ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

『機動戦士ガンダムF91』について 6/7 セシリー・フェアチャイルド

 富野作品にはお姫様キャラが出て来るのだが、メインヒロインになることは少ない。メインヒロインに“なりそこねた”セイラなどは典型だ。
 お姫様キャラの系譜だが、立場は女王というメインヒロインなら、小説版『リーンの翼』に出て来る。しかし小説である。セイラだって小説版ではメインヒロインだ。
 『聖戦士ダンバイン』のシーラ・ラパーナなど、もったいないな、とつねづね思っていた。メインヒロインじゃないんですね、ソーデスカ、というがっかり感である。
 せっかくお姫様キャラを造型できるのに、なんでメインヒロインにしないのかな、と不思議に思っていたものだ。

 セシリー・フェアチャイルドが登場したとき、「ああ、やっとか」という感慨深いものがあった。
 やっとお姫様キャラがメインヒロインになるのだな、とそれだけで『F91』はお気に入りの作品なのである。
 
 セシリーは不幸な少女である。母は出奔し、育ての父には裏切られる。しかし恵まれない家庭に育ったという印象はない。育ての父シオはダメな男なのだが、彼なりに家庭をやってみせていたのかな、と想像できる。
 出奔した妻ナディアの肖像画を飾っている男だ。彼女を愛していたことも事実なのだろう。セシリーのベットにぬいぐるみが映る。セシリーを可愛がっていたことも事実なのだろう。しかしロナ家に敵対できるほどの男ではなかった。大きな報酬に目がくらむような男だった。
 「せざるをえなかったのですよ、せざるを」と娘に言い「私が告げ口をしたのではない、見つけられてしまったのだということはわかってくれ」と妻に言う。事実なのかもしれないが、言い訳がましいのも確かだ。この男はその程度であるという演出がなされている。

 実父カロッゾ・ロナは鉄仮面と呼ばれるように仮面をつけた男だ。再会したとき、カロッゾの仮面をみて、セシリーがさっと部屋から退出しようとする芝居が好きだ。問答無用、お話にならないと言いたげな侮蔑のこもった素早い動きだった。
 富野作品はマスクをつけたキャラクターがときとして登場するが、ここまでマスクが嫌悪を集めた例は珍しい。特に身内の女性たち(ナディア、セシリー)から絶大な嫌悪を向けられている。
 「仮面をお取りください」「あなたはそれを素顔で言う勇気がなかったでしょう?」という娘と前妻に詰め寄られても、「人類はかほどの情念を抑さなければ地球がもたいなときがきているのだ」と取り付く暇もない。
 鉄仮面は脆弱な自分を強化したこと、コスモ・バビロニアが完成したあかつきには、わがロナ家千年の夢、と「強化した自分の話」「ロナ家の野望を実現することに協力する話」しかしない。人の話をまったく聞いていない。
 「その性格が受け入れられなくて母は別れざるをえなかったとなぜお認めになられないのですか」とセシリーに詰め寄られてもそれは変わらない。

 鉄仮面が心酔し、コスモ貴族主義を提唱するマイッツァー・ロナもまた人の話を聞かない男だ。
 お爺様と慕うセシリーに「寒くはないか」と気遣いをみせるマイッツァーなのだが、父について相談を持ちかけようとするセシリーに気づかず、自身の信念について語り始める。
 その信念の前では、孫の前でその母を外道と口にしてしまう男である。「私はその母の娘です」というセシリーの台詞が風に揺れる花を映す場面に消えるのが印象的だ。

 コスモ貴族主義はヒロイックだ。民主主義政府の腐敗、堕落を見せられていただけに余計に目立つ。“家”の紋章を表すビームフラッグなどはヒロイズムの真骨頂といっていい。
 
 『F91』の魅力のひとつは敵がカッコいいということだ。主人公サイドが雑多な抵抗派の集まりにすぎないということと対比的だ。

 カッコいいといっても勧善懲悪の悪の集まりにすぎない。これを悪の集団とみなすには工夫が施されている。
 大河原邦男のメカニックデザインだ。
 ゴーグルにガスマスクをつけた“胡散臭い”印象のモビルスーツが敵モビルスーツだ、というのは「直感的」にわかりやすい。
 俺が苦手なメカまわりも、大河原邦男のメカニックデザインのおかげで、敵味方をはっきり識別できた。『F91』が好きな理由のひとつだ。

 セシリーはベラ・ロナとして幼少期を過ごし、セシリー・フェアチャイルドとしてその後を経験している。
 彼女のアイデンティティはどこにあるのかという点が本作の見どころのひとつだ。

 ドレル・ロナが迎えにきたとき、「母を捜すための里帰り」という理由で、負傷したシーブックをおいて、あっさりとコスモ・バビロニア側についていってしまう。
 好意的にとらえれば、思わぬ事態の急転換に頭がついていかず、判断力が鈍っていたかもしれない、といえるだろう。
 その後、セシリーが自殺をはかったことが明かされ、一時的な判断力の低下でコスモ・バビロニア側についてしまったことを後悔していたらしいことをうかがわせる。
 シーブックが負傷したタンクのコックピットに血の跡を発見して「シーブック、私、どうしたらいいの」と嘆く彼女はセシリー・フェアチャイルドだと言えるだろう。

 「一人では生きられないし、覚悟もつかないし」と言ってセシリーが髪を切っている最中にシーブックが迎えにくる。シーブックが生きていたことを喜ぶとともに「もう遅いのよ」といって追い返す。暴漢に襲われたということにして事態を糊塗しようとする彼女はベラ・ロナを演じざるをえない立場に追いやられる。髪を切ってしまった彼女はあまり美人にみえないのは不思議だ。セシリーは美人キャラだがベラ・ロナは違うという意図的なものなのだろうか。髪をのばしたセシリーの方が好きだ。

 シーブックを生きたまま捕らえたい、という指示は、彼への未練でもあったろう。ベラ・ロナをやってしまうことを決意しつつも、シーブックを思う気持ちはセシリー・フェアチャイルドのそれだ。
 森口博子の名曲『ETERNAL WIND~ほほえみは光る風の中~』に引きずられた見かたかもしれないが、シーブックとセシリーの関係は、どちらかといえばセシリーの方に淡い想いがあるように感じられる。

 シーブックと行き違いになったセシリーは、ザビーネになびく素振りをみせたようにみえる。頼れるオスを求めるメスとして当然の心の動きだと思う。

 アンナ・マリー撃破後、セシリーはザビーネを後衛にさげさせる。そのときのセシリーの表情が侮蔑をふくんでいたようにみえる。女関係のしがらみではないかと直感したのかもしれない。

 セシリーはシーブックとそうとは知らず戦うことになる。シーブック機がセシリー機にとどめを刺す構図が、ザビーネとアンナ・マリーのそれと一緒というのは心憎い演出だ。

 「その息遣い、シーブック、シーブックよね」とセシリーが感知する場面はセンシュアルだ。セシリーはシーブックの息遣いを(普段から)意識していたのかな、という想像ができるからだ。だとしたら官能的な場面たりうる。

 セシリーはスペース・アークで友人たちに迎えられる。みな優しい言葉をかけてくれる。セシリーはしかしシーブックの胸を借りることを選ぶ。どんな不幸があっても決して涙をみせなかったセシリーがシーブックの胸のなかで嗚咽を漏らす。こめられた涙の意味は彼女の「不幸な物語」のぶんだけ混然として大きなものだろう。
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コメント

富野作品となれば

自分としてまず連想するのが「ヒロイン機能の分散」なんですよね。

つまり登場するヒロインたちが複数いるが、その優劣が明確でないという点。

(ビューティとレイカ、フラウとセイラなんか典型。)

その中でいえばまさにセシリーは本格的な絶対的メインヒロインとして画期的でしたね。

これは続く『ブレンパワード』のヒメにも継承されるポイントですが。

Re: 富野作品となれば

 コメント、ありがとうございます。

 >その中でいえばまさにセシリーは本格的な絶対的メインヒロインとして画期的でしたね。

 ああ、なるほど。指摘されてみればその通りですね。
 「絶対的ヒロイン」といえば『V』のシャクティもそうでしたね。カテジナをヒロインのひとりとみなさなければですが。

 『ブレンパワード』の比瑪は「絶対的ヒロイン」かつ「正しさの基準」を体現していましたね。
 これが『∀』のディアナで「完成」すると考えると、やはり『F91』の画期性が浮かび上がります。

特に

セシリーや比瑪の場合においては、ある意味では「ヒロイン」というより「主役」的なんですよね。

更に『ブレン』の場合は、むしろ勇が従来で言うなら、むしろ「ヒロイン」の役割をやってる感じも。

『F91』とはちょうど真逆の構図とでもいうか。


その意味でもセシリーを演じた冬馬さんが『ブレン』では男性のナッキィをやってるのも興味深いですが。

Re: 特に

 コメント、ありがとうございます。

 『F91』はセシリーの物語が重すぎるんですね。
 重くても、颯爽とヒーローが登場して救済するのであれば、重いぶんだけカタルシスもあるんでしょうが、シンプルなお姫様救出劇を描かないので、どうしても作品全体のバランスが悪くなってしまう。
 そういう意味では、セシリーが主役的にみえてしまうのもわからなくもないですね。

 比瑪は女性キャラクターだから許されましたが、(ことに終盤)一本調子なヒーローになってしまいましたね。

むしろセシリーが主人公であるべきでは

前略 shiwasu5様、今回は「アイドルの物語」とともに論じてみました。たぶんミンメイと「逆シャア」から得た発想でしょうが、下記に引用した貴方の指摘のように「偶像と実像のはざま」というアイドル話を「取り出す」ことに「F91」は失敗したと考えられ。草々

 俺の感ずるところでは、富野由悠季は企画(原作)と演出(絵コンテ)に才能を発揮する作家だ。
 企画(原作)から、「画」や「物語」を取り出すことを得意としていない。

Re: むしろセシリーが主人公であるべきでは

 コメント、ありがとうございます。貴blogのコメント欄にも返信を書いておきました。

 「ヒロインの定義」もあると思うんですよね。
 ヒロインを「主人公の相手役」としてみるか、「もうひとりの主人公」としてみるか、おそらくそこに『F91』観の違いが出て来るのかもしれませんね。俺のみるところ『F91』は後者を狙っているような気がするんです。
 シーブックとセシリーはあざといくらい対称的で、「ふたりの若者」を描いた物語としてみるのが、俺の立場ですね。

 ただセシリーがパイロットとしてではなく、アイドルとして描かれたなら、それはそれで魅力的な物語になったかもしれませんね。
 虚像(ベラ)と実像(セシリー)の間の葛藤を描くのも面白そうですし、なにより敵の女王をかっさらうヒーローというのもカッコよさそうです。

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