ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

『機動戦士Vガンダム』について 4/5 手紙

 『機動戦士Vガンダム』を否定的に語るのは心苦しい。俺が尊敬する富野語りの天才・鬼才が『V』世代だというのだ。
 「な、なんじゃとてー」という驚きは隠せないが、『V』をして富野ファンの増加に繋がった、富野ファンの世代継承になった、というのなら、富野のヤケクソ気味の奮闘も無駄ではなかったということだろう。これほど嬉しいことはない。

 「初代が好きな俺が『機動戦士Ζガンダム』を嫌う」という表明にはためらいはない。むしろ歴史の証言として書き残しておくことに意味がある。その後のガンダムファンの間でおきる世代交換劇の典型例だからだ。『Ζ』は決して優れた作品だとは思わないが──それを言ったら初代だってそうだ──独特の魅力があることは確かだ。ラディカルな企画を未熟な若いスタッフに任せたのが原因なのかもしれないが、混沌、迷走などが逆に魅力になっていた。安易とでもいうべき悲劇の連続は主人公カミーユの精神を蝕み、あの衝撃的なラストにつながる。

 『機動戦士Vガンダム』にも似たようなところがある。作品の出来は決してよくはないのだが、それゆえにある種の魅力を獲得したことは間違いだろう。

 それは“痛み”なのだと思う。
 『V』放映当時すでに大人だった俺には安易なセンセーショナリズムによる“どきつい”描写にしかみえなかった数々の場面は、当時こどもだった視聴者にとってリアルだったのかもしれない。

 『V』のリアルタイム世代とはロストジェネレーションであろう。バブルの余韻を味わえた団塊ジュニア以上に未来への展望をもたないのが特徴かもしれない。俺からみれば、そこにあるのはペシミズムだ。ネトウヨすらもっていた(安い)プライドもない。すがるものがない。徹底的なペシミズムをそこにみる。

 その彼らに確かに届いた手紙が『V』だったのかもしれない、と俺からはみえる。
 “痛み”だけが、ペシミズムの底に沈んだ少年少女たちにとって「やっと届いた他者からの手紙」だったのではないだろうか。

 そういう意味では、送り手と受け手に大きなズレがあるのが『V』だといえる。
 「作品論」と「受容論」に大きな落差があるのだ。

 富野由悠季自身ですら、そのあたりは理解できていないと思える。『V』を否定する富野は明らかに「作品論」として語っている。

 確か高橋良輔が指摘していたことだが、『V』が成功していれば『新世紀エヴァンゲリオン』の出番はなかったとまで言っていたはずだ。ちょっと言い過ぎな気もするが、“痛み”だけが届けられる何か、という点でも、両作品には似た匂いを感じる。「作品」として成立しなかったことは残念だ。
 とはいえ『V』が「作品」として成立したとしたら“痛み”のようなものは生まれなかったかもしれない。富野の迷走、悪意、手練手管の頽廃などが、あのフィルムを生んだだろうからだ。(“スッキリ”した小説版を読めばよくわかる)

 『V』世代が、これだけの優れた富野語りをしてくれるような人々になっているのだとしたら、「受容論」としては成功したといっていいだろう。
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コメント

エヴァとV

この二つはよく対比されますよね。

最後の総集編なんかはまさにそれですが。

あと自分的に重要と思えるのが微妙な年令設定。

ウッソは明らかに性徴以前であるが、シンジはいくらかそこに差し掛かっているというところでしょうか。

Re: エヴァとV

 コメント、ありがとうございます。

 仰る通りだと思います。

 『新世紀エヴァンゲリオン』に比して『機動戦士Vガンダム』は知る人ぞ知るという感じですが、両者を知っている人間からすると、『エヴァ』は『V』と比較したくなりますよね。

 庵野監督自身が『V』のファンということが関係しているのかもしれませんね。
 一時期のアニメで観られたのは『美少女戦士セーラームーン』と『V』だけだったと仰っていましたから。
 たしか対談で、いまの子供たちはリアルな痛みを知らないので『V』をつくった旨の発言を富野がしていて、庵野が首肯していたことを覚えています。
 そういう意味でも、かなり影響を受けているのでしょう。

 ウッソは序盤の思春期キャラから子供キャラに変更されるんですね。作品が「救いのならないもの」になることを防いだぎりぎりの妙案だったと思います。ただそこでも割りを食ったのはカテジナでした。性愛の匂いがなくなった関係性のなかに放り込まれたカテジナはキャラとして居場所を失うわけですね。だから安易にラスボス化もできたんでしょうが。

 シンジが「14歳」のキャラとして徹底されたのは本当に素晴らしいと思います。作中、女性キャラは「アニメっぽい」のに、シンジだけは「14歳」なんですね。『エヴァ』がヒットするわけです。

 ジョークですが、ウッソ(嘘)とシンジ(真実)という名前の違いも面白いですね。言霊的に。

小説版において

「空回り」を演じたのは、むしろファラでしたね。

とにかく卑語などの性的挑発を行う彼女ですが、性徴前のウッソには意味が通らないというところで。

Re: 小説版において

 コメント、ありがとうございます。

 小説、よく覚えていないんですね。
 富野が小説家としてもベテランの技量をもっていると感心したくらいでしょうか。
 とにかく“スッキリ”としていて、それが逆に原作アニメより“迫力”は感じなかったという感想だけは覚えています。

 ただ『V』を観るのに、小説版は欠かせない、と感じたことも確かで、いま手元になくて読み返せないのはつらいですね。
 俺が重要だと思ったのは、敵側の裏事情が描かれているところです。

 Wikiを読むと、ファラの存在感が増しているのもミソらしいですね。

小説版では

ルぺ・シノもいないので、彼女の役割も兼ねている感じがありますね。

小説版のファラについては、どことなく「子供を産めない女」といった感じもあります。

とにかくこちらではカテジナの存在も小さいので、彼女の役割がその分増している感じがあります。

Re: 小説版では

 コメント、ありがとうございます。

 Wikiを読むと、ファラはヒロインの役割をそうとう食っているみたいですね。
 小説版、読み返すことができないので非常にもどかしいです。

Zの場合

あの試行錯誤の「苦しみ」こそが本題であり本質だとも思えるんですよね。

たとえばそれは初代のロマンティズムの再現を求める、当時のファンとの激しい葛藤も含めてですが。

そしてそれはまた「少年」から「大人」への狭間に立つカミーユ個人の「苦しみ」でもある。

(いわば「感情」としては理解できないが、「理屈」としてはどこかで納得している部分があるとか。)

だからこそそうした要素が極力省かれた新訳は受け付けにくいんですよね。

Re: Zの場合

 コメント、ありがとうございます。

 仰る通りだと思います。

 俺も新訳はいまひとつですね。

 初代好きとしては、劇場版が面白かったので、たいへん満足したんですね。井上大輔と組んだシーンなど含めてカッコいい映画に仕上がっていた。

 それに較べ『Ζ』ファンはほんとうに気の毒だなと思っています。テレビ版長すぎて観るの面倒くさい→じゃあ映画版を観ればいいじゃん、とはいきませんからね。
 新訳で『Ζ』の魅力を伝えるのはほぼ無理ですよ。

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