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ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

<侵犯>の物語

 映画についてわからないと書いたが、同じように少女マンガについてもわからない。できることは誤解することだけだ。
 だがその誤解のなかで、俺なりに消化したものがあり、富野由悠季とも多少関わるので書いてみようと思う。

 俺にとって『新世紀エヴァンゲリオン』は、<侵犯>の物語であった。
 <侵犯>することも、されることも恐れる男の子が、どうしたら大人になれるか、という難問を巡る話だ。
 “される”ことを恐れても“する”ことを恐れないヒロインに対して、“する”ことを決意するところがラストシーンだ、というのが俺の解釈だ。
 主人公が子供であるためにヒロインに対して男として<侵犯>することなど思いもよらなかった『機動戦士Vガンダム』の、ありえたかもしれないハッピーエンド(?)でもある。
 この変奏曲が『涼宮ハルヒの憂鬱』のラストシーンだろう。この作品も<侵犯>することを決意する男の子の話だ。

 とはいえ、『エヴァ』と『ハルヒ』には欠落しているものがある。
 ヒロインの美少女に<侵犯>されるのは気持ちいい、というのは奇蹟かもしれない、あるいは嘘くさい、ということだ。
 その点において、『V』はきちんと描く。ヒロインであるカテジナの、主人公への<侵犯>は、彼の擬似的な「母たち」を殺害することだからである。それは“痛み”だ。

 少女愛は人形愛に通じている、と書いたのは渋澤龍彦だったろうか。
 少女愛とは<侵犯>することもされることもない関係のない関係性のことなのだろう。

 『少女革命ウテナ』は、第一話と劇場版の序盤を観ただけなのだが(いづれちゃんと観ます)、そこで俺が直感したのは、これは穴なし乙女の物語なのかな、ということだ。『装甲騎兵ボトムズ』がパーフェクトソルジャーの物語なら、これはパーフェクトヴァージンの物語なのかな、と予感した。
 『エヴァ』が<侵犯>の物語であったように、『ウテナ』はもしかしたら反<侵犯>の物語を目指したのかもしれない。

 90年代は女ヒーローの時代だった。80年代の紡木たくと90年代の矢沢あいの違いは、矢沢あいの作品では主人公はイケてる集団のイケてる女ヒーローに自らなるわけだ。(ハチがロマンスコードに回収されたときナナがそこからお前を助け出してやるというセリフがあったがあそこは痺れた。『NANA』は出崎統に料理して欲しかったなー)
 子供が大人の力を手に入れる魔法少女ものとは一線を画しているのが『美少女戦士セーラームーン』であったろう。これもイケてる女子高生がヒーローをやるという話だ。
 この女性作家たちの描く女ヒーローものの流れのなかに、少女愛の男性作家による反<侵犯>の物語が接続されているとしたら、そのネジレはとても興味深い。

 この女ヒーローの時代を象徴する作品は(例によって未読なんだが……いづれちゃんと読みます)『BASARA』かもしれないのだが、この作品で女性がヒーローをやっているのを読んで、「驚いた」「時代がかわった」と証言したのが竹宮恵子だ。
 24年組という少女マンガ家たちは少年愛と呼ばれるジャンルの作品も描いた。彼女たちがなぜ少年愛を描かなければならなかったといえば、<侵犯>の物語を描くためではないかと想像している。
 主人公が女性ではダメだったのだ。なぜか。主人公が女性であれば、女性向けロマンスのコードに“回収”されてしまうからだ。<侵犯>の物語は、<愛>の物語でもありうるからだ。
 彼女たちが扱ったのはだから男性同性愛ではない。男性であることではなく、非女性であることが肝要だったのだろう。

 しかし女ヒーローが描かれる90年代に、この方面で180度の転換が行われる。ボーイズラブ(以下BL)と呼ばれる娯楽分野が台頭する。
 24年組の少年愛が“女性向けロマンスを回避する”ための装置であるのに対し、80年代のやおいには回避する意志は弱い。しかしそこにはあきらかに<侵犯>の“痛み”への目線がある。
 ところが女ヒーローが台頭する90年代に、同時並行的に登場するBLは、もはや“痛み”は存在しない。(俺の知る狭い範囲の話でごめん)
 女性向けロマンスのコードを回避するために男性同性愛という装置を利用しているのではない。BLにいたって逆になるわけだ。
 女性向けロマンスのコードを楽しむための装置として男性同性愛が描かれる。女性向けロマンスのコードを、「より安全に」「より非現実的に」楽しむために、男性同性愛という装置を利用しているのだ。
 一時期の乙女チックと呼ばれる少女マンガよりさらに徹底して甘美な世界がBLだ。女性向けロマンスのコードにおける「ハッピーエンド前のすれ違い」すら“痛み”ではなくて「性的玩弄」として(エロ的に楽しく)「甘美」に描くわけだ。恋愛は描かない。愛だけが描かれる。かつての乙女チックにわずかに残っていたビターな要素すらエロ的な楽しさに置換してより甘美さに徹底している。

 このことを鑑みれば、ある種の男性向けの作品が、女性登場人物オンリーになるのは、同じ理由があるのではないかと類推できる。
 つまり女性であることが肝要なのではなくて、非男性であることが肝要なのではないか。
 <侵犯>する可能性のある男性ではない、ということ。そして男性が作品内に登場しないことによって、ヒロインたちが<侵犯>される可能性もない、ということ。
 それがこの種の作品にとって肝要なのではないか、と想像する。

 俺の見立てによれば、女性(の一部)たちは、<侵犯>の物語から“痛み”だけを除去する方法論を編み出し、愛の物語を楽しんでいる。エロい。
 一方で、男性(の一部)たちは、<侵犯>の可能性を除去する方法論を編み出し、物語ならざる物語を楽しんでいる。エロくない。(二次創作の話は置いておくとして)

 俺はエロいおじさんなんで、BLの方が「まだ」理解できるんだが、<侵犯>の物語というのは、それほどキツい、と感じる人達が一部でいるのだろうな、と想像する。
 優しすぎる人たちなんでしょうね。

 『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』は、映画としての眼目は、美少女クェス・パラヤだった。
 クェスをうまく撮れれば成功し、撮れなければ失敗する、そういう類の映画だった。
 そして結果は失敗だったように俺は思う。

 理由は明白だ。富野由悠季は、少女愛とは無縁の男だからである。
 おま×この匂いのない女なんて欲情しないよ、という男だ。
 しかしこれが間違っていたのではないか。

 少女愛とは人形愛なのだ。おま×この匂いなんかしない、というか、つまり穴なしが理想なのではないだろうか。
 <侵犯>できないし、されない、という関係なき関係性である。

 それはニュータイプの夢とは真逆の、ピグマリオンの楽園である。

●追記 2018/03/11

 ちょっと女性読者、というか一部読者にとって、「なにそれ」という話になってしまったと思いますが、「穴なし乙女」というのは小松左京の短編『藪の花』に着想を得たものです。ググると東浩紀が“アイドル語る上で必読の寓話”と指摘しているようですね。



 コメント欄まで読んでくださっている方には、Shiwasu5はどんだけ某アイドルグループが嫌いなんだよ、と思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、少女たちは「(男性)社会における被害者」だと思っているので、グループそれ自体には底意はないんです。本郷和人という俺が尊敬する歴史家までハマっているのをみて、「おいいい!」となっているだけで(笑)。

 少女たち本人が好きでやっているからいいじゃん、というご意見もあるでしょうが、これは「AV女優問題」とも関連したもので、俺にはちょっと手に余りますね。
 俺はフェミニズムから距離を置いている人間ですが、男性社会の価値観の「内面化」の問題もありますからね、難しいんですよ。

 日本人が「大人」になれば、「アイドル文化」(ついでに女子アナ文化)も変容するのではないか、と思うんですが、どうなんでしょうかね。

 大人の女性のメイクが似たり寄ったりで、少女の方がヴァリエーションがあるんですね。
 社会人の男性の画一性も同じなんで、女性のことばかりはいえませんが。

 このあたりに、日本には大人の女性に釣り合う「大人の男」が少ない、という現状があるのかもしれません。

 まあ俺も男だし彼女にもフラれるしで、ぜんぜんダメダメなんですけどね。



●追記 2018/6/18

 うーん。自分の文章を読みかえしてみたのですが、コメントや2018/03/11の追記、ちょっと極端だったかな、と反省しています。

 子役のこと、高校球児のことなど、念頭になく、とにかくアイドルに萌える「大人」に嫌悪感があるだけだな、と考え直しました。
 それもこれも、本郷和人が悪い(笑)。きめーんだよ、とショックを受けてしまったのですね。

 とはいえ、ひとの性癖や趣味を、思想や文化に還元してしまうのは、自由主義者(“都市型ふわふわリベラル”でしかないんですが)を自任する俺としては、まったく度し難い過ちだったと反省しています。

 ひと様の内面に踏み込んで批判するというのは最悪でした。反省しています。

 あと女性のメイクがどうこうというのは私怨もあったかもしれません(笑)。振られた恨みがあるのだ(笑)。

 「稚児趣味の伝統」というのを尊重した方がいいんでしょうね。
 女系天皇派は、ジョケイテンノウという天皇が歴史上存在しない以上、実質「皇統断絶派」だと考えるくらいには、前近代の日本を尊重する俺ですから、「稚児趣味の伝統」ぐらい認めないでどうする、と思い直しました。

 告白すると、俺自身バイの気があるので、余計に反撥したのかもしれませんね。世が世なら衆道に走ったかもしれん(笑)。

 ただ小松左京、あまり読まれてないのかな、という事実は収穫でした。寂しいですけどね。多作な方ですから俺も全部読んでいる自信はないし、(例によって)記憶している自信もないですから、「穴なし乙女」から「ははーん『藪の花』だな」と連想してもらう方が無茶だったのでしょう。
 まあベストセラーを連発した俺の好きな平井和正なんてぜんぜん読まれてないしね。そんなものなんですかね。
 日本SF第一世代の作品は「戦後文学(by荒巻義雄)」だったと思っているだけに悔しいですけどねー。

 話が逸れますが、「下からの全体主義」って、いまは「リベラル」の顔をしているらしいですね。
 「表現の自由」「言論の自由」のために権力と戦ってきた「骨太左翼」を知ってるおっさんからは、21世紀の言論空間ってちょっと想像を越えますなー。
 十字軍や魔女狩りの例、ナチスや共産主義の例もあるとおり、「正義」はひとを狂わせるものなのかもしれませんね。

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コメント

クェスの場合

「主役」としては弱いが、単なる「存在」としては強過ぎるんですね。

だからこそドラマは「アムロとシャアの決着」として単純化できない。

いわば一種の「足の引っ張り合い」なわけですが、それこそがあの作品のポイントの一つという感じで。

Re: クェスの場合

 コメント、ありがとうございます。

 なるほど。御指摘の観方の方が“正当”なのかもしれませんね。

> 「主役」としては弱いが、単なる「存在」としては強過ぎるんですね。

 そうなんですよね。そこがいちばん飲みにくいところなんです。

 年末に『逆襲のシャア』を見直したんですが、そこでクェスは<侵犯>することもされることも嫌う少女にみえたんです。
 でも少女愛を持たない富野ではうまく使いこなせることができなかったんじゃないかとも感じたんですね。

> だからこそドラマは「アムロとシャアの決着」として単純化できない。

 俺には“疲弊期”の富野が語るものがなくて尺が余り、そこを取って付けたような若者たちの物語で埋めた、とみえるんです。

> いわば一種の「足の引っ張り合い」なわけですが、それこそがあの作品のポイントの一つという感じで。

 たぶん俺はそのポイントがわからなくて、『逆襲のシャア』にピンと来てないんでしょうね。

ある意味では

一種の「三竦み」なんですよね。

あるいは「三方破滅損」とでもいうべきか。


ベクトルは逆かもですが、キューブリック監督の『ロリータ』にもそんな感じがありますね。

あちらのロリータはあくまで男たちから「侵犯」される立場ですが、単純な被害者といえるかとなれば、それもまたかなり微妙で。


とにかく今年は『2001年宇宙の旅』の公開五十周年としていろいろイベントがあるみたいですが。

Re: ある意味では

コメント、ありがとうございます。

 「三竦み」という観方は面白いですね。想像もしませんした。
 この場合の三極とは、アムロ・シャア・クェスという理解でいいのでしょうか?

 だとしたら、俺がクェスの造形を「中途半端」とみえたというのは、監督の意図的なものだったのかもしれませんね。

 富野監督を語るうえで欠かせないものに「35歳」というのがありますね。
 俺の場合40歳ぐらいに視界がクリアになったのですが、監督の場合「35歳」だったのかな、と思っています。

 『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』は35歳以上の大人に観てもらいたいという発言がありましたが、青春の決着をつけようとしたアムロやシャアは、ぎりぎり若者という風に描かれていたのかもしれません。
 だからこそアムロもシャアも、クェスを「持て余してしまった」という展開になったのかなー、とJINのご指摘を受けてちょっと考え込んでいるところです。

 『逆襲のシャア』は映画としての風格が凄いのは確かなのですが、劇の部分がいまひとつピンとこないので、玄人筋の方々の絶賛が理解できないんですよね。

 『ロリータ』に関しては、ナボコフの小説にどんなエロティックな要素があるのかなと興味本位で読んだら肩透かしをくらい、いわれる「ロリコン」と、真正のそれとは別物なのだな、というのが印象に残っています。
 真正のそれは、自身をふくめて誰にも「侵犯されない存在」なんだろうな、と澁澤龍彦を補助線として理解しました。
 
 俺が観た映画『ロリータ』は(モノクロではなかったので)キューブリック版ではなさそうです。

>とにかく今年は『2001年宇宙の旅』の公開五十周年としていろいろイベントがあるみたいですが。

 それは楽しみですね。『2001年宇宙の旅』はアシモフの小説を“原作”とは認めない立場(笑)なので、どんなイベントが用意されているのか期待半分不安半分です。

訂正

 俺のBlog、誤字脱字が多いと思うんですが、案外自分では気づかないもので、基本あまり気にしてないんですが──気に病んでもキリがないので──今回はさすがに気づくと同時にギャーとなりました。
 JINさんを呼び捨てにしてしまっていますね。すみません。訂正します。

>  だからこそアムロもシャアも、クェスを「持て余してしまった」という展開になったのかなー、とJINのご指摘を受けてちょっと考え込んでいるところです。

> だからこそアムロもシャアも、クェスを「持て余してしまった」という展開になったのかなー、とJINさんのご指摘を受けてちょっと考え込んでいるところです。

 あれですよ、あれ。エビリファイとロヒプノールと酒を呑んでいたのが原因ですよ。とまあ言い訳ですね。
 JINさん、失礼しました。

その意味でも

『逆襲のシャア』の「荘厳」とでも言うべき風格の強さは、背後の「音楽」の存在が大きい感じがありますね。

それこそ『2001年の宇宙の旅』と同じで、オープニング部分もどことなく似ている感じが。


あとキューブリック版『ロリータ』は全体が二時間半にも及ぶ、かなり長い物なんですよね。

ハンバートがキルティを撃つ場面からいきなり始まる展開がまずは衝撃的。

あと原作ではロリータは「第三の男」である夫との間の子を出産する際に亡くなったそうですね。

まさに「母になれず仕舞」というのも象徴的ですが。

Re: その意味でも

 コメント、ありがとうございます。

 『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』は音楽でずいぶん救われましたね。
 冒頭の場面から音楽で不穏な雰囲気を醸成することに成功していました。あれはズルいですよ(笑)。

 『ロリータ』は少女愛のケがなく、文学に精通していない俺には、いささか「???」な作品でした。

クェスは結構いい娘と仮定してみる

前略 shiwasu5さん、ならびにJINさん、前から考えてたクェスネタをやっと書きました。楽しんで読んでもらえたら幸いで。実は後編あり。草々

Re: クェスは結構いい娘と仮定してみる

 コメント、ありがとうございます。

 俺の場合、富野監督には“疲弊期”というものがある──もしかしたら俺しか主張していないかもしれませんが──という考えがあって、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』はその最後の作品であると思っています。
 “疲弊期”のわかりやすい判断基準は、この時期の富野作品は、本職のアニメより小説の方が面白いんですね。
 クェス・パラヤに関しても、小説版では、すんなり受け入れることができました。
 ですから、撮った撮らない、という表現を使いました。

 後編、楽しみにしております。

後編、完成!

前略 shiwasu5さん、ならびにJINさん、かかつてきやがれと言いたいほど自惚れる出来。私の精一杯のクェス論です。草々

Re: 後編、完成!

 コメント、ありがとうございます。

 大塩さんのクェス・パラヤ論、たいへん楽しませてもらいました。非常に面白かったです。

 以前にも大塩さんは「シャアの反乱」をかりに生き延びることができたら、クェスはアイドルになりえた、とお書きになられていましたね。アイドル論は大塩さんの思想のなかで重要なものだと拝察するので、今回のクェス・パラヤ論はたいへん興味深く読ませていただきました。

 若者三人が「役割」から自由な存在、というご指摘は、ハッとさせられるものがありました。なるほど、たしかにあの三人は個人的動機を隠さないんですよね。

 若者三人のなかでクェスが決定的に違うのは、アムロとシャア両方に好意を寄せている点で、「ララァの役割」を持っているんですね。ただクェスはララァと違って「愛する側」に立つのではなく「愛される側」に立とうとする。あっさり無邪気に「鞍替え」するあたりもララァと違うところです。

 俺にはクェスは「娼婦で聖母だったララァ」の対照的な存在にみえます。“侵犯”されることも“侵犯”することも厭わないララァと違って、「乙女で小娘のクェス」は“侵犯”されることを嫌い、“侵犯”することの畏れを知らない少女にみえました。

 『機動戦士Ζガンダム』を経由した『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』は、本来なら二人の男の間に立って「不毛な戦いをやめろ」と言えるのはカミーユ・ビダンでした。しかしそれだとカミーユが主人公になってしまうので(笑)、彼の登場はありえなかったのでしょう。

 俺の「クェス論」でいえば、サブプロットの主人公であり、それゆえにメインとサブをつなぐ役割を与えられている、にも関わらず、それを遂行しようとも思わない、という富野監督の「当時の若者論」(←これは大塩さんにお教えもらったんですね)を背負ったキャラクターでした。彼女はララァにもカミーユにもなれなかったがゆえに、『逆襲のシャア』を成立させることに成功した功労者であったと思っています。

 映画版のクェスはバイプレーヤーというのには存在感がありすぎるんですが、俺はそれを富野監督の意図だとは思っていないんですね。川村万梨阿の名演もあったし、まっつねさんが指摘するように富野監督の「俺出崎」の挑戦でもあったのでしょう。

 “疲弊期”の富野監督らしく全般的に手癖でつくっている感がある『逆襲のシャア』のなかで、「俺出崎」であるクェスがひときわ存在感をもっているのは自然なことであると思っています。

 <侵犯>とは無縁の、少女愛のヒロインを描くのは、富野監督には無理らしい、というのは本文に書いたとおりです。

私がアイドル論を展開するのは

前略 shiwasu5さん 展開するのは、アイドルを大人の象徴と思っているからで。ザ・スターリンに夢中になった頃はアイドルを馬鹿にしていました。でも徐々に大衆に支持されることは大変な仕事と思い、さらに人は他者のいいところを勝手にほめる特質に気付き、「アイドル=偶像=大人」という「公式」を思いついた次第。

 一方、侵犯問題に関してはクェスは「子供だから」と結論しています。レズンに突っかかろうとするギュネイを制止したとはいえ。

<“侵犯”されることを嫌い、“侵犯”することの畏れを知らない>

というshiwasu5さんのクェスの定義が「子供」と同じで、だから「穴なし」と理解でき。でも実際は穴があるでしょ? だから自分には穴があると自覚した後のアイドル、大人としてのクェス・パラヤの物語を観たかったという意味。草々

自分の場合

「穴」はあるんだが「(嵌めるには)まだまだ小さい」という感じでしょうか。

これは劇中でも実際に語られる「器」との対比としても面白そう。

とにかく無意識にも性的な暗喩やアプローチの強い富野作品としては穿ち過ぎとは言えないかもですが。

Re: 私がアイドル論を展開するのは

 コメント、ありがとうございます。

 アイドルというのはアイドル歌手のそれも含意していたのでしょうか。
 俺はてっきり社会的イコンになりうる人物(大塩さんの記事のなかではアインシュタインのような)を想定していたました。

 俺の場合、アイドル歌手を軽んじたことはありませんが、ファンになったことはないんですよね。
 ただ傍見したかぎりでは、アイドル歌手には無垢性が要求されるのではないか、とも思っているんですね。

 日本のアイドル歌手はティーンエージャーが多い印象があって、これは異常ではないか、という気がしています。
 日本の伝統的な稚児趣味なのかもしれませんが、芸能界の仕事=水商売と思っている俺からすると、未成熟な若者をアイドルに仕立て上げるのは、まるで奴隷制のようだなという気分を大人になってから抱くようになりました。ファン投票であれこれ決めるという某アイドルグループなど「こりゃ奴隷市だ」と思っているんですが、それに対する批判どころかファンになってしまう日本の大人たちには絶望しか抱けません。(若い子がアイドルに夢中になるのは許せます)

 大塩さんの文章から推察できる人柄からすると、そういう幼稚さから無縁だと思えるので、アイドル歌手のそれを含意してしまうのはちょっと違うのではないか、という気がします。

 大衆に支持される偶像=大人というのも、俺には難しい問題でした。その場合、ジャンヌ・ダルクなどはどういう位置づけになるのでしょうか。彼女は「精神的には」大人だった、ということでしょうか。

 もしも、精神性における大人、という理解に立てるのならば、大塩さんの仰ることも解るような気がします。

 大人の女性が好きなので、大人になったクェス・パラヤの物語がみたい、というのは共感します。

> だから自分には穴があると自覚した後のアイドル、大人としてのクェス・パラヤ

 という表現は色っぽくて好きです。

 彼女が大人になったら、どんな女性になるのでしょうね。
 ハサウェイと結ばれた彼女の姿もみたかったものです。

Re: 自分の場合

 コメント、ありがとうございます。

> 「穴」はあるんだが「(嵌めるには)まだまだ小さい」という感じでしょうか。

 思わず笑ってしまいました(笑)。すみません。
 「穴」が小さい、という表現は、言われてみれば、という感じですね。

 以前JINさんは『逆襲のシャア』のコメント欄で、

> あとクェスというキャラの重要性はとにかく「動き回っている」というところでしょうか。

> 初登場もいきなり「走っている」場面からですが、とにかくジッとしている場面が少ない。

> 父が言う「なぜクェスは部屋にいない」というのも象徴的ですが、とにかく「絶えず動かずにはいられない」というイメージ。

 と指摘してくださいましたね。

 そんな「動き回る」クェスは、ハサウェイに「縛られる」ことに軽い反感を抱くんですよね。
 18禁的な書き方になってしまいますが、富野監督のSM的嗜好からすると、クェスは「調教」される前の存在で、「縛って」「穴」を拡げる必要があるんでしょう。

 SM的嗜好といえば、悪名高いカテジナ・ルースは、俺にはドマゾにみえるんですね。エゴマゾというか。
 その俺のみかたが仮に正しいとしたら、クェスはカテジナの系譜なのかな、という気になります。
 レコア→クェス→カテジナという系譜があるのかもしれませんね。

場面場面で

やたらと服を変えているというのも、そうした「気忙しさ」の印象を高めている感じですね。

むしろそちらが普通なんでしょうが、彼女の場合は演出的な意図も感じるわけで。

個人的には宇宙に上がる時の黄色が好きでしたが。

Re: 場面場面で

 コメント、ありがとうございます。

> やたらと服を変えているというのも、そうした「気忙しさ」の印象を高めている感じですね。
>
> むしろそちらが普通なんでしょうが、彼女の場合は演出的な意図も感じるわけで。

 これも以前、ご指摘くださいましたね。

 いちいち服装の設定を起こすのが面倒くさいアニメですから、演出意図は必ずありますよね。
 アニメの文脈でいえば、服装を変える、髪型を変える、などは、「キャラの気分、キャラのシチュエーション」の変化を表しますから、観客は否が応でも「クェスから目が離せない」ことになるんですよね。
 このあたりも彼女のキャラクター性を表現するとともに、「フィルムにおける存在感」の源になっている気がします。

正にアインシュタインであり

前略 shiwasu5さん、JINさん。私が「アイドル=偶像=大人」という公式を思いついたのはアルベルト・アインシュタインが正に有名人になった事情を知ったからで。だから「アイドル≒社会人」の仮説をもとに、今回ならクェスを解釈できると思いつき。

 でも以後の論は今週忙しいため、多分木曜日にコメントか、私の方の記事にします。今の時点で謎かけをすると、以下のshiwasu5さんの認識は『太陽にほえろ!』のある形式に関する「問題」とも関わり、論議が拡散するのでした。

<アイドル歌手はティーンエージャーが多い印象>

草々

Re: 正にアインシュタインであり

コメント、ありがとうございます。

お時間のあるときに、無理をなさらずに……ということで、楽しみにしております。

ジャンヌダルクは私の定義では「アイドル」でないです

前略 shiwasu5さん、JINさん。約束通り、私のアイドル論を展開してみました。ガンダム話はなしで。草々

Re: ジャンヌダルクは私の定義では「アイドル」でないです

 コメント、ありがとうございます。貴blogにもコメントしておきました。

 大塩さんのアイドル論、たいへん興味深く、楽しく読ませてもらいました。

 アイドル歌手は「あえて」というアイロニーを引き受けている存在、という俺の理解でいいんでしょうか。
 かりにそうだとしても、俺はやはり日本の「アイドル文化」は異様だと思っています。

 貴blogのコメント欄にも書かせていただきましたが、俺の場合、「性的商品」になるのは文字通り大人になってから、と思っています。「あえて」であってもです。

 ですから俺の場合『太陽にほえろ!』との関連は見出せません。次々と殉職していく若い刑事たちは子供ではありませんし、性的商品でもありません。これは想像ですがマカロニ殉職の視聴率がよくてそれを反復しただけの陳腐な商業主義に俺には思えます。

 ジャンヌ・ダルクを例にしたのは性的に消費される存在ではなくて、かつ政治的な影響力をもった「平民」だったからです。
 政治家ではないアインシュタインが政治的な影響力をふるおうとするなら類似するのは「日本のアイドル歌手」ではなく彼女の方だろうと思ったんですね。

 某アイドルグループの若いファンになぜ好きなのかと訊いたら「がんばる姿を応援したくなる」と答えられなるほどと思いました。
 しかしそこで俺が連想したのは自助努力を至上とするネオリベの思想でした。不景気のなか「がんばる」若者を消尽するブラック企業のそれでした。

 そういう意味では「奴隷の競り市」にしかみえないという以上に、「思想」的に許せないものを感じました。
 オールドリベラルの俺にとってネオリベは「リベラルの面汚し」ですから。

 ロリコンという“業”を背負った人達は仕方がないと思いますが、大の大人が夢中になるのは、情けないなと思いますね。

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