ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

『G-レコ』劇場版はどう訳されるのか

 『ガンダム Gのレコンギスタ』は音響監督や作画監督の手腕もあって、フィルモグラフィー的に画期になった作品になった。初代、『F91』以来の第三の画期と言っていいだろう。ヴァージョンアップではない。
 芝居における隙の無さが突出しているのだ。富野節を必要としないぐらいだ。
 富野が手に入れたがったであろう、ヒトの身体性が、よく描かれていたように思う。生々しい息遣いが聴こえてきそうな芝居をみせてくれた。結局ヒトはオスとメスであるというところまで踏み込めていた。

 ただそれゆえに、わりを食ったのが主人公のベルリだ。慕ってくれる美少女が傍にいるにも関わらずオスとメスをやってみせない、というのはこの作品のなかでは浮いていた。作品の都合があったのだろう。主人公がヒロインと結ばれてしまうと話がそこで一端一息吐いてしまうのである。それを嫌ったのだろうと思う。おかげでベルリは恋人をもてないしノレドは大泣きすることになる。つまり完結感より続編の存在を匂わせるラストになっている。

 富野は『機動戦士Ζガンダム』を劇場版にするうえで、主人公カミーユふくめ、セックスを感じさせる方向に改変したことがある。作品全体がセックスの匂いが強くなっているのだ。「ああ、このあとカミーユはレコアでヌイたなー」と想像できてしまうのである。映画版のカミーユはファと寝ていて、それでも他の女にも気が行っている、ファがそんなカミーユをちゃんと見てる、とそういう芝居に見えた。
 劇場版『G-レコ』はそのあたりどうなるのか、いまから楽しみにしている。テレビ版でもじゅうぶん生々しかった作品がさらに艶めくのか、胸を躍らせているところだ。
 ベルリはちゃんとアイーダでヌイていると感じさせる芝居をみせてくれるのだろうか。ちゃんとノレドなりラライヤなりと肌を重ねることができるのだろうか。そういう雰囲気をもつ芝居になるのだろうか。

 作品の都合上、ベルリ以上にわりを食ったのはアイーダかもしれない。かつてカーヒルという恋人がいたとはいえ、作中では男っ気ゼロである。『F91』のセシリーはシーブックと行き違いになるとザビーネになびく気配をみせた。メスとして当然の心の動きだと思う。アイーダにはそれがない。ロマンチックなお姫様救出劇を描いた10話以降、アイーダがベルリを自分を守るオスとして意識しても良さそうなものだが、そうした描写はない。
 このあたりをどう膨らませるのか、それも楽しみだ。アイーダがベルリにオスとしての魅力を感じる展開になるか、メスとしてねんねすぎて男っ気を必要としていないか。後者だとしたら、カーヒルはよっぽどセックスが下手だった可能性がある。
 ベルリとスカッシュをやりたがるアイーダ。しかしラ・グー総裁のムタチオンの身体をみて、私は人類の女性として健康!と確かめるように(別の男性と)スカッシュをやる。メスとして健康ということだ。スカッシュは何を暗喩しているのだろうか。

 作品のお約束的に、ベルリとアイーダは、セックスの匂いのするフィルムから切り離されている。
 劇場版でかれらは果たしてセックスを取り戻すのか。その場合、アイーダの相手役はベルリになるのか。インセストの問題はどうするのか。
 手塚治虫だったらインセストなど気にしないだろうが、富野がそれを描くとはとうてい思えない。このあたりもスリリングだ。

 あるいはアイーダは処女に改変されるかもしれない。ヴァージン・クイーンだ。富野がカーヒルと寝たことにしたのを失敗と言ったという話はそのあたりかもしれない。
 アイーダが女王になるという話だけでは『∀』のヴァリエーションになってしまう可能性があるからだ。

 何はともあれ劇場版第一作が成功するのが第一である。成功を祈るばかりだ。
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