ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

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『機動戦士ガンダムF91』について 2/7 基本的な欠陥と俺の好み

 『F91』には重要な欠陥がある。
 それは圧倒的な説明不足だ。
 『ガンダム』シリーズの新世代獲得を目指しながら、あまりにも『ガンダム』の「お約束」に頼り過ぎているのだ。

 最悪なのはスペースコロニーの説明がない点だろう。
 スペースコロニーに人類が住んでいる、いくつものスペースコロニーがある、といった説明が一切ないのだ。
 これでは物語が「どこで」展開されているのかという基本的なことが不分明になってしまう。
 あれよあれよという間に、主人公たちは住んでいるスペースコロニーから宇宙に逃げ出すが、複数あるスペースコロニーでひとつのサイドが形成されているという説明がなければ「どこ」に向かうのか、わかりずらいにもほどがある。

 モビルスーツの説明がない点も欠点だろう。
 人型ロボットが通常兵器となり、搭乗しているのはヒーローではなく、ごく普通の職業軍人である、という説明がない。
 しかも最初に出てくるイケメン・パイロットは敵役であるドレル・ロナである。ヒーローのひとりに見えても仕方がない。「美形敵役」というお約束を知らなければ混乱するところだ。

 混乱といえば、主人公シーブックの父親レズリーとヒロイン・セシリーの父親シオのキャラクターデザインが似すぎているのも問題だ。
 意図的なものがあったにせよ、なかったにせよ、似せてしまったことは、わかりやすさという点でミスだったと思う。

 敵が侵略してくるのだが、「なぜ」という説明がないのも、この作品をわかるづらいものにしている。
 「なぜ」という点は後に明かされるが、それでも「なぜ」の意味が、充分に理解できるような描き方が出来ていない。

 敵の素性が分からない。これも欠点だろう。
 「誰が」侵略しているのか、さっぱりわからない。これも後に明かされるが、遅すぎるし、ロナ家と言われても説明になっていない。

 全般的にいえることは、「どこで」「誰が」「何を」「どうして」という基本的な情報があまりにも欠けているのだ。

 あるいは「誰が」「何を」「どうして」の欠落はパニック映画を描くために必要だったのかもしれない。しかし「どこで」の欠落は基本的な欠陥としか思えない。

 『ガンダム』の「お約束」を知らなければ、わからないことが多く、企画意図とは違い「一見さんお断り」の映画になってしまっている。

 一見さんお断りなら、それならそれで、アムロやシャアへの言及が多少でもあれば、往年のファンの関心を少しは引いたかもしれない。
 しかしそれすらない。

 いったいどこに向けてボールを投げているのかわからない、それが『F91』なのである。


 ではなぜ俺のところにボールが直撃したのか、といえば、俺が『ガンダム』ファンのなかで異端だからかもしれない。
 『F91』は主人公がガンダムに乗る動機が説得的でお気に入りなのだが、いかにせん登場が遅すぎる。これも欠点だ。
 ましてガンダムの「赫々たる戦果」と言われる活躍も直接描かれない。これも欠点だ。
 『F91』においては、ロボットバトルは最小限に抑えられている。そのなかで“ガンダムの活躍”はきわめて少ない。
 “ガンダムの活躍”を期待した向きには、物足りないものがあったと想像できる。

 ロボットバトルにはあまり興味のない俺には、逆にそこが魅力的に映った。いい塩梅だった。
 “ガンダムの活躍”より、シーブックやセシリーのゆくえに思いを馳せるファンは、たしかに異端と言われても仕方ないだろう。

『機動戦士ガンダムF91』について 1/7 復活の富野

 映画館で『機動戦士ガンダムF91』をはじめて観たときの感激は以前ちらと触れた。
 『伝説巨神イデオン』以後、物語を見失い芝居だけで紡いでいた富野作品に、物語が帰ってきたのだ。こんなに嬉しいことはなかった。
 そしてなにより富野由悠季という作家の「新章」がはじまったかのような“フィルムの感触”の新しさに感動した。

 驚愕がなかったといえば嘘になる。富野由悠季を追ってきた身としては、まさかここまで富野が復活するとは思いもしなかった。
 「富野はもう終わった……」とは信じたくはなかったし、だから追ってもいたのだが、『聖戦士ダンバイン』以降の作品にアニメ作家としての“疲弊”を強く感じとっていた。

 もちろん『ダンバイン』は今見ても色褪せることなく面白い作品だ。またチャレンジングな作品でもある。それでも俺には同時期の小説『リーンの翼』ほどの迫力を感じなかった。作品の出来不出来ではなく『リーンの翼』に圧倒され軍配を上げざるをえなかった。
 俺にとりわかりやすい指標は、『ダンバイン』から『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』までの疲弊期の作品は、小説の方が面白いのだ。
 アニメ作家としての疲弊を感じ、「富野はもう終わった……」のかもしれないと予感しながら、それでも追ってきたのは、富野信者という面もあったろうが、小説は“まだ”面白かったからである。完全に終わっているわけではないと感じさせるものがあった。

 とはいえ『F91』にそれほどの期待があったわけではない。
 たしか小説版の方を先に読んだはずなのだが、いまひとつスカッとしない作品で、富野小説としても「どうかな……?」という出来であった。
 上巻はロナ家勃興のファミリーサガを描いたもので、ネタとしても富野の資質としても、もっと面白くなりそうなのに、なんで「こんなもの」なんだろうと冷やりとしていた。
 これでいけるのか、大丈夫か、という心配が先に立った。

 しかしそれは杞憂であった。
 映画館でみた『F91』は抜群に面白かった。
 そう、小説版より本職のアニメ作品の方が圧倒的に面白かったのだ。
 「ああ、富野さん、復活できたんだな……」という感激をいまでも忘れられない。

 復活どころか、そこに「新しい富野」がいたのだ。フィルムの感触が変わっていた。
 枯れたと思っていた樹木から瑞々しい枝葉がふたたび芽吹いた、そんな感動を覚えたのだ。

 『F91』は俺にとり特別な作品だ。
 富野が物語をもう一度取り戻したこと、フィルムの新しい感触をえたこと、なにより小説より本職のアニメの方が面白いということ、疲弊期の作品群ではみられなかった諸々が嬉しかった。

 ネタの尽きた作家は自己模倣を始めるものだし、疲弊期の富野もそうであった。そこから復活する作家を俺は知らない。
 富野由悠季以外は。

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