ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

『機動戦士Ζガンダム A New Translation』について 4/4 子供向けの悲劇から大人向けの佳作へと

 『新訳』は駄作だったのだろうか。決してそんなことはない。
 テレビ版から失ったものは核心的なものだったが、それでも『新訳』において補われたものもある。

 一つめは「大人チェック」とでも呼ぶべきもので、テレビ版にあった無駄に不自然な芝居が改変され削除されていることだ。エキセントリックな芝居が消え、作中人物たちから険が取れて、人物間の緊張が緩和された。作品全体が「子供の必死さ」から「大人の余裕」にシフトして、より気楽に観られるエンターテインメントになった。

 二つめは「戦闘のカタルシス」が描かれるようになったことだ。以前にも書いたがテレビ版は「戦闘のカタルシス」が少ない。名も無きモブ敵ですら小破で引き上げてしまうので「戦闘のカタルシス」がなかったのだ。おかげでシャアの強さが不分明になった。『新訳』は違う。敵が次々と撃墜されていく。シャアの強さもわかるし、カミーユの天才ぶりもより鮮明になった。シャアが弱くなったのではなく、カミーユがいきなりシャア・クラスの活躍をしていることが判明したわけだ。

 三つめは「悲劇の繰り返しがなくなった」ことだ。テレビ版は「ふざけているのか~」というくらい似たような悲劇が繰り返される。ほかにドラマを盛り上げる手立てがないのかなと苛立ったものだ。それが『新訳』ではフォウの悲劇が一度きりである。「そうそう、そうあるべきなのだ」と胸のつかえが下りるような気分を味わった。

 四つめは「人物描写に深みがでた」ことだ。レコアが部屋の観葉植物を処分しようとする場面を付け加えるだけで彼女の心理が伝わってくる。そこからシャアにキスをせがむ流れもわかりやすい。サングラスをめぐる芝居にもなっているのだから秀逸だ。ブライトが会議中にホームビデオをみていてそれがバレる流れも楽しいし、そのかれがカミーユとファを囃し立てるクルーにかまってられるかと言うのだから、その年齢その年齢で違う愛のかたちが描かれたとみていいだろう。

 五つめは「シャア物語のオミット」だ。テレビ版はカミーユの物語であると同時にシャアの物語でもあった。シリーズ途中まではシャアも主人公のひとりだった。ダカール演説などシャア物語の見どころはいろいろとあると思うが、それらがまるごと削除されている。シャアを主人公にしたプロットがなくなり、主人公はカミーユひとりに絞られることなった。主人公ひとりをメインに据えながら、その周辺や背景は最小限で描く、といったさじ加減になっていて、すっきりと観やすい作品に変貌した。

 六つめは「大状況を描かない」点だ。テレビ版は政治劇でもあった。なぜ政治なのかといえば富野が組織論をやりたかったせいもあるだろうが、シャアを主人公にした物語は政治級だったからだろう。大状況は政治級の物語の舞台だ。シャアが主人公から降板すれば、政治級の物語は必要がなくなり、大状況を描く必要もなくなるわけだ。カミーユを主人公にした戦術級の物語に集中できるわけである。そのなかで「悪人退治」が描かれることになるのだから、肩の力を抜いて観ることのできる映画といえるだろう。

 以上、六つあげた点が、俺が『新訳』に見出した魅力だ。
 不細工だが、ベテランの妙技を味わえる、ひっそりと愛でていたい作品だと言える。
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『機動戦士Ζガンダム A New Translation』について 3/4 歪な魅力のゆくえ

 かつて初代ガンダムの劇場版もまた『新訳』だったと書いたことがある。テレビ版にはなかった「アムロの物語」を劇場版で捏造したのだ。

 『Ζ』の『新訳』はどうだろうか。同じことが言えるだろうか。テレビ版に「カミーユの物語」はなかったのだろうか。
 俺はテレビ版『Ζ』には「カミーユの物語」が描かれていたと思っている。それが俺のような初代世代にとって魅力的だったかどうかは別にして、たしかにテレビ版『Ζ』には「カミーユの物語」が存在していた。

 初代は星山博之が中心となって脚本には口を出させないという了解があったと記憶している。
 初代テレビ版の富野は「キャスティング・ディレクター」寄りの監督だったのだ。初代劇場版における“捏造”はベテランの書いた優れた各話エピソードが素材になったのである。だから成功したといっていい。

 『Ζ』は違う。当時ガンダム世代の先頭、未熟な若者たちによってつくられた作品だ。各話エピソードはバラエティもクオリティも初代には遠く及ばない。『新訳』の素材にするには貧しすぎる。
 未熟な若いスタッフを従えた富野はこのとき「ワンマン・ディレクター」寄りにならざるを得なかったのではないだろうか。

 富野はおおまかなストーリーの枠組み、方向性をつくることに重心をおいて、物語は専門家に任せた方がより魅力的な作品を生み出す作家だと思っている。その大事な各話エピソードが星山博之のようなベテランのアドバイスを受けられなかったのは悲劇だった。
 
 「ワンマン・ディレクター」寄りになった富野は、若いスタッフへのディレクションを富野色のより強いものにしていったのではないかと推測している。その富野色の濃さが『Ζ』の評価の分かれ道になっているのだろう。富野色に痺れる人もいれば引く人もいる。(『海のトリトン』『無敵超人ザンボット3』『伝説巨神イデオン』など、どの作品で富野色に痺れたかは世代論でしかない)

 しかしここに悲劇がおこる。『聖戦士ダンバイン』から『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』までの「疲弊期」の問題だ。疲弊した作家は過去の作品に頼り、自己模倣をはじめるものだ。『Ζ』はまさにその典型だ、ということは以前書いた。

 テレビ版『Ζ』はあまりにも多くの自己模倣で成立した作品だ。優れた作品とは俺にはとうてい思えない。しかし俺にとっては、その混迷、混沌、歪みこそが『Ζ』の魅力なのだ。

 『新訳』は違う。「疲弊期」がもたらす混迷、混沌、歪みが鳴りを潜め、カミーユを中心としたすっきりした物語に再編集されている。
 俺のような人間にとっては、『Ζ』からそうしたものを取り去ってしまえば、ただ残るのは、数ある駄作のひとつにすぎないということだ。

『機動戦士Ζガンダム A New Translation』について 2/4 ニュータイプがもっていたビルドゥングスロマンの可能性と挫折

 『新訳』は「疲弊期」の作品ではない。しかし「疲弊期」のテレビ版とすり合わせがないため、不可解な作品になってしまった。

 『新訳』は「カミーユが精神崩壊に至らないためのラスト」から逆算して作られたのではないだろうか。ロザミア・バダムのエピソードのオミットはその典型だろう。
 テレビ版『Ζ』を「カミーユの悲劇」として楽しんできた俺には諸手を挙げて絶賛することはできない作品だ。悲劇の連続を体験したカミーユだからこそパプテマス・シロッコを討ち取れたはずからだ。

 おおまかなストーリーはテレビ版と同じものであり、主要登場人物たちが次々と死んでいく展開は、カミーユに深刻なトラウマに与えていき、彼の性格が温厚に改変されとはゆえ、ラストを変えるほどのストレスの軽減になったと思えない。「いまの富野」と「むかしの富野」のすり合わせができていない。

 突如現れる幽体なども「富野の自己模倣」という観点がなければ理解不能だろう。ここも「疲弊期」の「むかし富野」とのすり合わせができないがために不可解になった場面である。
 カミーユの愛機Ζガンダムのバイオセンサーが幽体の登場に一役買っているというのもわかりづらい。バイオセンサーの活躍がそれまで描かれなかっただけに唐突感は否めない。

 シロッコもまた「悪役」としてわかりづらい。彼は本来は政治級の物語の登場人物で、戦術級の戦いに参加するのは(シャアと同じく)、作品のご都合主義でしかないだろう。カミーユが彼を否定するほどの動機がわかりづらいのはそのためだと思っている。

 アニメ様がアムロは大人になるのではなくニュータイプになってしまって残念だという趣旨の記事を書いてらっしゃったが、「通俗的な意味でのビルドゥングスロマン」の否定は、初代『機動戦士ガンダム』の核心である。ニュータイプというイディアルな人類像を期待できるからこそ「本来的な意味でのビルドゥングスロマン」に近づくからだ。

 それを否定したのがテレビ版『Ζ』であった。アムロもシャアもイディアルな人類像の嚆矢になれず、ニュータイプのちからを最大限に活用したカミーユは精神崩壊を起こす。
 カミーユの精神崩壊は、初代の文脈におけるニュータイプ観の破壊であったのだ。カミーユ以後はニュータイプは戦う道具に成りさがるのである。

 ニュータイプの理念が復活するのは『機動戦士ガンダムF91』まで待たなければならなかった。
 しかし戦争のない世界をつくれなかったシーブックとセシリーなら、かれらもまた挫折したといっていいだろう。

 富野ガンダム最後の宇宙世紀もの『機動戦士Vガンダム』に至って、ニュータイプはサイキッカーと呼ばれるようになり、完全に世俗化されて、その理念を捨てることになる。

 だからこそ『新訳』のラストは不可解である。「むかしの富野」と“格闘”しなかったゆえの安直なラストである。
 ましてそれが俺のお気に入りの『F91』の自己模倣なのだから、不愉快なのである。

『機動戦士Ζガンダム A New Translation』について 1/4 玩具を利用した時代から過去作を利用した時代へと

 初代世代の俺が『機動戦士Ζガンダム』に複雑な思いをもっていることは書いた。
 書き忘れていることがあるとすれば、「Ζって別にガンダムじゃなくてもよくね?」というものだ。『機動戦士ガンダム』の続編としてではなく、オリジナル新作として製作されても別に問題のある作品ではなかった。(もちろん一工夫が必要であるが)

 商業的要請からガンダムが担ぎ出された経緯はわかる。わかるが、ここまで初代と「違う」空気の作品なら、オリジナル新作でやってもよかったのではないかと思った。

 同じことは『A New Translation』……『新訳』にも言える。ここまでテレビ版と「違う」空気の作品なら、オリジナル新作として製作してもよかったはずだ。

 もちろんオリジナル新作を映画でやれせてもらえない事情が富野由悠季にあることはわかる。
 わかるだけに、『Ζ』人気を利用して「違う」空気の作品をつくってしまうところに、富野流のゲリラ戦法を感じるのだ。かつての「玩具売るから作品はある程度自由にさせて」とったゲリラ戦法から「過去作の続編やリメイクをやるから作品は自由にさせて」といったゲリラ戦法への変更である。

 『Ζ』に複雑な思いをもっている俺ですら楽しめた「カミーユの悲劇」がオミットされたのは、ほんとうに驚いたし、「そりぁないよ」と思った。もはや別作品といっていいと思える。

 “『機動戦士ガンダムF91』以後”の富野が、『Ζ』に耐えられないということは容易に想像がつく。
 おおかたの富野ファン的にいえば“『ブレンパワード』以後”の富野には、ということだ。

 だから変更は予測できたし、仕方がないのだろうと思う。

 俺が『新訳』において富野を「情けないやつ」と思ったのは、製作時の「いまの富野」が、「むかしの富野」と“格闘”した気配がないからだ。新作作画のエイジングのことではない。空気のことだ。『Ζ』のときと同じ失敗をまた繰り返している。
 そうした“格闘”をせず「いまの富野」に引き寄せるように作品をつくりあげることは、「さぞや楽しい仕事だったろうよ」という投げやりな気分になるのだ。

 富野は「むかしの富野」と“格闘”すべきだったのである。ちゃんと向き合うべきだったのだ。
 「むかしの富野」がもっていた「空気」感を再現しろというのではない。そういった職人芸は富野には期待していない。

 『Ζ』が本来もっていた「空気」感と、「いまの富野」がもっている「空気」感の“格闘”をして欲しかったのだ。ケミストリーをみせてほしかった。玩具屋の要求と“格闘”をして「作品」を手に入れた作家が富野なのだから。

 「いまの富野」がもつ「空気」感による改変を得意げに語る『新訳』当時の姿勢には、無邪気なナルシズムしか感じなかった。

ニュータイプについて

 ニュータイプについては、作品ごとに意味合いが違ってくる。

 初代においては、未来への希望として描かれている。
 エンドマーク後の人類がいつかニュータイプによる戦争のない世界をつくれるかもしれない。
 そんな予感がカツ・レツ・キッカという子供たちの活躍からするのだ。
 
 『Ζ』『ΖΖ』では基本的に霊能者だ。
 『逆襲のシャア』では剣豪同士の気の探り合いだ。

 『F91』では「パイロット特性がある人のことだよ」と説明される。“世俗化”されたわけだ。
 初代を除いた『ガンダム』シリーズの劇中でのニュータイプの活躍は基本的にパイロットのそれなので「パイロット特性がある人」というのはもっとも客観性のある認識だろう。
 しかしそうした身も蓋もない悲しい過去の事実を認めた後に「人類の革新、戦争なんか越えられるって説もありますよね」と再びニュータイプの理念が復活する。
 『F91』はニュータイプ概念の“世俗化”と“理念の復活”を同時にやっているわけだ。

 野暮な話をすれば、ニュータイプという言葉は本来、ミノフスキー粒子と同じく、作品上の都合のために考えられたものだろう。

 しかしミノフスキー粒子と決定的に違うのは、ニュータイプという言葉は「設定」化されなかったのである。「SFではない」というのはそういうことだ。

 この場合「SFではない」ということは素晴らしいことである。「設定」化してしまっては、ニュータイプという言葉は虚構のなかで完結してしまうからだ。「SF作品の一アイデア」になってしまう。

 ニュータイプは開かれた言葉だ。夢の数だけ存在していい。命名者すら、そのときそのときで、概念が変わってきた。

 しかし『V』では「戦争をしない人類の革新」を実際に敵役が起こそうとする。悪夢として。
 そのときニュータイプという言葉は力を失い、サイキッカーという超能力者に名を変える。

 こうしてニュータイプをめぐる夢物語は終焉することになる。

ナイフを持った少年

 少年にはふたつの選択肢がある。「ナイフ」を持つかどうかだ。

 俺は「ナイフ」を持たない方を選んだ。自分の性格から、殺人に繋がる可能性を鑑みての判断だ。
 俺は「いい感じ」の鉄パイプと出逢ったことがある。振ってみると「いい感じ」なのだ。しかし俺はそれを拒否した。誘惑に打ち勝った。
 喧嘩の最中、ナイフを取り出した奴がいるのだが、全力で逃げたことを思い出す。喧嘩に勝って変な因縁をつくるよりかは、俺のような気弱な人間は、負けたり逃げたりした方がマシなのだ。
 渋谷をしめる不良と勘違いされ、駅口という駅口を封鎖され、タクシーで帰宅したこともある。それからしばらくは渋谷から遠ざかった。引きこもった。それくらい気弱なのだ。
 だがそれでも俺は「ナイフ」を持たないことを選んだ。

 旧小説『リーンの翼』を読んだとき、違和感があったのは、リーンの翼が靴から生えていることだ。これは当然ギリシャ神話のヘルメスの靴からヒントを得たものだろう。
 しかし途中まで読んでいたかぎりでは靴から生えているという印象はなかった。リーンの翼が迫水本人ではなく靴に宿るという展開に驚いた。なぜいまさら本人ではなく靴なのか不思議だった。
 もはや英雄といっていい迫水が、リーンの翼の靴を失って激しく動揺するエピソードが非常に印象に残った。「え。そんなにショックなの?」という違和感だ。
 迫水は剣術も空手もやるという男だ。そのうえですら、リーンの翼の靴が必要なのか、そこに驚いたわけだ。
 富野由悠季という人間は、実際はともかく、姿勢としては「ナイフを持った少年」だったのではないか、とそのとき思った。
 ロボットアニメであれば、もちろん「ナイフ」とはロボットのことだ。
 ヒーロー然としない少年アムロはガンダムに乗って初めてヒーローになる。だからアムロがガンダムに固執したのはわかる。しかしヒーロー然とした迫水ですらリーンの翼の靴に固執するのだから、富野ワールドではどうしても「ナイフ」が必要らしいと想像する。
 富野の裡には「ナイフを持った少年」が息づいている。
 富野が主としてロボットアニメの監督をして成功しているのはそのためかもしれない。

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