ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

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『機動戦士ガンダムF91』について 5/7 シーブック・アノー

 俺の感ずるところでは、富野由悠季は企画(原作)と演出(絵コンテ)に才能を発揮する作家だ。
 企画(原作)から、「画」や「物語」を取り出すことを得意としていない。ましてそれがラディカルな企画ではなおさらである。ラディカルな企画を若い未熟なスタッフにやらせたのが『機動戦士Ζガンダム』の歪みにつながったのではないかというのは以前書いた。

 『F91』はその点で安心できる。そもそも企画がラディカルではない。わかりやすい勧善懲悪だ。
 また「画」には安彦良和と大河原邦男、「物語」には共同執筆者伊東恒久を迎えている。わかりやすい企画をベテランで固めているわけだ。
 これで面白くないはずはないのである。

 『F91』は抜群に面白い。俺の好み、嗜好にどんぴしゃりなのだ。

 主人公シーブック・アノーがいい。
 安彦良和のキャラクターデザインが素晴らしい。屈託を抱えたアムロやカミーユの顔と違って、すっきりとした顔つきをしていた。ハンサムだが、甘いマスクというより、凛々しいといった感じだった。いかにもヒーロー然とした顔つきの若者だった。

 屈託といえば、富野作品の主人公はたいてい何らかの屈託を抱えている。これが俺にはピンとこなかった。若きインテリの屈託なのだろうと想像したが、感情移入の対象にはならなかった。アムロやカミーユがぼんぼんであることも感情移入を阻害していた。感情移入の対象というより見上げるような憧れの存在だった。

 シーブックは違った。父親は溶接工であり、自身も機械科の生徒である。親しみがもてた。
 「お。美しい脚」とセシリーを褒める場面で、いっぺんに好きになった。「美しい」とはなかなか言えないが、それを屈託なく言ってしまえる明朗さがよかった。脚は性的なものの象徴だが、それを瞬間的に褒めることのできるシーブックなら、女の子を口説くのも不得意ではないのだろうな、と想像できたのも楽しかった。
 その想像が正しければ、セシリーを口説いたのはシーブックらしいと思え、ふたりの関係性が垣間見えるようで序盤から惹きつけられた。シーブックに口説かれてドレスを着たセシリーであれば、彼女の淡い想いも伝わるような気がしたのだ。そうであれば賭けの対象にされるためだった、というのはたんに怒るだけではなく、「機械科のあなたにそこまで馴れ馴れしくされることはないでしょう」とまで言ってしまうわけだ。そういう台詞をはいてしまっては、それまでは多少は馴れ馴れしくさせていたことが想像できるようで、くすぐったい気持ちになるのである。

 瞬間的というのはシーブックの特徴だ。「伏せて」と見知らぬ子供に言えてしまうからだ。エレベーターを待とうとする妹のリィズに「そんなのはいい!」と言えることから瞬間的な判断力をもってるらしいと想像できる。
 ドワイトを救けるため、自動車を寄せる判断もはやい。ドワイトは対照的に判断をマニュアルに任せしまっている若者として描かれる。
 ロイ戦争博物館の前で「敵がくる」と瞬間的に判断したのはシーブックひとりだ。ニュータイプ的感応ではなく、連邦軍のモビルスーツが構えているのをみたからである。
 退避口を潰されていたことがわかると、女友達はシーブックのもとに集まって判断を仰ぐ。マニュアルに頼りがちなドワイトでは急な判断ができなかったのだろう。

 友人のアーサーが死亡したとき、彼に駆け寄ってしまうのがシーブックだ。極限状況下で皆が必死で余裕のないときに、ひとりシーブックはアーサーのもとに駆け寄る。「アーサーのことは忘れて!」とシーブックに咄嗟に言えるのはセシリーで、彼女がシーブックを(普段から)見守っていたようにも感じられる。 
 セシリーはシーブックのもとに駆け寄って「妹さんもいるのよ!」と言って立ち上がらせる。シーブックは涙をセシリーに見せたくないのか、後ろを向いて涙を拭く。感傷はセシリーにはなく、シーブックにある。「君を見つめて」風にいえば彼はまだ戦士に育っていない。

 シーブックたちが基本的に「避難民」だ、というのも『F91』の魅力だ。彼らは軍人ではない。このあたりは今までの『ガンダム』にはなかった設定だ。

 ガンダムに乗る動機はきわめて特徴的だ。シーブックはガンダムに無理やり乗せられそうになり抗議するが、そこに好戦的な友人サムが俺が乗ると言い出せば、アーサーのこともあって自分が乗ることを決意するのだ。「逃げ回れば死にはしない」というのがシーブックの判断だ。
 シーブックは、母艦を発見され、敵モビルスーツを撃墜する。このときは無我夢中だったと想像できる。友軍機のビルギットが危険だと思えば二機を撃墜する。その段になって、やっと自分が人を殺したことを認識するのだ。このズレがいい。

 母がつくったロボット、というのが面白い。ロボットアニメにおいてはたいてい父がつくるからだ。母の影は薄い。男の子に“力”を与えるのがロボットで、それは強い男である父から授かるものなのである。
 『F91』は違う。
 「自分の子が兵器を扱うなんて、こんなことのためにF91の開発に協力したんじゃありません」と言い切れるのは、ロボットをつくったのが母だからだ。
 「じゃあなんですか奥さん、お子さん以外の者が戦って死ぬのはかまわないと仰るんですか」というメカニックチーフの台詞につながる。ここはぐっとくる。

 母がつくったロボットが動き出すのをみて、リィズが喜ぶが、搭乗者が兄のシーブックだと知ると、ぎょっとする、という芝居がよかった。
 再会した母とリィズの芝居もいい。リィズがむくれるように宙に浮くのがいいし、それを引き止める母の芝居がいい。娘の前でおろおろするしかできないモニカは母親している。

 家庭を顧みずに仕事に生きるのが母であり、家庭を守り子育てをするのが父という関係性が新鮮だった。いまどきの作品だな、と思わせるものがあった。ミスコンは女性差別的だからできない、でもミス・カントリーサイドという建前でやってしまおう、という設定(小説版を読んでいないとわかりづらいが)も、いまどきだな、と感心したところだ。シンプルなお姫様救出劇を拒んでしまったのも、いまどきな感じだが、このあたりはポリティカルコレクトネス的にアレだとしても、ロマンティックに描いてほしかった気がする。

 父は母への理解を息子に諭して息を引き取る。「ちゃんと育てた、ちゃんとな」という父の台詞どおり、シーブックもリィズも多少マザコンを拗らせているが、基本的に健やかなこどもたちといえるだろう。

 「大きくなったでしょ、リィズも僕も」とシーブックから母に声をかける。
 「ニュータイプって人類の革新、戦争なんか越えられるという説もありますよね」という場面につながる。そして和解。このあたりもぐっとくる。
 ニュータイプが「パイロット特性のある人」だけだったら、俺は『ガンダム』にハマることはなかっただろうし、SFとは違うんだ、という思いを抱くこともなかっただろう。

 『F91』は構成がいい。ここにきてニュータイプの理念をもってくるのがうまいのだ。母との和解を重ねあわせているのがいい。

 シーブックは宇宙を漂流するセシリーを探すためにレーダーを使ってくれと言うが、そこに母がくる。
 バイオ・コンピュータを使って探せるというのだ。母にバイオ・コンピュータを設定してもらうが「あとはあなたの感性次第」と言われる。
 母のつくったロボットは戦うためだけの道具ではないのだ。

 シーブックはついに“セシリーの花”をみつける。「バーニアだけじゃ無茶よ!」と言う母を背後にするシーブックは、すでに母の導きの外にいる。
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コメント

シーブックについていうなら

「嫌味の無いジュドー」という感じですね。

ある意味では優等生といってもいいくらいで万事にソツが無い。

それだけにある意味で面白みが無いのも事実なんですが。


それで特に一番肝心と思えるのが、やはりセシリーとの関係性と強弱関係。

どちらがこの作品により必要なのかといえば、やはりセシリーで、ある意味でシーブックはその相方でしかないという見方も。

Re: シーブックについていうなら

 コメント、ありがとうございます。

 俺の場合、アムロやカミーユの屈託というものにピンとこなくて、シーブックあたりがちょうどいいんですね。
 ジュドーも好きなキャラクターでした。
 ジュドーやシーブックの登場のおかげでやっと共感できる主人公に出会えたくちです。

セシリーと

どちらが先に設定されていたかも気になります。

それによって意味合いも違ってきそうなだけに。

Re: セシリーと

 コメント、ありがとうございます。

 「設定」としては、同時かな、という気がします。
 シーブックとセシリーはあざといぐらい対称的に描かれますから。

 キャラクター造型としては、富野の流儀を考えると、シーブックからかなー、と思っています。
 アムロやカミーユがそうでしたからね。

 アムロやカミーユと違うのは、シーブックは「若者論」を背負ってないんですね。
 これがウッソやロランに繋がっていくとしたら、『F91』の画期性がみえるような気がします。

 セシリーは魅力的で好きなキャラクターですが、「運命に翻弄される」という設定があるにせよ、あまりにもご都合主義的な扱いを受けていると思いました。
 「里帰り」にせよ、「もう遅いのよ」にせよ、「こうできちゃったのよ」にせよ、敵味方を往復するための劇の都合にしかみえませんでした。
 「劇の外」にはみ出したクェスとは逆に、「劇の中」のお人形さんになってしまっているきらいがあって、キャラクターが「立ってない」んですね。

 「キャラが立ってない」という点で、セシリーは「お姫様キャラ」の系譜のなかでも、失敗した部類だと思っています。
 セシリーまわりは「劇が先」で「キャラはご都合主義」、というのが俺の見かたです。セシリーの造型が先、というのはちょっとない気がします。

それまでの

主人公の造形があくまで単体であった事を考えれば、ヒロインとのカップリングは、それだけでも画期的になりそうですね。

続く『ブレンパワード』でもそんな感じですが、『キングゲイナー』ではゲインとゲイナーがカップリング的になるかと。

Re: それまでの

 コメント、ありがとうございます。

 ご指摘されて、はじめて気づきました。仰るとおりだと思います。

 『F91』はいろいろと画期になった作品で、カップリングに関しても富野が“吹っ切れた”感がありますね。
 『ブレンパワード』はカプ厨が好みそうな作品で、そういった方々にもっと観てほしいと思ってます。
 『OVERMANキングゲイナー』はバディものですよね。以前にも書きましたが、出崎統版の『キングゲイナー』というのも観たかったです。

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