ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

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宮崎駿より前に宮崎駿になろうとした男

 若い方には、「安彦良和」が何者だったのか、という点について、ピンとこない方もいるかもしれない。
 「安彦良和」は、わかりやすくいえば、「宮崎駿より前に宮崎駿になろうとした男」である。もちろん「なれるだけの才能」のある男でもあった。

 昨今、日本テレビであるとか、フジテレビであるとか、ポスト宮崎を探している観がある。
 候補に上がっているのは、庵野秀明と、細田守あたりである。
 この両者には、たしかにポスト宮崎たる資格がある。アニメをアニメファンだけのものにしなくない、という強烈な意志が両者の監督からは伝わってくるからである。これに『東のエデン』や『新子』の監督などを加えてもいいかもしれない。ポスト宮崎をうかがう監督がこれだけいることはアニメ界にとっても日本経済界にとっても慶事といっていいだろう。

 ただし「狭い意味」で、これらの監督がポスト宮崎の位置につけるか、というと、根本的に無理な話でもある。
 宮崎駿はあまりにもスペシャルなのだ。
 宮崎駿はたんなるアニメ監督ではない。いやむしろアニメ「監督」としてはけっして一流といえる人ではないのだ。
 宮崎駿の凄さは、アニメーション(動画)という、アニメ作品の表現の末端部分に、みずからの作家性を付与できる点にある。
 つまり宮崎アニメとは、マンガ家がマンガを描くように作られた作品であって、通常のいわゆる監督さんがつくれるような類のものではないのだ。
 原作も演出も作画もぜんぶやります、やれます、という、「特別な才能」の人間にだけが可能な離れ業、それが宮崎アニメの本質なのである。「狭い意味」で、ポスト宮崎になりうる人材は現在のアニメ界にはいない、というのは、そういう意味である。

 宮崎駿的な才能をもった天才が、かつてアニメ界にひとりだけいた。
 そう、それが安彦良和だ。

 人間、年をとると、結局、人間の一生を決めるのは「運」だな、と実感することになる。
 それは自分の人生を省みることによって得られるというよりも、他人の、才能や実力のある人の行く末を見守っていく過程で自然と体得していくある種の人生の真理である。

 宮崎駿と安彦良和の運命を分けたもの、それはもう「運」としかいいようがない。
 チャンスは宮崎駿より安彦良和の方がはやくまわってきた。原作・監督としていくつかの作品をつくった。それはしかし、決して商業的に成功したものではなかった。

 宮崎駿が『風の谷のナウシカ』で復活したとき、かたわらには、鈴木敏夫と高畑勲がいた。彼らがナウシカのラストシーンを改変させたのである。
 しかし宮崎駿は『ナウシカ』『ラピュタ』までは、まだ「遠慮」があった。アニメージュを購読しているようなアニメファンへの遠慮である。
 宮崎駿の本来の資質である「子供向け作品」ではなく、もう少し大人の、ハイテーンから上の層への訴求力を気にしている気配があった。
 それがふっきれるのが、『となりのトトロ』だ。
 高畑勲の傑作『火垂るの墓』と同時上映であり、主だったスタッフは高畑兄貴にごっそりもっていかれたなかでの、TVアニメ『未来少年コナン』で培った省力アニメ作法を駆使してつくった小品である。この作品では「当時の空気」のなかでなかなか目指すことのできなかった「チビちゃん向けの楽しいアニメ」をつくることに成功したのだ。それもこれも高畑兄貴の影に隠れてる、という特殊事情が許したことである。
 この『トトロ』が日本人大衆に受け入れられる、ということがあって、「ほんとうの意味」で、宮崎駿は「復活」した、といえるだろう。
 いや、『カリオストロの城』の「失敗」を鑑みるに、世間様へのほんとうの意味での「デビュー作」は、『トトロ』だったのかもしれない、といまからでは感じられる。

 宮崎駿は、こうして『トトロ』を手にいれることができた。
 エンジンになってくれるアニメファンと、自身の作家的資との齟齬を、高畑勲の影に隠れたゲリラ戦法で切り抜け、見事世間様の評判をかちえたのだ。

 一方で安彦良和には、そうしたことはおきなかった。それがつまり「運」ということだ。
 アニメファン的なハイティーンから上の層への市場に訴求する作品を求められたし、自身でもそうしたタイプの作家であると思いこんでいた。

 しかし俺のみるところ、そしてファーストガンダムに安彦良和が星山博之とともにもちこんだものをを理解していれば、そうした仕事は、安彦良和の本来の美質に反していることがわかるはずだ。
 かれはジュブナイル作家なのだ。宮崎ワールドよりは上の年代に訴求できる作品の作り手たる資質であるが、それでもアニメファンの方を向いた作品ではなく、普通のお子様の方を向いた作品の方が本来の魅力・才能を発揮するタイプだったと思う。
 安彦・星山コンビの、子供向けアニメを見られなかったことは、こうなると痛恨の思いである。
 サンライズにロクなプロデューサーがいなかった、というより、鈴木敏夫が凄すぎるのだし、宮崎駿の「強運」というのもあったのだろう。
 
 宮崎駿は、演出の兄貴分は(日本アニメ界の最高峰の)高畑勲、作画の兄貴分は(日本アニメ界の最高峰の)大塚康生である。
 つまり『アルスラーン戦記』のアルスラーン皇子のごとき存在である。宮崎駿とは「日本アニメ界の王子様」だったわけだ。
 彼が王様にならなければ誰がなるのだ、という位置にいた人である。
 宮崎駿の「強運」とは、「天意」のようなものが働いていた、と俺などは半ば本気で感じている。

 「宮崎駿より前に宮崎駿になろうとし」てなれなかった安彦良和は、そのあとマンガ家として大成し、いくつもの問題作、佳作を描くことになる。
 これはこれで素晴らしい業績だが、俺のような彼の軌跡、そして可能性を垣間見てきた旧い人間には、ほんの少し物寂しい思いがあることもたしかなのだ、
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