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ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

富野由悠季への愛を告白するBlogです。熱狂的なファン時代は過ぎ、今はちょっと遠くから眺めている感じでしょうか。 『伝説巨神イデオン』で“ゴーチンby小松左京”されたクチです。

<侵犯>の物語

 映画についてわからないと書いたが、同じように少女マンガについてもわからない。できることは誤解することだけだ。
 だがその誤解のなかで、俺なりに消化したものがあり、富野由悠季とも多少関わるので書いてみようと思う。

 俺にとって『新世紀エヴァンゲリオン』は、<侵犯>の物語であった。
 <侵犯>することも、されることも恐れる男の子が、どうしたら大人になれるか、という難問を巡る話だ。
 “される”ことを恐れても“する”ことを恐れないヒロインに対して、“する”ことを決意するところがラストシーンだ、というのが俺の解釈だ。
 主人公が子供であるためにヒロインに対して男として<侵犯>することなど思いもよらなかった『機動戦士Vガンダム』の、ありえたかもしれないハッピーエンド(?)でもある。
 この変奏曲が『涼宮ハルヒの憂鬱』のラストシーンだろう。この作品も<侵犯>することを決意する男の子の話だ。

 とはいえ、『エヴァ』と『ハルヒ』には欠落しているものがある。
 ヒロインの美少女に<侵犯>されるのは気持ちいい、というのは奇蹟かもしれない、あるいは嘘くさい、ということだ。
 その点において、『V』はきちんと描く。ヒロインであるカテジナの、主人公への<侵犯>は、彼の擬似的な「母たち」を殺害することだからである。それは“痛み”だ。

 少女愛は人形愛に通じている、と書いたのは渋澤龍彦だったろうか。
 少女愛とは<侵犯>することもされることもない関係のない関係性のことなのだろう。

 『少女革命ウテナ』は、第一話と劇場版の序盤を観ただけなのだが(いづれちゃんと観ます)、そこで俺が直感したのは、これは穴なし乙女の物語なのかな、ということだ。『装甲騎兵ボトムズ』がパーフェクトソルジャーの物語なら、これはパーフェクトヴァージンの物語なのかな、と予感した。
 『エヴァ』が<侵犯>の物語であったように、『ウテナ』はもしかしたら反<侵犯>の物語を目指したのかもしれない。

 90年代は女ヒーローの時代だった。80年代の紡木たくと90年代の矢沢あいの違いは、矢沢あいの作品では主人公はイケてる集団のイケてる女ヒーローに自らなるわけだ。(ハチがロマンスコードに回収されたときナナがそこからお前を助け出してやるというセリフがあったがあそこは痺れた。『NANA』は出崎統に料理して欲しかったなー)
 子供が大人の力を手に入れる魔法少女ものとは一線を画しているのが『美少女戦士セーラームーン』であったろう。これもイケてる女子高生がヒーローをやるという話だ。
 この女性作家たちの描く女ヒーローものの流れのなかに、少女愛の男性作家による反<侵犯>の物語が接続されているとしたら、そのネジレはとても興味深い。

 この女ヒーローの時代を象徴する作品は(例によって未読なんだが……いづれちゃんと読みます)『BASARA』かもしれないのだが、この作品で女性がヒーローをやっているのを読んで、「驚いた」「時代がかわった」と証言したのが竹宮恵子だ。
 24年組という少女マンガ家たちは少年愛と呼ばれるジャンルの作品も描いた。彼女たちがなぜ少年愛を描かなければならなかったといえば、<侵犯>の物語を描くためではないかと想像している。
 主人公が女性ではダメだったのだ。なぜか。主人公が女性であれば、女性向けロマンスのコードに“回収”されてしまうからだ。<侵犯>の物語は、<愛>の物語でもありうるからだ。
 彼女たちが扱ったのはだから男性同性愛ではない。男性であることではなく、非女性であることが肝要だったのだろう。

 しかし女ヒーローが描かれる90年代に、この方面で180度の転換が行われる。ボーイズラブ(以下BL)と呼ばれる娯楽分野が台頭する。
 24年組の少年愛が“女性向けロマンスを回避する”ための装置であるのに対し、80年代のやおいには回避する意志は弱い。しかしそこにはあきらかに<侵犯>の“痛み”への目線がある。
 ところが女ヒーローが台頭する90年代に、同時並行的に登場するBLは、もはや“痛み”は存在しない。(俺の知る狭い範囲の話でごめん)
 女性向けロマンスのコードを回避するために男性同性愛という装置を利用しているのではない。BLにいたって逆になるわけだ。
 女性向けロマンスのコードを楽しむための装置として男性同性愛が描かれる。女性向けロマンスのコードを、「より安全に」「より非現実的に」楽しむために、男性同性愛という装置を利用しているのだ。
 一時期の乙女チックと呼ばれる少女マンガよりさらに徹底して甘美な世界がBLだ。女性向けロマンスのコードにおける「ハッピーエンド前のすれ違い」すら“痛み”ではなくて「性的玩弄」として(エロ的に楽しく)「甘美」に描くわけだ。恋愛は描かない。愛だけが描かれる。かつての乙女チックにわずかに残っていたビターな要素すらエロ的な楽しさに置換してより甘美さに徹底している。

 このことを鑑みれば、ある種の男性向けの作品が、女性登場人物オンリーになるのは、同じ理由があるのではないかと類推できる。
 つまり女性であることが肝要なのではなくて、非男性であることが肝要なのではないか。
 <侵犯>する可能性のある男性ではない、ということ。そして男性が作品内に登場しないことによって、ヒロインたちが<侵犯>される可能性もない、ということ。
 それがこの種の作品にとって肝要なのではないか、と想像する。

 俺の見立てによれば、女性(の一部)たちは、<侵犯>の物語から“痛み”だけを除去する方法論を編み出し、愛の物語を楽しんでいる。エロい。
 一方で、男性(の一部)たちは、<侵犯>の可能性を除去する方法論を編み出し、物語ならざる物語を楽しんでいる。エロくない。(二次創作の話は置いておくとして)

 俺はエロいおじさんなんで、BLの方が「まだ」理解できるんだが、<侵犯>の物語というのは、それほどキツい、と感じる人達が一部でいるのだろうな、と想像する。
 優しすぎる人たちなんでしょうね。

 『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』は、映画としての眼目は、美少女クェス・パラヤだった。
 クェスをうまく撮れれば成功し、撮れなければ失敗する、そういう類の映画だった。
 そして結果は失敗だったように俺は思う。

 理由は明白だ。富野由悠季は、少女愛とは無縁の男だからである。
 おま×この匂いのない女なんて欲情しないよ、という男だ。
 しかしこれが間違っていたのではないか。

 少女愛とは人形愛なのだ。おま×この匂いなんかしない、というか、つまり穴なしが理想なのではないだろうか。
 <侵犯>できないし、されない、という関係なき関係性である。

 それはニュータイプの夢とは真逆の、ピグマリオンの楽園である。

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