ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

『Gの閃光』について

 『Gの閃光』については以前にもいろいろ書いた。

 ・俺とはちょうど交錯しない距離にある。
 ・『Gのレコンギスタ』のラストにピンとこないので微妙な曲に感じる。
 ・老人の諦観と、孫をもつ爺やとしてのあがきもある。
 などだ。
 基本的には俺にはその素晴らしさがわからない曲だった。
 しかし『G-レコ』という作品にとっては、とても重要な曲である、ということが俺なりに理解できるようになった。

 ひとつはkaito2198さんの『Gの閃光』論だ。
 「「コスモスに君と」や「月の繭」に比肩するものだ」という指摘にびっくりし、

 そんな中、作品のテーマを固定して、最初から最後まで持たせたのは、実質的に「Gの閃光」というエンディング曲といっても過言ではないだろう。富野がこの曲を「真のテーマソング」と呼んでいるのも、きっとこれのためだろう。



 という指摘に教えられることがあった。「な、なんじゃとてー!!」という感じだ。

 もうひとつは富野のアニメツーリズムについてのインタビューだ。

 

なので、100人中99人はただ単純に「あー、聖地楽しかった」だけでも全然構わないけど、残りのひとりかふたりが外の世界の刺激を受けてなんらかの才能を開花させてくれたら嬉しいのです。そういう子らが次代の日本を引っ張るような存在になってくれるはずだから。



 という思いを語っている。
 これは『G-レコ』のラストにおけるベルリを彷彿とさせる。なぜいまさらバックパッカーというモラトリアムに退行するのか、謎だったのだが、「外の世界」という言葉で納得できるようになった。

 『G-レコ』のエンディングは敵味方関係なく皆でラインダンスを踊るというものだ。これを俺は「なんとなく」観ていた。『OVERMANキングゲイナー』のモンキーダンスと似たようなものだろうと。諸事情あってエンディングに回された真のオープニング曲だと「なんとなく」思いこんでいた。
 しかし違うのではないか、というのが今回俺が得られた感触だ。

 『Gの閃光』はエンディング曲でならなければならなかったし、『G-レコ』のラストにもその映像とともに流される曲でならなければならなかった。
 「外の世界」というのがキーワードなのだと思う。

 俺の理解するところでは、映画には演劇の尻尾がついていて、富野作品もまた正統派の映画として演劇的要素がふくまれている。
 『G-レコ』は「世界周遊記」だ。世界を見て回るお話である。しかしその世界は富野がつくった演劇の舞台でもあるのだ。

 その舞台から舞台の「外の世界」(この場合リアル)に帰すのが毎回カーテンコールじみた映像に流される『Gの閃光』だった。だからこそエンディング曲でならなければならなかったのではないだろうか。

 それは『G-レコ』全体のラストにも言える。
 『Gの閃光』が流されなければならなかったのは、舞台の主役ベルリを舞台の「外の世界」(この場合アンノウン)に送り出すために必要だったのではないだろうか。
 だとすればバックパッカーのラストも納得できる部分がある。ベルリは富野のつくった作品世界、舞台からただ退場するのではなく、「外の世界」へ旅立たなければならなかったからだ。

 『Gの閃光』とは「外の世界」を見つけて欲しい、そこから何かを学んでほしい、という富野の願いがこめられている曲なのかもしれない。
 根源的な文明批評の果てに見出された諦観を越えるためには、富野自身が知らない「外の世界」が必要とされたはずだからである。


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コメント

こんにちは、記事を読んでいただきありがとうございます。
ご高見拝読いたしました。基本的に全部同意します。

その上少しだけ説明させていただきますと、「究極的な作り」というのは、選んで使った言葉です。
純粋なレベルといえば、この曲は月の繭、コスモスに君となどの最上級ではないと思います。にも関わらず、ご指摘のように、Gレコのエンディングはこの曲でしかありえないくらい合致しています。
今の富野由悠季監督にとっての到達点という意味では、まさに究極的、ということを言いたかったんです。

劇場版が来ると新しい曲が来るか、はたまたこの曲は使われるかはそういう意味でも、個人的に楽しみにしております。

コメント、ありがとうございます。


 kaito2198さんの井荻麟作詞論はいつも楽しみに拝読しています。勉強になります。

 音楽的素養のない俺には作詞家・井荻麟を理解するのは難しいのですが、今回は幸いkaito2198さんの記事に導かれて『Gの閃光』の重要性の一端を理解できたような気がします。ありがとうございます。

 また「究極的な作り」という言葉の意味合いも了解しました。『G-レコ』は画期になった作品なだけに、「今の富野由悠季監督にとっての到達点」というのが俺には高みすぎて、『Gの閃光』の重要性に気づかなかったということかもしれません。

 劇場版で、どんな曲が使われるのか、楽しみですね。TV版と劇場版でコンセプトを変えてくるのが富野監督だと思うので、『Gの閃光』でいくのかいかないのか、とてもスリリングです。

到達点という言い方を使いましたが、総合的に見ると、今までよりもさらなる高みに経ったかというと、話は別だと思います。
それでも、今進んでいる方向は間違いなくこれですから、ちゃんと見詰めていたいですね。あまり上手く説明できなくて申し訳なく思います…。

コメント、ありがとうございます。

 なるほど。了解しました。

放送中に気づいていました。

前略 大塩です。というのも貴方が前から以下の指摘をしていたからで。

 俺の理解するところでは、映画には演劇の尻尾がついていて、富野作品もまた正統派の映画として演劇的要素がふくまれている。

なので上記の記事は私の持ちネタだったのですが、私は当たり前と思って記事にしそびれ、私は今日になって座談会にしたのでした。対談している場も含めて、私のガンダムの解釈であり。草々

Re: 放送中に気づいていました。

 コメント、ありがとうございます。

 俺の場合は放送中にはまったく気づきませんでした。迂闊ですね。お恥ずかしい。

 「Gのレコンギスタ~♪」と作品タイトルを連呼する楽曲には、ロボットアニメの(王道的)オープニングソングを感じていたんですね。
 実際のオープニングは本編映像を編集したもので、富野的にはあまり重みを置いていないのかな、と邪推していたことも事実です。そこに「大人の事情」を感じていました。
 ですから俺は長いこと『Gの閃光』は諸事情あってエンディングに回された真のオープニングソングだと思いこんでいたんです。連想していたのは『OVERMANキングゲイナー』のオープニングソングですね。

 本記事で書いたとおり、kaito2198さんの記事と富野監督の発言から、やっとカーテンコールだと気づいた次第です。
 
 「Gレコに関する座談会」の感想はそちらに書かせてもらいました。

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