ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

『機動戦士Ζガンダム』について 3/3

 『機動戦士Ζガンダム』は、「続編もの」として野心的な「設定」と、「メカものとしてのガンダム」を“マクロス以後”へバージョンアップするための「若手中心のスタッフワーク」とが、うまく噛みあっていなかった。
 噛みあっていないのはもうひとつあった。「設定」それ自体にもあったのだ。

 大戦終結後の「政治的混乱」のなかに、“大戦を生き延びた大物”であるシャアやアムロを登場させてしまったことだ。

 数年後のかれらを描くという点では野心的な試みだし、かれらのその後がけっこう情けない……というのも富野らしくて好きである。

 しかし、パイロットの「強さ」がインフレを起こした大戦末期からの引き継ぎの登場のおかげで、今作で初登場するパイロットたちの「強さ」が不分明なものになってしまった。

 前作では若い無名のパイロットが、敵側の伝説的な古強者を打ち破っていくカタルシスがあった。そこでは最強のシャアがおり、ロボットバトルでは最後まで決着がつかないところで終わった。シャアとアムロは最強なわけだ。
 そんなシャアが登場し、前述のように、カタルシスのないロボット戦にあくせくするのは、情けない、というよりも設定段階でのミスではないかと思っている。「強さ」のインフレを起こした前作との摺り合わせができていない。(『逆シャア』はその点ではうまい)。
 
 ここでもわりをくったのは、主人公カミーユだ。かれは「最強」であるはずのシャアと共闘し、それなりの戦果を上げてしまう。ではカミーユがいきなり「強」かったのか、というと、前述したとおりカタルシスのないロボット戦である。これでは、「強さ」を通して描かれるはずの主人公のヒーロー性がでてこない。カミーユはロボット戦を通して「強く」なっていくことができないのだ。
 またカミーユのライバルは最強のシャアのような存在ではない。存在しない。かりにいるとしたら、「強さ」においてあきらかに格下のジェリドである。カミーユが気の毒でしょうがない。(好青年ジェリドも気の毒だった)

 最強のシャアと互角に戦える敵側の有象無象がそれほど「強」かったのか? ではシャアが弱くなったのか?

 そうした疑問は、「設定」段階に一工夫あれば解決できたはずなのである。
 前作に比してスケールダウンした作品世界に、前作の主要キャラクターを安易に登場させてしまったがゆえのチグハグ感である、と俺は考えている。
 以前書いた、『Ζ』におけるスケールダウン問題とは、このことである。
スポンサーサイト

コメント

基本的に

 「集団戦」なんですよね。

 だからゼータガンダム単体での実力が見え難い。

 その辺りを補強したのが映画版でしょうが、こちらではカミーユの「空手技」と共に、キュべレイやTHE-Oでも一対一では勝てないくらいの無敵ぶりで。

Re: 基本的に

 コメントありがとうございます。
 
 なるほど「集団戦」ですか。言われみればそうですね。MS三機で小隊でしたっけ。

 >だからゼータガンダム単体での実力が見え難い。

 本放送時、そのあたりも不満でしたね。MS戦に関しては映画版の方がスッキリしていて好印象です。
 とはいえ、JINさんの仰るとおり、ロザミア・エピソードを象徴する“一騎討ち”と“殺害(救済?)”のニュアンスがなくなってしまうのですが。

 そういう意味では劇場版でのロザミア・エピソードのオミットはハッピーエンドルートに改変するために重要だったのかもしれませんね。

 しかしJINさんとこうして応酬していると『Ζ』をもう一度観たくなりますw。
 小説版も売ってしまったし、どうしたもんかなw。

劇場版での

オミット場面としては、46話冒頭のジュピトリスでの一連の場面が無かったのも惜しかったですね。

あのTHE-Oがカタパルトに移動する煽りの場面は、やはり大画面で見たかっただけに。

またレコアとサラの唯一の会話場面が無かったのも。

Re: 劇場版での

 コメント、ありがとうございます。

 THE-Oのそのあたり、あまり覚えていないんですよね。
 もともとメカまわりはあまり興味ないんですね。富野ファンとしてはだいぶ損しているなーと我ながら思っています。半分ぐらいしか楽しめていないわけですから。

 劇場版ではシロッコの描写がだいぶ削られていることは確かで、ご指摘のとおり、レコアとサラの会話をオミットしたのは興味深いですね。

 しかしこうなると、Ζファン各々の「理想の劇場版」というのも、知りたくなります。ネット、あまりやらないので、どこかのスレですでに展開されている可能性もありますが。

 俺だったら、カミーユが壊れていく過程をメインにすえた「悲劇」に再構成したいですね。新訳ももちろん面白いんですが。

 しかし「木星帰りの男」といえば、宇宙世紀の「木星」と、G-レコの「ビーナス・グロゥブ」の立ち位置が似ているのも気になります。ともにも資源を供給する領域であると同時に敵役を生み出すところが似ている気がするんですね。富野監督の無意識の何かが反映されているのでしょうかね。辺境から生み出される資源と悪というパターンは何を反映しているのかな。
 傍観者気取り=悪というのも似ていて、「現場」を引っかき回す傍観者気取りの人間が許せない、というのは富野監督の製作者としての「実感」としてあるのかもしれませんね。

壊れていくカミーユ

となると、やはり小説版に止めを刺す感じもしますね。

あちらでは映画に出ないキャパが結構大きな扱いにもなってましたが。

(ある意味では後のギュネイの前身か。)


「傍観者」という観点からすると、逆に「傍観者としてしか関われない」カミーユとの対比になってる感じもしますね。

あとタイプは違えど、共に「特異」な「天才」であるのも共通か。

Re: 壊れていくカミーユ

 コメント、ありがとうございます。

 小説版は、いま手元にないんですよね。JINさんとこうしてやりとりしているとまた読み返したくなります。
 小説版では、カミーユの中性的ともいえる美少年ぶり、ハマーンの汚い食事作法をみて成り上がりの無様さをシャアが感じるなど、が印象に残っていますね。俺は「シャアはハマーンと寝てない派」ですね。ハマーンがシャアに憧れをもっていたことは確かだと思うのですが、シャアの方は相手にしなかったのではないか、と読み取れました。
 (劇場版では「昔の男を取り戻しにきた」というニュアンスの芝居に変更されてビックリしたくらい)

 俺が感じた終盤に向けて虚無をかかえていくカミーユの凄みは、テレビ版の画と飛田展男さんの演技によるところが大きいです。
 デッサン的に間違っているんですが、先鋭化していくカミーユの貌は、まさしくすべてに絶望していく少年のそれでした。飛田展男さんの諦めたような演技とともに非常に印象に残っています。シャアが絶句し戦慄することしかできないところもそれを際立たせていました。

 “「傍観者としてしか関われない」カミーユ”というのは、ちょっとわかりませんでした。

傍観者

「他人を救う当事者にはなれない」という意味ですね。

あくまで「ただ見ているだけしか出来ない」と。


あと改変としては、バスクを始末する役がヤザンになってるところでしょうか。

テレビの場合は毒ガス作戦の報復も兼ねてかレコアがやってましたか。

まさに「忌まわしい記憶と共に」という感じで。

Re: 傍観者

 コメント、ありがとうございます。

 ああ、なるほど。そこでJINさんと俺とで“カミーユ観”が違ってくるんですね。

 俺の場合、カミーユはその誠実な性格と、ニュータイプの力のせいで、「当事者意識」が強すぎた、と思っているんですね。
 「自分のせいだ」と抱え込みすぎた。それが悲劇につながった、と思っています。

 「現場」で怒り涙するカミーユと、傍観者気取りの平静なシロッッコの対峙としてとらえました。

 バスクの始末の改変については、ちょっと気づきませんでした。なぜそんな改変をしたのか、その意図が気になります。

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://shiwasu5.blog12.fc2.com/tb.php/41-6ed03ba1

 | HOME | 

文字サイズの変更

プロフィール

shiwasu5

Author:shiwasu5
FC2ブログへようこそ!

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (1)
ガンダム (19)
富野由悠季 (9)
アニメ (13)
雑記 (3)
逆襲のシャア (8)
G-レコ (20)
ΖΖ (1)
Ζ (4)
F91 (7)
新訳Ζ (4)
V (5)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QRコード

FC2Ad

Template by たけやん