『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』について 4/6
しかし『逆襲のシャア』に物語がないわけではない。「クェス・パラヤの物語」である。
前述したとおり、俺にはクェスの魅力がわからない。富野ヒロインは悪名高いカテジナ・ルースふくめてみんな好きだが、クェスだけは「わからない」。嫌っているわけではない。文字通り「わからない」としか言いようがない。
それはまっつねさんのご指摘どおり、クェスは「富野が挑んだ出崎的ヒロイン」だったからかもしれない。ララァ・スンからさらに踏み込んだ出崎的ヒロインなのだ。どちらかと言えば「よくできた作劇」を愛好する俺の嗜好からすればクェスはそこからはみ出しすぎていた。
出崎ヒロインはもちろん好きなキャラクターばかりだが、それは出崎ヒーローというお相手がいる場合にかぎる。俺の場合少女マンガがわからないのでそうなる。あまり上等な視聴姿勢ではないのかもしれないが、俺は「感情移入型」の観客である。クェスのお相手たるヒーローがいない場合、どうやって彼女を「見つめて」いいかわからないのだ。
ハサウェイやギュネイでは足りない。足りているのはアムロとシャアだが、彼らは「お相手」ではない。アムロやシャアの立場で「見つめて」しまうと、ただの小娘に映ってしまう。これはこれで富野の狙い通り、「正解」のひとつなのだろう。
しかし『逆襲のシャア』が「クェス・パラヤの物語」でもあるとしたら、その「正解」はあまりにも貧しい。
JINさんにご指摘していただいたのだが、一口に「ニュータイプ」といっても変遷があるようなのだ。
ニュータイプの理想は「誰とでも」交感することだ。しかしアムロとララァの交感が「密会」であるように、それはセックスに似たものになる。
そしてカミーユという女性名をもった美少年が「男女問わず誰とでも」交感することにより壊れていくのが初期ニュータイプの到達点だ。
ニュータイプがゆえに自他ともに破滅を迎えるような衝動性を抱えたのが“カミーユ以後”のキャラクターだという。
その“カミーユ以後”の究極がクェス・パラヤらしいのだ。
この変遷のなかでわかるのは、富野はニュータイプの理想を少しづつ捨てていった、ということだ。
初代ガンダムラストの甘美さは星山テイストだと思うのだが、富野はそれに抗うようにニュータイプの理想を捨てていく。
ニュータイプの交感がセックスに似たそれだとしたら、「密会」の甘美さばかりではなく「レイプ」の悲惨さを招くこともありうるのだ。
富野ガンダムにおいて「勝手に交感され激怒する」のが女性キャラクターなのはそのためである。
そしてそれをなだめるために「生身のコミュニケーション」をとろうとするのが男性キャラクターである。
小説『機動戦士ガンダム』でアムロがクスコ・アルを口説くのに失敗したように、「勝手に踏み込んだ」男性キャラクターたちは口説く手順を間違えている。ヒロインたちが怒るのは無理がないのだ。
クェスは「交感」よりも「衝動性」が強調されたキャラクターだ。「娼婦性」が欠落した「処女性」をもったニュータイプといえるだろう。「誰とでも寝る」のではなく「誰とも寝ない」のだ。
そこには初期ニュータイプの面影はない。“カミーユ以後”のリビドーに振り回される若い衝動性が描かれることになる。
リビドーは富野作品の根幹だ。「クェス・パラヤの物語」においてはクェス、ハサウェイ、ギュネイのそれが描かれている。
なかでもクェス・パラヤの「生きた感じ」は突出している。ハサウェイやギュネイすら「役割を演じているだけ」にみえるほどだ。
クェスは、アムロとシャアをつなげ、若者と大人をつなげる作劇上の位置にいた。
しかし「誰とも寝ない」ニュータイプの彼女は、誰と誰ともつなげることなく、作劇上の役割を果たさない。
アムロやシャアにとっては「ララァの再来」になれず、ハサウェイやギュネイにとっての「ララァ・スン」になれない。
クェス・パラヤとは「作劇上の役割を果たさない」のが「役割」である特異なキャラクターだった。彼女はノイズであり、『逆襲のシャア』をペシミスティックな物語にするための生贄だ。「作劇上の役割を果たせない」クェスは「作劇の外」に放置されたまま本筋にからむことなく「作劇の外」に放逐される。
こうして「クェス・パラヤの物語」は終幕する。
作劇を阻害させていた彼女の不在によって、『逆襲のシャア』は本格的にそのメカニズムを作動させていく。あとは物語が終盤に向けて展開していくだけだ。
クェスという歯止めを失った物語は、一気にアムロとシャアの対決に向かっていく。その対決は「作劇上の範囲内」でしかない。
「クェス・パラヤの物語」が必要になるのはそのときだ。
それは『逆襲のシャア』が「ガンダム」のお約束から解放されるためのレイヤーだった。繰り返す悲劇に囚われた『Ζガンダム』の反省がそこに活かされている。
「ララァの再来」たりえないクェスの運命は「ガンダム」が囚われた悲劇の反復たりえない。ララァ・スンの悲劇の反復に囚われてきた「ガンダム」は「クェス・パラヤの物語」によって回避される。クェスが「役割」を遂行しなかったからだ。
「クェス・パラヤの物語」は続編映画『逆襲のシャア』で描かれた唯一のちゃんとした物語だ。
クェス・パラヤはヒロインではなく、主人公と言っていいだろう。
クェス・パラヤの魅力がわからない俺でも、そのことだけは認めなければならない。
コメント
お久しぶりです
Re: お久しぶりです
たしかに、川村万梨阿の存在感を抜きにしてクェス・パラヤは語れませんね。失念しておりました。
彼女の存在感は、チャム・ファウのような「妖精」キャラにピッタリでした。
クェスが「妖精」キャラの系譜だというのはまったく気づきませんでした。クェスの可愛らしくも危うい衝動性は「妖精」のそれだと思えば、彼女の魅力の一端を理解することができそうです。
とはいえ「妖精」キャラだとしたら、「あそこを舐めたくなるキャラにしろ」というディレクションは、富野のミスだった可能性も出てきます。
それとも「あそこを舐めたくなる」妖精的美少女を主役にしたかったのでしょうか。念頭にあった映画女優などいたのだろうか。
現行作品では、クェスは「誰とも寝ないニュータイプ」という雰囲気をまとっていて、「妖精」キャラだとすると納得できます。川村ボイスのもつ「妖精」的な何かに、富野の演出も北爪の絵も、引っ張れれてしまったということなのでしょうか。
> ただし等身大であるが故に、彼女は「二人の男」より先に死なねばならないと。
というのはちょっとわかりませんでした。等身大であるがゆえに、性的なものから一枚隔てた「妖精」性が失われる可能性があったから、ということですか。
『ダンバイン』のチャムが
ベルトーチカの場合は、むしろ『エルガイム』のレッシイの延長といった感じですが。
「声」の力がキャラを引っ張るというのは富野作品に多く見られる傾向だと思います。
まあクェスの場合は「あそこを舐めろ」というキャラという感じですね。
体位でいうなら「騎上位志向」とでもいうか。
そしてそれは相手に対してとにかく譲歩かつ控え目的なナナイやチェーンと比較すれば余計に際立つ感じですが。
Re: 『ダンバイン』のチャムが
「妖精」であるがゆえに生き延びたチャム・ファウと対比的、というのはまったく気づきませんでした。
指摘されてみれば、なるほど、という感じです。クェス・パラヤは「父を求める少女」であると同時に「保護者を求める妖精」でもあったのでしょうか。
たしか『聖戦士ダンバイン』ではチャムがその物語の伝承者になった、というニュアンスのラストだったと記憶しています。
クェスはシャアに嘘ばかりつかれているので「物語」自体を知り得ていない、というのも対比的ですね。ここにも「お芝居の外」にいるクェスの特徴が出ているような気がします。
ベルトーチカがレッシィの延長というのも納得ですね。
彼女たちとクェスに共通しているのは気になる相手に対してアグレッシブなところでしょうか。クェスは妖精ラインと積極女との混合を目指していたのかな。
なぜよりにもよってベルトーチカの役者を起用したのか、というのも気になっているんですよね。初稿を小説化したという『ベルトーチカ・チルドレン』では彼女が登場するわけですから、当然クェスの役者は別人を起用したはずで、初稿から現行の脚本にシフトするうえで、何かしらのコンセプトの変更があったのではないかと想像します。俺の印象だと、その変更により、アムロが主演格として弱くなり、クェスが助演から主演になった。その印象が正しければ、なぜそんなことになったのか知りたい。「奇跡」の発端を起こすのはアムロの恋人なわけで、チェーンがクェスに「食われる」のは作劇上どうだったのかなという疑問があります。
> 「声」の力がキャラを引っ張るというのは富野作品に多く見られる傾向だと思います。
というのはうなずけるところしきりです。だからこそ、クェスに川村を起用したのはどうだったのでしょうか。“助演”であった初稿の作品構造の残滓があるにも関わらずしっかり“主演女優”を演じてみせたのは素晴らしいことですが、その存在感もあって、チェーンを「食って」しまったのは、いきすぎだったと思います。で、「芝居の外」にはみ出してしまったと。
> まあクェスの場合は「あそこを舐めろ」というキャラという感じですね。
> 体位でいうなら「騎上位志向」とでもいうか。
失礼ながらここは笑ってしまいました。なるほど「ほら、お舐めなさい」とかいうキャラなんですね(笑)。このあたりは川村の積極女の系譜なのかもしれません。
だとすると、妖精+積極女というキャラ付けは、川村にピッタリだったということになりますね。富野の本来のキャスティングの意図はそのあたりにあったのかな。
ただ俺にはクェスにあそこがついているとは感じられなくて、富野の苛立ちもわかるような気がしているんです。
ナナイやチェーンが一定の距離感をもって接してくれる、というのは男にとってひとつの理想ですね。少女マンガにはありえないイイ男が出てきますが、富野作品はその男版という側面があるように思います。
俺が富野作品を観ていて感じる気持ちよさは、そうしたイイ女たちに出会えることによるところにもあるようです。まっつねさんの言うとおり富野ヒロインは「大人の女」ですね。子供の頃から富野ヒロインのそこに惹かれていたような気がします。
それに比較してクェスは……という点でピンと来なかったのでしょう。
「舐めたくなる」「舐めなさい」の違いということでいえば、初見の若き日の俺には後者はピンと来ませんでしたが、当時の富野と同年代になってみるとわかる気がします(笑)。
クェス的キャラのリベンジというものもをみてみたいですね。今度こそ俺のような人間にもわかるあそこのついた妖精的美少女を造型して欲しいです。『G-レコ』が遺作というのはとにかく嫌です。
ただし
その意味では「妖精」というより「ニンフ」の方かもですが。
あとクェスというキャラの重要性はとにかく「動き回っている」というところでしょうか。
初登場もいきなり「走っている」場面からですが、とにかくジッとしている場面が少ない。
父が言う「なぜクェスは部屋にいない」というのも象徴的ですが、とにかく「絶えず動かずにはいられない」というイメージ。
場面ごとに服を変えているのも、そうした印象の一因になっている感じで。
Re: ただし
> クェスの場合、肉体的にまだまだ未成熟だというのが特徴ですね。
> その意味では「妖精」というより「ニンフ」の方かもですが。
うーん、ビビやプルを造型できた富野なのだから、そのあたりは乗り越えて欲しかったですね。未成熟な少年少女のセンシュアルな場面が描けるのも富野の突出した才能のひとつですから。
俺が感じるクェスの「あそこがついてない」感というのは、どこに原因があるのか、ちょっとわからないんですよね。富野らしくないなーと思います。人魚の少女すら……の富野なのに。
「妖精」と「ニンフ」の違いはちょっとわからないですね。文学史なり美術史なりの文脈で違いがあるのかな。
> あとクェスというキャラの重要性はとにかく「動き回っている」というところでしょうか。
指摘されて『逆襲のシャア』を観直してみたのですが、たしかに仰るとおりでした。いままでまったく気づきませんでした。
「絶えず動かずにはいられない」クェスを受け止めたり引き止めたり縛ったりするのが男性キャラだというのも印象に残りました。劇中ではクェスの動きに介入した女性キャラは父の愛人とナナイだけですが、ふたりとも被害者と加害者の差はあれ、噛みつきとビンタという暴力に至るのも示唆的でした。
現行のフィルムからは伝わってきませんが、富野のコンテ段階では、もっと別のニュアンスがあったのかもしれませんね。
女の比較としては
自立志向の強かった『Z』の女性陣に比べて、いきなり最初から登場してきた彼女たちは、あくまで二人の男のパートナー役としてのみ描かれる。
シャアがいなくなってからグラスを投げ付けるナナイはまだしも、一声かけてからじっと待ち続けるチェーンなんかはまさに三従なイエスマンの見本みたいな感じ。
あるいはそのあたりも彼女たちの生死を分けた感じか。
Re: 女の比較としては
仰るとおりだと思います。
ナナイもチェーンも素敵な女性ですが、ナナイは「いい女」、チェーンは「いい娘(こ)」という感じですね。
個人的に
。
アムロにはあのくらいがちょうど良いといった感じで
Re: 個人的に
仰るとおりだと思います。
登場シーンが圧倒的に印象に残っていますし、富野監督もアムロのパートナーとして力を入れて造型したのでしょうね。
クェスの黄色い服を見て
要するにモルガルテンでの出会いですが、こちらでのロンデ二オンもそれを意識していたかな感じで。
Re: クェスの黄色い服を見て
なるほど。たしかに「湖畔」を意識していたというのはあるかもしれませんね。
ガンダムシリーズだと黄色い服って日常色なんじゃないかなと思っています。モブのパイロットスーツもそうですし。
ロザミアの黄色の私服ってそういう(一見)「普通の人」という意図があったのかなと。
俺としては「湖畔」でのファの可愛らしい赤い服が好きでしたね。正ヒロインしてました。
EDの
カミーユの私服も大人びた感じだっただけに、会話の内容も「若夫婦」調で。
またあくまでカミーユ個人の私事であるフォウと違い、ロザミアは彼女たちに深く関わるわけで、こうした部分は初代のフラウにも無かっただけに。
Re: EDの
EDのマイナーチェンジ含めて「湖畔」を重要回とみなすのは、なるほどと思いました。
初代と違って、『Ζ』は正ヒロインがファだと最初から判明しているところが特色ですね。
初代はジュブナイルに落とし込もうとする星山・安彦ラインとの葛藤があったように思うんですが(ORIGIN Ⅳのフラウ・ボゥの“正ヒロイン”?ぶりがあまりにも魅力的で、安彦版は“フラウ・ルート”“フラウ・エンド”に変えて欲しいと真剣に願うくらいw)、『Ζ』はそうした葛藤はありませんからね。
カミーユの私服は相変わらずダサイな、と俺などは思いました(笑)。まぁオサレアニメではないので構わないのですが。
ファはファで“頑張り過ぎ”なところがあって、二人とも微笑ましかったです。
“悲劇”に巻き込まれるという点ではファはフラウというよりセイラに近い位置づけですが、セイラとララァと違って、ロザミアと親しかっただけに、重みが違いますね。セイラは“悲劇”の主筋に絡んでないんですね。で『逆シャア』の不在につながると。
ファの場合“悲劇”の当事者のひとりなんですよね。正気?を失っていくロザミアをファが説得しようとするシーンは印象的でした。
『Ζ』はファに限らず初代と違って主筋に絡む女性が多いんですね。勇ましい女性が多い。シロッコの台詞みたいですが(笑)。ファがフラウと違って主人公を追いつづけることができたのもガッツの現れなんでしょう。
しかし『Ζ』ファンのJINさんとやりとりしていると、いつの間にか『Ζ』の話になるという(笑)。いや歓迎ですけどネ。
話を『逆シャア』に戻すと、ロザミア→プルの系譜は「わかる」し、アムロ→カミーユの系譜も「わかる」んですが、カミーユ→クェスの系譜は「ピンとこない」んですよね。
あるいは妖精の系譜だとしても富野の場合小説『リーンの翼』に描かれるように「あそこ」がついていて男を誘うんですよ。どんな小さくても。
俺にとりクェスほど難解なキャラクターはいなくて、『逆シャア』という作品を理解するうえで大きな難問となっています。俺自身が「自分という枷」を外さないといけないのでしょうね。
ロザミアの中で
初期はバラつきが大きかったですが、後半では「カミーユを中心の男性視点」をメインの遠藤明範脚本が、「ファを合わせ鏡にした女性視点」を鈴木脚本が交互にキャッチボールするみたいな感じになると。
クェスについては、究極に言えば(製作面も含めた)「大人の事情」などお構いなしに、ただ自分の感性だけで「飛び回る」キャラなんですよね。
ある意味では複雑な背景を様々に抱える富野監督自身がそういうキャラを必要とした感じ。
そういう意味では、まさに「トリックスター」。
ただし「妖精」ならば愛嬌で済むが、「人間」ならば迷惑この上ない。
(どんなにあそこが付いていても「妖精」ではサイズが合わない。)
途中でナナイにぶたれる辺りの展開などは、まさにその象徴という感じで。
Re: ロザミアの中で
>ロザミアもですが、その前段階としてサラとの絡みもありましたが、その辺りを鈴木裕美子脚本が担当しているのもポイントですよね。
>初期はバラつきが大きかったですが、後半では「カミーユを中心の男性視点」をメインの遠藤明範脚本が、「ファを合わせ鏡にした女性視点」を鈴木脚本が交互にキャッチボールするみたいな感じになると。
なるほど、まったく気づきませんでしたが、言われてみれば納得です。
各話スタッフに注目するのは俺には手に余る領分なんですが、富野のキャスティング・ディレクターとしての手腕をあらためて認識できてよかったです。
クェスについては本当に「わからない」んです。
>ただし「妖精」ならば愛嬌で済むが、「人間」ならば迷惑この上ない。
というのは納得です。
「トリックスター」の例えは面白いですね。ただクェスの場合それほど作品世界の根幹に関わらないんですよね。コスモスと関連しない。
まっつねさんがご指摘するように、クェスは「舞台の外」にいる感じがして、それならそれで「クェスの物語」をもっと強度のあるものにしてくれたらよかったのにと思いました。
このあたりは俺の偏向性、物語を求めすぎる、というのが原因のひとつかなと、考えているところです。そこが俺の「自分の枷」なのかもしれません。
ここでいう
その意味では決して「迷惑な闖入者」というわけでもない。
その意味でも、この作品における「クェスの意義」というのはいろいろと考えるものがあるんですよね。
そしてその「考える」「考えさせる」部分というのが、まさに富野作品的というかで。
Re: ここでいう
最後のシャアとアムロのクェスをめぐる言い合いを、まっつねさんはたしか舞台裏の言い合いと評していましたね。
舞台の幕はすでに降りていて、あとは楽屋で議論をしている、そんなイメージなのかなと解釈しました。
>その意味でも、この作品における「クェスの意義」というのはいろいろと考えるものがあるんですよね。
>そしてその「考える」「考えさせる」部分というのが、まさに富野作品的というかで。
まったくその通りだと思います。「わからない」なら「わからない」なりに「わからない」という自分の偏向性を自覚できるわけですからね。大儲けだ。
最後の
そしてその後はこの系統がしばらく続くわけですが、どちらかといえば「感覚を言語化する事の難解さ」とでもいうか。
だから言われる方もさりながら、言ってる方も「感情を伝えきれない」事へのもどかしさと怒りがある。
ただしだからといって「丸裸」のなればいいというのか出来るのかというのもまた疑問であり抵抗があると。
Re: 最後の
俺の場合とくに難解とは思わなかったんですね。
「ああ“いつもの富野”だなー」と感じました。富野の「疲弊期」が際立った印象です。
>だから言われる方もさりながら、言ってる方も「感情を伝えきれない」事へのもどかしさと怒りがある。
ああそれはいい表現です。シャアなどは「なぜわからん!」と吐き出すように言うんですよね。
でもそこは本人にもわかってなくて、女たちが洞察するように、アムロへの執念が本音なんですね。そのためにアクシズまで落とそうというのだから男というのは度しがたいわけです。
『逆シャア』は“男映画”だと俺は思っています。
ただし
『Z』の時にはむしろ「とっくに終わった事」といった感じだっただけに。
Re: ただし
互いに認め合う存在がライバルなら、理解者に一番近い存在でもあるんですね。
スペースノイドの怨霊と化したシャアには、自分を理解してくれる存在が必要になったのでしょう。
シテがワキに救済を求めるようにシャアはアムロに固執したのだと思います。
最後の対話がシャアの独壇場であったのはそうした意味合いがあったのではないかと考えています。
シャアがすべての理屈を捨てて、きわめて個人的で核心的な告白ができる相手は、世界のなかでアムロただひとりなんですね。
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ある意味では彼女は川村さんが演じてきた「妖精」の等身大版ではないかという感じも。
ただし等身大であるが故に、彼女は「二人の男」より先に死なねばならないと。