が少ない。ロボットバトルを活劇分の替りにしてしまうのか心配。
 ・“いつもの富野”ではなかったことは確かで、そこは評価できる。
 ・とはいえ、芝居と物語のバランスは『∀』より下。
 ・期待しすぎて観てはいけない。
 ・面白いことは面白い。そこは安心してほしい。
 ・主人公の活躍が主軸になって物語を駆動していくタイプではないので、観る人を選ぶことも確か。初期『ワンピ』のような痛快感はない。
 ・主人公、もうちょい元気が足りてない。もっと走りなさいよ自分の足で。
 ・冒険譚としては今後どうなるのか、期待と不安とでいっぱいである。もっと踊れ!
 ・これからノってきてくれるのかな? だといいんだけど。
 ・再見して楽しみが倍増していく感じなので富野ファンならBlu-rayが出たらマストバイ。

 こんなところかな。
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大人なのに「G-レコ」観ちゃってごめんな、たった10分だけだけどな!

 俺のみるところ、富野アニメは、ある時期まで、「作家性の強い作品」→「一歩退いた作品」→「作家性の強い作品」、と交互につくられていた。

 俺のような富野ファンだと、どうしてもこの「作家性の強い作品」ばかりを偏愛してしまう傾向が強い。
 とくに俺は文芸方面への偏りでみてしまうので、「一歩退いた作品」は、どうしても脚本家たちの方に目がいってしまうのだ。

 『伝説巨神イデオン』以後でいえば、俺の偏りのなかで富野語りがしづらいのは、『戦闘メカ ザブングル』『重戦機エルガイム』『機動戦士ガンダムZZ』だ。
 これらの作品はどれも好きなんだが、富野色という点では、「うーむ」となってしまう。

 たとえば『ザブングル』には吉川惣司、『エルガイム』には渡邊由自、『ΖΖ』には遠藤明範の影がちらついてしまう。

 そして『機動戦士ガンダムF91』なんだが、この作品では、自ら富野色を抑制しようとする気配がある。富野色の強い小説版とは色合いが違うし、しかし特定の脚本家の影は感じない。NEW富野だ。
 そんなNEW富野がその後“皆殺しのトミノ”的な欠点丸出しの『機動戦士Vガンダム』をつくらざるをえなかったのは、不本意だったろう。(『V』は無茶な作品だが各話各話は魅力的だ)

 『ブレンパワード』は挑戦的な作品だ。この作品から、NEW富野Ver2的な立ち位置を模索しはじめる。富野色を抑制しつつも、特定の脚本家色を出さず、しかし各話脚本の魅力を全面に出す、そうした均衡をねらっていく作風だ。
 とはいえ『ブレン』は途中からだが、面出明美の影がちらつくように感じられるので、過渡期の作品といえるだろう。

 『∀ガンダム』はそんな富野が目指していただろうNEW富野Ver2の完成形でつくられた傑作である。しかし終盤にかけて富野色が強くなってしまったきらいはある。
 『OVERMANキングゲイナー』も、NEW富野Ver2だろう。たとえば各エピソードの敵役づくりの周到さなどは、大河内一楼たちの仕事だったのではないだろうか。

 しかしだ、しかし。
 アニメ『リーンの翼』はどうしてくれるんだ。富野色が強く出たが、“皆殺しのトミノ”ではない。NEW富野Ver3とでもいうのだろうか。

 『ガンダム Gのレコンギスタ』への期待はそこにある。全話脚本を富野が手がけたという話があるらしいのだが、どこまで富野色を出すのか、あるいは抑制するのか、非常に興味深いのだ。 
  NEW富野Ver3はありえたのか、またその完成形になるとしたら、傑作になる予感しかしないのである。

『機動戦士Ζガンダム』について 補遺

 『機動戦士Ζガンダム』は、俺からみると、企画の段階から無茶だった。そしてその無茶ぶりが、歪みとして作品に反映されてしまった不幸な作品だ。言葉を変えれば富野の周到さがもっとあればより面白くなったポテンシャルを秘めていた作品といえるだろう。

 とはいえ、その歪みそれ自体が、作品としての魅力にもなっている、というのだから、必ずしも「優等生的」な作品が面白いとは限らないという典型的な例かもしれない。
 だから俺にしてみれば、複雑な思い入れがある作品であるし、好きだという人間の気持ちも多少はわかるつもりだ。

 『Ζ』の魅力とは俺にとり、以上あげた三つの欠点が、そのまま魅力にもなっている点であるからだ。

 ヤラレメカ的なロボットが登場せず、敵であっても小破で撤退するのは、それだけ敵パイロットも優秀な証だ。MS初期の時代ではないのである。MSが通常兵器となり、その運用がきちん行き渡っていることを伺わせる。
 そんな時代であれば、かつて紅い彗星と異名をとったエースパイロットも、そこそこの操縦技術をもった敵味方に埋もれても仕方がない面がある。7年も前の、MS初期のパイロットなのだ。

 またパイロットだけで織りなす人間模様も、過酷な戦時下における緊迫したそれであって、だからこそ悲劇が際立つのである。

 政治的混乱を描いて“難解”になっているのは、そもそもカミーユがおかれた状況が、“混迷”をきわめているからである。

 カミーユを動かすのは正義感ではなく、ただ生き延びるためでもなく、敵の非人道的な行いに対する怒りからだ。それでもなければカミーユには戦う理由がない。
 「現実」の暗喩だった地球連邦はすでにその機能を失い、三つ巴の戦いの渦中にあって、ただ怒りと愛だけが、カミーユの「現実」なのである。

 カミーユは何度も愛を奪われ、何度も怒りを激発させる。やがて歴戦のシャアをも戦慄させる虚無の貌をもつ少年になっていく。
 ただ失われた愛によってのみ、最後の怒りは最悪の敵を打ち砕くことができるのである。そのときカミーユには「現実」など存在するわけがなかったのだ。

『機動戦士Ζガンダム』について 3/3

 『機動戦士Ζガンダム』は、「続編もの」として野心的な「設定」と、「メカものとしてのガンダム」を“マクロス以後”へバージョンアップするための「若手中心のスタッフワーク」とが、うまく噛みあっていなかった。
 噛みあっていないのはもうひとつあった。「設定」それ自体にもあったのだ。

 大戦終結後の「政治的混乱」のなかに、“大戦を生き延びた大物”であるシャアやアムロを登場させてしまったことだ。

 数年後のかれらを描くという点では野心的な試みだし、かれらのその後がけっこう情けない……というのも富野らしくて好きである。

 しかし、パイロットの「強さ」がインフレを起こした大戦末期からの引き継ぎの登場のおかげで、今作で初登場するパイロットたちの「強さ」が不分明なものになってしまった。

 前作では若い無名のパイロットが、敵側の伝説的な古強者を打ち破っていくカタルシスがあった。そこでは最強のシャアがおり、ロボットバトルでは最後まで決着がつかないところで終わった。シャアとアムロは最強なわけだ。
 そんなシャアが登場し、前述のように、カタルシスのないロボット戦にあくせくするのは、情けない、というよりも設定段階でのミスではないかと思っている。「強さ」のインフレを起こした前作との摺り合わせができていない。(『逆シャア』はその点ではうまい)。
 
 ここでもわりをくったのは、主人公カミーユだ。かれは「最強」であるはずのシャアと共闘し、それなりの戦果を上げてしまう。ではカミーユがいきなり「強」かったのか、というと、前述したとおりカタルシスのないロボット戦である。これでは、「強さ」を通して描かれるはずの主人公のヒーロー性がでてこない。カミーユはロボット戦を通して「強く」なっていくことができないのだ。
 またカミーユのライバルは最強のシャアのような存在ではない。存在しない。かりにいるとしたら、「強さ」においてあきらかに格下のジェリドである。カミーユが気の毒でしょうがない。(好青年ジェリドも気の毒だった)

 最強のシャアと互角に戦える敵側の有象無象がそれほど「強」かったのか? ではシャアが弱くなったのか?

 そうした疑問は、「設定」段階に一工夫あれば解決できたはずなのである。
 前作に比してスケールダウンした作品世界に、前作の主要キャラクターを安易に登場させてしまったがゆえのチグハグ感である、と俺は考えている。
 以前書いた、『Ζ』におけるスケールダウン問題とは、このことである。

『機動戦士Ζガンダム』について 2/3

 『機動戦士Ζガンダム』は、前述のとおり、若いガンダムファンにガンダムをつくらせる、というコンセプトの作品であったのだろうというのが俺の解釈だ。普通ならこれは“マニアが作りマニアが買う”といったマニア市場の構図にハマるはずである。
 もちろん当時はまだビデオコンテンツ販売全盛期の時代ではない。しかし“受け方”としては当時すでに、作り手と受け手の同類意識のようなものがある作品がつくられていた。『超時空要塞マクロス』やTV版『うる星やつら』などだ。文化祭みたいな熱気をもった作品であり受容のされ方だった。
 『Ζ』もまた、本来なら、そうした“文化祭”アニメとして伝説になる可能性を秘めていたはずだ。しかしそうした受容のされ方はなされなかった。なぜか。

 それは富野監督が欲張りすぎたからではないか、というのが俺の理解だ。
 キャスティングディレクターに徹して“祭り”にすればよかったのだが、きわめて真面目に「ガンダムの続編」をつくってしまった。

 「ガンダムの続編」としての部分、大戦終結後の政治的混乱を描くという「設定」が、じつに野心的で素晴らしいのだが、これを若いスタッフにやらせる、というのは無謀であったように思う。
 富野監督は、基本的に「設定」と「演出」に才の走るタイプである。どれほど素晴らしい「設定」があっても、そこから「絵」と「話」を取り出すことが出来なければ、作品としては弱いものになってしまうだろう。
 素晴らしい斬新な「設定」であればあるほど、それと格闘して「絵」や「話」を取り出すのは、相応の実力が必要になるわけだ。「スタジオワーク」でじょじょに力をつければいいというパートではないはずだ。

 『Ζ』の“難解”さのひとつは、「設定」から「絵」や「話」を取り出せていない、というのが原因である。
 たとえば政治勢力の政治的意図が「絵」になっていない。初代でいえば「コロニー落し」という「絵」がない。「毒ガス」では「絵」にならないわけだ。これでは主人公の立場が伝わりにくい。
 主人公の立場を「設定」から取り出せなかった、ということは、ラスボス的なキャラクター、シロッコにも同じことがいえた。「設定」から悪人として取り出せていないのである。

 このときの富野監督は欲張りすぎたとも思う。
 メカが先鋭ならそれ以外は抑えるとか、設定が先鋭ならそれ以外は抑えるとか、そういうバランスがなかった。ぜんぶ先鋭でいこうとしてしまった。
 このあたり、「ニュータイプ論」の暴走、ということと似ている。富野監督のもっている危うさのひとつなんだろう。真面目すぎるしラジカルすぎる。

 もっともそれが魅力でもあるのだから、富野ファンをやめらない自分でもある。

『機動戦士Ζガンダム』について 1/3

 なぜ富野由悠季が『ガンダム』の続編をつくる気になったのか、長い間俺にはさっぱり理解できなかった。ただただ、商業主義に富野が負けた、ガンダムが負けた、という悲しい思いしか抱けなかった。

 しかし最近wikipediaで初めて知ったのだが、『Ζ』は永野護をメカデザイナーとして起用する予定だったらしい。キャラは安彦良和、メカは永野護だ。
 つまりガンダムを“マクロス以後”のリアルロボットアニメにアップデートするのが目的だったのかな、というのが最近の俺の理解だ。
 ガンダムブームでアニメ業界に入ってきたガンダム世代の先頭、当時二十代だった若者たちにガンダムをつくらせたい、というスタッフワークありきの仕事だったのではないか。

 新世代の登用ありきの企画である、と見立てると、俺が長年『Ζ』に対して抱いていた疑問がいろいろと払拭できるのだ。

 たとえば『Ζ』のロボットバトル。
 ロボットアニメの本来の構造論であれば、ロボットバトルはカタルシスを与えるためのものだ。そうであればこそ人間ドラマパートは製作者の自由にできる。長浜忠夫以前からロボットアニメがときとして良質のオリジナルドラマを描いてきた理由である。
 しかし『Ζ』はロボットバトルでカタルシスをえることがほとんどない。主要登場人物の操縦するロボットはたいていバトルすることがあっても決着がつかないで(せいぜい小破ぐらいで)戦闘を切り上げることになる。
 作劇の都合で登場人物を殺したくなくても、せっかくメカに乗っているのだから、メカだけドカンと派手に大破させれば、エンタメとしてスカッとするのに、なにもったいぶってんだ、と観ていてイライラしていたものだ。
 ロボットアニメのアドバンテージをなんで活用しないのかな、エンタメにする気あんのかな、と不思議に思ったものだが、新世代のメカありきの企画でもある、となると、通常のロボットアニメにおけるヤラレメカ的な扱いができなかったのだろう、と最近やっと気づいた。

 こうしたことは、結局ドラマパートにもしわ寄せがくることになった。
 主要登場人物が全員パイロットなのだ。全員、ロボットに乗る。主要ロボットの数を増やすためだ、と考えればこの措置も理解できる。
 しかしおかげで、恋人は軍人(でパイロット)、ライバルは軍人(でパイロット)、先輩は軍人(でパイロット)、後輩は軍人(でパイロット)、という狭い世界の話になってしまった。
 きわめて狭い世界の話だけで無理やりドラマをやろうとしたのが、『Ζ』であった。そりゃ無理がある。そんな無理のあるドラマパートもまた当時二十代の若い脚本家に任せたのだから“難解”になるはずである。

 『機動戦士Vガンダム』の製作時、富野と対立したバンダイのプロデューサーが、おそらく望んでいたのが、この『Ζ』のような作品であったと思う。10年早すぎたともいえる。しかし『Ζ』は、商業的には、初代『ガンダム』と違って、いきなり成功したらしい。そりゃそうだ。

 その後の、『V』製作時の軋轢を踏まえて『Ζ』を振り返ると、「も~なに墓穴掘ってんすか~」という気分になる。
 しかし当時のスタッフワークとしては「正しかった」んだろうな、と今の俺は考えている。それが『Ζ』のいちばんの宝物なのかもしれない。

俺にとり“ガンダムの続編”が意味したもの

 『機動戦士ガンダム』の続編が作られる、ときいたとき、俺が感じたのは、ある種の「挫折感」であった。
 一観客が挫折感もヘッタクレもないはずなんだがw、かりに言葉にしてみると「ああ、アニメは負けたんだなー」という感じであった。アニメというか、ガンダムが負けた、ガンダム的な何かが負けた、ということだ。

 『宇宙戦艦ヤマト』や劇場版『銀河鉄道999』は素晴らしい作品なのだが、その素晴らしさは見事に完結しているという点にもあった。テーマとドラマと映像が見事に融合した作品であった。
 それの続編をつくる、というのは、あきらかに作品内容への敬意をもたない商業主義の行き過ぎである、と思っていた。続編作品の出来不出来の問題ではない。
 企画の段階で無理がありすぎたのだ。地球は救われ、機械化の元凶は倒された。まともな続編がつくれるわけがなかった。『ウルトラマン』や『仮面ライダー』とは作品のタイプが違うのだ。
 しかし子供番組としてしか扱えない大人たちの商業主義が、『ヤマト』や『999』の続編を作らせてしまった。

 その「子供番組としてしか扱えない大人たちの商業主義」に対して、戦いを挑んできたのが、富野監督ではなかったか、というのが、俺の評価だったのだ。だからこそ、余計に悲しかった。

 続編などつくらなくても、オリジナル企画の新作がどんどんつくられていく、それがヤマトブームとガンダムブームの決定的な違いだったはずなのだ。
 ガンダムがもたらしたそれは、商業主義と作品性とがぎりぎり結べる健全な関係であったように俺には思えた。

 たとえば『ガンダム』『イデオン』から『超時空要塞マクロス』が生まれてくる過程は、俺は美しいものだったと、いまでも思う。
 『マクロス』の主人公が日本人とか、アフリカ系の美女を配するとか、そのあたりの富野ワールドへの批評性が好きだった。
 また『マクロス』に衝撃を受けた富野が、永野護を擁して『重戦機エルガイム』をつくる、という流れも、エキサイティングな出来事だった。『マクロス』の主役メカのデザインがそうとうショックだったんだと思う。

 アニメ界発のオリジナル作品の連発、若い才能による進化、それに対するベテランの応酬、俺がみたそうした心躍る光景こそが、ガンダムが勝ち取ったもの、アニメが勝ち取ったものだったはずなのだ。

 アニメをめぐるそうした光景を、富野が終わらせる、ガンダムが終わらせる、という話が、俺にとり“ガンダムの続編”が意味したものだった。
 これほどガッカリしたことはなかった。

 俺自身がアニメ自体を卒業しはじめていたことも、その無残さが、ひときわ印象に残ってしまったということかもしれない。個々の作品より、業界のパワーを好ましく思う、という視点で接していたからだろう。

 もちろん、後世のいまの俺が冷静に振り返れば、当時の「ロボットの玩具を売るからオリジナル作品やらせて」というゲリラ戦法こそ、まさに“時代の徒花”であったのだろうが……。

『宇宙戦艦ヤマト』と「大きなお友達」

 俺はヤマト世代ではない。そんな俺が俺からみた『ヤマト』の歴史的意義について書いてみる。

 「大きなお友達」という言葉をご存知だろうか。たとえば女児向けアニメなどにハマっている青年以上の人々である。
 ただ、この「大きなお友達」という言葉は、アニメの歴史的にいうと、ちょっと悲しい。

 『ヤマト』を一から盛り上げたのは俺より一回り上の世代のアニメファンだ。世間的にはアニメという言葉すらなかった時代である。
 彼らのうけてきた抑圧を俺は体験として知らない。しかしガンダムブーム前の中学時代、ガンダムのラミネートカードをみられて思い切りヒかれたw経験があるので、わずかながら想像がつく。
 よっぽど周囲に理解のある人以外、青年にもなってアニメが好き、とは公言できなかったんだろうなー、ということだ。
 なぜなら、彼らが熱心にみていたアニメは、それこそ女児向け魔女っ子ものや男児向けSFアクションもの、児童向け名作ものだったからだ。まさにアニメファン全員が「大きなお友達」状態だったわけだw。

 そんな彼らが一般向けのオリジナルアニメ『ヤマト』を観たときの喜びは、それはもう凄かったろうなー、と想像する。
 隠れずに好きといえる。隠れずに凄い作品なんだといえる。
 彼らがどれだけの喜びと解放感のなかで、『ヤマト』という作品を愛したのか、俺はそんな風に想像している。体験できなくて残念だ。

 「大きなお友達」という言葉はだから、アニメの歴史的にいえば、悲しい言葉だ。

 しかし男児向けの作品は、劇場版『ドラえもん』をはじめとした優れた映画作品のおかげで、もはや世間に舐められることはない、あるいは少なくなっていると感じる。
 女児向け作品にも、なにかそうしたブレイクスルーになるようなタイトルがいつか出てくるかもしれない。対世間というレベルでの話ね。そうなったらいいなと思っている。

新『エヴァ』と劇場版『マクロスF』について

 数年前、新『エヴァ』を観ようと思っても観られなくなっている自分に気づいて愕然とした。「アニメ」を観る、ということが俺にとり敷居が高いものになっていたのだ。
 『ガンダム』無料放送からチラホラ最近の「アニメ」を観るようになって、「あれ? 今ならいけんじゃね」と思って再挑戦、今度こそ新『エヴァ』を観ることができた。そういう意味でも『エヴァ』は「アニメ」の最高峰のひとつなんだろう。

 「ヌルくなった」と一部で騒がれていたので、もしや新訳『Ζ』のような「大人チェック」を入れて旧作を改変したのかな、と思っていた。
 ところが実際に観てみたら「大人チェック」的にマズいところがまるまる残っていてw「うん、これでこそエヴァだ」と安心した。ヌルいどころか、俺にはやっぱりキツかった。児童虐待アニメにしか観えないw。もちろん見方が逆で、戦場での子供たちの悲鳴は“思春期の痛み”をあらわしているのだろう。
 旧『エヴァ』TV版にあった“必死さ”はないのだけど、優等生的に穴を埋めようとした「序」に対して、高く高く積み上げていこうとする「破」以後の“エヴァっぷり”はほんとうに痛快だった。嬉しかったし懐かしかった。そうそう、これこれw。この芝居のなってなさwと迫力の戦闘シーン、全体を覆う薄気味悪さ。これでないとな。“マクロス以後”のロボットバトルなんてわからない俺だけど、エヴァのバトルだったらわかる。極上のエンターテイメント「アニメ」だった。

 劇場版『マクロスF』もまた極上のエンターテイメント「アニメ」だった。「うん、これでこそマクロスだ」と安心できる出来になっていて嬉しかった。「私をつかまえてごらんなさい」とか平気でやるんだもん。つくってる側が笑ってないの。すげーよな。そこがもうマクロスw。あと戦闘シーンがなにがなにやらわからないあたりもマクロス。でも歌声を背景に跳ねまわる花火たちはあいかわず美しい。

 「アニメ」が好きで「アニメ」監督になったおふたりの作品は、見事なまでにかわらずにいてくれた。それが嬉しい。それが懐かしい。変わらないってことは、商業的にも大事だけど、同時におふたりとも自分の本質に近いところでつくってきた、という証だものね。

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『新世紀エヴァンゲリオン』について

 俺にとり旧『エヴァ』とは、アニメで何かを語ろうとしている、久しぶりの作品だった。
 90年代に日本のサブカルチャーには大きな変化があらわれた。それはライトノベルの登場だ。「中高生向けの楽しい作品」という点で、それは以前には存在しなかったものだ。
 その変化はアニメにもあらわれる。はじめから中高生を標的にしたアニメがつくられることになった。これも以前にはなかったものだ。ガンダムブーム後のオリジナルロボットアニメも子供向けの作品という前提であった。ガンプラブームは小学生に支えられたのだから当然である。
 それが90年代に、あらかじめティーンエイジャー向けにつくられた娯楽作品がでてきたわけだ。俺にいわせれば「アニメ」の90年代とは、“あかほりさとる”に象徴される時代だ。玩具屋から、出版社やレコード会社の商売になった。
 ガンダムの前後でアニメが変化したのが80年代なら、ライトノベルの前後でアニメが変化したのが90年代ということだ。80年代TVアニメがトミノの時代なら、90年代TVアニメはアカホリの時代だ。
 その時代にあって、監督が言いたいことがある作品、というのはほんとうに特異だった。トミノの後継者がついに現れたのか、と一話から注目していた。
 しかし一話は俺の期待するものとはずいぶん違っていた。人物造形の不自然さ、芝居の不自然さ。フィルム全体に感じる気持ち悪さ、薄気味悪さ。
 文芸方面の品質の低さに戸惑ったが、同時に興味もわいた。ここまで人間性に対する理解から程遠い人間が、何を言いたいのか、何を必死になっているのか、と。そして観ていくうちにその“必死さ”にどんどん惹きこまれていった。そして最終回で少し泣いた。

 俺にとりその“必死さ”とは、『エヴァ』の気持ち悪さに気づかず自然と主人公シンジに感情移入して観てくれている「シンジ君たち」に自己肯定感を与えたい、という祈りのようなものに感じられた。
 TV版最終二話は、「シンジ君たち」に肯定感を(無理矢理wにでも)与えようとする庵野の“必死さ”に感動した。
 それにTV版最終回で「アニメって作り物なんだよ」ということと「きみの現実はきみにしか作れないんだよ」ということを同時に表現してしまったことはやっぱり凄い。

 また可能性の一つとして提示されたラブコメアニメ「学園エヴァ」の描写も俺には楽しいものだった。あれは“お土産”だなと俺は素直に解釈した。

 ところがこれを受けつけない人たちがいた。「学園エヴァ」まで悪意でとらえる人たちがいると人づてにきいたとき、庵野が可哀想すぎると思った。
 でも時代は、あかほりさとるの時代だったのだ。ティーンエイジャーが“お客様”になっていた時代だ。子供向けの作品のなかから、大人の製作者たちの意図を汲み取ろうとする「昔かたぎの」アニメファンたち(ばかり)ではなかった。まさに『ヤマト』ではじまった何かは『エヴァ』で終わったわけだ。
 興味深いことに、あかほり自身は『エヴァ』に肯定的で、そのラストがアレな感じになることまで言い当てていたという話もある。

 映画版はTV版ほどの迫力は感じなかった。祈りがない。“必死さ”がない。観てくれている人達への“想い”が……歪んでしまっている。これは無理もない。
 しかしアスカに「気持ち悪い」と言わせたことで、エヴァというタイトルは歴史に完全に残ることになったと思う。だってほんとに気持ち悪いもんね、エヴァって。よく言わせたよなー。ほんと凄い。


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『伝説巨神イデオン』について 3/3 ガンダムのビョーキとコロニーの空

 ロボットアニメとしての『イデオン』は正しくスーパーロボット系列の作品だ。兵器ではなく遺跡だ。見立てとしては「戦艦」である。
 なかに何人もの人間が乗り込んでいるという設定が素晴らしかった。小説では書かれた「部下をもったアムロ」を『ガンダム』では描けなかったのだが、『イデオン』では主人公は戦闘部隊の隊長だ。

 ガンダムが嫌いだという人はたくさんいる。戦争をエンタメとして扱っているのだから嫌う人が大勢いるのが正常だろう。
 しかしもうひとつある。ガンダムのフォーマットだ。ロボに独りで乗り込んで戦う。たまに敵と議論してもさ。もうね、この絵面がさ、ビョーキなんだよね。ビョーキを誘う。だからニュータイプが対としてあるんだろうけど。
 「ガンダムのビョーキ」を正しく継承しているのが『エヴァ』だね。ATフィールド。凄いよなー、このアイディア。まさにそこに「ガンダムのビョーキ」がある。

 スペースコロニーに「空」を描いちゃうのが富野なんだ。富野がSFの人ではないという証でもあるし、「ガンダムのビョーキ」に付き合う男でもない、ということがわかる。
 『マクロス』は、人型に変形する戦艦と人型に変形する戦闘機を発明して、メカ的にはガンダムとイデオンを一気に過去のものにしてしまったけど、「空」の方を継承しているんだよね。だから富野的には『マクロス』は若さゆえの稚拙さがあっても許せるし愛せるが『エヴァ』はねーだろという心境なんだろうw。キモチはわかるが、俺的には『エヴァ』も大事な作品だ。

 『イデオン』や『ザブングル』は、「ガンダムのビョーキ」から自由だ。それだけでも俺は観ていて安心する。楽しいなと思う。
 だから『ダンバイン』のチャム・ファウって、富野の“悲鳴”のようにみえるんだな。

『伝説巨神イデオン』について 2/3 ものがたりのたたり

 ご都合主義をなんかこう……カッコよく言うと、デウス・エクス・マキナというらしい。機械仕掛けの神像のことで、神々が信じられていた時代のギリシア演劇で使われたものだ。物語の内部の論理で収拾がつかなくなった劇を、外部からの強制的な介入によって収拾することで、近代以降は禁じ手とされる。
 『イデオン』が恐るべき作品なのは、近代のただなかにあって、のこのことこのデウス・エクス・マキナを登場させてしまったことだ。
 とはいえ、作中に登場するご都合主義の化身「イデ」は、事態を収拾するためではなく、事態を悪化させるために使われる。コスモスの回復のためではなく、より一層のカオス化のために。
 なぜか。「芝居」のためである。会うはずのない人物同士が「イデ」によって邂逅し、情念の芝居をみせてくれる。物語は収拾するどころか破断し、芝居だけが場面場面のうえに直接載ることになる。ちょっと他では味わえない異様な作品、それが俺にとっての『イデオン』だ。

 作者が作品にとり憑かれる、ということがおきる。
 たとえば俺が押井守監督の『ビューティフル・ドリーマー』を観たときの感想のひとつは、非常に技巧的だなー、というものだ。サザエさん型の作品、人物が変化しない作品は、本来「映画」に向いていない。『うる星やつら』もそうだ。まして原作連載中、TVシリーズ放送中である。「映画」になるわけがない。なぜなら人物を変わらない世界に帰還させなければならないからだ。
 『ビューティフル・ドリーマー』は「技術論」として、あのように作るしかなかった、という点で、映画の頂きのひとつであることは間違いない。
 しかし、押井守は、ご存知のように、その後、『ビューティフル・ドリーマー』にとり憑かれてしまう。
 『ビューティフル・ドリーマー』の凄さは、「映画」にならないものを「映画」にしたことだ。不可能を可能にした。芯にあるのは、「映画」への執着と、変態的な技巧、「技術論」である。「作家」や「哲学」をそこにみてはいけないはずだった。批評家やファンがどう受容しようとかまわないが、押井自身がそれに巻き込まれるのはどう考えてもおかしな話なのだ。俺からすると「とり憑かれた」としか思えない。

 『イデオン』という作品は、富野にとっては、押井の『ビューティフル・ドリーマー』と同じだ。「引き返す」ということができなくなる作品というものがどうやらあるらしい。
 富野由悠季は『イデオン』に「とり憑かれた」と俺は思う。物語を破断し、やりたい芝居のために「イデ」というデウス・エクス・マキナを使う。これもまた技術論だし、いやもっと悪い、禁じ手を使った技術論だ。技術論としては最低である。
 しかしそのかわり富野の「作家」性が(情念の芝居をとおして)剥き出しになってくれた、という面白さがあるのだ。……こう書いていて気づいたのだが、俺のなかでは、『イデオン』と『ビューティフル・ドリーマー』は対称的な関係になっているんだなーということだ。最高の作家論であり最低の技術論の『イデオン』、作家論ではありえず技術論としては最高の『ビューティフル・ドリーマー』。どう足掻いても宮崎になれない富野と、いつでも宮崎になれる押井。この対称は、高畑(映画)と宮崎(マンガ)のそれだ。富野は宮崎(マンガ)に憧れ、押井は宮崎(マンガ)でもある自身の才能を封印して、凝った技巧で「映画」を“発明”していく。

 富野は『イデオン』後、他の作品でも往々にして物語を見失い、芝居だけでフィルムをつないでいくことになる。もしも「物語の神様」がいるのなら、物語をぶっ壊しても芝居を優先させる『イデオン』をつくったがために、罰が当たったということかもしれない。

 『イデオン』後、その呪縛を振り払った作品がある。そう『F91』だ。映画館で『F91』を観た俺が、どれだけ感激したか想像できるだろうか。「よかった……富野さん、復活できたんだ」ということに尽きる。
 そして『ターンエー』だ。とくに地球にいる間はほんとうに面白い。そして後半の失速感にまたイヤな予感もしないわけではなかったw。

 アニメ『リーンの翼』は、またまた物語を見失っている。物語という梯子がないのにいきなり二階で芝居しちゃってるw。いやいや俺は好きだけどもネ。
 ショートフィルム『リング・オブ・ガンダム』にいたっては、設定と芝居の面白さしかないw。いやいや俺は好きだけどもネ。

 富野監督はやっぱり今後も『イデオン』に祟られるのかなーという気がする。
 もちろんそれだけ富野語りには重要な作品ということでもある。

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『伝説巨神イデオン』について 1/3 遅れてきた男

 富野由悠季の代表作を一作だけあげろ、といわれたら、世間的にはもちろん『機動戦士ガンダム』なんだろうが、俺の感じるところでは、作家論的には『伝説巨神イデオン』、作品論的には『ターンエー』あたりになるような気がする。
 『イデオン』はそれほど富野の作家性が色濃い作品である。富野の限界、欠点がそれだけわかりやすく表出もされてもいる。そういう点でも富野語りに欠かせない作品だろう。

 富野由悠季は本来「遅れてきた男」だ。
 『アトム』からキャリアを積んでいる男だが、新しい何かをはじめたということはなかった。ロボットアニメでいえば、タツノコがフォーマットを準備し、永井豪がヒーローロボットをぶちこみ、長浜忠夫が完成させた。
 そこに現れたのが富野由悠季である。彼は何をしたのか。フォーマットの拡張か、バージョンアップか。いやそうした“伝統”に貢献することはしなかった。
 富野がしたのは、フォーマットの自己批評である。

 日本におけるニューウェーブSFの紹介者・伊藤典夫が、作品の名前こそあげないものの、『無敵超人ザンボット3』に言及したことがある。
 ニューウェーブ運動とは歴史の必然か否か、という話題のときに、ひとつのジャンルが成熟するとジャンルのお約束を自己批評して乗り越えようとする作品が出てくる、最近何気なくみたTVのロボットものでも(ニューウェーブと)似たようなことやっていて驚いた、といった内容の発言だった。
 発言の内容から、伊藤典夫が、『ザンボット』に「ロボットアニメのニューウェーブ運動(と相似形の何か)」を感じていたことは間違いないだろう。
 
 富野由悠季が「遅れたきた男」というのは、そういうことだ。パーティに現れたとき、すでに料理はさめていた。美女たちはすでに男たちの腕のなかだった。
 そうした人間に残されていたのが、ジャンルのお約束を意識してズラしていく、という手法だ。シリアスにズラせば『サンボット』になり、軽妙洒脱にズラせば『ダイターン』になる。
 そういう意味では、『無敵超人ザンボット3』と『無敵鋼人ダイターン3』は、一対の作品といえるかもしれない。

 『ザンボット』『ダイターン』でフォーマットへの自己批評をすました後、本来なら、『機動戦士ガンダム』でフォーマットからの完全離脱をする意図があったと思われる。
 しかしそれには失敗した。ガンダムの前にガンダム的なものはなく、スタッフに理解されなかったこともあっただろう。
 そういうわけで、あくまでも富野文脈でいえば、『ガンダム』は失敗したが、今度こそ、という意図ではじめたのが、おそらく『伝説巨神イデオン』であった。
 富野はガンダムの次作『イデオン』で、早くもガンダムのリベンジをやっているわけだ。早すぎるw。

 早すぎたことは、その後の富野の運命を変えたといってもいいかもしれない。
 今度こそ「ちゃんとしたガンダム」をつくるという意気込みの『イデオン』を製作中に、「挫折したガンダム」である前作の人気がブレイクするからであるw。
 富野は『ガンダム』の“成功”を自己理解しないまま、『イデオン』に臨み、その後もそのまま疾走しつづけることになる。身過ぎ世過ぎのレベルでいえば、『ガンダム』の“成功”を利用して成り上がるチャンスを、疾走のなかで取りこぼした、ともいえる。
 『イデオン』はそうした意味でも富野ワールドの真髄だ。フォーマットを意識せず、ガンダムの成功も意識せず、ただ純粋に富野ドラマが語られることになったのだから。


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小説版『機動戦士ガンダム』

 『機動戦士ガンダム』には、三つのバリエーションがある。ひとつはもちろんTV版、もうひとつは映画版、そして三つめが小説版だ。この三つの『ガンダム』が、原作者・富野由悠季が生み出した“原典”ということになる。
 「アムロの物語」など存在しなかったTV版、「アムロの物語」を捏造した映画版。しかし小説版には最初からその意図をもって「アムロの物語」が描かれている。これが小説版を読む価値のひとつだ。
 映画版において捏造された「アムロの物語」は、“だいたい”小説版でも描かれている。しかし映画版で捏造された「アムロの成長物語」の部分は、小説版二巻途中までで描かれきっている。二巻途中から最後までは、だから「アムロのその後」が見られる、という楽しみがえられるわけだ。
 とはいえ、アニメ版と小説版ではかなり違うところがある。そしてその違いは、小説版の方こそが富野ワールド色が強い、という点で、富野語りには見逃せない作品になっているといえるだろう。

 作家はさまざまなヒーローを描き出すものだが、自身の内面に近いところで造形された場合、似たようなキャラクターになる。
 一時期の司馬遼太郎の小説のヒーローは、飄々とした野生児タイプであり、そんな男が戦国時代末期の忍者だったり鉄砲屋だったり幕末の志士だったりした。役柄は違うが主演俳優は一緒みたいなものだ。
 『ガンダム』の主人公アムロも、小説版では、この時期の他の富野世界のヒーローに似た性格をしている。小説版アムロは、『イデオン』のコスモ、旧小説版『リーンの翼』の迫水と、ほぼ同じ性格をしている。繊細なところもあるが、冷静で勇敢な下士官タイプといったところだ。これに将校タイプの、ブライト、ベス、アマルガンが組み合わさる。(アニメで富野ヒーローが描かれたのがコスモだけ、という点でも、『イデオン』がいかに富野色の強い作品かわかる)

ここからネタバレ

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ふたりのシャア

 ハルヒの憂鬱には二種類の版が存在している。憂鬱で完結したメタライトノベル版と、シリーズ第一作のラブコメSF版だ。
 同じことはガンダムにもいえる。初代で完結した版とシリーズ第一作版である。

 初代で完結した版において、シャアはガルマとセットのキャラクターであった。
 原作者富野による小説版ではシャアはガルマの謀殺をしない。それどころか青雲の志をもつ理想家の若者として描かれているのだ。Ζ以後のシャアはこちらの富野シャアである。
 しかし富野シャアであれば、あれほどの人気をえるキャラクターになったかどうか。シャアとガルマはどこか同性愛を匂わせる描写があり、かつガルマが大恋愛のすえ結婚しようかというその寸前の謀殺である。ザビ家への復讐というが、ガルマの謀殺以後、そのような態度は微塵もない。
 親友の謀殺という点で、初代で完結した版のシャアは、あきらかに悪人であり、その悪人がどう滅びるのかが、物語の焦点のひとつになっている。
 そのシャアが、最期の言葉はガルマへの語りかけであった、という点が初代で完結した版の素晴らしいところである。これでむざむざ生き残っていてはすべてが台無しなわけだ。

富野ガンダムでは誰と呑みたいか?

1stでサシで呑むならカイ一択。いろいろと面白そう。
彼女連れで呑むのならアムロとセイラ。プライベートのふたりと語り合いたい。

Ζでサシならカミーユ。愚痴をきいてやりたい。
ΖΖならジュドーはじめシャングリラの悪ガキたちと。酔った勢いで盗んだプチモビで走り出したい。

逆シャアでサシならシャアと。説教したいw。

F91ならアズマと。案外ためになる話をいろいろ知ってそうで。

Vなら成長したウッソと。説教されたい。

∀ならロランと。愚痴をきいてもらいたい。

さて新作富野ガンダム、どんなキャラが出てくるのか、今から楽しみです。

お久しぶりです

長い間、更新を止めていてごめんなさい。
正直いって定期更新は無理ですので、そのあたりはご勘弁を。

長年放置状態の当BLOGに何人か書き込みをしてくださる方々がいて「ひーごめんなさーい!」となっております。まっじやべー。

基本書きたいことがない場合、自分でも当BLOGに寄りつかないので、こういう事態になってしまいました。
こーゆーことは今後もおこりえるので、そのときはまたまたご勘弁を。気長に待ってつかーさい。

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