ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』について 6/6

 主人公ふたりと、敵ひとり、というのが『機動戦士ガンダム』の基本構造だと書いた。敵ひとり、というのは敵の描写を減らすためではないか、というのが俺の憶測だった。おかげでシャアは忙しい男になった。指揮官とパイロットを同時にこなすという嘘っぽい設定になってしまっている。子供番組の気安さがある。
 子供番組の基本構造は『逆襲のシャア』にも引き継がれている。シャアは総帥とパイロットを同時にこなす。軍事方面に完全に疎い俺だが、大人向けの映画でこの設定はリアリティレベルを混乱させているのではないかと思う。初見殺しである。

 作品冒頭、さっそく戦闘場面があり、シャアはみずから単騎で出陣することになる。誰も止めない。ここでシャアの紹介がある。作品世界の紹介にもなっている。作品のリアリティレベルを疑わせない強引な措置とも言える。
 シャアがなぜ単騎で出陣しなければならなかったのか、といえば強化人間ギュネイが苦戦しているからである。強化人間とは常人を超えたパイロットだ。そのパイロットすら凌駕するのがシャアというわけだ。普通の兵士では無理なのである。しかし強化人間の説明がないだけにシャアの凄さを表す場面とはわからない。わかりやすさより世界内ロジックを優先させている。富野の魅力であり欠点でもある。その点でも初見殺しだ。

 シャアとアムロが対立し旧知の仲であること、隕石落としの成功、隕石落としの意味、シャアの野望、あえてファンネルをつかわない謎、ついでのように強化人間のMSを難なく破損させるアムロ、はやるギュネイ、そんな若者をさとすように撤退を指示する冷静さ、などなどこれほどの情報量が「シャアとアムロの芝居」という表層の魅力の下に凝縮されている。さすがの富野であり、さすがの初見殺しである。
 
 表層の芝居の魅力や巧みなストーリーテリングで、「なんとなく」で充分観れる作品だ。アクションとメロドラマ、フィロソフィーなどぞんぶんに楽しめることができる。よくできた映画なのだ。しかしその楽しさだけでは娯楽作品としては“弱い”のも確かだ。富野フィルムらしく、緻密に圧縮された情報を読み取ることによって、よりいっそうの魅力を発揮する作品といえる。

 『逆襲のシャア』は一本の映画として観るのがつらい。“本気”の富野がみられる作品なだけに、もどかしく、悔しく、残念なことだ。
 映像表現とは別のところ、脚本レベルに関しては、富野の作家性が剥き出しになった小説作品の愛読者だっただけに、これといった新鮮味が感じられず、「作家としての富野の疲弊」を感じさせられたことも残念に思ったことのひとつだ。映画作家としての凄みに比して、内容があまりにも「いつもの富野」であった。拍子抜けをした。

 しかしシャアとアムロの決着をつける本作の場合、「いつもの富野」である必要もあったのだろう、と今となってはわかる部分もある。「どこかでみた」繰り返される対決の「陳腐さ」が本作のテーマのひとつだからだろう。シャアとアムロの対立は、その壮大な背景に比して、あまりにも矮小である。芝居の魅力が情念の葛藤だとしても、シャアとアムロの確執は、青臭い若者のそれと少しも変わらない。

 若き日のシャアはアムロと対決し、そのなかで二重の意味で最愛の女性ララァ・スンを失うことになる。ひとつはララァがアムロに惹かれたこと、もうひとつはララァがアムロに殺されたこと。そのことは、最低限の続編要素として作中で説明される。しかしそれは説明でしかない。作品の根幹をなすほどの重量が与えられていない。このことも今作をわかりづらいものにしている。
 シャアがララァという寝言を言う男であることが明かされ、それが事実らしいということは彼の現在の恋人ナナイ・ミゲルがララァの再来と言われる13際の小娘を意識してしまう場面で表現されている。シャアがナナイの胸に甘えるように顔を寄せたあとの芝居なだけに余計に印象に残る。その印象がのちのち活きてくることになるのだから周到な作劇といえる。その周到さが続編映画の要素のなかに埋もれてしまうのが惜しいのだ。

 今作においてシャアは大量虐殺者だ。これから虐殺しようとするという展開だが、作品がはじまる前にも隕石を落として大量の人命を奪っている。
 しかしそこを描かない。作中人物の台詞を借りてその事実が語られるだけだ。シャアが巨悪にみえない。意図的なものだろうか。ここもまた今作をわかりづらいものにしている。

 シャアが巨悪にみえないことは、アムロとブライトの正当性をわかりづらいものにしてしまっている。腐敗した現実であっても巨悪からは守る、という正当性である。
 シャアの大望に対して、守勢に回るしかない情けないキャラクターにみえてしまうのだ。悪くいえば体制の走狗にしかみえない。ヒーロー然としていない。活劇としてのバランスが悪い。シャアに偏りすぎている。今作の「失敗」のひとつだと思う。

 シャアに偏りすぎたという「失敗」はクライマックスで表出する。
 愚かな人類をいますぐ矯正してみせろ、と言い放つシャアの情念に対して、アムロの抗弁はあまりにも綺麗事だ。
 ララァ・スンは私の母になってくれたかもしれない、という告白に対して、アムロは絶句するしかない。

 表面上は「対決」している二人だが、実質は対立にすらなっていない。シャアの独擅場だ。アムロはただのシャアのインタビューアーでしかない。
 人類の業を背負いララァへの恋慕を語るシャアの前にあって、最低限の正当性すら持たされなかったアムロは空々しい正論しか吐けない。
 そんなアムロが最終的にシャアに勝てるわけがないのである。

 だからこそラストはご都合主義の奇跡にしかみえない。
 俺にとり今作にいまひとつノレなかった最大の理由はそこだ。

 とってつけたようなラストをのぞけば、今作は苦いペシミズムが横溢している。苦いペシミズムは手塚治虫から富野由悠季が継承したもののひとつだ。そこに殉じきれなかった不徹底さを残念に思う。

 若いニュータイプの勝利と青年シャアのけじめを描いた初代ガンダムから、若いニュータイプの陳腐な悲劇と中年シャアの陳腐な戦いを描いた今作までで、ガンダムは完結したことになる。(『F91』で再起動される予定になるのだがそれはまた別の話だ)
 ガンダムはこの変遷によって、ジュブナイルの甘美な希望の物語から、陳腐な現実に埋もれていく大人の物語までを描いた一大ビルドゥングスロマンになったと言っていいだろう。

 ガンダムを卒業できなかった大人のための物語である。ガンダムを語るうえで決して外していけない作品であることは間違いない。

 オトコという、過去を清算できない生き物を描いた興趣つきない映画だ。
スポンサーサイト

『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』について 5/6

 初代『機動戦士ガンダム』は本来は「ダブル主人公もの」だったのではないか、というのは以前書いた。“本来”はアムロと同時にブライトもまた主人公だったのである。
 『逆襲のシャア』は星山・安彦ワールドと切れているだけ、“本来”の構造が際立って表面化している。ブライトの重要性を抜きにして『逆襲のシャア』は成立しない。

 ブライトを要にすれば、アムロ─ブライト─ハサウェイ─クェス─シャア─アムロ……という連環がみえてくる。この連環こそ『逆襲のシャア』の核だったのだろう。連環が各人の物語を繋ぐからである。
 しかし初代ガンダムで脇役にされたのが祟った。“本来”の構造に戻そうにも、ブライトはすでにメインストーリーから外されてしまっているからである。「もうひとりの主人公」たらしめるほど、作品の主筋にからめていないのだ。

 富野ワールドではブライトは主人公たる男だが、いざ映像化するとなると、初代ガンダムからのルックスが邪魔をして脇役にみえてしまう。もちろん、常識人を代表するブライトだからこそ、あのルックスでいいという見かたもある。しかしもう少し何とかならなかったのか、というのが俺の見かただ。
 それはハサウェイにもいえる。ハサウェイのキャラクターデザインはあれでよかったのだろうか。クェスとはあまりにもかけ離れたルックスである。美男子である必要はないが、もう少し何とかならなかったのか。
 ハサウェイは『逆襲のシャア』の後日譚とでもいうべき小説『閃光のハサウェイ』でヒーローをつとめる若者である。
 ブライトやハサウェイのキャラクターデザインは、もう少し主人公格の“華”をもったものにした方がよかった気がするのだ。富野ワールドとルックスとの食い違いを一番感じる箇所だ。

 『逆襲のシャア』は一本の映画として観た場合わかりづらい。続編映画という要素のせいもある。しかしそれだけではない。各人の物語がバラバラなのだ。「とっ散らかった」印象がある。
 それは連環が機能しなかったからではないか、というのが俺の感想だ。
 連環が機能するには、ブライトという要は弱すぎたのだと思う。キャラクターに“華”がなく、一本の映画とした場合、「もうひとりの主人公」にみえないのである。

 初代にみられた富野ワールドと星山・安彦ワールドとの齟齬が生んだ「失敗」だったのだろう。

『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』について 4/6

 『逆襲のシャア』は、「アムロとシャアの物語」として観ると、いまひとつ物足りない。俺の場合はそうだ。続編映画としてではなく、一本の映画として観た場合、彼らの背負った物語は、わかりづらい。
 しかし『逆襲のシャア』に物語がないわけではない。「クェス・パラヤの物語」である。

 前述したとおり、俺にはクェスの魅力がわからない。富野ヒロインは悪名高いカテジナ・ルースふくめてみんな好きだが、クェスだけは「わからない」。嫌っているわけではない。文字通り「わからない」としか言いようがない。
 それはまっつねさんのご指摘どおり、クェスは「富野が挑んだ出崎的ヒロイン」だったからかもしれない。ララァ・スンからさらに踏み込んだ出崎的ヒロインなのだ。どちらかと言えば「よくできた作劇」を愛好する俺の嗜好からすればクェスはそこからはみ出しすぎていた。
 出崎ヒロインはもちろん好きなキャラクターばかりだが、それは出崎ヒーローというお相手がいる場合にかぎる。俺の場合少女マンガがわからないのでそうなる。あまり上等な視聴姿勢ではないのかもしれないが、俺は「感情移入型」の観客である。クェスのお相手たるヒーローがいない場合、どうやって彼女を「見つめて」いいかわからないのだ。
 ハサウェイやギュネイでは足りない。足りているのはアムロとシャアだが、彼らは「お相手」ではない。アムロやシャアの立場で「見つめて」しまうと、ただの小娘に映ってしまう。これはこれで富野の狙い通り、「正解」のひとつなのだろう。
 しかし『逆襲のシャア』が「クェス・パラヤの物語」でもあるとしたら、その「正解」はあまりにも貧しい。

 JINさんにご指摘していただいたのだが、一口に「ニュータイプ」といっても変遷があるようなのだ。
 ニュータイプの理想は「誰とでも」交感することだ。しかしアムロとララァの交感が「密会」であるように、それはセックスに似たものになる。
 そしてカミーユという女性名をもった美少年が「男女問わず誰とでも」交感することにより壊れていくのが初期ニュータイプの到達点だ。
 ニュータイプがゆえに自他ともに破滅を迎えるような衝動性を抱えたのが“カミーユ以後”のキャラクターだという。
 その“カミーユ以後”の究極がクェス・パラヤらしいのだ。

 この変遷のなかでわかるのは、富野はニュータイプの理想を少しづつ捨てていった、ということだ。
 初代ガンダムラストの甘美さは星山テイストだと思うのだが、富野はそれに抗うようにニュータイプの理想を捨てていく。

 ニュータイプの交感がセックスに似たそれだとしたら、「密会」の甘美さばかりではなく「レイプ」の悲惨さを招くこともありうるのだ。
 富野ガンダムにおいて「勝手に交感され激怒する」のが女性キャラクターなのはそのためである。
 そしてそれをなだめるために「生身のコミュニケーション」をとろうとするのが男性キャラクターである。
 小説『機動戦士ガンダム』でアムロがクスコ・アルを口説くのに失敗したように、「勝手に踏み込んだ」男性キャラクターたちは口説く手順を間違えている。ヒロインたちが怒るのは無理がないのだ。

 クェスは「交感」よりも「衝動性」が強調されたキャラクターだ。「娼婦性」が欠落した「処女性」をもったニュータイプといえるだろう。「誰とでも寝る」のではなく「誰とも寝ない」のだ。
 そこには初期ニュータイプの面影はない。“カミーユ以後”のリビドーに振り回される若い衝動性が描かれることになる。

 リビドーは富野作品の根幹だ。「クェス・パラヤの物語」においてはクェス、ハサウェイ、ギュネイのそれが描かれている。
 なかでもクェス・パラヤの「生きた感じ」は突出している。ハサウェイやギュネイすら「役割を演じているだけ」にみえるほどだ。

 クェスは、アムロとシャアをつなげ、若者と大人をつなげる作劇上の位置にいた。
 しかし「誰とも寝ない」ニュータイプの彼女は、誰と誰ともつなげることなく、作劇上の役割を果たさない。

 アムロやシャアにとっては「ララァの再来」になれず、ハサウェイやギュネイにとっての「ララァ・スン」になれない。

 クェス・パラヤとは「作劇上の役割を果たさない」のが「役割」である特異なキャラクターだった。彼女はノイズであり、『逆襲のシャア』をペシミスティックな物語にするための生贄だ。「作劇上の役割を果たせない」クェスは「作劇の外」に放置されたまま本筋にからむことなく「作劇の外」に放逐される。
 こうして「クェス・パラヤの物語」は終幕する。
 作劇を阻害させていた彼女の不在によって、『逆襲のシャア』は本格的にそのメカニズムを作動させていく。あとは物語が終盤に向けて展開していくだけだ。

 クェスという歯止めを失った物語は、一気にアムロとシャアの対決に向かっていく。その対決は「作劇上の範囲内」でしかない。
 「クェス・パラヤの物語」が必要になるのはそのときだ。
 それは『逆襲のシャア』が「ガンダム」のお約束から解放されるためのレイヤーだった。繰り返す悲劇に囚われた『Ζガンダム』の反省がそこに活かされている。
 「ララァの再来」たりえないクェスの運命は「ガンダム」が囚われた悲劇の反復たりえない。ララァ・スンの悲劇の反復に囚われてきた「ガンダム」は「クェス・パラヤの物語」によって回避される。クェスが「役割」を遂行しなかったからだ。

 「クェス・パラヤの物語」は続編映画『逆襲のシャア』で描かれた唯一のちゃんとした物語だ。
 クェス・パラヤはヒロインではなく、主人公と言っていいだろう。

 クェス・パラヤの魅力がわからない俺でも、そのことだけは認めなければならない。

『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』について 3/6

 俺が『逆襲のシャア』の作品世界に没入できないのはアムロのせいばかりではない。
 アムロ以外にもピンと来ないキャラクターばかりである。感情移入できるできないというレベルではない。

 まずはシャアだ。
 地球人類の粛清というのが唐突である。地球連邦政府に失望したとはいえ飛躍がある。その失望も台詞で説明するだけだ。わかりづらい。
 地球にへばりつくお偉いさんを粛清したいというお話なのに、そのお偉いさんを描写せずに、お偉いさんが宇宙に上ってくる場面をつくってしまう。わかりづらい。

 次にアムロだ。
 一介の軍人である彼は何のために戦っているのか。大義のためか、ただの任務なのか、ハッキリしない。わかりづらい
 初稿を小説化したという『ベルトーチカ・チルドレン』ならハッキリしている。自分をふくめた地に足の着いた生活者を守るために戦うのだろう。
 『逆襲のシャア』ではそこはオミットされてしまっている。シャアの大望に対してアムロに大義があるのかどうか。わかりづらい。

 諸事情あって初稿から現行の脚本に書きなおすとき、アムロの「立ち位置」をきちんと補完しなかったために、俺の好みからズレたということかもしれない。

 『逆襲のシャア』は声優に救われた作品でもある。古谷徹演じるアムロは確実に成長しているのに、池田秀一演じるシャアは昔と変わらない。シャアはシャアを演じている男だからだ。
 ここの演技、芝居で、アムロが地に足の着いた生活をしていたことをうかがわせ、シャアは相変わらず自分を演じざるを得ない人生を歩んできたことがわかる。
 “本”の弱さを声優の芝居でカヴァーした例だろう。
 またここの芝居はクライマックスで活きてくるのも見逃せない。クライマックスではシャアは自分の仮面を脱ぎ捨て、アムロは大人の仮面を脱ぎ捨てる。ただの(情けない)二人の男として対峙することになる。

 次にクェスだ。彼女の魅力がわからない。富野ヒロインはみんな好きな俺だが、彼女だけはピンと来ない。
 理由はたぶん、彼女にオンナを感じないからだろう。『ΖΖ』のプルですらオンナの子を感じさせたのに、クェスにはそれがない。
 シャアに恋心を抱いている、という風に俺には見えなかった。プルならジュドーの体臭をくんかくんかしそうだが(笑)、クェスがシャアの体臭をくんかくんかするさまが想像できない(笑)。
 作品としてはアムロやシャアにオンナを感じさせない小娘として造型したのかもしれないが、だとしたらハサウェイやギュネイのくだりは余計だということになる。
 そもそも富野がセックスを感じさせないキャラクターをヒロインにするとは思えないので、俺のような人間に“だけ”クェスの魅力がわからないということなのだろう。

 最後にハサウェイだ。いくら激情にかられたとはいえ、顔見知りのアムロの恋人を殺害するのは、ちょっと酷いんじゃないかと思った。
 俺にはあの悲劇が作品展開上のご都合主義のように感じられたのだ。ハサウェイの心情が理解できなかった。

『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』について 2/6

 「こんなものかな……」というのが俺が『逆襲のシャア』に抱いた感想だ。
 ネタの尽きた富野の後ろ向きの商売であり、疲弊期の富野がベテランの手練手管ででっち上げた作品である、と感じたのだ。

 『逆襲のシャア』は富野由悠季という映画作家の代表作である、という観方をするひともいると知って驚いたことがある。俺よりも遥かにアニメにも富野にも造詣が深いアニメ様の言だ。
 アニメ様の一連の文章を読ませていただいて感じたのは、『逆襲のシャア』は作品世界の内部に没入しなければその魅力を味わえないのかもしれないということだ。

 アムロと同年齢というアニメ様に比べて、俺はアムロより年下だ。アムロは私室をもち自分専用のメカを持っていた。俺にとりアムロは年上のぼんぼんで見上げるような憧れの対象だった。自分がアムロに似ていると思ったことなど一度もない。ジュドーやシーブックの登場でやっと共感できる主人公にめぐりあえた口だ。
 アムロには共感できない。作品世界に没入する手がかりがない。

 かつて俺は押井守はわからないと書いた。俺は映画のなかに映画を視ていないからだ。俺の低評価と、玄人筋の高評価との差は、そのあたりにあるのだろう。

 俺が映画音痴だとしても、俺なりに映画として観てみると、『逆襲のシャア』には風格のようなものが備わっているのがわかる。
 フィルムの隅々まで監督の意思が行き届いている。全編にわたってまったく隙がない。
 富野が「マンガ映画」の人ではないということが如実にあらわになった作品だ。もちろん「マンガ映画」が悪いわけでも劣っているわけでもない。むしろ「マンガ映画」こそアニメならではの魅力をもった作品といえる。
 しかし富野は「映画」の人なのだろう。“「マンガ映画」っぽさ”を目指したときの拙さに比較して、今作は隙らしい隙が見当たらない。堂々とした「映画」である。

 好意的に「映画」として観た場合、『逆襲のシャア』は、アニメ様たち玄人筋の方々がいうように、富野の持ち味が充分に発揮された作品である。

 大人の映画である。
 どうしょうもない業を背負った情けない大人たちの物語だ。
 若者に希望を託すほど甘美ではなく、大人に成熟を求めるほど幼くもない。

 地球を食い潰す人類への絶望、世俗をさかしく生きる俗物への蔑視、情動に取り憑かれた人間たちの悲劇。

 まごうことなき富野由悠季のフィルムである。ここまで彼が作家主義に徹したガンダムは今作だけだ。

『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』について 1/6

 『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』は、俺にとり二重の意味で観るのがつらい。

 それほど熱心なガンダムファンでないこと。
 この時期の富野由悠季にあまり期待していなかったこと。

 このふたつの理由である。

 小学校高学年で巨大ロボットアニメを卒業しようとしている矢先、初代『機動戦士ガンダム』に出会ってしまった。中学時代に「ガンダムブーム」がおこる。あれよあれよという間にガンダムファンになっていた。
 俺のもともとの資質としては特撮やアニメを偏愛する嗜好はない。「本物の」オタクにはいつも圧倒される。俺などはブームに巻き込まれただけの万年ニワカだ。
 ガンダムファンとしても万年ニワカだ。モビルスーツや宇宙世紀など、圧倒的に知識量が足りない。もともとオタク的才能(尽きることない情熱と卓越した記憶力、効率的な情報処理能力)がないこと、ちょうど世代の狭間、オタク世代とガンプラ世代の狭間に生まれたことなどが影響しているのかもしれない。世間様からすれば充分にオタクだが、オタクからすればニワカという情けないことになっている。

 初代『ガンダム』のどこに惹かれたかといえば、「人間ドラマ」はもちろん、「大人っぽい雰囲気」と「上品さ」だ。
 子供だった当時「人間ドラマ」を十全に理解していたとはいえないが、人間のままならさを感じさせる物語は理解できないなりに魅力的に映った。「大人っぽい雰囲気」は今にして思えばセックスのそれだったのだろう。ですます調で喋ることをふくめアムロにはぼんぼんらしい上品さを感じた。
 全体でいえば、登場人物たちが一定の距離感をもって接しているのがよかった。暑苦しくなかった。これからの時代を先取りしている、とタモリが指摘して富野を喜ばせたことは記憶に残っている。

 その後『伝説巨神イデオン』に出会う。『戦闘メカ ザブングル』に出会う。『聖戦士ダンバイン』に出会う。どうも俺は富野がそうとう好きらしいというのを自覚する。
 俺はガンダムファンだが、同時に富野ファンでもある。もちろん富野ファンとしても万年ニワカなのだが、こればかりはオタク的才能を持って生まれてこなかった話なので仕方がない。

 ガンダムファンとしては、モビルスーツや宇宙世紀の知識はもちろんのこと、アムロやシャアへのこだわりすら、それほど持っていない。『機動戦士Ζガンダム』ではシャアを邪魔者に感じたくらいだ。
 富野ファンとしては、『ダンバイン』以降の作品群にアニメ作家としての疲弊を感じ取った。バイストン・ウェルの物語では旧小説『リーンの翼』の方に迫力を感じた。

 『逆襲のシャア』は、俺にとり二重の意味で観るのがつらいというのはそういうことだ。

 ガンダムファンとしては「またアムロとシャアかよ」という白けるものがあった。そこに“挑戦”が感じられなかった。後ろ向きの商売にしか見えなかった。
 富野ファンとしても、その後ろ向きさ加減に、「ああ、やっぱりな」と悲しく得心をいくものがあった。吐き出すものがなくなってしまった疲弊期の富野に残された最後のネタが「アムロとシャアの物語」なのだろうと考えた。

 二十歳のときに映画館で初見したのだが、当時の俺には『逆襲のシャア』は予想通りの出来のように思えた。
 ストーリーに対して、アムロやシャアの物語は、白々しいまでに無理やり接ぎ木されている。「彼らでなければ」という必然性が薄い。

 物語には若者たちのそれが描かれるのだが、そこに尺をつかいすぎている。アムロやシャアの物語では尺が余るのだろう。それほど語るものがなかったからだ。それを若者たちの物語で埋めたのだ。
 若者たちの物語はアムロやシャアの物語の長い前座でしかない。前座が済めば呆気なく退場することなる。退場はご都合主義的な悲劇(死)である。疲弊期の作品だとしたとしてもあまりにも安易な措置だ。

 アムロやシャアの最終決戦ということで、熱烈なガンダムファンには満足のいくものだったのかもしれない。
 しかし俺には「こんなものかな……」という感想を抱かせる作品でしかなかった。

 | HOME | 

文字サイズの変更

プロフィール

shiwasu5

Author:shiwasu5
FC2ブログへようこそ!

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (1)
ガンダム (18)
富野由悠季 (7)
アニメ (13)
雑記 (3)
逆襲のシャア (8)
G-レコ (20)
ΖΖ (1)
Ζ (4)
F91 (7)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QRコード

FC2Ad

Template by たけやん