ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

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アニメ版『リーンの翼』で俺が嬉しかったこと

 アニメ版『リーンの翼』は、ブルーレイ一枚にしてくれよ、という気持ちでいっぱいだ。DVDコンプリートボックスはリアル店舗まで足を運んでから買うかどうか決めようと思っている。

 アニメ版『リーンの翼』をはじめて観たとき、嬉しかったのは、そこに「作家」富野由悠季が「いた」からである。
 俺のみるところ、「作家」富野由悠季は、『ブレンパワード』後半から失踪してしてしまった。『ブレンパワード』後半からの富野は「純血の映画監督」になろうとしている、というのが俺の見立てだった。
 だから、アニメ版『リーンの翼』を観たとき、驚いたし、嬉しかった。
 またその流れで、「小説家」富野由悠季も復活するというのは、俺的には、おいこの企画組んだやつ誰だよー、キスさせろよー、という感じなのだ。

 バイストンウェルはもともとは小説用の設定ではなかったか、と俺は睨んでいる。
 ロボットアニメ用の世界設定なら、ロボット付きの世界にすれば、それだけで『聖戦士ダンバイン』はかなりスッキリした作品になっていただろう。なにせ『ダンバイン』ときたら現代地球人にとって異質なロボットが、現代地球人にとって異質な異世界人からも異質である、という「実感」できようもない構造になっているのだ。どうかしている。
 なにより、小説『リーンの翼』を読めば一発でわかる。バイストンウェルは、富野が文明批評とエンターテイメントを両方やろうとするための装置なのだ。その文明批評は、地の文でなされるので、地の文のないアニメでは無理よね、という単純な話だ。
 バイストンウェルを舞台にした物語は、小説が本道なのだ。
 この時期、富野はけっこう本気で小説家への転向を考えていたのではないかと想像している。

 この時期は、アニメ監督としての富野はあきらかに「疲弊」していた。同時期の作品、小説『リーンの翼』における荒削りだが迫力のある筆致とは別人のようである。が、これが同一人物というのであれば、そのようにも疑えるわけだ。
 俺のなかではアニメ監督富野の「迷い」とか「疲弊」とかを感じさせられたのが、この『ダンバイン』からなのである。
 たとえばOPを観てほしい。カッコいいことはカッコいい。しかし弾幕張った飛行戦艦から人型戦闘機が飛び立ち、チャンバラとガンシューティングを披露するという絵面は、ガンダムそのものである。『ガンダム』で戦闘機、『イデオン』で戦艦、『ザブングル』で自動車という「見立ての斬新さ」をもっていた「富野ロボットアニメ三部作」に比して、『ダンバイン』は(そしてそれ以後の作品は)あまりにもガンダムのままである。やる気の問題ではなくて、アニメ監督としてのスタミナが底をついてしまったのかな、と感じた。ヘロヘロになりながら手撃ちであってもパンチだけは出す、という風に俺には見えた。

 だから俺的には、『ダンバイン』から『逆襲のシャア』までの、疲弊期のアニメ作品は、かなり観るのがつらい。『ダンバイン』のOPが「ガンダムの手癖」でつくられているように、吐き出すものがないのに吐き出そうとして、過去からの手癖に頼るところが垣間見えて、つらいのである。
 たとえば『Zガンダム』。あれを『ファースト』の「直後」に観たら頭痛がしてくるのではないか。『イデオン』で解禁になった「幽霊」「母殺し」、『ザブングル』で解禁になった「パイロット同士の会話」、『ダンバイン』で解禁になった「ハイパー化」「聖戦」、『エルガイム』で解禁になった「美貌の悪魔」など、過去のモチーフの大集成なのだ。いきなり『Z』を観たらビックリする。逆に『Z』をビョーキと評する安彦良和は健全だと思うと同時に「あ。安彦さん、富野作品、ロクに観てないわ」と富野ファンにはバレるわけであるw。

 バイストンウェルは小説が本道、というのが、俺の考えだったので、アニメ版『リーンの翼』は、じつはかなり不安だった。その不安は半分は的中した。アニメの設定としては、筋はよろしくないなと。とはいえ、『ダンバイン』で成功した「東京上空三部作」をメインにすえたような作りは、バイストンウェルのアニメの世界設定としての筋の悪さを、富野なりに自覚しているようで安心した。
 そしてなにより意外だったのは、わりと「本気の富野」が帰ってきていたことだ。「純血の監督」を目指そうにも、サコミズがそうはさせなかったらしい。

 『ブレンパワード』はジョナサンのママンガーという回あたりから、「作家」富野は姿を消した。
 ジョナサンのマザコンは、女性のマザコンに見えるのだ。愛される側の人間が、愛の不足を、愛する側への「貸し」にする、というロジックは、女性のものである。個人的例外はあるだろうが、普遍を目指す富野ワールドではこのような現れ方はしないだろうと思う。
 ジョナサンはジョナ子でなければならなかったし、ジョナ子が、母への反発からパーフェクトマザーを目指し、別の抑圧をわが子に施す、という地獄の輪廻を、富野なら描いたはずだ。
 また後半の比瑪無双もヒドい。宮崎アニメかと思うくらいに、比瑪の正しさが一本調子で描かれる。
 また後半の正当性の多くが、家族話、男女話にオチているのも、ニュータイプの夢をみずにはいられない組織論を抱える富野らしくない。富野が絶望している組織は、なにも政府とか政治活動する組織ばかりではない。富野が絶望している組織は、家族レベル、男女レベルまで入るのだ。
 だから『ブレン』後半には、あきらかに、作家富野は「いない」。

 『ターンエー』では、ところどころ、肝心なところでは作家富野が顔を出す。しかし全般的に出ずっぱりということもなかった。富野自身ではこのバランスが気に入っているのかもしれない。
 たとえば、比瑪声の村田秋乃が演じるソシエのラストは、富野なりの『ブレン』へのアンサーだろう。
 家族話、男女話をメインにしすぎるソシエは、『ブレン』(後半)の世界観の体現者だ。彼女では結局、ロランと空を飛ぶことはかなわなかった。

 『キングゲイナー』には、奇妙な光景をみた。
 富野が大河内一楼にフィーチャーさせようとし、大河内が富野にフィーチャーさせようとして、ふたりでグルグル廻っているイメージだ。なんだあれ。
 とはいえ大河内たちの富野ワールド・キャラクター図鑑的な楽しさが、『キンゲ』にはあった。

 そしてアニメ版『リーンの翼』だ。そこにいたわけだ、作家富野が。サコミズがどうやら呼び水になったらしい。
 「男と女、あれは戦争なんだぜ」というあたりは、いかにも富野だ。だからニュータイプの夢もみる。
 『ブレン』後半の小娘の夢想する甘ったるい世界観からどれだけ距離があるか、ということでもある。
 作家富野の復活、俺はなにより、これが嬉しかった。
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コメント

はじめまして

集大成してしまうところがビョーキなのかもしれませんよ。
そもそも安彦さんは幽霊などについてを言ったのでしょうか?

Re: はじめまして

 仰るとおりだと思います。
 安彦の件、俺の記憶が正しければ、仰るとおり幽霊のくだりへの嫌悪からきたのかと。

肉体と精神

 その関係性に究極行き着くのが富野作品という感じですが、ある意味では『ウルトラQ』の「悪魔っ子」にも通じる感じですよね。

 精神と肉体のバランスが失われた場合、その精神は自らの肉体をも滅ぼしかねないと。

Re: 肉体と精神

 コメントありがとうございます。

 『ウルトラQ』は幼児の頃に観ていたはずなんですが、ほとんど覚えていません。『ウルトラマン』すら記憶が曖昧です。すみません。

 >精神と肉体のバランスが失われた場合、その精神は自らの肉体をも滅ぼしかねないと。

 仰るとおりだと思います。俺の場合不幸にして実体験としてもそれは理解できますw。

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