ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

富野由悠季への愛を告白するBlogです。熱狂的なファン時代は過ぎ、今はちょっと遠くから眺めている感じでしょうか。 『伝説巨神イデオン』で“ゴーチンby小松左京”されたクチです。

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『伝説巨神イデオン』について 2/3 ものがたりのたたり

 ご都合主義をなんかこう……カッコよく言うと、デウス・エクス・マキナというらしい。機械仕掛けの神像のことで、神々が信じられていた時代のギリシア演劇で使われたものだ。物語の内部の論理で収拾がつかなくなった劇を、外部からの強制的な介入によって収拾することで、近代以降は禁じ手とされる。
 『イデオン』が恐るべき作品なのは、近代のただなかにあって、のこのことこのデウス・エクス・マキナを登場させてしまったことだ。
 とはいえ、作中に登場するご都合主義の化身「イデ」は、事態を収拾するためではなく、事態を悪化させるために使われる。コスモスの回復のためではなく、より一層のカオス化のために。
 なぜか。「芝居」のためである。会うはずのない人物同士が「イデ」によって邂逅し、情念の芝居をみせてくれる。物語は収拾するどころか破断し、芝居だけが場面場面のうえに直接載ることになる。ちょっと他では味わえない異様な作品、それが俺にとっての『イデオン』だ。

 作者が作品にとり憑かれる、ということがおきる。
 たとえば俺が押井守監督の『ビューティフル・ドリーマー』を観たときの感想のひとつは、非常に技巧的だなー、というものだ。サザエさん型の作品、人物が変化しない作品は、本来「映画」に向いていない。『うる星やつら』もそうだ。まして原作連載中、TVシリーズ放送中である。「映画」になるわけがない。なぜなら人物を変わらない世界に帰還させなければならないからだ。
 『ビューティフル・ドリーマー』は「技術論」として、あのように作るしかなかった、という点で、映画の頂きのひとつであることは間違いない。
 しかし、押井守は、ご存知のように、その後、『ビューティフル・ドリーマー』にとり憑かれてしまう。
 『ビューティフル・ドリーマー』の凄さは、「映画」にならないものを「映画」にしたことだ。不可能を可能にした。芯にあるのは、「映画」への執着と、変態的な技巧、「技術論」である。「作家」や「哲学」をそこにみてはいけないはずだった。批評家やファンがどう受容しようとかまわないが、押井自身がそれに巻き込まれるのはどう考えてもおかしな話なのだ。俺からすると「とり憑かれた」としか思えない。

 『イデオン』という作品は、富野にとっては、押井の『ビューティフル・ドリーマー』と同じだ。「引き返す」ということができなくなる作品というものがどうやらあるらしい。
 富野由悠季は『イデオン』に「とり憑かれた」と俺は思う。物語を破断し、やりたい芝居のために「イデ」というデウス・エクス・マキナを使う。これもまた技術論だし、いやもっと悪い、禁じ手を使った技術論だ。技術論としては最低である。
 しかしそのかわり富野の「作家」性が(情念の芝居をとおして)剥き出しになってくれた、という面白さがあるのだ。……こう書いていて気づいたのだが、俺のなかでは、『イデオン』と『ビューティフル・ドリーマー』は対称的な関係になっているんだなーということだ。最高の作家論であり最低の技術論の『イデオン』、作家論ではありえず技術論としては最高の『ビューティフル・ドリーマー』。どう足掻いても宮崎になれない富野と、いつでも宮崎になれる押井。この対称は、高畑(映画)と宮崎(マンガ)のそれだ。富野は宮崎(マンガ)に憧れ、押井は宮崎(マンガ)でもある自身の才能を封印して、凝った技巧で「映画」を“発明”していく。

 富野は『イデオン』後、他の作品でも往々にして物語を見失い、芝居だけでフィルムをつないでいくことになる。もしも「物語の神様」がいるのなら、物語をぶっ壊しても芝居を優先させる『イデオン』をつくったがために、罰が当たったということかもしれない。

 『イデオン』後、その呪縛を振り払った作品がある。そう『F91』だ。映画館で『F91』を観た俺が、どれだけ感激したか想像できるだろうか。「よかった……富野さん、復活できたんだ」ということに尽きる。
 そして『ターンエー』だ。とくに地球にいる間はほんとうに面白い。そして後半の失速感にまたイヤな予感もしないわけではなかったw。

 アニメ『リーンの翼』は、またまた物語を見失っている。物語という梯子がないのにいきなり二階で芝居しちゃってるw。いやいや俺は好きだけどもネ。
 ショートフィルム『リング・オブ・ガンダム』にいたっては、設定と芝居の面白さしかないw。いやいや俺は好きだけどもネ。

 富野監督はやっぱり今後も『イデオン』に祟られるのかなーという気がする。
 もちろんそれだけ富野語りには重要な作品ということでもある。

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『伝説巨神イデオン』について 1/3 遅れてきた男

 富野由悠季の代表作を一作だけあげろ、といわれたら、世間的にはもちろん『機動戦士ガンダム』なんだろうが、俺の感じるところでは、作家論的には『伝説巨神イデオン』、作品論的には『ターンエー』あたりになるような気がする。
 『イデオン』はそれほど富野の作家性が色濃い作品である。富野の限界、欠点がそれだけわかりやすく表出もされてもいる。そういう点でも富野語りに欠かせない作品だろう。

 富野由悠季は本来「遅れてきた男」だ。
 『アトム』からキャリアを積んでいる男だが、新しい何かをはじめたということはなかった。ロボットアニメでいえば、タツノコがフォーマットを準備し、永井豪がヒーローロボットをぶちこみ、長浜忠夫が完成させた。
 そこに現れたのが富野由悠季である。彼は何をしたのか。フォーマットの拡張か、バージョンアップか。いやそうした“伝統”に貢献することはしなかった。
 富野がしたのは、フォーマットの自己批評である。

 日本におけるニューウェーブSFの紹介者・伊藤典夫が、作品の名前こそあげないものの、『無敵超人ザンボット3』に言及したことがある。
 ニューウェーブ運動とは歴史の必然か否か、という話題のときに、ひとつのジャンルが成熟するとジャンルのお約束を自己批評して乗り越えようとする作品が出てくる、最近何気なくみたTVのロボットものでも(ニューウェーブと)似たようなことやっていて驚いた、といった内容の発言だった。
 発言の内容から、伊藤典夫が、『ザンボット』に「ロボットアニメのニューウェーブ運動(と相似形の何か)」を感じていたことは間違いないだろう。
 
 富野由悠季が「遅れたきた男」というのは、そういうことだ。パーティに現れたとき、すでに料理はさめていた。美女たちはすでに男たちの腕のなかだった。
 そうした人間に残されていたのが、ジャンルのお約束を意識してズラしていく、という手法だ。シリアスにズラせば『サンボット』になり、軽妙洒脱にズラせば『ダイターン』になる。
 そういう意味では、『無敵超人ザンボット3』と『無敵鋼人ダイターン3』は、一対の作品といえるかもしれない。

 『ザンボット』『ダイターン』でフォーマットへの自己批評をすました後、本来なら、『機動戦士ガンダム』でフォーマットからの完全離脱をする意図があったと思われる。
 しかしそれには失敗した。ガンダムの前にガンダム的なものはなく、スタッフに理解されなかったこともあっただろう。
 そういうわけで、あくまでも富野文脈でいえば、『ガンダム』は失敗したが、今度こそ、という意図ではじめたのが、おそらく『伝説巨神イデオン』であった。
 富野はガンダムの次作『イデオン』で、早くもガンダムのリベンジをやっているわけだ。早すぎるw。

 早すぎたことは、その後の富野の運命を変えたといってもいいかもしれない。
 今度こそ「ちゃんとしたガンダム」をつくるという意気込みの『イデオン』を製作中に、「挫折したガンダム」である前作の人気がブレイクするからであるw。
 富野は『ガンダム』の“成功”を自己理解しないまま、『イデオン』に臨み、その後もそのまま疾走しつづけることになる。身過ぎ世過ぎのレベルでいえば、『ガンダム』の“成功”を利用して成り上がるチャンスを、疾走のなかで取りこぼした、ともいえる。
 『イデオン』はそうした意味でも富野ワールドの真髄だ。フォーマットを意識せず、ガンダムの成功も意識せず、ただ純粋に富野ドラマが語られることになったのだから。


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『わたしが子どもだったころ アニメ監督・富野由悠季』を観た

 冒頭からちょっと意地悪な感じがして、面白かった。
 仕事場のセットつくるらしいから、小道具はぜんぶ自分で持ってきたのよね、という冒頭シーン。机のなかの小道具を自前で用意するあたりから、富野のこだわりがみえて楽しい。以前、松田優作がTVの刑事ドラマで自分の机の小道具が何の考えもなく設置されているのをみて激怒したというエピソードを思い出した。そのあたり、やっぱり発想が映画の人なんだなーと。
 ところがTVスタッフは、つくりものをつくる富野、という絵を撮ってしまうわけだw。これが面白かった。意地悪だなーと思うと同時に、いわゆる「ヤラセ」とは逆の発想で、へーTVの人はこういうこともするんだなーと感心もした。

 親父さんがもっていたカメラを大事そうに取り出して説明する富野、親父さんが開発したという「宇宙服」(与圧服)の写真を誇らしげにみせる富野。
 一方で肝心のお袋さんの話はぜんぜん出てこない。せいぜいポマードをつけた小学生というくだりで、お袋の仕業じゃないか、と口にするだけ。
 そのあたりが、「おいいい」と身悶えしそうになった。

 しかし少年時代の再現ドラマで、そのあたりの、富野少年のなかのお袋さんの位置づけが描かれて、たいへん満足である。さすがNHK。
 富野少年の誇り、親父さん。親父さんの手伝いができるという喜び。チビと女を遠ざけた男の世界での手伝いだ。しかしその聖域を土足で踏みにじる女がいる。お袋さんだ。「喜幸ちゃんは明日学校なのよー」。翌日か写真をメチャクチャにされてフテる親父さん。この流れがよかったね。

 富野ワールドでもっとも興味深いのは、富野のマザコンっぷりである。若い亡母への思慕から女性全般を崇拝し女性たちとのロマンスを繰り返すタイプの、エンタメ主人公にありがちなマザコンではない。もちろん『ブレンパワード』で描かれたジョナサン的な、女性的なマザコンでもない。あるいは母親によって去勢された昔懐かしの冬彦さん的なマザコンでもない。富野のそれは誰しもが一度は通過する、中学生男子的な、「うっぜーんだよ、くそババア」的なマザコンである。
 しかし富野の場合、その中学生男子的な「うっぜーんだよ、くそババア」的なマザコンが、中年以降になっても(少なくとも作家論レベルでは)持続した、というのが興味深いのだ。
 どんだけ“強烈な”お袋さんだったんだろうな、と以前から気になっていたのである。今回、この番組では、さすがにキャラクター性に触れることはなかったが、関係性における富野ママンの有り様を描いてくれて、俺としてはじゅぶん楽しめた。

 そのほかのエピソードも、興味深いものばかりだ。

 小田原に郷土愛を感じていなかった、というのは、意外だった。小田原は関東の武士たちの中心地のひとつだった地だ。
 俺のみるところ、富野ワールドにはあきらかに一所懸命を尊ぶ関東武士の独立精神が息づいている。これを俺は小田原の産土神の影響だと思っていたのである。
 未読だが、橋本治が『ガンダム』を「任侠ヤクザと腐敗警察の戦い」と捉えた本があるらしい。しかし、俺にいわせば、富野ワールドは、むしろ関東武士の世界観である。ヤクザではない、サムライだ。
 俺のヘンテコ史観wによれば、「ヤクザと官軍」の二分法は、中国大陸から西日本までの文化圏の話だ。熊本出身の尾田栄一郎が描く『ワンピース』が中国学者マルセル・グラネの話にピタリと一致するのはそういう理由がある。「任侠ヤクザvs腐敗警察」では水滸伝だし『ワンピース』だ。橋本治は東京人だが教養人すぎて文字文明の重力に囚われているのだろう。
 ユーラシアから東日本までは自主独立を尊ぶ文化圏だ。「地方豪族(サムライ)と中央政権(朝廷)」の二分法である。西日本の戦士文化がヤクザ(任侠)なら、東日本の戦士文化はサムライなのだ。武装商人と武装農民の差だ。ぜんぜん違う。生存圏を守護するために戦う富野ワールドの戦士たちは、敵も味方もサムライだ。
 ……という俺のヘンテコ解釈もあって、小田原出身という自意識はない、東京にいつか帰るという意識があった、というのは、俺にはほんとうに意外だった。いや東京は別にいいけどもさ、小田原はそんな嫌わなくても……と思った。
 アニメ『リーンの翼』では、日本人の主人公が異世界で建国した王国の名は「ホージョー」になっている。「ホージョー」が北条であれば、小田原だ。これは矛盾か、そうでもないのか。このあたりは、東京土人の俺にはちょっとわからない感覚なのかもしれない。

 幼き日の富野少年には友達があんまりいなかったのか、というのも、なるほど、という感じである。
 富野ワールドでは、主人公の若者に友達がいない、というのが特徴である。俺のお気に入りの『F91』は富野が富野ワールドの偏向性をできるだけ抑制したところに魅力があるので主人公には珍しく友達がいるw。しかし小説版を読むと友達というのとは少し違っていて「あれれ」と思っていたのである。映画版の印象と違って主人公が友達のいない内向的な趣味人みたく描かれていて「いつもの富野主人公」に近かったのだ。小説版は富野ワールドの偏向性を抑制しきれていない。
 「いつもの富野主人公」というのが、時代の要請とか、アニメファンの鏡像とか、そういうことじゃないんだな、と今回の番組で理解できた。本人じゃねーか。

 風呂の薪を削ってつくった、という飛行機のフィギュアは、ビックリするような出来で、趣味人としてハンパなかったんだなーと思った。なんかジオラマ?風の写真まで撮っているし。どんだけ筋金入り。
 飛行機への偏愛も、富野のロボットアニメが結局ガンダムに収斂していくことを暗示している。ガンダムは飛行機、イデオンは戦艦、ウォーカーマシンは自動車なのだ。しかし『聖戦士ダンバイン』以降、富野は結局ガンダムモドキを量産するしかなくなる。手癖ということもある。しかしネタの尽きたロボットアニメの仕事しかやらせてもらえない富野だとしたら、仕事を仕事以上のものにするモチベーションのひとつがあるいは“飛行機の夢”だったのかもしれない。そんなことを考えさせられた。

 少年時代の再現ドラマのその後もせつない。
 勉強もだめ、運動もだめ、そして唯一のプライドだった絵もだめ、となっていくあたりは、富野ドラマ的な苦さだ。
 そのなかで、月世界旅行の研究レポートを発表するくだりで、ちょっと救われるのは、この番組スタッフの構成力の凄さか。

 富野少年の宇宙への憧れが、SF映画やSFマンガ、SF小説経由ではなかった、つまりSFジャンルからの影響はゼロだった、というのも面白かった。後年の「ガンダムはSFじゃない」という話に繋がっていく大事な傍証だろう。

 番組の最後は川原でペットボトルロケットを打ち上げて、「どうなのこれ」的な顔をしている富野で締められた。この「どうなのこれ」的な中途半端さを撮るTVスタッフは意地悪だし優秀だなーと思った。ひどいよね。富野監督はキメたいヒトなのにさー、とニヤニヤした。

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アニメ版『リーンの翼』で俺が嬉しかったこと

 アニメ版『リーンの翼』は、ブルーレイ一枚にしてくれよ、という気持ちでいっぱいだ。DVDコンプリートボックスはリアル店舗まで足を運んでから買うかどうか決めようと思っている。

 アニメ版『リーンの翼』をはじめて観たとき、嬉しかったのは、そこに「作家」富野由悠季が「いた」からである。
 俺のみるところ、「作家」富野由悠季は、『ブレンパワード』後半から失踪してしてしまった。『ブレンパワード』後半からの富野は「純血の映画監督」になろうとしている、というのが俺の見立てだった。
 だから、アニメ版『リーンの翼』を観たとき、驚いたし、嬉しかった。
 またその流れで、「小説家」富野由悠季も復活するというのは、俺的には、おいこの企画組んだやつ誰だよー、キスさせろよー、という感じなのだ。

 バイストンウェルはもともとは小説用の設定ではなかったか、と俺は睨んでいる。
 ロボットアニメ用の世界設定なら、ロボット付きの世界にすれば、それだけで『聖戦士ダンバイン』はかなりスッキリした作品になっていただろう。なにせ『ダンバイン』ときたら現代地球人にとって異質なロボットが、現代地球人にとって異質な異世界人からも異質である、という「実感」できようもない構造になっているのだ。どうかしている。
 なにより、小説『リーンの翼』を読めば一発でわかる。バイストンウェルは、富野が文明批評とエンターテイメントを両方やろうとするための装置なのだ。その文明批評は、地の文でなされるので、地の文のないアニメでは無理よね、という単純な話だ。
 バイストンウェルを舞台にした物語は、小説が本道なのだ。
 この時期、富野はけっこう本気で小説家への転向を考えていたのではないかと想像している。

 この時期は、アニメ監督としての富野はあきらかに「疲弊」していた。同時期の作品、小説『リーンの翼』における荒削りだが迫力のある筆致とは別人のようである。が、これが同一人物というのであれば、そのようにも疑えるわけだ。
 俺のなかではアニメ監督富野の「迷い」とか「疲弊」とかを感じさせられたのが、この『ダンバイン』からなのである。
 たとえばOPを観てほしい。カッコいいことはカッコいい。しかし弾幕張った飛行戦艦から人型戦闘機が飛び立ち、チャンバラとガンシューティングを披露するという絵面は、ガンダムそのものである。『ガンダム』で戦闘機、『イデオン』で戦艦、『ザブングル』で自動車という「見立ての斬新さ」をもっていた「富野ロボットアニメ三部作」に比して、『ダンバイン』は(そしてそれ以後の作品は)あまりにもガンダムのままである。やる気の問題ではなくて、アニメ監督としてのスタミナが底をついてしまったのかな、と感じた。ヘロヘロになりながら手撃ちであってもパンチだけは出す、という風に俺には見えた。

 だから俺的には、『ダンバイン』から『逆襲のシャア』までの、疲弊期のアニメ作品は、かなり観るのがつらい。『ダンバイン』のOPが「ガンダムの手癖」でつくられているように、吐き出すものがないのに吐き出そうとして、過去からの手癖に頼るところが垣間見えて、つらいのである。
 たとえば『Zガンダム』。あれを『ファースト』の「直後」に観たら頭痛がしてくるのではないか。『イデオン』で解禁になった「幽霊」「母殺し」、『ザブングル』で解禁になった「パイロット同士の会話」、『ダンバイン』で解禁になった「ハイパー化」「聖戦」、『エルガイム』で解禁になった「美貌の悪魔」など、過去のモチーフの大集成なのだ。いきなり『Z』を観たらビックリする。逆に『Z』をビョーキと評する安彦良和は健全だと思うと同時に「あ。安彦さん、富野作品、ロクに観てないわ」と富野ファンにはバレるわけであるw。

 バイストンウェルは小説が本道、というのが、俺の考えだったので、アニメ版『リーンの翼』は、じつはかなり不安だった。その不安は半分は的中した。アニメの設定としては、筋はよろしくないなと。とはいえ、『ダンバイン』で成功した「東京上空三部作」をメインにすえたような作りは、バイストンウェルのアニメの世界設定としての筋の悪さを、富野なりに自覚しているようで安心した。
 そしてなにより意外だったのは、わりと「本気の富野」が帰ってきていたことだ。「純血の監督」を目指そうにも、サコミズがそうはさせなかったらしい。

 『ブレンパワード』はジョナサンのママンガーという回あたりから、「作家」富野は姿を消した。
 ジョナサンのマザコンは、女性のマザコンに見えるのだ。愛される側の人間が、愛の不足を、愛する側への「貸し」にする、というロジックは、女性のものである。個人的例外はあるだろうが、普遍を目指す富野ワールドではこのような現れ方はしないだろうと思う。
 ジョナサンはジョナ子でなければならなかったし、ジョナ子が、母への反発からパーフェクトマザーを目指し、別の抑圧をわが子に施す、という地獄の輪廻を、富野なら描いたはずだ。
 また後半の比瑪無双もヒドい。宮崎アニメかと思うくらいに、比瑪の正しさが一本調子で描かれる。
 また後半の正当性の多くが、家族話、男女話にオチているのも、ニュータイプの夢をみずにはいられない組織論を抱える富野らしくない。富野が絶望している組織は、なにも政府とか政治活動する組織ばかりではない。富野が絶望している組織は、家族レベル、男女レベルまで入るのだ。
 だから『ブレン』後半には、あきらかに、作家富野は「いない」。

 『ターンエー』では、ところどころ、肝心なところでは作家富野が顔を出す。しかし全般的に出ずっぱりということもなかった。富野自身ではこのバランスが気に入っているのかもしれない。
 たとえば、比瑪声の村田秋乃が演じるソシエのラストは、富野なりの『ブレン』へのアンサーだろう。
 家族話、男女話をメインにしすぎるソシエは、『ブレン』(後半)の世界観の体現者だ。彼女では結局、ロランと空を飛ぶことはかなわなかった。

 『キングゲイナー』には、奇妙な光景をみた。
 富野が大河内一楼にフィーチャーさせようとし、大河内が富野にフィーチャーさせようとして、ふたりでグルグル廻っているイメージだ。なんだあれ。
 とはいえ大河内たちの富野ワールド・キャラクター図鑑的な楽しさが、『キンゲ』にはあった。

 そしてアニメ版『リーンの翼』だ。そこにいたわけだ、作家富野が。サコミズがどうやら呼び水になったらしい。
 「男と女、あれは戦争なんだぜ」というあたりは、いかにも富野だ。だからニュータイプの夢もみる。
 『ブレン』後半の小娘の夢想する甘ったるい世界観からどれだけ距離があるか、ということでもある。
 作家富野の復活、俺はなにより、これが嬉しかった。

富野コンテとアニメコンテ

『機動戦士ガンダム』(初代、TV版)を毎日のように観る、というのは、ほんと楽しかった。
全話はとても観れなかったんだけど、それでも日々の楽しみとして、ある「独りゲーム」をやっていた。
その日に放映された話の絵コンテが「富野監督かどうか当てる」という、ゲームである。うっわーっ我ながら暗ええっ。

んで、俺のようなトーシロでも、結構な確率で当たるわけだ、これが。
それだけ富野コンテはちょっと特徴的なんだよね。

どう特徴的か、というと、「アニメっぽくない」という、ただその一言に尽きるね。
アニメ制作で一番負担になるのは作画なんだな。だから、アニメのコンテは基本、作画の省力化を意識しているわけ。
ところが、富野は、そういう、アニメの都合のために考え出されたコンテ作法を、かたくなに拒否しているの。

具体的にいうと、奥行きのある構図で、手前から奥へ、あるいは奥から手前へ、という動きで芝居をさせようとしているコンテは、富野コンテと思って間違いない(笑)。
実写映画ならごく普通のコンテなんだろうが、アニメだとあんまりやりたがらないんだよね。作画にかかる負荷ほど、商品性を高めるものではないので。
もちろん、スピーディなアクションシーンとしてなら、そういう構図で動かす、というのは、ありなんだけどね。

逆に実写ではやりたがらないで、アニメでは普通にやるのは、真横とか真正面の構図だよね。アニメはキャラ表にも真正面・真横があるくらいだし、マンガ的表現でも多いからね、いまさら違和感もない。
でも実写だと、真正面とか真横とかって囚人の写真だからさ(笑)、画面に変な緊張感が出ちゃうよね。緊張感を出したいときにアクセントとして使う構図だわね、実写では。
で、そういう真正面とか真横の構図がでてくるコンテは、間違いなく富野コンテではない(笑)。
さあキミも今日から富野コンテ当てクイズを独り寂しくやるのだ。

富野コンテ回ってだから、作画が(無駄に)キツそうだな、と思うこともあるんだけど、軽々と富野コンテの負荷を乗り越えている回も多い。そういうときは決まって作画監督は安彦良和。
でもね、この頻度で各話作監をやっていたら、そりゃね、倒れますよ。天才ゆえに無茶ができて、それゆえに倒れてしまった、という悲劇なんだろうなー。
安彦良和が倒れた後、現場を支えた青鉢芳信さんとかの絵柄も、じつはけっこう好きだったけどね。
アムロが男臭く描かれていて、ストーリーの「流れ」を感じさせてくれた。「大河ストーリー」を幻視させるような塩梅になっていた。


んで最近ちょっと面白かったのは、『とある科学の電磁砲』第七話。八谷賢一コンテ回。
俺の好きな『天地無用』の2期3期の監督をやっている人で、日常的な人間ドラマも、マンガ的なノリも、両方こなせる人。
現代マンガ、現代アニメを、きちんとやれる人、ということね。

この『電磁砲』第七話では、普通にアニメコンテで叙述していって、話のポイントのところ、視聴者に「ん?」と違和感を覚えてもらうところを、奥行きのある構図で手前から奥へ、奥から前へというシーンをつくっているんだな。
もう実写と逆の発想になっていて、「おお、アニメコンテもここまで定着しているのか」と、感心してしまった。アニメはもうひとつの映像の型をつくっているんだなーと。


そういう意味では、富野由悠季はアニメ界に迷い込んだ映画監督なんでしょうね。

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プロフィール

shiwasu5

Author:shiwasu5
どんな奴か?
自己紹介。最終学歴は専門学校卒。(東京デザイナー学院アニメーション科)
小学時代→遊び時間と授業時間の区別がつかず。
中学時代→校内暴力をのびのびとエンジョイ。
高校時代→管理教育で次々と仲間が退学していくなかなんとか卒業。
浪人時代→二年間、進学/就職浪人をする。
本屋でバイト→本屋潰れる、古本屋でバイト→古本屋潰れる。クラブ通いで某事件を起こし警察に捕まったのもこの頃。
専門学校時代→馬鹿みたいに楽しかったが、周囲の才能に圧倒される。同期に吉田健一や長濵博史がいて、三人でつるんで歩いたこともある。やつらと較べた俺が間違いだった。
虫プロ入社。最低限の固定給が約束されているいい会社でした。『うしろの正面だあれ』の生活描写についていけず退社。絵が下手なのを実感。
バイト時代→バイトしながら漫画家を目指す。気に入ったコンテが描けず挫折。
デザイン系の会社のバイトから正社員へ。
現在は鬱(双極性障害)のため地獄を彷徨う。彼女と別れる。誰か背中抱いていてくれ。

好みの傾向
・アニメ五選(TVシリーズは除く)
『白い牙』
『機動戦士ガンダムF91』
『AIR』
『もののけ姫』
『アリオン』
・漫画五選
『メトロポリス』
『がんばれ元気』
『デビルマン』
『GANTZ』
『天然コケッコー』
・小説五選
『砂の惑星』
『狼の紋章』
『逃れの街』
『ながい坂』
『剣』
・映画五選
『ブレイブハート』
『ダークシティ』
『夜の大捜査線』
『用心棒』
『イージー・ライダー』
・音楽はわかりません。
世代的にいえば
サザン、YMO、尾崎、マイケル・ジャクソン、U2あたりが直撃です。
クリス・レアとかビリー・ジョエルとかも好きでした。(英語歌詞わからんけど)
・政治傾向
公武合体、天皇機関説、大きな政府、死刑廃止論者。
・女性の好み
シャアにとってのララァみたいな。
・男性の好み
元気くんのお父さん。
・富野由悠季の好きなところ
一生懸命なところ。

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