ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

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ふたりのシャア

 ハルヒの憂鬱には二種類の版が存在している。憂鬱で完結したメタライトノベル版と、シリーズ第一作のラブコメSF版だ。
 同じことはガンダムにもいえる。初代で完結した版とシリーズ第一作版である。

 初代で完結した版において、シャアはガルマとセットのキャラクターであった。
 原作者富野による小説版ではシャアはガルマの謀殺をしない。それどころか青雲の志をもつ理想家の若者として描かれているのだ。Ζ以後のシャアはこちらの富野シャアである。
 しかし富野シャアであれば、あれほどの人気をえるキャラクターになったかどうか。シャアとガルマはどこか同性愛を匂わせる描写があり、かつガルマが大恋愛のすえ結婚しようかというその寸前の謀殺である。ザビ家への復讐というが、ガルマの謀殺以後、そのような態度は微塵もない。
 親友の謀殺という点で、初代で完結した版のシャアは、あきらかに悪人であり、その悪人がどう滅びるのかが、物語の焦点のひとつになっている。
 そのシャアが、最期の言葉はガルマへの語りかけであった、という点が初代で完結した版の素晴らしいところである。これでむざむざ生き残っていてはすべてが台無しなわけだ。

富野ガンダムでは誰と呑みたいか?

1stでサシで呑むならカイ一択。いろいろと面白そう。
彼女連れで呑むのならアムロとセイラ。プライベートのふたりと語り合いたい。

Ζでサシならカミーユ。愚痴をきいてやりたい。
ΖΖならジュドーはじめシャングリラの悪ガキたちと。酔った勢いで盗んだプチモビで走り出したい。

逆シャアでサシならシャアと。説教したいw。

F91ならアズマと。案外ためになる話をいろいろ知ってそうで。

Vなら成長したウッソと。説教されたい。

∀ならロランと。愚痴をきいてもらいたい。

さて新作富野ガンダム、どんなキャラが出てくるのか、今から楽しみです。

『オリジン』アニメ化について

 以前にも書いたと思うが、安彦良和はこどもから若者までの主人公の主観視点で描いた作品ならじゅうぶんに普遍的な面白さをもっていると考えている。しかしそれ以外を描くとなるととたんに破綻する。
 その破綻もまた味なのだが、あれだけ魅力的な絵が描けるのに、それほど売れるマンガ家になれなかったのは、そこに理由があるのだろうと思っている。
 安彦良和の世界観は、TV時代劇のそれだ。悪代官と可哀想な大衆でできた世界観である。そのなかでヒーロー未満の青年が奮闘するという話が多いように思う。重いテーマを扱うこともあるのだが、世界観の単純さが読みやすさにもなっている。
 TVや映画の『ガンダム』は原作者富野やメインライター星山たちによって文芸性が吹きこまれていたが、安彦版では見事に文芸性が消えてしまっているのは同じ構造的問題である。表層は『七人の侍』をなぞうろうとも、内容が『水戸黄門』の世界観では、破綻するわけだ。
 文芸アニメ映画の傑作『カラフル』を企画した内田健二社長であれば、そのあたりのことは理解しているはずだ。それでもやるというのなら、なにがしかの理由があるのだろう。

 『Ζ』をつくる、ときいたとき感じたのは、ガンダム的なものが敗北した、ということだ。
 『オリジン』をつくる、というのは、ガンダム的なものにとって、二度目の敗北である。

 『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』の続編映画がつくられる、ときいたときの悲哀が蘇る。
 どれほどヒットしても、しょせんアニメは内容で評価されないのか、という悲哀だ。綺麗に終わった物語の映画の続編製作は商業主義以外のなにものでもないからだ。

 だから俺にとりガンダムは特別だったのだし、『Ζ』製作は、ガンダム的なものの敗北だった。
 その後の撤退戦、抵抗戦は、ご存知のとおりだ。非富野ガンダムも、商業主義オンリーに堕落することはなかったのではないだろうか。「ガンダム沢山出して」「あと美少年も沢山」「あと美少女沢山」「あとおっぱい」とエスカレートする商業主義の要請のなか、それでもガンダムという抵抗する意思だけは持っていたのではないだろうか。

 「ガンダムエース」という雑誌を初めてみたとき「ガンダムファンオンリー雑誌って(笑)」と正直にいうと引いた。作品性や作家性に偏ってみてしまう俺のような人間には、退嬰というかあまりにも内向きな気がしたのだ。ガンダム的なものとは対極にあるように見えた。とはいえそれで仕事が増えていろいろな人が食えるのならそれはそれでありデスヨネとも思っている。
 しかし、作品性と商品性のせめぎ合いから生まれる新しい何かというガンダム的な力場ではなかっただろう。そこでは、新しい安彦解釈ガンダムがあいかわらず美しい描画によって生み出され、新旧超えたガンダムファンたちの賛辞のなかでゆっくりと退場していくのだろうと思っていた。

 だからまさかこの歳で、「しょせんアニメは内容で評価されないのか」という悲哀を味わされるとは思わなかった。しかも初代『ガンダム』に対して、しかも相手は安彦良和という顔ぶれである。

 初代『ガンダム』には、「こどものおやつ」をつくれ、といわれて、出てきたものが、こどもから大学生くらいまで楽しめる「なんか変な料理」になっていた、というミラクルがあった。
 しかし『オリジン』は、最初から最後まで「ガンダムファンのおやつ」だった。あらかじめ存在しているファンに向けて、あらかじめ期待されているものを与えただけの話である。

 しかしこの企画、商業主義のむちゃぶりと戦う、という非富野ガンダムでもおそらく展開されていた葛藤がない可能性があり、いよいよガンダム的なものが失伝(笑)されていく時期なのかもしれない。

ガンダムのブレイク、あるいは富野と大衆との窓口

[∀][ガンダム]なぜガンダムは売れ、∀ガンダムは売れなかったか?
http://d.hatena.ne.jp/nuryouguda/20100130/1264822398

 うん、グダさんのご指摘のとおりだと思うな。富野は「芝居」をね、なによりも優先する人なんじゃないかな。それが長所でもあり、短所になることもある。
 歌舞伎的に見得を切るだけの芝居があってもいいよねー。芝居だけ「近代」なんだよね。長浜忠夫の引出が何のためにあるのかと思うよね。そのためじゃないか。
 初代ガンダム一話があれだけコンパクトにまとまったのは、富野演出が、高畑系と長浜系(と出崎系)のハイブリットだからじゃんねー、とか思います。
 物語作家としてはわりと平気で前近代なのに、芝居は近代でいこうとするんだよねー。とはいえ、ターンエーはそのあたりはかなり抑制している気もするけどね。

 ターンエーはさ、尊敬する富野語りの諸先輩方々もご指摘しているとおり、ガンダムじゃなくて、イデオンの文脈でとらえた方がいいんだろうね。
 ターンエーは、イデオンの裏、というか、対になる作品ってことじゃないかなー。
 富野の世間レベルの代表作はガンダムになるのだろうけど、作家論レベルでいえば、イデオンとターンエーの対が代表作なんだろうなー、と『F91』派の俺でも思いますわ。

 ターンエーという参照項のおかげで、イデオンのラストの解釈にも、いくつか筋道がついた気がしますね。
 富野ワールドの全裸幽霊は、あれは死の称賛じゃなくて、生命の本質の可視化なんだな、とかね、ターンエーのおかげで「わかる」部分もあるから。

 そうそう、初代ガンダムのブレイクは「再放送」という形態の功績が大きかったかな、ということかと思われます。

 初代ガンダムは富野アニメのなかでは抜群にカタルシス多めの作品だけど、それでも、毎回毎回スカッとするようなつくりの作品ではない。いまいちスカッとしないアニメを週イチで観せられても、ついてきてくれるお客は限られている。
 これが毎日観られる、となると、一話一話のカタルシスが少な目でも、あるいは少な目だからこそテンションが持続して、ついつい追って観ることになる。

 テレビでの再放送だから、観るともなしに観る、学校で話題にしやすい、人にすすめやすい、なども利点がある。
 富野が目指す普遍性ということでいえば、観るともなしに観る、というかたちで、衆目に触れる機会があるのは、非常に重要ではないかなー。

 富野の作家的資質は、じつは大衆的ではないのだけど、普遍を目指す姿勢のなかで制作された作品は、あきらかに大衆の方を向いている。
 しかし、その大衆との接点は、驚くほど小さかった。

 テレビでの再放送という「窓口」は、富野アニメのなかではファーストガンダムだけがえられた僥倖だったのかもしれない。
 ターンエーも、再放送を夕方とかにしてくれれば、アニメファンならぬ大衆が、観るともなしに観る、というかたちで触れてくれたかもしれない。そうすれば、いまよりはもっと人気が出たかもしれないなーと思います。

劇場版ファーストガンダムだって「新訳」だった

 イセリナの泣き声が色っぽい、ということも、今回“いまさら”気づいたことのひとつだ。
 大人の女の色香のようなものは、マチルダにもハモンにも感じてはいたが、イセリナの泣き声の色っぽさはそれとは違って、かなり生々しいものを感じた。子供だったころには感じなかったことだ。そうか、こんなに色っぽかったのか。

 イセリナの声優をチェックしたら、のちにララァにも採用される潘恵子。「なるほど、そういうことか」と、かなりわかってきた。ララァにはイセリナの色っぽさを期待されたのだろう。生々しい性的な何かを。

 TV版から劇場版になるうえで、カットされたものが多数ある。
 そのなかで、アムロがイセリナに「ガルマ様の仇」といって銃を向けられる場面がある。
 アムロが戦争とは人を殺し人生を破壊する行為でもあると自覚することになる大事な場面ではなくって?的な感じで、セイラ役の井上瑶が座談会で富野監督に疑問を呈したこともある。俺もそれはそうだよな、と当時は思ったものだ。「アムロの物語」にとって欠けてはいけないピースではないのか。

 しかし、いまは、なぜカットしなければならなかったのか、俺なりに理解できるようになった。

 TV版はエピソードごとに完結していく連作形式であり大河ストーリーではなかったからだ。
 TV版には「アムロの物語」というものは、ちゃんとしたかたちでは存在していない。内的連続性がない。井上瑶が指摘したような「重い出来事」を受け止めて「変化する」という内面的変化は、TV版のどこを探しても存在しない。劇場版において「アムロの物語」を捏造しなければならなかった富野監督にとっては、そのような「重い十字架」はアムロに背負わすわけにはいかなかったのだろう。

 同じことは、ララァを失った直後のアムロにもいえる。TV版のアムロはセイラたちに心配されるが、わりと平気にしているのである。ここにも内的変化を引き起こさないTV版のフラットキャラクターのアムロがいる。劇場版では、このケロっとしているアムロの場面がまるまる削除されていた。落ち込んでいる描写はTV版にないわけだが、劇場版では描かないことによってそれを暗示させている。

 劇場版はファーストガンダムの頃から「新訳」以外のなにものでもなかったのだろう。

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