ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

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『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』について 4/6

 『逆襲のシャア』は、「アムロとシャアの物語」として観ると、いまひとつ物足りない。俺の場合はそうだ。続編映画としてではなく、一本の映画として観た場合、彼らの背負った物語は、わかりづらい。
 しかし『逆襲のシャア』に物語がないわけではない。「クェス・パラヤの物語」である。

 前述したとおり、俺にはクェスの魅力がわからない。富野ヒロインは悪名高いカテジナ・ルースふくめてみんな好きだが、クェスだけは「わからない」。嫌っているわけではない。文字通り「わからない」としか言いようがない。
 それはまっつねさんのご指摘どおり、クェスは「富野が挑んだ出崎的ヒロイン」だったからかもしれない。ララァ・スンからさらに踏み込んだ出崎的ヒロインなのだ。どちらかと言えば「よくできた作劇」を愛好する俺の嗜好からすればクェスはそこからはみ出しすぎていた。
 出崎ヒロインはもちろん好きなキャラクターばかりだが、それは出崎ヒーローというお相手がいる場合にかぎる。俺の場合少女マンガがわからないのでそうなる。あまり上等な視聴姿勢ではないのかもしれないが、俺は「感情移入型」の観客である。クェスのお相手たるヒーローがいない場合、どうやって彼女を「見つめて」いいかわからないのだ。
 ハサウェイやギュネイでは足りない。足りているのはアムロとシャアだが、彼らは「お相手」ではない。アムロやシャアの立場で「見つめて」しまうと、ただの小娘に映ってしまう。これはこれで富野の狙い通り、「正解」のひとつなのだろう。
 しかし『逆襲のシャア』が「クェス・パラヤの物語」でもあるとしたら、その「正解」はあまりにも貧しい。

 JINさんにご指摘していただいたのだが、一口に「ニュータイプ」といっても変遷があるようなのだ。
 ニュータイプの理想は「誰とでも」交感することだ。しかしアムロとララァの交感が「密会」であるように、それはセックスに似たものになる。
 そしてカミーユという女性名をもった美少年が「男女問わず誰とでも」交感することにより壊れていくのが初期ニュータイプの到達点だ。
 ニュータイプがゆえに自他ともに破滅を迎えるような衝動性を抱えたのが“カミーユ以後”のキャラクターだという。
 その“カミーユ以後”の究極がクェス・パラヤらしいのだ。

 この変遷のなかでわかるのは、富野はニュータイプの理想を少しづつ捨てていった、ということだ。
 初代ガンダムラストの甘美さは星山テイストだと思うのだが、富野はそれに抗うようにニュータイプの理想を捨てていく。

 ニュータイプの交感がセックスに似たそれだとしたら、「密会」の甘美さばかりではなく「レイプ」の悲惨さを招くこともありうるのだ。
 富野ガンダムにおいて「勝手に交感され激怒する」のが女性キャラクターなのはそのためである。
 そしてそれをなだめるために「生身のコミュニケーション」をとろうとするのが男性キャラクターである。
 小説『機動戦士ガンダム』でアムロがクスコ・アルを口説くのに失敗したように、「勝手に踏み込んだ」男性キャラクターたちは口説く手順を間違えている。ヒロインたちが怒るのは無理がないのだ。

 クェスは「交感」よりも「衝動性」が強調されたキャラクターだ。「娼婦性」が欠落した「処女性」をもったニュータイプといえるだろう。「誰とでも寝る」のではなく「誰とも寝ない」のだ。
 そこには初期ニュータイプの面影はない。“カミーユ以後”のリビドーに振り回される若い衝動性が描かれることになる。

 リビドーは富野作品の根幹だ。「クェス・パラヤの物語」においてはクェス、ハサウェイ、ギュネイのそれが描かれている。
 なかでもクェス・パラヤの「生きた感じ」は突出している。ハサウェイやギュネイすら「役割を演じているだけ」にみえるほどだ。

 クェスは、アムロとシャアをつなげ、若者と大人をつなげる作劇上の位置にいた。
 しかし「誰とも寝ない」ニュータイプの彼女は、誰と誰ともつなげることなく、作劇上の役割を果たさない。

 アムロやシャアにとっては「ララァの再来」になれず、ハサウェイやギュネイにとっての「ララァ・スン」になれない。

 クェス・パラヤとは「作劇上の役割を果たさない」のが「役割」である特異なキャラクターだった。彼女はノイズであり、『逆襲のシャア』をペシミスティックな物語にするための生贄だ。「作劇上の役割を果たせない」クェスは「作劇の外」に放置されたまま本筋にからむことなく「作劇の外」に放逐される。
 こうして「クェス・パラヤの物語」は終幕する。
 作劇を阻害させていた彼女の不在によって、『逆襲のシャア』は本格的にそのメカニズムを作動させていく。あとは物語が終盤に向けて展開していくだけだ。

 クェスという歯止めを失った物語は、一気にアムロとシャアの対決に向かっていく。その対決は「作劇上の範囲内」でしかない。
 「クェス・パラヤの物語」が必要になるのはそのときだ。
 それは『逆襲のシャア』が「ガンダム」のお約束から解放されるためのレイヤーだった。繰り返す悲劇に囚われた『Ζガンダム』の反省がそこに活かされている。
 「ララァの再来」たりえないクェスの運命は「ガンダム」が囚われた悲劇の反復たりえない。ララァ・スンの悲劇の反復に囚われてきた「ガンダム」は「クェス・パラヤの物語」によって回避される。クェスが「役割」を遂行しなかったからだ。

 「クェス・パラヤの物語」は続編映画『逆襲のシャア』で描かれた唯一のちゃんとした物語だ。
 クェス・パラヤはヒロインではなく、主人公と言っていいだろう。

 クェス・パラヤの魅力がわからない俺でも、そのことだけは認めなければならない。

『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』について 3/6

 俺が『逆襲のシャア』の作品世界に没入できないのはアムロのせいばかりではない。
 アムロ以外にもピンと来ないキャラクターばかりである。感情移入できるできないというレベルではない。

 まずはシャアだ。
 地球人類の粛清というのが唐突である。地球連邦政府に失望したとはいえ飛躍がある。その失望も台詞で説明するだけだ。わかりづらい。
 地球にへばりつくお偉いさんを粛清したいというお話なのに、そのお偉いさんを描写せずに、お偉いさんが宇宙に上ってくる場面をつくってしまう。わかりづらい。

 次にアムロだ。
 一介の軍人である彼は何のために戦っているのか。大義のためか、ただの任務なのか、ハッキリしない。わかりづらい
 初稿を小説化したという『ベルトーチカ・チルドレン』ならハッキリしている。自分をふくめた地に足の着いた生活者を守るために戦うのだろう。
 『逆襲のシャア』ではそこはオミットされてしまっている。シャアの大望に対してアムロに大義があるのかどうか。わかりづらい。

 諸事情あって初稿から現行の脚本に書きなおすとき、アムロの「立ち位置」をきちんと補完しなかったために、俺の好みからズレたということかもしれない。

 『逆襲のシャア』は声優に救われた作品でもある。古谷徹演じるアムロは確実に成長しているのに、池田秀一演じるシャアは昔と変わらない。シャアはシャアを演じている男だからだ。
 ここの演技、芝居で、アムロが地に足の着いた生活をしていたことをうかがわせ、シャアは相変わらず自分を演じざるを得ない人生を歩んできたことがわかる。
 “本”の弱さを声優の芝居でカヴァーした例だろう。
 またここの芝居はクライマックスで活きてくるのも見逃せない。クライマックスではシャアは自分の仮面を脱ぎ捨て、アムロは大人の仮面を脱ぎ捨てる。ただの(情けない)二人の男として対峙することになる。

 次にクェスだ。彼女の魅力がわからない。富野ヒロインはみんな好きな俺だが、彼女だけはピンと来ない。
 理由はたぶん、彼女にオンナを感じないからだろう。『ΖΖ』のプルですらオンナの子を感じさせたのに、クェスにはそれがない。
 シャアに恋心を抱いている、という風に俺には見えなかった。プルならジュドーの体臭をくんかくんかしそうだが(笑)、クェスがシャアの体臭をくんかくんかするさまが想像できない(笑)。
 作品としてはアムロやシャアにオンナを感じさせない小娘として造型したのかもしれないが、だとしたらハサウェイやギュネイのくだりは余計だということになる。
 そもそも富野がセックスを感じさせないキャラクターをヒロインにするとは思えないので、俺のような人間に“だけ”クェスの魅力がわからないということなのだろう。

 最後にハサウェイだ。いくら激情にかられたとはいえ、顔見知りのアムロの恋人を殺害するのは、ちょっと酷いんじゃないかと思った。
 俺にはあの悲劇が作品展開上のご都合主義のように感じられたのだ。ハサウェイの心情が理解できなかった。

『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』について 2/6

 「こんなものかな……」というのが俺が『逆襲のシャア』に抱いた感想だ。
 ネタの尽きた富野の後ろ向きの商売であり、疲弊期の富野がベテランの手練手管ででっち上げた作品である、と感じたのだ。

 『逆襲のシャア』は富野由悠季という映画作家の代表作である、という観方をするひともいると知って驚いたことがある。俺よりも遥かにアニメにも富野にも造詣が深いアニメ様の言だ。
 アニメ様の一連の文章を読ませていただいて感じたのは、『逆襲のシャア』は作品世界の内部に没入しなければその魅力を味わえないのかもしれないということだ。

 アムロと同年齢というアニメ様に比べて、俺はアムロより年下だ。アムロは私室をもち自分専用のメカを持っていた。俺にとりアムロは年上のぼんぼんで見上げるような憧れの対象だった。自分がアムロに似ていると思ったことなど一度もない。ジュドーやシーブックの登場でやっと共感できる主人公にめぐりあえた口だ。
 アムロには共感できない。作品世界に没入する手がかりがない。

 かつて俺は押井守はわからないと書いた。俺は映画のなかに映画を視ていないからだ。俺の低評価と、玄人筋の高評価との差は、そのあたりにあるのだろう。

 俺が映画音痴だとしても、俺なりに映画として観てみると、『逆襲のシャア』には風格のようなものが備わっているのがわかる。
 フィルムの隅々まで監督の意思が行き届いている。全編にわたってまったく隙がない。
 富野が「マンガ映画」の人ではないということが如実にあらわになった作品だ。もちろん「マンガ映画」が悪いわけでも劣っているわけでもない。むしろ「マンガ映画」こそアニメならではの魅力をもった作品といえる。
 しかし富野は「映画」の人なのだろう。“「マンガ映画」っぽさ”を目指したときの拙さに比較して、今作は隙らしい隙が見当たらない。堂々とした「映画」である。

 好意的に「映画」として観た場合、『逆襲のシャア』は、アニメ様たち玄人筋の方々がいうように、富野の持ち味が充分に発揮された作品である。

 大人の映画である。
 どうしょうもない業を背負った情けない大人たちの物語だ。
 若者に希望を託すほど甘美ではなく、大人に成熟を求めるほど幼くもない。

 地球を食い潰す人類への絶望、世俗をさかしく生きる俗物への蔑視、情動に取り憑かれた人間たちの悲劇。

 まごうことなき富野由悠季のフィルムである。ここまで彼が作家主義に徹したガンダムは今作だけだ。

『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』について 1/6

 『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』は、俺にとり二重の意味で観るのがつらい。

 それほど熱心なガンダムファンでないこと。
 この時期の富野由悠季にあまり期待していなかったこと。

 このふたつの理由である。

 小学校高学年で巨大ロボットアニメを卒業しようとしている矢先、初代『機動戦士ガンダム』に出会ってしまった。中学時代に「ガンダムブーム」がおこる。あれよあれよという間にガンダムファンになっていた。
 俺のもともとの資質としては特撮やアニメを偏愛する嗜好はない。「本物の」オタクにはいつも圧倒される。俺などはブームに巻き込まれただけの万年ニワカだ。
 ガンダムファンとしても万年ニワカだ。モビルスーツや宇宙世紀など、圧倒的に知識量が足りない。もともとオタク的才能(尽きることない情熱と卓越した記憶力、効率的な情報処理能力)がないこと、ちょうど世代の狭間、オタク世代とガンプラ世代の狭間に生まれたことなどが影響しているのかもしれない。世間様からすれば充分にオタクだが、オタクからすればニワカという情けないことになっている。

 初代『ガンダム』のどこに惹かれたかといえば、「人間ドラマ」はもちろん、「大人っぽい雰囲気」と「上品さ」だ。
 子供だった当時「人間ドラマ」を十全に理解していたとはいえないが、人間のままならさを感じさせる物語は理解できないなりに魅力的に映った。「大人っぽい雰囲気」は今にして思えばセックスのそれだったのだろう。ですます調で喋ることをふくめアムロにはぼんぼんらしい上品さを感じた。
 全体でいえば、登場人物たちが一定の距離感をもって接しているのがよかった。暑苦しくなかった。これからの時代を先取りしている、とタモリが指摘して富野を喜ばせたことは記憶に残っている。

 その後『伝説巨神イデオン』に出会う。『戦闘メカ ザブングル』に出会う。『聖戦士ダンバイン』に出会う。どうも俺は富野がそうとう好きらしいというのを自覚する。
 俺はガンダムファンだが、同時に富野ファンでもある。もちろん富野ファンとしても万年ニワカなのだが、こればかりはオタク的才能を持って生まれてこなかった話なので仕方がない。

 ガンダムファンとしては、モビルスーツや宇宙世紀の知識はもちろんのこと、アムロやシャアへのこだわりすら、それほど持っていない。『機動戦士Ζガンダム』ではシャアを邪魔者に感じたくらいだ。
 富野ファンとしては、『ダンバイン』以降の作品群にアニメ作家としての疲弊を感じ取った。バイストン・ウェルの物語では旧小説『リーンの翼』の方に迫力を感じた。

 『逆襲のシャア』は、俺にとり二重の意味で観るのがつらいというのはそういうことだ。

 ガンダムファンとしては「またアムロとシャアかよ」という白けるものがあった。そこに“挑戦”が感じられなかった。後ろ向きの商売にしか見えなかった。
 富野ファンとしても、その後ろ向きさ加減に、「ああ、やっぱりな」と悲しく得心をいくものがあった。吐き出すものがなくなってしまった疲弊期の富野に残された最後のネタが「アムロとシャアの物語」なのだろうと考えた。

 二十歳のときに映画館で初見したのだが、当時の俺には『逆襲のシャア』は予想通りの出来のように思えた。
 ストーリーに対して、アムロやシャアの物語は、白々しいまでに無理やり接ぎ木されている。「彼らでなければ」という必然性が薄い。

 物語には若者たちのそれが描かれるのだが、そこに尺をつかいすぎている。アムロやシャアの物語では尺が余るのだろう。それほど語るものがなかったからだ。それを若者たちの物語で埋めたのだ。
 若者たちの物語はアムロやシャアの物語の長い前座でしかない。前座が済めば呆気なく退場することなる。退場はご都合主義的な悲劇(死)である。疲弊期の作品だとしたとしてもあまりにも安易な措置だ。

 アムロやシャアの最終決戦ということで、熱烈なガンダムファンには満足のいくものだったのかもしれない。
 しかし俺には「こんなものかな……」という感想を抱かせる作品でしかなかった。

ジオンは戦中日本であるという説がやっと胸落ちした

[3489]映画版『Gのレコンギスタ』で私が期待する問い
 を読ませて頂きました。

 いい勉強になりました。
 いろいろと示唆されるところがありました。

 ワイマール共和政のドイツと「戦後日本」の状況は互いに入れ替え可能というのも面白い見かただと思いましました。欧州にとって第一次大戦のトラウマは大きいんですよね。あれが最後の「大戦」だと思った。大戦後の恒久平和というものをどこか本気で模索していた節がありますし(そこをヒトラーに突かれるわけですが)、その点で、第一次大戦の「戦後欧州」と、第二次大戦の「戦後日本」がダブります。

 

つまり「戦後民主主義」は連合国からの贈物で、米国の懺悔の証で、「ナチス体制」を回避して欲しいという欧州からの祈りの言葉と理解できたのです。


 というのは美しい言霊だと思いました。

 シオニズムと日本の西洋化の道程を重ねあわせるという視点も新鮮でした。国家の夢を語る時代はよいが、実際に国家運営を始めると悲劇がおこる、という点で、なるほどキレイに説明がつきます。素晴らしい。ジオンはナチスではなく戦中日本なわけですね。

 メスが王になるためには「悲劇」が必要というのは重い認識です……
 「王になる」には通過儀礼が必要でしょうから、アイーダはあるいはその「悲劇」を乗り越えることが通過儀礼になるのかもしれません。



 民主主義については俺には手に余る話題です。ただ民主主義がナチスを生んだことも確かなわけで、戦前戦中一貫して日本が民主主義国家であったことなどを考えると、全体主義を抑止できる政治制度は存在しないのではないか、と俺などは考えてしまいます。
 戦後日本がそれなりにうまくまわったのは経済的復興に成功したからではないでしょうか。衣食足りて礼節を知るではありませんが、経済的繁栄のなかに反体制の若者たちも埋もれていきました。
 ただそこにオウム事件がおこった。虚構と現実がフラットになったという点では「現実」が押井守的世界観に追いついたと言っていいでしょう。経済的繁栄も民主主義も宗教過激派による無差別テロを抑止できないことが判明したことも衝撃的でした。

 戦後復興は間違いなく日本人の努力の賜物ですが、同時に幸運に恵まれていたことも確かですね。朝鮮戦争による特需や、合衆国の巨大市場などに助けられました。GHQによる農地開放、財閥解体などを含めて、戦後復興は「何もかもアメリカ様のおかげ」という側面があります。一日本人としては癪ですがw。戦後日本とはニューディーラーたちの実験国家といえるかもしれません。
 戦後日本は一応は「成功」したと言っていいでしょう。第二次大戦では敗北しましたが、冷戦では勝利しました。ジオンが「戦中日本」なら初代『機動戦士ガンダム』はそれと戦う「戦後日本」の物語ということになります。旧小説『リーンの翼』が戦中日本への徹底的な批判をしつつ戦後日本を肯定して終わるのも同じことだったのでしょう。そういう意味ではやはり初代ガンダムもまた「富野の作家性が根底にある」と確信できます。

 「冷戦の勝ち組」の右傾化が深刻な問題になっています。グローバリゼーションによって貧窮する層が増えれば増えるほどこの勢力は衰えることを知らないでしょう。
 「冷戦の勝ち組」は“平和ボケ”ならぬ“経済ボケ”をしてしまったのでしょうね。資本主義が正しいと思うあまり、雇用の流動化や中産階級の没落、格差の拡大など、国民生活を蹂躙してしまいました。

 自由主義に封じられていたランドパワーの逆襲も始まっています。現代世界で常に勝ち組だったシーパワーは、「冷戦の勝ち組」に罹患した“経済ボケ”のため、地政学すら忘れ、彼らの思うようにされています。
 戦後世界秩序の崩壊どころか、現代世界の崩壊を目の当たりにしているのかもしれません。

 日本は非常に危機的状況におかれています。戦後世界秩序は実質的に崩壊すると思いますが、ロシアや中共などは「第二次大戦の勝ち組」というアドバンテージを捨てないでしょう。一方「冷戦の勝ち組」には大したアドバンテージはありません。“経済ボケ”のなか自由主義をドブに捨てたからです。
 日本は国家としての正当性を奪われることになります。果たして「戦後民主主義」はそれを担保してくれるでしょうか。巨大な悲劇のあとの希望として。

 「君は生き延びることができるか?」という問いはいまこそ必要なのかもしれません。
 ガンダムの文脈でいえば、小さな生活者を守ること、それだけが、正当性を担保してくれるはずなのですから。

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