ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

富野由悠季への愛を告白するBlogです。熱狂的なファン時代は過ぎ、今はちょっと遠くから眺めている感じでしょうか。 『伝説巨神イデオン』で“ゴーチンby小松左京”されたクチです。

あれこれレコ

・G-レコ劇場版五部作
 興業的にこれは難しい気がするなー。その意気込みは買うけど。
 劇場公開が途中で頓挫したとしても、五枚組Blu-rayを出してくれると嬉しい。

・G-レコの難しさ
 以前にも書いたけど、G-レコは、作品内容とフィルムのテンションに落差があるんだな。
 作品内容はキツキツなのに、フィルムはふわっとしている。それがいい、というひともいるかもしれないけど、俺には違和感が残った。

 宮﨑駿の凄さのひとつは、ご自身で画もおやりになる方だからかもしれないが、作品内容とフィルムの感触に落差がないんだな。おなじ“遺作”でも『もののけ姫』と『風立ちぬ』ではテンションがぜんぜん違う。でも内容もそれと連動するように違うんだな。そこが凄い。素晴らしい。

 G-レコはそういう意味でどうしてもチグハグ感が残る。頭でっかち。上半身に下半身がついていけてない。
 そのへんがね、難しさのひとつになったんじゃないだろうかね。G-レコの内容ならもっとテンション上げなきゃね。

 初代の頃から劇場版で“化け”させてきた富野監督だけに、G-レコをどう“化け”させるのか、いまから楽しみだ。

・G-レコの楽しさ
 作品世界に“入る”ことさえできれば、G-レコほど“楽しい”作品も珍しいよな。
 シリアス富野サンかと思えば、のほほん富野サンだったりしてね、その混線ぶりがノイズになっていて、わかりづらさの原因のひとつでもあるんだろうが、いいんだよそのへんはテキトーで、という野放図な感じがなんともね、なんともいえないんだよ。

・G-レコのキャラクターたち
 作中人物、みんな愛おしいな。みんな好き。

 ただやっぱりベルリとルインは別格。
 おっさん目線でいうと、ベルリはほんと可愛くてね、まあ天然だよな、良くも悪くも。説教してもこいつ絶対伝われねーなというくすぐったさというのか。あいつまあ天才だし好きにやらておこうか。おっさんはケツ持ちぐらいしかできないか。そんな感じ。
 ルインもまたねー、おっさん目線でいうと痺れるくらいにいいんですよ。有能で野心家というだけで嬉しいのに、老害なんて食っちまうぜという凶暴さがさ、いいんだよ。老害が老害がと泣き言いうんじゃなくね、平然と食らっていく、見向きもしない、そんな若さに痺れるんだなー。ああいう奴に食われるぐらいの老害にならなければ、と身が引き締まりますよ。

 お嬢ちゃんたちはねー、まあ俺はスケベだから、みんな好きなんだよね。ベルリのママンとかもね、みんな可愛いよな。結構オンナに辟易するところもある富野サンだけど、今回はみんな素直なオンナばっかりで、ちょっと驚いたな。あー楽しい。
 初代でいうと、主人公のお相手候補ということでいえば、フラウ・ボゥもララァもセイラさんもみんな好きだけど、セイラだけさん付けなんだよね、俺のなかで。ああ、やっぱり俺はセイラさんが一番なのかなと自覚するわけですよ。
 そういうことでいえば、アイーダ、ノレド、ラライヤさんで、ラライヤだけさん付けなんで、いちばん好みなんだろうなー。叱られたい。

 おっさんキャラも好きなやつばかり。まあ基本的にダメな大人ばかりなんだけどね、そーゆーもんだよね、と苦笑しながら観ていたな。
 アイーダのパパンとかね、わかるんだよね。そりゃ自分の手でアレコレできるかもと思えば張り切るよ。燃えるよ。近視眼的と言われればそのとおりなんだけどね。サクセスが目の前にぶら下がっているんだもん。走りもするさ。
 ちょい役だけど、トワサンガのノウトゥ・ドレットも印象に残ったなー。我儘もきいてきた懇ろの優秀な美人部下の妄言を退ける分別が「またそれか」という芝居ひとつでみせるのがよかったなー。声優さん音響監督ナイスだったな。とにかく地球に降りろ、それさえ叶えば願いは化ける、という指令も切なかった。ちょっとした芝居だけでこれだもんね、富野サン凄すぎっしょ。

・G-レコの結末
 頭ではわかっても、俺はやっぱり納得いかないな。
 バックパッカーって夢がない。現実的すぎる。そういうのはルインとマニィに任せときゃいい。
 ヒッピーカルチャー(カウンターカルチャー)→ニューエイジという流れがあって、俺の思想的脊柱でもあるだけに、富野サンにはもっと別のネクストをみせてほしかったな、と贅沢にも思うんだよね。

 劇場版で変えてきてくれると嬉しいな。

『無敵鋼人ダイターン3』について

 『無敵鋼人ダイターン3』の一挙放送がアニマックスではじまったようだ。
 ようだ、というのは、俺はアニマックスをみていないからである。

 当Blogのコメント欄によく書き込んでくださって、いろいろと啓発してくださるJINさんが、「出来ればこちらの作品評も」と仰ってくださったので、記事を書いてみようと思った。

 思ったのだが、よく覚えてないのである。俺の記憶力のなさ、あるいは記憶違いのしょうもなさは、当Blogの読者なら知っていると思う。いやおめえのことなんざ興味ないヨという方もいらっしゃると思うが、俺はまあそういう奴である。

 しかしせっかくのJINさんのご指名である。かるく触れてみようかと思う。

 富野監督という存在を意識するようになったのは『機動戦士ガンダム』からである。貧乏だった子供時代、友達のつてで映画をよく観ていたのだが、監督を意識するようなタイプの観客ではなかった。古ぼけた映画館の方だって映画青年向けの「作家主義」的ラインナップではなく、スティーブ・マックィーン三本立てとか映画スター目当てのラインナップだった。
 しかし『ガンダム』はアニメである。映画スターもへったくれもない。監督を意識するしかなかった。それ以来、実写映画の方もぼちぼちと監督を意識するようになっていく。

 俺にとり『ダイターン3』は、監督が誰かをまったく意識しなかった最後の作品ということになる。富野ファンとしてではなく、一ちびっことして観た最後だ。

 『ダイターン3』は正しく子供番組だ。
 小学校を卒業する前には自然と観なくなっていくタイプの子供番組だ。
 ゴールデンタイムで放映されていたような、基本子供向けだが、家族でも楽しめるタイプの番組ではない。(特撮ヒーローものはゴールデンタイムで放映されていた番組だが、子供時代とともに卒業していくという点では、同様の位置にあった。たしか『仮面ライダー』の次の時間帯に世界名作劇場が放映されていたのだが、ライダーがおわり名作劇場がはじまると、親がほっと息をぬき、一緒にテレビを観てくれる空気があった。それが名作劇場だからという理由ではない。出崎統が夢のような凄い作品群を生み出し「お茶の間」で──ああ、これはいまは伝わらないかな──楽しんでいたのだ)

 昭和のおっさんがどう伝えていいか苦慮するところだが、昭和ではテレビ漫画はもっと普遍的だった。いまのようにたとえ『ワンピース』であろうとアニメがテレビに映った瞬間チャンネルをかえられるような時代ではなかった。そのなかであってすらロボットアニメは特撮ヒーローものと同様、中学生以上がみるような番組ではなかったということだ。オタクが文字通り“少数精鋭”だった時代だ。庵野秀明の世代だ。

 『機動戦士ガンダム』ブーム以前以後でまったく違うのである。良かれ悪しかれ、いまのアニメは、広い意味で、ガンダムの末裔である。

 当時の俺にとり『ダイターン3』は、数あるロボットアニメのひとつであり、『無敵超人ザンボット3』の後番組でしかなかった。

 でしかなかった、という表現はしかしちょっと違うかもしれない。『ザンボット3』は強烈な印象を残した作品であり、その後番組には大きなワクワク感をもっていたようにも思う。

 そのワクワク感はいい意味で裏切られた。泥臭い苛烈な作風の前作とまったく違い、洗練された軽妙洒脱な作風の作品だったからだ。

 暗い作品と明るい作品が交互につくられるというリズムがあるのではないか、という後年俺が思うようになるのは、このインパクトがあったからだろう。
 「黒富野」「白富野」という分類に俺がノレないのもそこにある。『伝説巨神イデオン』の次は『戦闘メカザブングル』なのだ。『機動戦士Ζガンダム』の次は『機動戦士ガンダムΖΖ』なのだ。

 作風の変化があったとしたら『機動戦士ガンダムF91』からだ。『F91』から富野は“異端”ではなく“正統”を目指すことになる。
 “正統”志向は『∀ガンダム』でいったん頂点を迎え、『リーンの翼』で作家主義が復活、『ガンダム Gのレコンギスタ』に繋がっていく。

 『ザンボット3』は強烈な印象を残した作品だったが、キャラクターの魅力という点ではいまひとつだった、というのが俺の記憶だ。
 トリトンやひびき洸といった絶大な人気を博すキャラクターを生み出してきた富野にしては珍しく「キャラが弱かった」と思っている。

 『ダイターン3』で富野はキャラクターを取り戻す。
 破嵐万丈である。
 『ダイターン3』という作品の魅力は、ほぼ彼にあったといっていい。小学生の俺は彼の登場にびっくりし喝采をあげた。

 破嵐万丈はハンサムで金持ちでキザでおちゃめな男だ。有能な執事に仕えられ悠々自適の生活をしている。富野ワールドで、これほど完璧に近い男はいない。スピンオフ小説の主人公になるわけである。
 彼は女にモテるし、本人も女好きなのだが、子供番組の制約もあってか、色っぽい話にはならない。しかしどこかでなっていてもおかしくないと思わせるのが万丈で、俺はそこにルパン三世(アニメ版)よりもジェームズ・ボンドに近いものを感じていたように思う。

 ヒロインがふたりいて、紅一点という構図になっていないのも新鮮で、作品に華を添えるだめだけではなく、自立した大人のいい女として描かれていたはずだ。そこにも惹かれていたような気がする。俺が覚えているかぎり、とんでもない異色作だった。

 そんな異色作のなかに、視聴者と同年齢のトッポを放り込むことによって、子供でも気楽に楽しめる構造になっていた。(エンディングのトッポの歌がまた可愛らしく好きだった)

 長浜忠夫はたいへん尊敬している監督だが、彼のロボットアニメの内容はほぼ完全に忘れてしまっているのに対し、『ダイターン3』の記憶が若干でも残っているのは、それだけこの作品が時代性を超えた魅力を帯びているからではないだろうか。

 「時代性を超えた魅力」というのは富野作品の特徴で、彼は「ベストセラーよりロングセラー」型の作家であるという指摘は、たしか富野語りの先輩のどなたかがしていたはずだ。今回こうして純粋子供番組として記憶を掘り返してみて、俺もその意味がようやくわかってきた気がする。

 破嵐万丈はソフィスティケートされた伊達男というだけではない。
 彼には重い因縁があり、そのことが彼を縛り、作品に奥行を与えている。

 その奥行のなかで、万丈は謎めいていて、彼が視聴者にすべてを晒していないことがわかる。
 ここに『ダイターン3』の魔術があり、忘れがたい作品にしている。

 万丈の怪力、コロスの死に対する台詞、屋敷に灯る明かり。すべてが謎めいている。

 『ザンボット3』は幕を閉じた。『ダイターン3』は幕を閉じない。役者だけが舞台から去り、観客は誰もいない舞台をただ眺めるだけだ。こんな作品がほかにあるだろうか。

『機動戦士Vガンダム』について 5/5 孤児と犬と大地

 『機動戦士Vガンダム』は前述したとおり、前半の失敗を後半で糊塗しようとしてさらに失敗を重ねてしまったというのが俺の評価だ。

 とはいえ駄作と言い切るには俺は『V』を愛し過ぎている。「富野宇宙世紀ガンダムの完結編」としてとても重要なフィルムであることは間違いない。

 たとえばニュータイプ論だ。以前にも書いたが、ニュータイプ論は『V』で完結したと思っている。

 初代『機動戦士ガンダム』はニュータイプという希望をもったラストを迎えて見事に完結した物語であった。“初代で完結した版”の『ガンダム』はニュータイプという人類の革新を夢見ることによって甘美な希望の物語たりえた。「大人になって何になる、いやしないのさ、そんなひと」と唄われるように、大人になったところで戦争のない世界をつくれないのないのなら、世俗的な意味での人格形成物語など無意味だからだ。
 しかし『機動戦士Ζガンダム』以降、ニュータイプから“未来への希望”が剥ぎ取られることになる。『Ζ』は決して優れた作品だとは思わないが、この作品のおかげで手に入れたものはあまりにも大きい。ガンダムビジネスが継続可能になったこと、ガンダムシリーズが年代記になったこと、なによりニュータイプ論の否定だ。カミーユの悲劇はニュータイプを未来への希望として描いた初代の否定である。

 ニュータイプ論の否定のうえに語られてきた富野ガンダムは、「疲弊期」を脱して復活した富野の「新章」とでもいうべき『機動戦士ガンダムF91』で唐突にその理念を蘇らせる。
 『F91』の主人公シーブックは、そのニュータイプのちからを使って、ヒロイン・セシリーを救うのだ。子供たちがヒーローを救って未来への希望を暗示させた初代と違うところで、ここにはニュータイプ論とともに生殖論も暗示されているとみていいだろう。
 初代の富野メモにおいて、かれがこだわった気配があるのが、ニュータイプ論と対になる生殖論だが、『F91』では対としてではなくひとつのものとして統合される。ニュータイプ論にひとつの決着がついたのだ。

 『V』はもっと先をいく。ニュータイプ論にはエリーティズムが残っていた。先鋭化すればシャアになる。
 『V』に至ってニュータイプ論と生殖論は“共存”することになる。それは対でもなく統合でもない。誰がニュータイプで誰がそうでないのか判然としない。大切なのは至極真っ当な人間であるかどうかだ。ここにニュータイプのエリーティズムは完全に姿を消すことになる。

 ニュータイプはサイキッカーと呼ばれ、身も蓋もない超能力者として扱われるが、「戦争のない世界を築く」という点で、かつての夢の欠片をもっている。
 それを主人公たちは否定する。
 女とこども、老人たちだけで戦ってきたのだ。いまさら母性原理による人類の去勢によって「戦争のない世界を築く」と言われても欺瞞にしか聴こえない。女とこども、老人たちには屹立する男性原理などないからだ。
 
 争いをふくめた「汚い世界」を人為で歪ませ「清浄な世界」を築こうとする意思そのものが否定されるわけだ。

 「汚い世界」……汚い自然のなかにあって、ひとは泥だらけのなかで生命の営みをつづけていく。素朴な生活の積み重ねこそがひとをして狂気から遠ざける。

 素朴な生活者として生きることを願う子供ヒーローには、ニュータイプ論は関係がない。本人がニュータイプだとしても関係がない。
 地に足の着いた大人の言葉だけが、かれのよって立つ大地だ。

 女たちに守られ、女たちを殺してきたウッソであっても、素朴な子供ヒーローであるがゆえに、大地はかれを迎え入れてくれる。
 大地はウッソがガンダムでそらに戻ることを許さない。シャクティの方こそそらから舞い降りてくる。

 大地からはじまり大地でおわる『V』は、ヒーローが子供であるがゆえに“往きて還りし物語”になりえた。通過儀礼の物語ではないのである。その点で『V』は「映画」的というより「テレビ」的といえるだろう。

 宇宙より地球、憧れより心安らぐ隣のひと、孤児と犬と大地、『V』はまごうことなき『ブレンパワード』のさきがけだ。

 カテジナはすべてを失って故郷に帰ってくる。シャクティは彼女を救うこともできたかもしれない。シャクティは彼女を選ばない。選べるはずもない。ただふたりの涙だけが別離の歌になる。
 『V』は、その終幕の哀切によって、愛さずにはいられない作品なのだ。

『機動戦士Vガンダム』について 4/5 手紙

 『機動戦士Vガンダム』を否定的に語るのは心苦しい。俺が尊敬する富野語りの天才・鬼才が『V』世代だというのだ。
 「な、なんじゃとてー」という驚きは隠せないが、『V』をして富野ファンの増加に繋がった、富野ファンの世代継承になった、というのなら、富野のヤケクソ気味の奮闘も無駄ではなかったということだろう。これほど嬉しいことはない。

 「初代が好きな俺が『機動戦士Ζガンダム』を嫌う」という表明にはためらいはない。むしろ歴史の証言として書き残しておくことに意味がある。その後のガンダムファンの間でおきる世代交換劇の典型例だからだ。『Ζ』は決して優れた作品だとは思わないが──それを言ったら初代だってそうだ──独特の魅力があることは確かだ。ラディカルな企画を未熟な若いスタッフに任せたのが原因なのかもしれないが、混沌、迷走などが逆に魅力になっていた。安易とでもいうべき悲劇の連続は主人公カミーユの精神を蝕み、あの衝撃的なラストにつながる。

 『機動戦士Vガンダム』にも似たようなところがある。作品の出来は決してよくはないのだが、それゆえにある種の魅力を獲得したことは間違いだろう。

 それは“痛み”なのだと思う。
 『V』放映当時すでに大人だった俺には安易なセンセーショナリズムによる“どきつい”描写にしかみえなかった数々の場面は、当時こどもだった視聴者にとってリアルだったのかもしれない。

 『V』のリアルタイム世代とはロストジェネレーションであろう。バブルの余韻を味わえた団塊ジュニア以上に未来への展望をもたないのが特徴かもしれない。俺からみれば、そこにあるのはペシミズムだ。ネトウヨすらもっていた(安い)プライドもない。すがるものがない。徹底的なペシミズムをそこにみる。

 その彼らに確かに届いた手紙が『V』だったのかもしれない、と俺からはみえる。
 “痛み”だけが、ペシミズムの底に沈んだ少年少女たちにとって「やっと届いた他者からの手紙」だったのではないだろうか。

 そういう意味では、送り手と受け手に大きなズレがあるのが『V』だといえる。
 「作品論」と「受容論」に大きな落差があるのだ。

 富野由悠季自身ですら、そのあたりは理解できていないと思える。『V』を否定する富野は明らかに「作品論」として語っている。

 確か高橋良輔が指摘していたことだが、『V』が成功していれば『新世紀エヴァンゲリオン』の出番はなかったとまで言っていたはずだ。ちょっと言い過ぎな気もするが、“痛み”だけが届けられる何か、という点でも、両作品には似た匂いを感じる。「作品」として成立しなかったことは残念だ。
 とはいえ『V』が「作品」として成立したとしたら“痛み”のようなものは生まれなかったかもしれない。富野の迷走、悪意、手練手管の頽廃などが、あのフィルムを生んだだろうからだ。(“スッキリ”した小説版を読めばよくわかる)

 『V』世代が、これだけの優れた富野語りをしてくれるような人々になっているのだとしたら、「受容論」としては成功したといっていいだろう。

『機動戦士Vガンダム』について 3/5 加速する迷走

 『機動戦士Vガンダム』はまず序盤からおかしい。主人公ウッソ・エヴィンの凄さを表すためなのかもしれないが、かれは盗んだ敵機を何話にも渡って乗り回すのだ。もうその段階で間違っている。何のアニメだ。
 ウッソのトリッキーな戦いは手に汗握るもので大好きなのだが、それだけにロボの性能が不分明になってしまったきらいがある。乗り手の優秀さの方が目立ってしまうのだ。乗機がガンダムである必然性がないのである。これでは『装甲騎兵ボトムズ』の世界だ。

 子供向けの単純な勧善懲悪の“構図”になっていない点も問題だ。
 「設定」段階でどうであろうと、フィルムに現れるのは、子供を平気で巻き込む主人公勢力と、それに批判的な敵対勢力という“構図”である。
 この倒錯した“構図”は『V』の失敗の最たるもので、終盤にいたって敵の「悪」をえげつなく描かれざるをえなくなる。作劇の失敗を糊塗しようとして登場させられた最大の犠牲者はもちろん(ご都合主義的に担ぎ出された)カテジナ・ルースだ。

 カテジナはごく序盤には主人公勢力の内部の批判者だった。彼女の批判は作品にバランスをもたらすものだったはずなのだが「頭でっかちのお嬢さん」として否定されてしまう。主人公勢力の批判者でもあるがゆえに客観視させてくれるカイ・シデンの役割があっさり否定されてしまうのだ。

 カテジナは敵対勢力のひとり、とっさに子供たちをかばうクロノクル・アシャーの人柄に惹かれ、敵対勢力に身を投じることになる。そこで彼女が敵対勢力の強烈な「悪」を目撃する展開になって「主人公勢力の言い分も理解できた」というのなら、この作劇も無駄ではないのだが、そうではない。

 「設定」上はどうであれ、フィルムに現れたかぎりでは、カテジナはウッソのことを憎からず思っている風であり、シャクティの存在を意識している芝居もみせた。カテジナがクロノクルについていく決定打になったのはシャクティの存在である、そんな芝居である。
 その芝居が、「敵対勢力の絶対悪を目撃しての帰還」という作劇につながらないので、カテジナはウッソのもとに戻る理由を失うわけで、シャクティとの緊張感も失われることになる。
 こうしてカテジナは作劇の外に放り出されて、何のために登場したのかわからないキャラクターになってしまう。

 前半の作劇の不具合は、後半から、弥縫策のような手練手管で埋め合わされることになっていく。
 クロノクルはその人柄が急変して「悪」を平気でおこなう男になり、作劇の外で“宙ぶらりん”になっていたカテジナも性格が急変して敵役として「悪」の狂女になっていく。
 終盤に向けて敵対勢力の「悪」がえげつないぐらいにエスカレートし、視聴者にショックを与えるようになる。

 こうしたどぎつい展開に、富野色をどうみるか、意見の分かれるところだろう。

 『機動戦士ガンダムF91』前後で作風が変わったと考える俺は、ここに現れる富野色を否定的にみる。

 みえるのは作劇の失敗であり、それを糊塗しようとしてさらに失敗を重ねる醜態だ。ベテランの手練手管があるだけに余計に見苦しい。

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プロフィール

shiwasu5

Author:shiwasu5
どんな奴か?
自己紹介。最終学歴は専門学校卒。(東京デザイナー学院アニメーション科)
小学時代→遊び時間と授業時間の区別がつかず。
中学時代→校内暴力をのびのびとエンジョイ。
高校時代→管理教育で次々と仲間が退学していくなかなんとか卒業。
浪人時代→二年間、進学/就職浪人をする。
本屋でバイト→本屋潰れる、古本屋でバイト→古本屋潰れる。クラブ通いで某事件を起こし警察に捕まったのもこの頃。
専門学校時代→馬鹿みたいに楽しかったが、周囲の才能に圧倒される。同期に吉田健一や長濵博史がいて、三人でつるんで歩いたこともある。やつらと較べた俺が間違いだった。
虫プロ入社。最低限の固定給が約束されているいい会社でした。『うしろの正面だあれ』の生活描写についていけず退社。絵が下手なのを実感。
バイト時代→バイトしながら漫画家を目指す。気に入ったコンテが描けず挫折。
デザイン系の会社のバイトから正社員へ。
現在は鬱(双極性障害)のため地獄を彷徨う。彼女と別れる。誰か背中抱いていてくれ。

好みの傾向
・アニメ五選(TVシリーズは除く)
『白い牙』
『機動戦士ガンダムF91』
『AIR』
『もののけ姫』
『アリオン』
・漫画五選
『メトロポリス』
『がんばれ元気』
『デビルマン』
『GANTZ』
『天然コケッコー』
・小説五選
『砂の惑星』
『狼の紋章』
『逃れの街』
『ながい坂』
『剣』
・映画五選
『ブレイブハート』
『ダークシティ』
『夜の大捜査線』
『用心棒』
『イージー・ライダー』
・音楽はわかりません。
世代的にいえば
サザン、YMO、尾崎、マイケル・ジャクソン、U2あたりが直撃です。
クリス・レアとかビリー・ジョエルとかも好きでした。(英語歌詞わからんけど)
・政治傾向
公武合体、天皇機関説、大きな政府、死刑廃止論者。
・女性の好み
シャアにとってのララァみたいな。
・男性の好み
元気くんのお父さん。
・富野由悠季の好きなところ
一生懸命なところ。

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