ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

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ポニョをみた

 『崖の上のポニュ』を観たのだが、前知識が中途半端にあったせいか、肩透かしをくらった。
 なんか、ほんとに他愛もない可愛い話で、難解とかアバンギャルドとか神話性とか、俺は感じなかったなー。でも楽しかった。

 前評判からすると、宮崎版『ブレンパワード』だと予感していたんだけど、実際は宮崎版『涼宮ハルヒの憂鬱』のように感じた。ラブコメマンガだった。
 面倒見のいいキョンが面倒くさい女ハルヒの面倒をこれかもみるわしょうがねーなーというのが『ハルヒの憂鬱』なら、フォローの達人ソースケが暴走女ポニュのフォローをこれかもするよという話として受け取めた。

 ソースケの母親のリサがこう、いい感じだった。小娘ががんばって母親やってます、という感じで。可愛かったね。そのいたらない若い母親を健気にフォローするソースケがいい子すぎて微笑ましかった。
 で、フォローの男ソースケの資質を嗅ぎ当てて、リサと同じタイプの我の強いオンナがわらわら集まってきているのも笑った。まー宮崎作品はサビ抜きなんで、批評的な意図はないんだろうけど。
 宮崎アニメの見やすさのひとつは、女性登場人物がぜんいん同じというところかな。山犬に育てれたナウシカがサンだし、山賊の女房をやらされたり苦労したナウシカがエボシだし、牛飼のダメ男と結婚したナウシカがタタラ場の島本須美声の女だろうし。だから作中人物の内面を洞察する必要もない。みたまんまだもの。

 ただ『ポニュ』がわかりづらいとしたら、冒頭から魔術師が画面に写って魔術を使ってしまっているので、ぜんぺんこれ魔術的不思議現象のオンパレードになっているんだなー。これは宮崎らしくない、というか、「高畑兄貴の目線」って、いまはもう気にしてないのかねー。「高畑勲」という枷を外したのは『未来少年コナン』以来だよねー。今回『コナン』以上にやりたい放題だけどな。これも興味深かったなー。

 敵対的存在である魔術師の声優が所ジョージというキャスティングは、やはり作品の締りのなさにつながっている気がする。
 あの魔術師は「ハウル」だよね。「ハウルの可能性のひとつ」というか。もう一回キムタクを連れてこれないなら、イケメン声の声優を使ってほしかったよなー。グランマーレの愛人なんだし、ポニュのオヤジさんなんだし、いい男じゃなきゃダメだと思うんだけどな。

 初稿というか準備稿というか、推敲なしでそのままフィルムにしてしまったかのような「本」の弱さがあって、その弱さは声優の芝居である程度糊塗できたはずなんだけどね。今作だけはちゃんとした声優使わないと。

 あと、「正体は魚ですがいいですか」とか「人面魚だけど」というのは、デメリットになってないのも困るよね。むしろフォローの男ソースケの懐にとびこむためにはアドバンテージになっちゃってる。これも笑った。ソースケ狙いの幼なじみの女の子がその場にいればね、「ポニュ、ずるい」って言ったはずだよな。金魚として入り込むとはなんたる女。
 むしろポニョは性格が問題だよね。グランマーレもそちらを気にして欲しかったよな。「暴走バカ女だけどいいですか」「自分、お袋で慣れているんで、大丈夫っす」みたいな。暴走女フォロー検定一級余裕でしたみたいな。

 俺は楽しめたし、可愛らしい作品だと思うけど、やっぱり長さが足りないなとは感じたな。もういっそのこと絵本作家とかに転向してくれないかしらw。映画の尺じゃ足りてないよ。『もののけ姫』しかり。
 『もののけ姫』はアニメ版『ナウシカ』のリベンジかつマンガ版『ナウシカ』のテーマ的進化版だったというのが俺の考え。
 『千と千尋の神隠し』は『となりのトトロ』のヤングアダルト版って感じ。
 『ポニュ』はなんというのか、『コナン』の宮崎が帰ってきた、という感じがする。『コナン』の場合は、高畑、大塚的リアリズムに対するアンチだったんだけど、『ポニュ』はもう宮崎の魔術的イマジネーションがただ漏れだったね。あとロリ。ロリ全開。ロリただ漏れ。ミヤザキエフ・ムッツリーニ・ロリスキーどころじゃない。ミヤザキエフ・あ、ただ漏れしてますよ?・ロリスキーだった。もうね、やりたい放題だな、お爺ちゃん。どんどんやっちゃってください。

 しっかし宮崎ピャヤオーはズリーよなー。好き勝手に妄想垂れ流したら、こんな可愛らしい話になっちゃうんだもん。そりゃね、大衆に愛されるわけだよ。どんだけ可愛い妄想なの。お爺ちゃんなんだよ?

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「アニメ」とか「アニメファン」とかの起源論を俺の肌身に則して描いてみる

 『宇宙戦艦ヤマト』から「アニメ」という言葉が使われるようになった、という話は、たぶん本当のことなんだろうな、と思う。
 とはいえ、この話が、俺の実感としてそくわないのは、『ヤマト』ブームの後かつ『ガンダム』ブームの前の時代、『ガンダム』のラミネートカードを同級生にみられて恥ずかしい思いをした経験があるからだ。
 その時代、俺の周辺では「アニメ」なるものが認知されているとは、とうてい言えなかったのである。

 『ヤマト』がヒットしたときの世間様の反応は、俺の記憶からすると、「アニメ」がヒットした、といったものではなかった。「アニメ」というカテゴリーで世間様には認知されてなかった。
 では何か?というと、じつは「SF」なのである。

 70年代といえば、日本ではSFブームだったのだ。日本の世間様が、初めて「SF」なるものを認知しはじめたときでもある。
 なにやらけったいなものがはやっている、という認識だ。
 『猿の軍団』と同時代の作品、ということでだいたい当時の空気がわかるだろう。『猿の軍団』には当時ベストセラーを連発していたSF作家たちも参加し、『ヤマト』には『猿の軍団』にも参加していた豊田有恒も関わっている。
 TV局レベルでは、SFブームらしいから、それでゴールデンいってみようか、という感じだったのだろう。

 だから『ヤマト』のファンも、自分ではSFファンだと思っていたのだ。
 そこで都市伝説の類かもしれないが、手塚治虫がSF大会かなにかで、ヤマトファンはお帰りください、ここはSFファンの集いです、と言ったとか言わなかったとかいう話になるのだ。
 『ヤマト』は当のファンの間でも、「アニメ」ではなくて、「SF」だったのだ。

 当時の先鋭的な一部の人たちが、「SF」ではなくて「アニメ」と言い出したのだろう。
 だから一部では、『ヤマト』起源説は正しい。しかしそれは、アニメ側からの史観だ。
 世間様的には、『ヤマト』は、当時流行っていた「SF」の一作品にすぎなかったのである。

 では、世間様に「アニメ」が発見されたのはいつか、というと、御察しのとおり、『機動戦士ガンダム』からである。
 もちろん世間様的には「またSFか」になりかけたわけだし、ファンたちも『ヤマト』のときと同様『ガンダム』の好きな自分は「SFファン」だよなと思いこみかねかった。
 そこに高千穂遙が斬り込んでくれたわけだ。前述の経緯のとおり、高千穂遙の「ガンダムはSFじゃない」という言葉は、彼ひとりだけの思いではなかったのだ。彼の発言はSFを守る側からのものだったが、結果として、『ガンダム』は『ヤマト』の二の舞を踏まずにすむことになった。

 もうひとつ、アニメ新世紀宣言というイベントに象徴される、「アニメ」を表看板にしようとした当時の松竹の宣伝戦略の影響が大きかったろう。
 松竹が「アニメファン」の力を意識していたのは、俺のある体験でも裏づけられる。
 『ガンダム』劇場版第一作の公開前、当時中学生だった俺のもとに、いきなり松竹から分厚い封筒が送られてきたのだ。なかには、宣伝グッズ、ポスターだのシールだのが大量に入っていた。どこでどう俺のことを調べたのかわからないが、「宣伝してね」とかなんか手紙つきであった。『ヤマト』の成功、長浜忠夫作品のロボットアニメの年長ファンたちの噂などもあったのだろう、映画会社の宣伝部あたりには「アニメ」が可視化されていたのだ。

 「“アニメ”ってなんでー、“TVマンガ”と違げーのか」という戸惑いとともに世間様が「アニメ」を認知していったのは、だから『ガンダム』ブームのなかでおきた出来事だ。それが俺の実感だ。

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新房のやろう、茶も出しやがらねー

 俺は礼儀正しい男だ。人様の家にお邪魔したら玄関のたたきの端っこに靴の踵を揃えておきたい。
 だから俺はたたきの端っこを探した。だがない。たたきがずっと続いている。
 あれ? これたたき? ただの廊下じゃね?とひやりとする。家間違えたかな。念のため戻って表札をみるとやっぱり新房家「ダンスなんとかバンパイア」。うむ、ここじゃここ。
 玄関に入る。たたき。たたき。たたき。廊下みたいなたたき。すげーなこれが新房家か。ずっとつづく。お。やっとたたきが終わった。ふう。靴を脱ぐ。ドアがある。客間かな。開ける。外に出る。裏口だった。
 これが俺の何度目かの新房体験。あのやろう。
 『ダンス イン ザ ヴァンパイアバンド』は、設定とかあらすじを読んだぎりでは、俺でも楽しめそうだと思った。それがこの体たらくだよ。

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出崎統について(3/3)アニ出崎編

 一方で、アニメ界に影響を与えた出崎がいる。アニメ界にとっての出崎、「アニ出崎」と呼ぶ。
 純技術的な部分でも「凄い」影響を与えている男であり、そのあたりは俺もWikipediaで知った。

 俺が考えるアニ出崎は、もう少し映画というイデアに関わる部分で革命を起こしたらしい、と想像する。

 映画は基本的に演劇から派生したジャンルである、と考える。舞台があり、役者がおり、それを撮るのが映画だ、という立場である。
 映画の正統派、あるいは古典派は、この系統である、とする。
 映画には「演劇の尻尾」がついているのだ。この「尻尾つき」が正統派ということである。

 上手下手の心理的影響、天地(上下)の心理的影響を考えて、役者の立ち位置、カメラの位置などを考えろ、というのは、正統派であろう。
 大衆に支持される娯楽大作映画などは、基本「端正」な映像のメカニズムに忠実な作品が多いように思う。

 で、アニ出崎の革命とは、この舞台をとっぱらちまったことだ、というのが、俺なりの理解である。
 グリフィスかエイゼンシュタインががんばっている時代に、デニス・ホッパーがいきなりバイクで乗り込んできた。それがアニ出崎だ。

 たしか蓮實重彦だったと思うのだが、「ゴダールが映画を終わらせた」と言っていたはずだ。
 グリフィスかエイゼンシュタインを映画の始発点とした場合、ゴダールが終点になる。
 そのあとの映画は結局、始発点とゴダールの間のグラデーションのなかの色のひとつに甘んじるしかない。

 アニ出崎の革命とはそういうことだ。「出崎がアニメを終わらせた」
 高畑勲との縁のなかで映画について学習している富野が、いきなり出崎に出遭ったときの衝撃は、だから大変なものであったろうと思う。ひとつの極北を視たわけだ。

 富野が出崎的なものを使えこなせないにせよ、作家として必要としているのは、この「舞台の消失」だろうというのが、俺の理解だ。
 「現実に舞台なんかねーじゃねーか、とっぱらちまえ、んなもん」という出崎文脈ではなく、あくまでも舞台を前提とした正統派の映画監督として、「舞台のどんでん返し」に出崎的な力を使う、というのが、富野流なのではないか。舞台はあとにもさきにも残す。舞台チェンジをするときだけ、出崎的力を使う。それが富野文脈かなと。

 出崎に影響を受けた(俺が苦手な)監督たちは、この「舞台」をメタ的に作品内で扱うタイプの作家さんなんだろうなと想像する。
 なにせ生理的に受けつけないので想像するしかないのがもどかしいが、たぶんそういうことなんだろうと思う。

 いきなりデニス・ホッパー、いきなりサム・ペキンパー、いきなりアメリカンニューシネマだったアニ出崎のあと、すっぽり抜けおちた映画史のミッシングリングを埋めようと健気にがんばっている、それが出崎に影響を受けた(俺が苦手な)監督たちだ、と遠くから眺めている。映画史を溯行してヌーヴェルヴァーグあたりの“ヌケ”を埋めている健気な連中なのではないか。
 とくに『ウテナ』は面白そうだな、と思うのは、演劇の要素を取り入れている点だ。舞台をとっぱらちまう、という点で「演劇の尻尾」を断ち切ったのがアニ出崎であるのに、もう一度演劇的なものを取り入れる、というのは、かなり確信犯的で「すげーな」と直感するのだ。でも俺は生理的に無理なんだけどネ。

 このあたりが、俺のアニ出崎語りの限界である。

 富野語りの脈略でいえば、富野が「みた」出崎は、やっぱり「アニ出崎」の方だったんだな、というのが俺なりの結論だ。
 富野は役者(アニメーター)を信じないもの。ただし役者の一割か二割を担当する声優は信じているかも。このあたりは長浜忠夫の流儀ですかね。

出崎統について(2/3) 俺出崎編

 映画について俺なりに考えるきっかけのひとつになった体験があった。
 昔、テレビのクイズバラエティ番組で、面白いクイズがあったのだ。
 一分ぐらいのワンシーンを、素人と映画監督が撮って、どっちが監督のものか当てる、というクイズだ。

 (A)は、舞台の紹介(ロングで景色)→役者の紹介(フルショット)→芝居、という流れ。
 (B)は、役者のクローズアップが長くつづき、それからもうひとりの役者にパンして、芝居がはじまる、という流れ。

 さあどっちだ?

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