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ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

富野由悠季への愛を告白するBlogです。熱狂的なファン時代は過ぎ、今はちょっと遠くから眺めている感じでしょうか。 『伝説巨神イデオン』で“ゴーチンby小松左京”されたクチです。

『機動戦士ガンダムF91』について 作劇とキャラクター

 『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』『機動戦士ガンダムF91』の4Kリマスターを買った。
 4K環境を構築するのはだいぶ先になるだろうが、「いまのうちに監督にお願いしたい」という意気を感じたので買うことにした。

 富野監督は、『機動戦士ガンダムF91』について、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』ほど、あまり満足してないようで興味深かった。
 理屈に走りすぎている、という旨の発言が多く、監督はかなり窮屈な思いをしたのかな、と考えた。

 俺は『STAR DRIVER 輝きのタクト』が大好きなのだが、その最終二話を観て驚いたことがある。
 『新世紀エヴァンゲリオン』の最終二話にも驚いたが、それとは真逆のものを見せられた感じだった。

 『新世紀エヴァンゲリオン』は「パンツを脱いだ(by庵野秀明)」ことに驚き、感動したが、『STAR DRIVER 輝きのタクト』はむしろ逆だ。
 「完璧なパンツ」を見せられた気がした。

 とにかくロジカルなのである。「あ。あそこがこうなって、こうなるのか」という仕掛けに感動したのだ。
 クライマックスが三段構えになっているとは想像もつかなかった。
 「若者のちから」→「自己犠牲」→「それらを越えるヒーロー」というのは三段構えに痺れまくった。

 『宇宙戦艦ヤマト』から『魔法少女まどかマギカ』まで「自己犠牲」で有終の美を飾った作品は素晴らしいと思うし好きなのだが、まさかそれを越える「ヒーローによる救済」が描かれるとは思わなかった。

 五十嵐卓哉監督の手腕によるところが核心的なのは確かだが、脚本家の榎戸洋司の凄みを感じた作品だった。

 柄谷行人だったろうか、日本人は「建築する意思」が弱い、といった旨の発言があったと思う。たしかに日本文学には論理性が足りないという傾向がある。
 邦画の脚本も同様である。もちろんこれは“ヌーヴェルヴァーグ以後”の映画観が影響しているのだろうし、優れた脚本を素晴らしい映画にしてくれる(俺が尊敬する)金子修介のような映画監督が少ないという事情もあるのかもしれない。

 榎戸洋司の脚本は驚くべき「建築する意思」に貫かれている。間違いなく優れた建築者だ。
 それを映画に昇華する五十嵐卓哉監督の才能は眩しいばかりだ。

 劇場版『STAR DRIVER 輝きのタクト』は正直あまり期待してなく、しょせんダイジェスト映画、既存ファンのファンアイテムだと思っていたのだが、実際観ていて、その「再構築」ぶりに、びっくりした。後世のお手本になるような素晴らしい映画だった。

 作劇が優先され、キャラクターたちは、そのなかで、「自分の役割」を演じている、という側面があることはたしかだ。
 キャラクターの「掘り下げ」について、おざなり、とうわけではない。
 注意深く観れば、それぞれのキャラクターが、独自の背景をもち、関係性の変化をもった存在であることがみてとれる。
 しかし注意深く観ればだ。

 『STAR DRIVER 輝きのタクト』はキャラクターより作劇を「優先した」というのが俺の感想である。
 キャラクター人気がそれほどでもなかった、という傾向はそのためかもしれない。

 俺が『機動戦士ガンダムF91』が好きな理由は、『STAR DRIVER 輝きのタクト』が好きな理由と同じなのだと思う。
 俺は物語が好きなのだ。作中人物の魅力に鈍感というわけではない。だが優先順位でいえば物語だ。

 作中人物の魅力は「注意深く観れば」伝わるものであって、物語が魅力的であれば、観客は勝手に「自分なりに掘り下げて」くれるものなのである。
 「自分なりに掘り下げて」というのが俺にとって、最高の快楽でもあるのだ。

 『機動戦士ガンダムF91』は、そういう意味で、俺にとって最高の映画だ。

 キャラクター主義というのは、そもそも「連載マンガ」の作法であって、人気が出れば長期連載化が可能である、という特殊な事情が背景にあることを忘れてはいけない。

 富野由悠季のキャラクター主義というのも似たようなところがある。TVシリーズという「人気がなければ打ち切り」「人気がでれば延長」というのは、「連載マンガ」のそれに酷似している。

 『機動戦士ガンダムF91』では、アムロやシャアのようなキャラクターをつくれなかった、と反省するが、TVシリーズと映画は別物である。
 映画の限られた時間のなかで、“濃い”キャラクター主義は通用しない。掘り下げる時間がないのだ。
 映画……劇映画は自然と物語を優先することになる。バランスをとるために、映画がときとして「映画スター」を必要とするのもそうした理由がある。

 『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』において、アムロやシャアは「映画スター」のようなところがある。
 それもこれもTVシリーズで醸成されたキャラクターだからであって、『機動戦士ガンダムF91』のような完全新作のキャラクターたちと較べるのは、「映画」についてどこか勘違いしているのではないかと思う。

 完全新作の映画としては、『機動戦士ガンダムF91』は唯一の作品だ。
 『伝説巨神イデオン』以来、コンセプトと設定、場面場面のうえに直接芝居を載せることによって、作品をつくってきた富野由悠季が、初めてつくった「映画」だ。
 陳腐な「いつもの富野」を越えた、新章とでもいうべき作品で、俺はお気に入りなのである。

 物語が復活したのだ。これほど感激したことはなかった。

 その物語に(映画という媒体のせいもあって)、従属するしかなかったシーブックやセシリーを批判することは、たとえ生みの親だとしても、許すわけにはいかないのだ。

 俺は『ガンダム Gのレコンギスタ』が遺作というのは、やっぱり納得がいかない。「コンセプトと設定、芝居しかない」という『伝説巨神イデオン』以来の欠陥がある作品だからである。

 TVシリーズが体力的に無理ならば、一本の新作映画を撮って欲しい、と心の底から願う。

 ただそのためには、『機動戦士ガンダムF91』の再評価が絶対条件である、と思っていることも確かなのである。
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