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『ガンダム』の挫折

 『機動戦士ガンダム』のラストでは、カツ・レツ・キッカという次世代の子供たちが、「じつはニュータイプだった」という意外な展開で、その能力を発揮して、アムロを救済する。
 それまで「お荷物」以外のなにものでもなかったチビちゃんたちが、ラストにおいて主人公を救うのだ。これは美しい。
 そしてそれは「セックスを描かない」という制約のなかで「世代の継承」や「次世代への希望」を見事に描いてみせたことになる。つまり見事なまでにジュブナイルとしてのラストシーンなのだ。

 今回あらてめて見直して痛感したのは、『ガンダム』はジュブナイルだった、ということである。
 ガンダムの前にガンダム的なものはなかったので、「子供向け」につくらざるをえなかった、という事情もある。
 しかし、それ以上に、おそらくメインライターの星山博之、作画監督の安彦良和の才能と資質が、『ガンダム』をジュブナイルの方向に引っ張っていったのではないかと想像している。

 『ガンダム』のドラマが好きだ、というタイプのファンの間で評判がいいエピソードは、たいてい星山脚本回なのだ。安彦良和があげる『ガンダム』の良さを象徴する回のすべても星山脚本回である。
 星山脚本の魅力は、児童小説のジャンル分けでいえば「小学生高学年から中学生以上が対象」のヤングアダルト向けの作品がもっているそれだ。子供が現実の苦さを舐めて、それでも前にすすんでいく、という面白さである。
 また安彦良和も、作家としての彼は、大人の男が描けないという問題を抱えていて、子供から若者までを主人公に彼らの主観世界を描いたとき、その才能と魅力をフルに発揮するタイプである。

 二人の天才ジュブナイル作家を要所に配した『ガンダム』という作品は、高畑勲の影響も受けている富野監督の下、ジュブナイルとしての魅力が横溢している。『ガンダム』は好きだが、他の富野作品は苦手、というひとは、おそらく星山ファンである。
 ジュブナイル作品というレベルでみたとき、『ガンダム』は間違いなく成功した作品である。
 しかし、『ガンダム』は決して成功した作品ではなかった。ジュブナイルに徹しきれてないからだ。

 「ジュブナイルはいやじゃー」と必死に抵抗したメインスタッフがいるのだ。
 当の富野監督である。

 メインヒロインとして設定・造形されているはずのフラウ・ボゥを降板させて、セイラを登板させたのは、監督の意思のあらわれである、とにらんでいる。
 「セックスを描かない」ジュブナイルのレベルでみれば、セイラは本来「シャア物語のヒロイン」として設定・造形されていることがわかる。セックス、恋愛が御法度であれば、敵味方に分かれた男女の物語は、兄妹ということにするしかない。「セックスを描かない」という制約をもったジュブナイルがそのなかでドラマをつくっていくときのすり抜けの技法のひとつである。
 そのセイラを、アムロの性的成長物語のラストピースにしようと、担ぎ出したのが、おそらく富野監督であった。

 富野メモをみると、ニュータイプ論やセックス論を『ガンダム』で扱いたい、というのは、ジュブナイルで終わりたくない、という思いから出てきたものらしい。
 「ジュブナイルはいやじゃー」が先だったらしいのだ。
 なぜなのだろうか。

 じつは当時、チビ向けにロボットバトルを魅せ、ヤングアダルト向けにドラマを魅せる、という「ロボットモノ」は存在していた。
 そう、長浜忠夫監督の熱血ロボットモノである。
 長浜作品を横目に見ながら、『ガンダム』に向き合ってみると、それほど突出した作品ではないことに気付かされる。
 「子供向けによくこんなドラマやったね」と後年評価される『ガンダム』のドラマ性は、じつはすでに長浜作品でも描かれていたわけだ。

 おそらく、ジュブナイルで終われば、長浜忠夫に勝てない、負ける、という思いがあったのだろうと思う。
 また“ジュブナイルとしての『ガンダム』”の魅力は、監督が富野喜幸でなくても成立する、という自覚もあったのだろうと思う。星山-安彦ラインの功績だからだ。

 「ジュブナイルはいやじゃー」と富野監督が抵抗したのは、だから死活問題だったといってもいい。
 『ライディーン』で低視聴率に苦しめられ監督を降板させられ、その後釜の長浜監督はその後のシリーズも任されて商業的にも評判的にも成功する。
 ジュブナイル作家としての資質はアニメーション業界ではなくてはならないものなので星山博之が食いっぱぐれることはない。天才アニメーター安彦良和はむろんのことだ。

 『ガンダム』をジュブナイルで終わらせず、なんとか突出した作品にしなければならなかったのは、富野喜幸が業界で生き残るためにどうしても必要だったわけだ。

 『ガンダム』の異様さは、ジュブナイル、それも良質のジュブナイルが生成されるフィルムの力場のなかで、当の監督がひとりでそれに抵抗している点である。
 しかし富野の孤軍奮闘もむなしく、『ガンダム』はジュブナイルとしてのラストを迎える。
 それがカツ・レツ・キッカによるラストシーンだ。
 ラストシーンからストーリーを逆算してつくるとしたら、ヒロインはフラウ・ボゥ以外にありえなかった、ということでもある。

 これが『ガンダム』の挫折だ。

  アムロは彼岸(ララァ)から帰還できず、セイラは兄離れできず、シャアは悪人としての往生ができなかった。
 『ガンダム』がジュブナイルから脱出するための仕掛けがまるまる残ってしまったのだ。

 またこの挫折により、本来「セックス論」「生殖論」とバランスさせるはずだった「ニュータイプ論」が“宙に浮いたまま”になったしまったことは、後年いろいろと祟ることになる。
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