フラットキャラクターは初期配置が大事
2009-12-30
いまさら気づいたことの(4)でも触れたけど、今回驚いたのは『ガンダム』の登場人物はフラットキャラクターだったということね。
フラットキャラクターというのは、おとぎ話から、子供番組、水戸黄門のような作品にまで登場する作中人物の造形のレベルのこと。
ひとりの人間が、現実世界のように、複雑な内面をもっているのではなく、人物ごとに分割されて表現されているのが、このテの作品なんだな。
俺の場合、小説版のイメージに引きづられて、『ガンダム』の登場人物たちは、ひとりひとりが人間的な内面をもって造形されていてるとばかり思い込んでいた。
今回初代TVシリーズを観て、その思い込みが間違っていたことを知って、少なからず驚愕した。驚愕したとともに、なぜ初代ガンダムは「見やすい」のか、敷居が低いのか、という点で、なるほどそういうわけだったのか、と納得もいった。
TVドラマの作中人物の造形レベルは、たいていフラットキャラクターである。
それには以下の理由があると思われる。
・伝統的説話世界の登場人物たちは、フラットキャラクターである。大衆芸能の本道ということ。
・複数のシナリオライターによって書かれるので、解釈に幅のある文学の登場人物のごときでは処理するのが大変である。
・視聴者が毎週必ず観てくれるとは限らず、微細な内面の連続性をもった登場人物では、一周見逃したら理解不能という事態にもなりかねない。
フラットキャラクターは、いわば「お約束」の人物たちなので、視聴者の負担が軽いのである。
初代、TV版『ガンダム』では、そのあたりが、敷居の低さにつながっていたのではないか、と思われる。
「リーダー」ブライト、「ヒーロー」アムロ、「巨漢の人情家」リュウ、「皮肉屋」カイ、「チビ」ハヤト。
『ガッチャマン』以来の五人ヒーローものの人物構成であり、その容姿とともに、視聴者が「がんばって」理解する要素はゼロである。「みたまんま」なのだ。「よくできている」。
おそらくこのあたりの功績は、星山ー安彦ラインのそれだろう。
ブライトがなぜ「脇役顔」でなけれればならなかったのか、といえば、この「わかりやすさ」をえるためであった。
いわば、おそらく富野監督が目論んだアムロとブライトの二重構造(ダブル主人公)は、 『ガッチャマン』以来の子供番組のフラットキャラクターの初期配置の常道から外れていたのである。結果として、安彦デザインは、富野ドラマよりわかりやすさを選んだことになる。当然ガンダムの成功の前なので、それはそれで判断としてはありえただろう。
また人物造形をフラットキャラクターとすることにより、世界観の部分でも、いわば隠喩が機能することになったのも、わかりやすさの一貫であろうか。
初代、TV版『ガンダム』では、地球連邦政府とは、現実そのものであって、特定の政治勢力の隠喩ではない。現実全体のことだ。そのような隠喩が機能できるのも、人物造形のレベルがフラットキャラクターであったから可能だったわけだ。
フラットキャラクターとして、わかりやすいのは、カイである。
カイは、たとえば、連邦政府(現実)に対する態度では、ブライトと対極にある。
年長組で現実への適応を果たしつつある青年ブライトは、現実が不完全であると知りつつも批判してどうなるものでもないという立場であり、それに対してカイは不完全なものは不完全なものとして批判してみせる、という立場でもある。
その中間に主人公のアムロを置くことにより、現実に対する態度のグラデーションを、三人一組で表現しているわけだ。現実世界に対する複雑な思いが、三人の人物に分割されて表現されているということだ。
観ていて、これは疲れない。
また、終盤において、フラウとハヤトの恋仲を揶揄したカイに対して、いやらしいと嫌悪するセイラ、それに対して、いいじゃないですか、とアムロがいうシーンがある。
ここでも他人の恋路に対する態度としての三分割であり、真ん中がアムロ、一方の極がカイという構成である。
主人公アムロを真ん中におさめて、刻一刻と推移する事態を、リアクションの三分割として腑分けしてみせてくれるわけだ。頭が悪過ぎて小学生の俺には理解できなかったが、多少ナマイキな小学生高学年なら『ガンダム』は理解できる、という感触を今回はえた。
「良質のジュブナイル」としてのガンダム、というのは、こうした側面のことだ。
これは星山ー安彦ラインの功績だろうと、俺は考えている。
富野監督はどうもこのフラットキャラクターがお好きではないらしい、という気がしている。
監督が富野ではなくても成立したかもしれない『ガンダム』の「良質のジュブナイル」としての側面への抵抗が、「ニュータイプ論」になった、と以前書いたが、その見立てのなかでララァを見ると面白い。
過去らしい過去を設定されていない『ガンダム』ワールドの登場人物のなかで、ララァだけは「過去をもつ女」なのだ。娼婦か、それに近い立場の女性で、その境遇からひきあげてくれたのがシャアであった、という設定である。
だからこそ、ララァは、アムロに言えるわけだ。
「あなたには戦う動機がない」と。
これはしかしアムロだけの問題ではない。
ララァ以外の『ガンダム』キャラすべてにいえることだ。なぜなら彼らはフラットキャラクターだからである。とんだちゃぶ台返しだ。
もちろん、ララァはあからさまに「セックス」の匂いをさせるヒロインであり、その点でも「ジュブナイル否定」を狙う富野ワールドからやってきた刺客だった。
星山博之と再び組んだ『∀ガンダム』では、冒頭「三人一組」が登場する。
「男ふたり・女ひとり」で、フラットキャラクターとしては常道である。この三人一組を活用すれば、リアクションの三分割がなされ、「わかりすい」話になったはずである。星山博之が関わっているという点で、俺などは無意識のうちにそれを期待していたのだが、まったく活用せずに終わり、かなり「狭苦しい」印象の作品になってしまったな、と感じている。ファーストガンダムの「みやすさ」におよばなかったのはそういう理由があるのだろう。
『∀ガンダム』に関しては、もう少し星山色が強かった方が面白くなったのではないか、という残念な思いが先に立つ。
フラットキャラクターというのは、おとぎ話から、子供番組、水戸黄門のような作品にまで登場する作中人物の造形のレベルのこと。
ひとりの人間が、現実世界のように、複雑な内面をもっているのではなく、人物ごとに分割されて表現されているのが、このテの作品なんだな。
俺の場合、小説版のイメージに引きづられて、『ガンダム』の登場人物たちは、ひとりひとりが人間的な内面をもって造形されていてるとばかり思い込んでいた。
今回初代TVシリーズを観て、その思い込みが間違っていたことを知って、少なからず驚愕した。驚愕したとともに、なぜ初代ガンダムは「見やすい」のか、敷居が低いのか、という点で、なるほどそういうわけだったのか、と納得もいった。
TVドラマの作中人物の造形レベルは、たいていフラットキャラクターである。
それには以下の理由があると思われる。
・伝統的説話世界の登場人物たちは、フラットキャラクターである。大衆芸能の本道ということ。
・複数のシナリオライターによって書かれるので、解釈に幅のある文学の登場人物のごときでは処理するのが大変である。
・視聴者が毎週必ず観てくれるとは限らず、微細な内面の連続性をもった登場人物では、一周見逃したら理解不能という事態にもなりかねない。
フラットキャラクターは、いわば「お約束」の人物たちなので、視聴者の負担が軽いのである。
初代、TV版『ガンダム』では、そのあたりが、敷居の低さにつながっていたのではないか、と思われる。
「リーダー」ブライト、「ヒーロー」アムロ、「巨漢の人情家」リュウ、「皮肉屋」カイ、「チビ」ハヤト。
『ガッチャマン』以来の五人ヒーローものの人物構成であり、その容姿とともに、視聴者が「がんばって」理解する要素はゼロである。「みたまんま」なのだ。「よくできている」。
おそらくこのあたりの功績は、星山ー安彦ラインのそれだろう。
ブライトがなぜ「脇役顔」でなけれればならなかったのか、といえば、この「わかりやすさ」をえるためであった。
いわば、おそらく富野監督が目論んだアムロとブライトの二重構造(ダブル主人公)は、 『ガッチャマン』以来の子供番組のフラットキャラクターの初期配置の常道から外れていたのである。結果として、安彦デザインは、富野ドラマよりわかりやすさを選んだことになる。当然ガンダムの成功の前なので、それはそれで判断としてはありえただろう。
また人物造形をフラットキャラクターとすることにより、世界観の部分でも、いわば隠喩が機能することになったのも、わかりやすさの一貫であろうか。
初代、TV版『ガンダム』では、地球連邦政府とは、現実そのものであって、特定の政治勢力の隠喩ではない。現実全体のことだ。そのような隠喩が機能できるのも、人物造形のレベルがフラットキャラクターであったから可能だったわけだ。
フラットキャラクターとして、わかりやすいのは、カイである。
カイは、たとえば、連邦政府(現実)に対する態度では、ブライトと対極にある。
年長組で現実への適応を果たしつつある青年ブライトは、現実が不完全であると知りつつも批判してどうなるものでもないという立場であり、それに対してカイは不完全なものは不完全なものとして批判してみせる、という立場でもある。
その中間に主人公のアムロを置くことにより、現実に対する態度のグラデーションを、三人一組で表現しているわけだ。現実世界に対する複雑な思いが、三人の人物に分割されて表現されているということだ。
観ていて、これは疲れない。
また、終盤において、フラウとハヤトの恋仲を揶揄したカイに対して、いやらしいと嫌悪するセイラ、それに対して、いいじゃないですか、とアムロがいうシーンがある。
ここでも他人の恋路に対する態度としての三分割であり、真ん中がアムロ、一方の極がカイという構成である。
主人公アムロを真ん中におさめて、刻一刻と推移する事態を、リアクションの三分割として腑分けしてみせてくれるわけだ。頭が悪過ぎて小学生の俺には理解できなかったが、多少ナマイキな小学生高学年なら『ガンダム』は理解できる、という感触を今回はえた。
「良質のジュブナイル」としてのガンダム、というのは、こうした側面のことだ。
これは星山ー安彦ラインの功績だろうと、俺は考えている。
富野監督はどうもこのフラットキャラクターがお好きではないらしい、という気がしている。
監督が富野ではなくても成立したかもしれない『ガンダム』の「良質のジュブナイル」としての側面への抵抗が、「ニュータイプ論」になった、と以前書いたが、その見立てのなかでララァを見ると面白い。
過去らしい過去を設定されていない『ガンダム』ワールドの登場人物のなかで、ララァだけは「過去をもつ女」なのだ。娼婦か、それに近い立場の女性で、その境遇からひきあげてくれたのがシャアであった、という設定である。
だからこそ、ララァは、アムロに言えるわけだ。
「あなたには戦う動機がない」と。
これはしかしアムロだけの問題ではない。
ララァ以外の『ガンダム』キャラすべてにいえることだ。なぜなら彼らはフラットキャラクターだからである。とんだちゃぶ台返しだ。
もちろん、ララァはあからさまに「セックス」の匂いをさせるヒロインであり、その点でも「ジュブナイル否定」を狙う富野ワールドからやってきた刺客だった。
星山博之と再び組んだ『∀ガンダム』では、冒頭「三人一組」が登場する。
「男ふたり・女ひとり」で、フラットキャラクターとしては常道である。この三人一組を活用すれば、リアクションの三分割がなされ、「わかりすい」話になったはずである。星山博之が関わっているという点で、俺などは無意識のうちにそれを期待していたのだが、まったく活用せずに終わり、かなり「狭苦しい」印象の作品になってしまったな、と感じている。ファーストガンダムの「みやすさ」におよばなかったのはそういう理由があるのだろう。
『∀ガンダム』に関しては、もう少し星山色が強かった方が面白くなったのではないか、という残念な思いが先に立つ。
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