ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

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『伝説巨神イデオン』について 2/3 ものがたりのたたり

 ご都合主義をなんかこう……カッコよく言うと、デウス・エクス・マキナというらしい。機械仕掛けの神像のことで、神々が信じられていた時代のギリシア演劇で使われたものだ。物語の内部の論理で収拾がつかなくなった劇を、外部からの強制的な介入によって収拾することで、近代以降は禁じ手とされる。
 『イデオン』が恐るべき作品なのは、近代のただなかにあって、のこのことこのデウス・エクス・マキナを登場させてしまったことだ。
 とはいえ、作中に登場するご都合主義の化身「イデ」は、事態を収拾するためではなく、事態を悪化させるために使われる。コスモスの回復のためではなく、より一層のカオス化のために。
 なぜか。「芝居」のためである。会うはずのない人物同士が「イデ」によって邂逅し、情念の芝居をみせてくれる。物語は収拾するどころか破断し、芝居だけが場面場面のうえに直接載ることになる。ちょっと他では味わえない異様な作品、それが俺にとっての『イデオン』だ。

 作者が作品にとり憑かれる、ということがおきる。
 たとえば俺が押井守監督の『ビューティフル・ドリーマー』を観たときの感想のひとつは、非常に技巧的だなー、というものだ。サザエさん型の作品、人物が変化しない作品は、本来「映画」に向いていない。『うる星やつら』もそうだ。まして原作連載中、TVシリーズ放送中である。「映画」になるわけがない。なぜなら人物を変わらない世界に帰還させなければならないからだ。
 『ビューティフル・ドリーマー』は「技術論」として、あのように作るしかなかった、という点で、映画の頂きのひとつであることは間違いない。
 しかし、押井守は、ご存知のように、その後、『ビューティフル・ドリーマー』にとり憑かれてしまう。
 『ビューティフル・ドリーマー』の凄さは、「映画」にならないものを「映画」にしたことだ。不可能を可能にした。芯にあるのは、「映画」への執着と、変態的な技巧、「技術論」である。「作家」や「哲学」をそこにみてはいけないはずだった。批評家やファンがどう受容しようとかまわないが、押井自身がそれに巻き込まれるのはどう考えてもおかしな話なのだ。俺からすると「とり憑かれた」としか思えない。

 『イデオン』という作品は、富野にとっては、押井の『ビューティフル・ドリーマー』と同じだ。「引き返す」ということができなくなる作品というものがどうやらあるらしい。
 富野由悠季は『イデオン』に「とり憑かれた」と俺は思う。物語を破断し、やりたい芝居のために「イデ」というデウス・エクス・マキナを使う。これもまた技術論だし、いやもっと悪い、禁じ手を使った技術論だ。技術論としては最低である。
 しかしそのかわり富野の「作家」性が(情念の芝居をとおして)剥き出しになってくれた、という面白さがあるのだ。……こう書いていて気づいたのだが、俺のなかでは、『イデオン』と『ビューティフル・ドリーマー』は対称的な関係になっているんだなーということだ。最高の作家論であり最低の技術論の『イデオン』、作家論ではありえず技術論としては最高の『ビューティフル・ドリーマー』。どう足掻いても宮崎になれない富野と、いつでも宮崎になれる押井。この対称は、高畑(映画)と宮崎(マンガ)のそれだ。富野は宮崎(マンガ)に憧れ、押井は宮崎(マンガ)でもある自身の才能を封印して、凝った技巧で「映画」を“発明”していく。

 富野は『イデオン』後、他の作品でも往々にして物語を見失い、芝居だけでフィルムをつないでいくことになる。もしも「物語の神様」がいるのなら、物語をぶっ壊しても芝居を優先させる『イデオン』をつくったがために、罰が当たったということかもしれない。

 『イデオン』後、その呪縛を振り払った作品がある。そう『F91』だ。映画館で『F91』を観た俺が、どれだけ感激したか想像できるだろうか。「よかった……富野さん、復活できたんだ」ということに尽きる。
 そして『ターンエー』だ。とくに地球にいる間はほんとうに面白い。そして後半の失速感にまたイヤな予感もしないわけではなかったw。

 アニメ『リーンの翼』は、またまた物語を見失っている。物語という梯子がないのにいきなり二階で芝居しちゃってるw。いやいや俺は好きだけどもネ。
 ショートフィルム『リング・オブ・ガンダム』にいたっては、設定と芝居の面白さしかないw。いやいや俺は好きだけどもネ。

 富野監督はやっぱり今後も『イデオン』に祟られるのかなーという気がする。
 もちろんそれだけ富野語りには重要な作品ということでもある。

 もちろんここでいう「映画」と「ササエさん型」との関係性は極論である。
 劇場版『ドラえもん』のように「ゲスト主人公の物語」を描くことをとおして「映画」にするというのが一番手堅い方法であろう。
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