ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

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富野はなぜ「女王」の夢をみるのか

 『F91』以後、富野は「女王」に取り憑かれてきた。

 『F91』では、ヒロイン・セシリーは敵役組織に「女王」になるように要請される。
 『V』では、敵役組織にマリアという「女王」が出てくる。ヒロイン・シャクティは彼女の娘である。
 『∀』では、対立組織にディアナという「女王」が出てくる。ヒロイン・キエルはディアナと入れ替わりに「女王」になる。
 『G-レコ』もまた、ヒロイン・アイーダが「女王」になるという。

 お気づきのように、『F91』『V』と、『∀』の間には断絶がある。
 『F91』『V』では「敵役組織」のシンボルだが、『∀』では「対立組織」のシンボルだ。『F91』『V』では女王は否定されるが、『∀』では女王は肯定される。『∀』では、『F91』で否定された貴族主義や、『V』で否定された母なるものの人類の去勢が肯定されていると考えていいだろう。『F91』『V』まではかろうじて繋がっていた「現実」(戦後民主主義を是とする現代日本)と完全に切れてしまっているのである。
 20世紀に書かれた旧小説『リーンの翼』では戦後日本の肯定で終わる。しかし21世紀に書かれた『リーンの翼』では近代化を肯定しつつも現代日本を否定してみせる。それがなぜなのか、ではどうすればいいのか、書かれていない。断絶があるだけである。ただ戦後日本を肯定した迫水は21世紀に蘇って現代日本を攻撃する。
 明治の近代化(西洋化)を肯定しつつも昭和の帝国主義(西洋化)を否定してみせた司馬遼太郎はその断絶を言葉にできなかったという。おおかたの日本人もそうだろう。俺も同じだ。ただ「戦後民主主義」という神話によってしか敗戦国が戦後世界秩序を受け入れることができなかったということだ。言葉を失うほかないではないか。だからこそガンダムは「戦後民主主義」という神話のうえで語り継がれたのである。腐敗し堕落した「現実」であってもしぶしぶ守ってきたのだ。
 しかし『∀』という20世紀の終わりに語られたガンダムは「戦後民主主義」という神話から完全に自由だ。そこに現代日本との繋がりはない。20世紀の終わりにガンダムはファンタジーになり、21世紀にバイストン・ウェルは「現実」に反攻する。

 『G-レコ』はどうだろうか。
 『G-レコ』に至ってガンダムはもう一度「現実」を取り戻す
 しかしその「現実」は、“うまくいっている”未来世界にとっての敵になる。「現実」から自由になった『∀』、「現実」に反攻した『リーンの翼』を越えて、ついに富野は「現実」の諸問題を(一応は)解決した世界を手に入れたのだ。
 “うまくいっている”未来世界もまたユートピアとは程遠い欺瞞に満ちた不完全な世界として描かれるが、それでも主人公たちは守るべき価値をもったものとして戦う。その構図は「かつてのガンダム」における「「腐敗し堕落した現実」(戦後日本)であっても守らなければならない」という点で似ている。違うのは「現実」を守る側から、「現実」の陰画である「脱・現実」を守る側に立っている点だ。
 富野はついに「現実」を、「現代日本」を、いや「現代文明」を根本から批判する言葉を手に入れたと言っていいだろう。
 そこに老人の諦観と、孫をもつ爺やとしてのあがきもある。「Gの閃光」がそれだ。
 レコンギスタとは「現実」を取り戻そうする戦いにほかならないだろう。しかしその「現実」は大量消費やイノベーションによる人間疎外という悪夢をも蘇らせてしまう。それを阻止しようとする勢力が一方にありながら、両者の不毛な戦いを阻止しようとするのがベルリだ。「現実」をも「脱・現実」をも越える正当性はあるのだろうか。諦観を越えた爺やの祈りは“孫”に届くのだろうか。

 富野が現代文明への諦観の果てに見出したのは、進歩を否定し停滞を肯定する世界だ。啓蒙を否定し無知を肯定する世界だ。開放を否定し自足を肯定する世界だ。
 こうなると「富野とニューエイジ」という主題もありそうだが、カウンターカルチャーの挫折のあとに流れ着いた反文明論ではないし、有閑階級の趣味にとどまる脱文明志向でもない。富野のそれはそんな甘ったるいものではない。
 『G-レコ』で描かれているのは、 「こうすればよくなる」「ああすれば救われる」といった“いい気な”文明論ではない。

 それは祈りだ。老人の諦観がそれを越えて“孫”に届ける祈りだ。
 ファンタジーを越えた、祈りの神話だ。 
 その神話はまだ語り尽くされていない。
 ある少女が「女王」になるまで。

 なぜ「女王」なのか。
 かろうじて「現実(戦後民主主義)」によって否定される「女王」を描き、「現実」から切り離されたファンタジーのなかで理想的な「聖なる女王」を描いてみせた富野が、なぜそれだけでは満足できないのか。
 なぜ『G-レコ』という画期になった作品にも関わらず、「女王」というモチーフだけは引きずっているのか。

 それは富野が“「文明」というものがもつ危うさ”を男性原理とみなしているからではないだろうか。
 “「文明」に疲れた”人類を癒やすのが女性原理だとみなしているからではないだろうか。

 『G-レコ』という富野の文明批評が根本的になった作品にこそ、「女王」が必要だったのではないだろうか。いままでの「女王」はそのための模索だったのではないだろうか。

 ベラ・ロナもマリアもディアナも、世界の一部勢力の「女王」だった。
 アイーダが「女王」になるということはそうした一部勢力のシンボルになるということなのだろうか。もう一度『∀』の「聖なる女王の話」を描くのだろうか。
 それとも世界そのものを象徴する「女王」を描くのだろうか。

 “「文明」に疲れた”世界に、“元気”を取り戻すのが女性の復元力だとしたら、「女王」とはその象徴でなければならないだろう。
 世界の生命であるアニマ・ムンディを宿したレギナ・ムンディこそ、富野が模索し描きたかった「女王」なのではないだろうか。
 
 富野が取り憑かれてきた「女王」は、アイーダによって顕現するのかもしれない。
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『G-レコ』劇場版はどう約されるのか

 『ガンダム Gのレコンギスタ』はわかりづらい作品だ。

 ひとつには『F91』以後顕著になった「劇世界にいきなり放り込む手法」によるところが大きいだろう。劇の「はじまり」を端折っているのだ。観客は「世界の紹介」をされないまま世界に放り出されてしまう。『F91』と『リーンの翼』が代表的な例だろう。挫折した観客もいたかもしれない。
 それでも『F91』や『リーンの翼』は『G-レコ』よりマシだった。それが巻き込まれ型のストーリーだったからだ。『F91』でも『リーンの翼』でも観客はいきなり劇世界に放り込まれ「何が何だかわからない」ことになるが、作中人物たちもまた「何が何だかわからない」状況に巻き込まれている。「何が何だかわからない」という感覚はそれで「正解」なのだ。
 『G-レコ』は違う。観客は「何が何だかわからない」感覚に襲われるが、作中人物たちには「わかる」状況なのである。ここに乖離がある。わかりづらさの原因のひとつだ。

 もうひとつは戦い合う勢力が多すぎることだ。『Ζ』の三つ巴どころではない。最低でも五つの勢力が数え上げられる。ひとつひとつ戦っていくストーリーなのだが、戦った各勢力が脱落していく構造ではなく、最終的には一堂に会してしまうのだ。マンガ映画らしく戦艦やMSのデザインやカラーリングで識別できればまだよかったが、各勢力によるそうした統一性はない。少なくともメカ音痴の俺には判別できなかった。これで状況を理解をしろというのは初見殺しにもほどがある。

 もうひとつは物語の不在だ。諸所を巡って世界を体験する構造だが、行った先行った先で待ち構えているのは、人間ドラマではなく、その地その地の政治勢力との戦いである。行った先は違えど政治的確執に巻き込まれ戦闘することは同じある。これでは世界設定の紹介にすらなっていないのではないだろうか。その地に「生きる人間」、その地における「日常」が描かなければ、その地を体験したことにならないように思う。印象に残らないのだ。その地のその地の「設定の意味」にピンと来なくても、人間ドラマさえあれば、行った先行った先の印象がエピソード記憶として残ったはずだ。

 『G-レコ』は「みたこともないような世界設定」をつくった見事な作品である。その「みたこともないような世界設定」がラジカルであればあるほど、語り口にはもっと神経を使うべきだったと思う。
 神の視点で語るのか、視点人物で語るのか、どっちつかずだった。作劇においては神の視点でつくられているが、芝居においては視点人物を必要としているつくりである。ネジレているのだ。
 芝居の魅力が富野作品の真骨頂だとするのなら、視点人物の不在は悪手だったし、神の視点による作劇も悪手だったと思う。
 作劇の段階で物語を仕込み得ていないこと、場面場面における視点のあやふやさなど、そういう点では富野の欠点が出てしまっている作品といえる。

 しかし「そこ」さえ乗り越えれば、愛おしい人間たちの織りなす芳醇な世界が待ち受けている。
 そして「そこ」こそが、劇場版にするうえで問題になるところであろう。

 「状況にいきなり放り込む」というのはテレビ的というより映画的なので、大きな問題にならないかもしれない。
 第一話の緊張感を映画途中のダレ場まで引っ張っていければ、そのあたりの問題はクリアできるのではないだろうか。

 戦い合う勢力の多さは、あるいはいくつかの勢力をオミットするかもしれない。レコンギスタ、反レコンギスタ、主人公勢力の三つ巴に整理できるだろう。例えば、ビーナス・グロゥブ、キャピタル・アーミィ、主人公勢力だ。

 物語の不在は、初代ガンダム劇場版で「アムロの物語」を捏造したように、再構成の妙で捏造するしかないだろう。
 ここが一番大きな見どころだ。
 『G-レコ』から「ベルリの物語」を捏造できるだろうか。初代ガンダムには各エピソードに人間ドラマがあったが『G-レコ』はそうではない。そういう意味ではむしろ『Ζ』に近いかもしれない。
 劇場版『Ζ』ではカミーユ以外のストーリーラインが大胆にオミットされた。しかし『Ζ』はもともとテレビ版でもカミーユの主観世界に近い描き方をしていた作品だ。『G-レコ』はどうだろうか。同じ手法をとることは可能だろうか。
 しかし同じ手法を取りたがらないのが富野でもある。疲弊期には手癖で仕事をしてしまったきらいはあったが、つねに新しいコンセプトワークを求めているタイプだ。『G-レコ』劇場版でも新しいコンセプトを打ち出してきてくれるのではないだろうか。
 『G-レコ』はアイーダが女王になる話だと伝え聞いている。だとすればベルリではなくアイーダのストーリーラインをメインにすえた再構成になるのだろうか。しかしテレビ版から「アイーダの物語」を捏造するだけの量のストーリーが抽出できるとは思えない。
 とすれば、「ベルリとアイーダの関係性」をメインにすえた再構成になるのではないか、というのが俺の予想だ。「ベルリの物語」に必須のもうひとつの要素マスクのストーリーラインが大胆にオミットされるのではないか、という気がしているのである。

 あれだけの情報量の『G-レコ』である。映画として成立させるためには暴力的なほどの無茶な再構成が必要になるだろう。
 無茶をしなければ、テレビ版以上の、わかりづらい作品になってしまうはずだ。

 ナレーションを入れてもらってもいい。とにかく、わかりやすい、一見さんが楽しめる映画にしてほしい、という気持ちでいっぱいだ。

『G-レコ』劇場版はどう訳されるのか

 『ガンダム Gのレコンギスタ』は音響監督や作画監督の手腕もあって、フィルモグラフィー的に画期になった作品になった。初代、『F91』以来の第三の画期と言っていいだろう。ヴァージョンアップではない。
 芝居における隙の無さが突出しているのだ。富野節を必要としないぐらいだ。
 富野が手に入れたがったであろう、ヒトの身体性が、よく描かれていたように思う。生々しい息遣いが聴こえてきそうな芝居をみせてくれた。結局ヒトはオスとメスであるというところまで踏み込めていた。

 ただそれゆえに、わりを食ったのが主人公のベルリだ。慕ってくれる美少女が傍にいるにも関わらずオスとメスをやってみせない、というのはこの作品のなかでは浮いていた。作品の都合があったのだろう。主人公がヒロインと結ばれてしまうと話がそこで一端一息吐いてしまうのである。それを嫌ったのだろうと思う。おかげでベルリは恋人をもてないしノレドは大泣きすることになる。つまり完結感より続編の存在を匂わせるラストになっている。

 富野は『機動戦士Ζガンダム』を劇場版にするうえで、主人公カミーユふくめ、セックスを感じさせる方向に改変したことがある。作品全体がセックスの匂いが強くなっているのだ。「ああ、このあとカミーユはレコアでヌイたなー」と想像できてしまうのである。映画版のカミーユはファと寝ていて、それでも他の女にも気が行っている、ファがそんなカミーユをちゃんと見てる、とそういう芝居に見えた。
 劇場版『G-レコ』はそのあたりどうなるのか、いまから楽しみにしている。テレビ版でもじゅうぶん生々しかった作品がさらに艶めくのか、胸を躍らせているところだ。
 ベルリはちゃんとアイーダでヌイていると感じさせる芝居をみせてくれるのだろうか。ちゃんとノレドなりラライヤなりと肌を重ねることができるのだろうか。そういう雰囲気をもつ芝居になるのだろうか。

 作品の都合上、ベルリ以上にわりを食ったのはアイーダかもしれない。かつてカーヒルという恋人がいたとはいえ、作中では男っ気ゼロである。『F91』のセシリーはシーブックと行き違いになるとザビーネになびく気配をみせた。メスとして当然の心の動きだと思う。アイーダにはそれがない。ロマンチックなお姫様救出劇を描いた10話以降、アイーダがベルリを自分を守るオスとして意識しても良さそうなものだが、そうした描写はない。
 このあたりをどう膨らませるのか、それも楽しみだ。アイーダがベルリにオスとしての魅力を感じる展開になるか、メスとしてねんねすぎて男っ気を必要としていないか。後者だとしたら、カーヒルはよっぽどセックスが下手だった可能性がある。
 ベルリとスカッシュをやりたがるアイーダ。しかしラ・グー総裁のムタチオンの身体をみて、私は人類の女性として健康!と確かめるように(別の男性と)スカッシュをやる。メスとして健康ということだ。スカッシュは何を暗喩しているのだろうか。

 作品のお約束的に、ベルリとアイーダは、セックスの匂いのするフィルムから切り離されている。
 劇場版でかれらは果たしてセックスを取り戻すのか。その場合、アイーダの相手役はベルリになるのか。インセストの問題はどうするのか。
 手塚治虫だったらインセストなど気にしないだろうが、富野がそれを描くとはとうてい思えない。このあたりもスリリングだ。

 あるいはアイーダは処女に改変されるかもしれない。ヴァージン・クイーンだ。富野がカーヒルと寝たことにしたのを失敗と言ったという話はそのあたりかもしれない。
 アイーダが女王になるという話だけでは『∀』のヴァリエーションになってしまう可能性があるからだ。

 何はともあれ劇場版第一作が成功するのが第一である。成功を祈るばかりだ。

富野作品と音楽

 俺は音楽についてはまったくわからない。テレビはあったがラジカセのない家に生まれた。レコードは高級品だった。レコードプレイヤーを買うという発想自体なかった。十代の頃、貸しレコード屋が出来、バイトで買ったコンポでいろいろな曲を聴いたが、結局のところ俺の血肉になることはなかった。昭和の大昔の話である。
 だから俺には井荻麟を語る資格がない。語る言葉がないのだ。kaito2198さんの偉業に対して賞賛の意味をこめて一言でもコメントの反応ひとつもできればいいのだが、それすらできない。ただただスゲーなと感心して読み耽させてもらうだけだ。

 そんな音痴な俺でもかろうじてわかるのは、富野由悠季は音楽を使うのが抜群にうまいということだ。俺のお気に入りの『F91』は井荻麟作詞ではないものの、ダレ場でうまく使われている。エンディングでも素晴らしいタイミングで流れはじめる。「ETERNAL WIND」という曲がうまく作品に合っていたのだろう。(同じ曲が二度使われるのは迷走した企画を“監督の腕力でねじ伏せた”『F91』らしくて俺などは微笑ましく好意的に受け取ってしまう)
 まして井荻麟作詞でうまく使われたときは鳥肌が立つほどの名場面になる。
 『めぐりあい宇宙』のラストなどはその典型だろう。監督富野と作詞家井荻が融合した名場面だ。『V』や『∀』のラストも忘れがたい。

 『ガンダム Gのレコンギスタ』劇場版ははたしてどうなるのか、そこが興味深いし楽しみである。
 テレビ版ではラストに「Gの閃光」が使われたが、第一部になるという映画では使われないのではないだろうか。ぜひ新曲で臨んでほしいところだ。「作品に合った曲」にめぐりあえることを願う。

 俺個人は「Gの閃光」がどうもピンとこないところがある。メッセージが直接的すぎるような気がする。テーマソングにしたってあからさますぎるんじゃないかと思う。絶望を一巡りした後の希望という点も(一番で)表現しきれていないと感じる。音楽がわからない俺には気づかない何かがあるのだろうか。
 音楽というより『G-レコ』のラストにピンとこなかったということなのかもしれない。半ば社会人だった主人公がバックパッカーというモラトリアムに退行するのが不可解であった。宇宙でいろいろ体験したことは何だったのか。文字通り「世界を見て回った」道中記だったはずだ。それがなぜバックパッカーなのか。

 富野作品のエンディングは叙情的にしめてほしい、というのが俺の勝手な思い入れだ。そこが俺が富野に見出した魅力のひとつだからだ。
 激しい情念のぶつかり合いの劇が終幕するとき流れるのは、叙情的な曲であってほしい。

 いや『哀・戦士』のラストの素晴らしさを思えば、必ずしもそうとは限らないか……やはり俺が『G-レコ』のラストにピンとこなかったというだけなのだろう。鳥肌がたつような感動は覚えなかった。

 『G-レコ』、劇場化するにあたって諸事情出てくるのは想像つくのだが、ぜひ富野が腕をふるえる挿入歌が出てきてほしい。できれば作詞家井荻麟と演出富野由悠季が融合した名場面を期待する。

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