ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

富野由悠季への愛を告白するBlogです。熱狂的なファン時代は過ぎ、今はちょっと遠くから眺めている感じでしょうか。 『伝説巨神イデオン』で“ゴーチンby小松左京”されたクチです。

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<侵犯>の物語

 映画についてわからないと書いたが、同じように少女マンガについてもわからない。できることは誤解することだけだ。
 だがその誤解のなかで、俺なりに消化したものがあり、富野由悠季とも多少関わるので書いてみようと思う。

 俺にとって『新世紀エヴァンゲリオン』は、<侵犯>の物語であった。
 <侵犯>することも、されることも恐れる男の子が、どうしたら大人になれるか、という難問を巡る話だ。
 “される”ことを恐れても“する”ことを恐れないヒロインに対して、“する”ことを決意するところがラストシーンだ、というのが俺の解釈だ。
 主人公が子供であるためにヒロインに対して男として<侵犯>することなど思いもよらなかった『機動戦士Vガンダム』の、ありえたかもしれないハッピーエンド(?)でもある。
 この変奏曲が『涼宮ハルヒの憂鬱』のラストシーンだろう。この作品も<侵犯>することを決意する男の子の話だ。

 とはいえ、『エヴァ』と『ハルヒ』には欠落しているものがある。
 ヒロインの美少女に<侵犯>されるのは気持ちいい、というのは奇蹟かもしれない、あるいは嘘くさい、ということだ。
 その点において、『V』はきちんと描く。ヒロインであるカテジナの、主人公への<侵犯>は、彼の擬似的な「母たち」を殺害することだからである。それは“痛み”だ。

 少女愛は人形愛に通じている、と書いたのは渋澤龍彦だったろうか。
 少女愛とは<侵犯>することもされることもない関係のない関係性のことなのだろう。

 『少女革命ウテナ』は、第一話と劇場版の序盤を観ただけなのだが(いづれちゃんと観ます)、そこで俺が直感したのは、これは穴なし乙女の物語なのかな、ということだ。『装甲騎兵ボトムズ』がパーフェクトソルジャーの物語なら、これはパーフェクトヴァージンの物語なのかな、と予感した。
 『エヴァ』が<侵犯>の物語であったように、『ウテナ』はもしかしたら反<侵犯>の物語を目指したのかもしれない。

 90年代は女ヒーローの時代だった。80年代の紡木たくと90年代の矢沢あいの違いは、矢沢あいの作品では主人公はイケてる集団のイケてる女ヒーローに自らなるわけだ。(ハチがロマンスコードに回収されたときナナがそこからお前を助け出してやるというセリフがあったがあそこは痺れた。『NANA』は出崎統に料理して欲しかったなー)
 子供が大人の力を手に入れる魔法少女ものとは一線を画しているのが『美少女戦士セーラームーン』であったろう。これもイケてる女子高生がヒーローをやるという話だ。
 この女性作家たちの描く女ヒーローものの流れのなかに、少女愛の男性作家による反<侵犯>の物語が接続されているとしたら、そのネジレはとても興味深い。

 この女ヒーローの時代を象徴する作品は(例によって未読なんだが……いづれちゃんと読みます)『BASARA』かもしれないのだが、この作品で女性がヒーローをやっているのを読んで、「驚いた」「時代がかわった」と証言したのが竹宮恵子だ。
 24年組という少女マンガ家たちは少年愛と呼ばれるジャンルの作品も描いた。彼女たちがなぜ少年愛を描かなければならなかったといえば、<侵犯>の物語を描くためではないかと想像している。
 主人公が女性ではダメだったのだ。なぜか。主人公が女性であれば、女性向けロマンスのコードに“回収”されてしまうからだ。<侵犯>の物語は、<愛>の物語でもありうるからだ。
 彼女たちが扱ったのはだから男性同性愛ではない。男性であることではなく、非女性であることが肝要だったのだろう。

 しかし女ヒーローが描かれる90年代に、この方面で180度の転換が行われる。ボーイズラブ(以下BL)と呼ばれる娯楽分野が台頭する。
 24年組の少年愛が“女性向けロマンスを回避する”ための装置であるのに対し、80年代のやおいには回避する意志は弱い。しかしそこにはあきらかに<侵犯>の“痛み”への目線がある。
 ところが女ヒーローが台頭する90年代に、同時並行的に登場するBLは、もはや“痛み”は存在しない。(俺の知る狭い範囲の話でごめん)
 女性向けロマンスのコードを回避するために男性同性愛という装置を利用しているのではない。BLにいたって逆になるわけだ。
 女性向けロマンスのコードを楽しむための装置として男性同性愛が描かれる。女性向けロマンスのコードを、「より安全に」「より非現実的に」楽しむために、男性同性愛という装置を利用しているのだ。
 一時期の乙女チックと呼ばれる少女マンガよりさらに徹底して甘美な世界がBLだ。女性向けロマンスのコードにおける「ハッピーエンド前のすれ違い」すら“痛み”ではなくて「性的玩弄」として(エロ的に楽しく)「甘美」に描くわけだ。恋愛は描かない。愛だけが描かれる。かつての乙女チックにわずかに残っていたビターな要素すらエロ的な楽しさに置換してより甘美さに徹底している。

 このことを鑑みれば、ある種の男性向けの作品が、女性登場人物オンリーになるのは、同じ理由があるのではないかと類推できる。
 つまり女性であることが肝要なのではなくて、非男性であることが肝要なのではないか。
 <侵犯>する可能性のある男性ではない、ということ。そして男性が作品内に登場しないことによって、ヒロインたちが<侵犯>される可能性もない、ということ。
 それがこの種の作品にとって肝要なのではないか、と想像する。

 俺の見立てによれば、女性(の一部)たちは、<侵犯>の物語から“痛み”だけを除去する方法論を編み出し、愛の物語を楽しんでいる。エロい。
 一方で、男性(の一部)たちは、<侵犯>の可能性を除去する方法論を編み出し、物語ならざる物語を楽しんでいる。エロくない。(二次創作の話は置いておくとして)

 俺はエロいおじさんなんで、BLの方が「まだ」理解できるんだが、<侵犯>の物語というのは、それほどキツい、と感じる人達が一部でいるのだろうな、と想像する。
 優しすぎる人たちなんでしょうね。

 『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』は、映画としての眼目は、美少女クェス・パラヤだった。
 クェスをうまく撮れれば成功し、撮れなければ失敗する、そういう類の映画だった。
 そして結果は失敗だったように俺は思う。

 理由は明白だ。富野由悠季は、少女愛とは無縁の男だからである。
 おま×この匂いのない女なんて欲情しないよ、という男だ。
 しかしこれが間違っていたのではないか。

 少女愛とは人形愛なのだ。おま×この匂いなんかしない、というか、つまり穴なしが理想なのではないだろうか。
 <侵犯>できないし、されない、という関係なき関係性である。

 それはニュータイプの夢とは真逆の、ピグマリオンの楽園である。

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『母性のディストピア』を読んだ

 予感としては「母性が云々」というのは江藤淳文脈かなと思った。(だから「風にひとりで」などを書いてしまったのだが)
 予感はだいたい当たったのだが、想像していた以上に「大きな話」になっていて、驚いた。

 宮﨑駿論は「なるほど、そういう見かたもあるのか」と分かりやすかった。
 富野由悠季論は「えっとどういうこと?」と分かりづらい。
 押井守論すら「なんとなく」分かったのだが、肝心の富野論が分からん、という事態に陥ってしまった。
 構成的にいえば宮﨑駿→富野由悠季→押井守と連なって論が展開されているはずで、アタマの宮﨑論とオシリの押井論が分かって、真ん中の富野論が分からないというのはちょっとありえないのだが、俺の頭ではいまひとつ焦点を合わすことができなかった。

 おそらく「母性のディストピア」という問題意識の外にはみ出すかたちで、富野由悠季が語られているからだろう。冗長で散漫なのだ。
 なぜかといえば、富野を語るのに「母性のディストピア」という問題意識は、いささか小さすぎるからだ。
 「母性のディストピア」という文脈で語れるものがあるとすれば、いくつかの作品に絞り込めたはずであり、そうすればもっと分かりやすくなったはずだ。

 それだけ多くの富野監督作品が語られているともいえる。
 『海のトリトン』からはじまり代表的な作品がほぼ全部網羅されているのだから、その情熱に圧倒され、賛嘆せざるをえない。
 富野ファンだったら楽しめるのか、という点では微妙なところだ。宇野常寛が自身の文脈に引き寄せすぎているからだ。それを覚悟して読む必要がある。評論家は批評家を兼ねることはできるが、批評家は評論家を兼ねることはできないということだろう。

 印象に残ったのは、富野監督作品のなかに、予見性を視ている点だ。
 そこに宇野のテーマがあるからだろうか、「ニュータイプ」を語るとき「イデ」を語るとき「黒歴史」を語るとき、筆致は生き生きとし華やかな魅力を放つ。

 『海のトリトン』、『無敵超人ザンボット3』に対する言及は、それほど特色のあるものではない。児童向け作品のお約束に現実が殴り込んでくるというものであり、このあたりは富野ファンであれば周知のとおりだ。

 『無敵鋼人ダイターン3』の読解は面白い。少年がロボットに乗って自己実現を果たすジャンルにおいて、なぜ大人の男である破嵐万丈はロボットに乗って戦うのか。父との関係、成熟の問題、すべてがロボットアニメのフォーマットのアンチテーゼだというのだ。

 『機動戦士ガンダム』のラストにおいてアムロが帰還するのが“擬似家族”であることを強調して見出していているのが興味深かった。そこに「ニュータイプの可能性」を見出すのが今作のミソだ。宇野の富野論はその「ニュータイプの可能性」を縦軸として語られていく。そこに「母性のディストピア」を超克する鍵があるからだ。

 『伝説巨神イデオン』と『聖戦士ダンバイン』に「ニュータイプになれないオールドタイプの悲劇」を視るというのは新鮮だった。ガンダムシリーズ以外の作品にも、ニュータイプ/オールドタイプを視るというのは今作の白眉だろう。
 
 『機動戦士Ζガンダム』にオウム真理教のポアの思想に近いものがあるという指摘は、俺が同作に感じていた違和感をうまく言語化してくれていた。『ダンバイン』を経由した『Ζ』のニュータイプはエゴが直接ぶつかり合うディストピアとして描かれるというのは説得的だ。

 『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』に富野のニヒリズムを視るというのも面白かった。シャア寄りの視点であり俺に近い。ただ俺は富野の「ニヒリズムとデカダンスに陥らない」という言葉も信じたい。

 「母のつくったガンダム」「母に導かれてのヒロイン救済」を描く『機動戦士ガンダムF91』がそれほど強く批判されていないのは意外だった。富野はこのとき「母性のディストピア」との融和を図ろうとしたのではないか、という指摘に留まる。『F91』に画期を見出すというのは俺と同じで、その点では嬉しかった。

 「母性のディストピア」という言葉から真っ先に想起されるのは『機動戦士Vガンダム』だが、意外にもそこにはあまり紙数を使っていない。ただしっかりとカテジナ・ルースの名が刻まれている。案の定そこに可能性を見出していて微笑ましかった。

 『ブレンパワード』の評価は辛辣だ。その「思想」はオウム真理教となんら変わりがないと断言される。俺はそうは思わないが、同作にある種の独善性を感じたことも確かである。「母性のディストピア」の文脈でいえばそれに抗う意思、そして絶望が描かれなかった。和解を許さない絶望──シャアや鉄仮面が不在なのだ。葛藤はすべて家族/男女の話として和解されてしまう。

 『∀ガンダム』は絶賛に近い。「母性のディストピア」から“自由”を勝ち得たことを評価している。「黒歴史」に物語からデータベースへの時代の移行をみ、ロランに中間的な存在をみ、ディアナ/キエルには母になることも拒否することもない自律した物語をみる。『∀ガンダム』好きの俺ですらここまで絶賛できない。『∀ガンダム』に『伝説巨神イデオン』との関連を見出す点、「敵の設定」が弱かったという指摘は、俺と感じたこととほぼ同じだ。

 『OVERMANキングゲイナー』で「大人の男」を描きそこねた、描き出し得なかった、という指摘はハッとさせられるものがあった。また「引きこもり」の理由が的外れだ、という指摘も納得だ。宇野はカミーユ・ビダンというキャラクターを時代に先駆けて創造した富野が、この時点では時代に乗り遅れてしまったという。悔しいが、説得的だ。

 『機動戦士Ζガンダム A New Translation』に「極めて良心的な原作者」を見出すのは意外だった。俺は極めて“迷惑な”原作者という感想しか抱けなかった。2クールのアニメをきっちり二時間半の一本の(良質な)映画に仕立て上げた『STAR DRIVER 輝きのタクト』の五十嵐卓哉監督+脚本榎戸洋司コンビに編集して欲しかったとすら思ったぐらいだ。

 『リーンの翼』はアナクロニズムとして捉えられてしまう。バイストン・ウェル・シリーズは日本を描く虚構なのだが、宇野はその点でなぜか冷たい。「母性のディストピア」という問題意識から遠い物語群だからかもしれないし、宇野が「世界市民」の側に立っているからかもしれない。

 『ガンダム Gのレコンギスタ』は物語をつくりえていないという指摘は、宇野とは別の文脈だが、俺も感じたところだ。作品の難解さは現在の情報社会への反時代的メッセージと受け止めているが、ここは過剰な読み込みに思えた。富野はもともと「物語」の人ではない、というのが俺の考えだ。「コンセプト」の人である。その富野が全話脚本をしてしまったのが難解さにつながったと思っている。難解さは「意図」ではなく「失敗」だったのではないだろうか。

 宇野は富野が「ニュータイプ」を諦めるべきではなかったという。
 もう一度、アムロがそうであったような(希望としての)「ニュータイプ」を語ることが富野の仕事だというのだ。

 その点においては、俺もまったく同感である。

 もちろん富野“喜幸”が人類文明の未来に希望を抱ければの話だが。

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風にひとりで

 大人をやってみせるしかない年齢になって「成熟」の問題について語るのは我ながらどうかなと思う。

 ヒトは「成熟」することはあるのか、と言われれば、あるのよね、としか言いようがない。

 じゃあそれは何か言葉にしてみろ、というのは難しいんだな。ひとそれぞれだから。

 大人とこどものパッチワークが人間で、大人の部分が増えていく感じかな、俺の場合。

 ひとによって年齢さまざまだけど、ある歳になると、パッと目の前が開くときがある。クリアになる。

 いままで気づけなかったことが気づけるようになる。年齢を重ねるのも悪くないなと思える瞬間があるんですよ。

 「成熟」にキリがないのもたしかで、どこまで登っても坂道は続くみたいというのが今のところの俺の考えかな。

 もちろん「成熟」を拒否して開き直るヒトもいて、それはそれでありですよね、とも思っています。

 神話的地平において「成人」になれない、というのは現代文明を手に入れた人類の宿命で、悲しいけどそこは甘んじるしかないのよね、というのが俺の考える「大人」かな。

 平井和正追悼記事の追記でも書いたことだけど、現代文明は全体性を留保することによって科学を手に入れたんだね。

 宇宙に意味なんてないじゃない? そういうことです。

 おかげで現代人はコスモス的意味を帯びた「成人」になれないんだな。神話を生きることができない。寂しいかぎりです。

 俺はさ、「成熟」をめぐる問題を「戦後日本」がどうの「母の喪失」がどうのといった「大きな話」にしちゃうのはどうかと思うんだよね。

 それって、裏返ったナショナリズムであり、日本人のナルシシズムだと思うんだな。

 コスモス的意味を帯びた「成人」になれないのは、現代文明人すべてにいえることだからさ。

 コスモス的意味を帯びた“ニュータイプ”や“聖戦士”は、だからこそ危うい魅力を帯びているんでしょうね。

あれこれレコ

・G-レコ劇場版五部作
 興業的にこれは難しい気がするなー。その意気込みは買うけど。
 劇場公開が途中で頓挫したとしても、五枚組Blu-rayを出してくれると嬉しい。

・G-レコの難しさ
 以前にも書いたけど、G-レコは、作品内容とフィルムのテンションに落差があるんだな。
 作品内容はキツキツなのに、フィルムはふわっとしている。それがいい、というひともいるかもしれないけど、俺には違和感が残った。

 宮﨑駿の凄さのひとつは、ご自身で画もおやりになる方だからかもしれないが、作品内容とフィルムの感触に落差がないんだな。おなじ“遺作”でも『もののけ姫』と『風立ちぬ』ではテンションがぜんぜん違う。でも内容もそれと連動するように違うんだな。そこが凄い。素晴らしい。

 G-レコはそういう意味でどうしてもチグハグ感が残る。頭でっかち。上半身に下半身がついていけてない。
 そのへんがね、難しさのひとつになったんじゃないだろうかね。G-レコの内容ならもっとテンション上げなきゃね。

 初代の頃から劇場版で“化け”させてきた富野監督だけに、G-レコをどう“化け”させるのか、いまから楽しみだ。

・G-レコの楽しさ
 作品世界に“入る”ことさえできれば、G-レコほど“楽しい”作品も珍しいよな。
 シリアス富野サンかと思えば、のほほん富野サンだったりしてね、その混線ぶりがノイズになっていて、わかりづらさの原因のひとつでもあるんだろうが、いいんだよそのへんはテキトーで、という野放図な感じがなんともね、なんともいえないんだよ。

・G-レコのキャラクターたち
 作中人物、みんな愛おしいな。みんな好き。

 ただやっぱりベルリとルインは別格。
 おっさん目線でいうと、ベルリはほんと可愛くてね、まあ天然だよな、良くも悪くも。説教してもこいつ絶対伝われねーなというくすぐったさというのか。あいつまあ天才だし好きにやらておこうか。おっさんはケツ持ちぐらいしかできないか。そんな感じ。
 ルインもまたねー、おっさん目線でいうと痺れるくらいにいいんですよ。有能で野心家というだけで嬉しいのに、老害なんて食っちまうぜという凶暴さがさ、いいんだよ。老害が老害がと泣き言いうんじゃなくね、平然と食らっていく、見向きもしない、そんな若さに痺れるんだなー。ああいう奴に食われるぐらいの老害にならなければ、と身が引き締まりますよ。

 お嬢ちゃんたちはねー、まあ俺はスケベだから、みんな好きなんだよね。ベルリのママンとかもね、みんな可愛いよな。結構オンナに辟易するところもある富野サンだけど、今回はみんな素直なオンナばっかりで、ちょっと驚いたな。あー楽しい。
 初代でいうと、主人公のお相手候補ということでいえば、フラウ・ボゥもララァもセイラさんもみんな好きだけど、セイラだけさん付けなんだよね、俺のなかで。ああ、やっぱり俺はセイラさんが一番なのかなと自覚するわけですよ。
 そういうことでいえば、アイーダ、ノレド、ラライヤさんで、ラライヤだけさん付けなんで、いちばん好みなんだろうなー。叱られたい。

 おっさんキャラも好きなやつばかり。まあ基本的にダメな大人ばかりなんだけどね、そーゆーもんだよね、と苦笑しながら観ていたな。
 アイーダのパパンとかね、わかるんだよね。そりゃ自分の手でアレコレできるかもと思えば張り切るよ。燃えるよ。近視眼的と言われればそのとおりなんだけどね。サクセスが目の前にぶら下がっているんだもん。走りもするさ。
 ちょい役だけど、トワサンガのノウトゥ・ドレットも印象に残ったなー。我儘もきいてきた懇ろの優秀な美人部下の妄言を退ける分別が「またそれか」という芝居ひとつでみせるのがよかったなー。声優さん音響監督ナイスだったな。とにかく地球に降りろ、それさえ叶えば願いは化ける、という指令も切なかった。ちょっとした芝居だけでこれだもんね、富野サン凄すぎっしょ。

・G-レコの結末
 頭ではわかっても、俺はやっぱり納得いかないな。
 バックパッカーって夢がない。現実的すぎる。そういうのはルインとマニィに任せときゃいい。
 ヒッピーカルチャー(カウンターカルチャー)→ニューエイジという流れがあって、俺の思想的脊柱でもあるだけに、富野サンにはもっと別のネクストをみせてほしかったな、と贅沢にも思うんだよね。

 劇場版で変えてきてくれると嬉しいな。

『無敵鋼人ダイターン3』について

 『無敵鋼人ダイターン3』の一挙放送がアニマックスではじまったようだ。
 ようだ、というのは、俺はアニマックスをみていないからである。

 当Blogのコメント欄によく書き込んでくださって、いろいろと啓発してくださるJINさんが、「出来ればこちらの作品評も」と仰ってくださったので、記事を書いてみようと思った。

 思ったのだが、よく覚えてないのである。俺の記憶力のなさ、あるいは記憶違いのしょうもなさは、当Blogの読者なら知っていると思う。いやおめえのことなんざ興味ないヨという方もいらっしゃると思うが、俺はまあそういう奴である。

 しかしせっかくのJINさんのご指名である。かるく触れてみようかと思う。

 富野監督という存在を意識するようになったのは『機動戦士ガンダム』からである。貧乏だった子供時代、友達のつてで映画をよく観ていたのだが、監督を意識するようなタイプの観客ではなかった。古ぼけた映画館の方だって映画青年向けの「作家主義」的ラインナップではなく、スティーブ・マックィーン三本立てとか映画スター目当てのラインナップだった。
 しかし『ガンダム』はアニメである。映画スターもへったくれもない。監督を意識するしかなかった。それ以来、実写映画の方もぼちぼちと監督を意識するようになっていく。

 俺にとり『ダイターン3』は、監督が誰かをまったく意識しなかった最後の作品ということになる。富野ファンとしてではなく、一ちびっことして観た最後だ。

 『ダイターン3』は正しく子供番組だ。
 小学校を卒業する前には自然と観なくなっていくタイプの子供番組だ。
 ゴールデンタイムで放映されていたような、基本子供向けだが、家族でも楽しめるタイプの番組ではない。(特撮ヒーローものはゴールデンタイムで放映されていた番組だが、子供時代とともに卒業していくという点では、同様の位置にあった。たしか『仮面ライダー』の次の時間帯に世界名作劇場が放映されていたのだが、ライダーがおわり名作劇場がはじまると、親がほっと息をぬき、一緒にテレビを観てくれる空気があった。それが名作劇場だからという理由ではない。出崎統が夢のような凄い作品群を生み出し「お茶の間」で──ああ、これはいまは伝わらないかな──楽しんでいたのだ)

 昭和のおっさんがどう伝えていいか苦慮するところだが、昭和ではテレビ漫画はもっと普遍的だった。いまのようにたとえ『ワンピース』であろうとアニメがテレビに映った瞬間チャンネルをかえられるような時代ではなかった。そのなかであってすらロボットアニメは特撮ヒーローものと同様、中学生以上がみるような番組ではなかったということだ。オタクが文字通り“少数精鋭”だった時代だ。庵野秀明の世代だ。

 『機動戦士ガンダム』ブーム以前以後でまったく違うのである。良かれ悪しかれ、いまのアニメは、広い意味で、ガンダムの末裔である。

 当時の俺にとり『ダイターン3』は、数あるロボットアニメのひとつであり、『無敵超人ザンボット3』の後番組でしかなかった。

 でしかなかった、という表現はしかしちょっと違うかもしれない。『ザンボット3』は強烈な印象を残した作品であり、その後番組には大きなワクワク感をもっていたようにも思う。

 そのワクワク感はいい意味で裏切られた。泥臭い苛烈な作風の前作とまったく違い、洗練された軽妙洒脱な作風の作品だったからだ。

 暗い作品と明るい作品が交互につくられるというリズムがあるのではないか、という後年俺が思うようになるのは、このインパクトがあったからだろう。
 「黒富野」「白富野」という分類に俺がノレないのもそこにある。『伝説巨神イデオン』の次は『戦闘メカザブングル』なのだ。『機動戦士Ζガンダム』の次は『機動戦士ガンダムΖΖ』なのだ。

 作風の変化があったとしたら『機動戦士ガンダムF91』からだ。『F91』から富野は“異端”ではなく“正統”を目指すことになる。
 “正統”志向は『∀ガンダム』でいったん頂点を迎え、『リーンの翼』で作家主義が復活、『ガンダム Gのレコンギスタ』に繋がっていく。

 『ザンボット3』は強烈な印象を残した作品だったが、キャラクターの魅力という点ではいまひとつだった、というのが俺の記憶だ。
 トリトンやひびき洸といった絶大な人気を博すキャラクターを生み出してきた富野にしては珍しく「キャラが弱かった」と思っている。

 『ダイターン3』で富野はキャラクターを取り戻す。
 破嵐万丈である。
 『ダイターン3』という作品の魅力は、ほぼ彼にあったといっていい。小学生の俺は彼の登場にびっくりし喝采をあげた。

 破嵐万丈はハンサムで金持ちでキザでおちゃめな男だ。有能な執事に仕えられ悠々自適の生活をしている。富野ワールドで、これほど完璧に近い男はいない。スピンオフ小説の主人公になるわけである。
 彼は女にモテるし、本人も女好きなのだが、子供番組の制約もあってか、色っぽい話にはならない。しかしどこかでなっていてもおかしくないと思わせるのが万丈で、俺はそこにルパン三世(アニメ版)よりもジェームズ・ボンドに近いものを感じていたように思う。

 ヒロインがふたりいて、紅一点という構図になっていないのも新鮮で、作品に華を添えるだめだけではなく、自立した大人のいい女として描かれていたはずだ。そこにも惹かれていたような気がする。俺が覚えているかぎり、とんでもない異色作だった。

 そんな異色作のなかに、視聴者と同年齢のトッポを放り込むことによって、子供でも気楽に楽しめる構造になっていた。(エンディングのトッポの歌がまた可愛らしく好きだった)

 長浜忠夫はたいへん尊敬している監督だが、彼のロボットアニメの内容はほぼ完全に忘れてしまっているのに対し、『ダイターン3』の記憶が若干でも残っているのは、それだけこの作品が時代性を超えた魅力を帯びているからではないだろうか。

 「時代性を超えた魅力」というのは富野作品の特徴で、彼は「ベストセラーよりロングセラー」型の作家であるという指摘は、たしか富野語りの先輩のどなたかがしていたはずだ。今回こうして純粋子供番組として記憶を掘り返してみて、俺もその意味がようやくわかってきた気がする。

 破嵐万丈はソフィスティケートされた伊達男というだけではない。
 彼には重い因縁があり、そのことが彼を縛り、作品に奥行を与えている。

 その奥行のなかで、万丈は謎めいていて、彼が視聴者にすべてを晒していないことがわかる。
 ここに『ダイターン3』の魔術があり、忘れがたい作品にしている。

 万丈の怪力、コロスの死に対する台詞、屋敷に灯る明かり。すべてが謎めいている。

 『ザンボット3』は幕を閉じた。『ダイターン3』は幕を閉じない。役者だけが舞台から去り、観客は誰もいない舞台をただ眺めるだけだ。こんな作品がほかにあるだろうか。

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プロフィール

shiwasu5

Author:shiwasu5
どんな奴か?
自己紹介。最終学歴は専門学校卒。(東京デザイナー学院アニメーション科)
小学時代→遊び時間と授業時間の区別がつかず。
中学時代→校内暴力をのびのびとエンジョイ。
高校時代→管理教育で次々と仲間が退学していくなかなんとか卒業。
浪人時代→二年間、進学/就職浪人をする。
本屋でバイト→本屋潰れる、古本屋でバイト→古本屋潰れる。クラブ通いで某事件を起こし警察に捕まったのもこの頃。
専門学校時代→馬鹿みたいに楽しかったが、周囲の才能に圧倒される。同期に吉田健一や長濵博史がいて、三人でつるんで歩いたこともある。やつらと較べた俺が間違いだった。
虫プロ入社。最低限の固定給が約束されているいい会社でした。『うしろの正面だあれ』の生活描写についていけず退社。絵が下手なのを実感。
バイト時代→バイトしながら漫画家を目指す。気に入ったコンテが描けず挫折。
デザイン系の会社のバイトから正社員へ。
現在は鬱(双極性障害)のため地獄を彷徨う。彼女と別れる。誰か背中抱いていてくれ。

好みの傾向
・アニメ五選(TVシリーズは除く)
『白い牙』
『機動戦士ガンダムF91』
『AIR』
『もののけ姫』
『アリオン』
・漫画五選
『メトロポリス』
『がんばれ元気』
『デビルマン』
『GANTZ』
『天然コケッコー』
・小説五選
『砂の惑星』
『狼の紋章』
『逃れの街』
『ながい坂』
『剣』
・映画五選
『ブレイブハート』
『ダークシティ』
『夜の大捜査線』
『用心棒』
『イージー・ライダー』
・音楽はわかりません。
世代的にいえば
サザン、YMO、尾崎、マイケル・ジャクソン、U2あたりが直撃です。
クリス・レアとかビリー・ジョエルとかも好きでした。(英語歌詞わからんけど)
・政治傾向
公武合体、天皇機関説、大きな政府、死刑廃止論者。
・女性の好み
シャアにとってのララァみたいな。
・男性の好み
元気くんのお父さん。
・富野由悠季の好きなところ
一生懸命なところ。

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