ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

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『機動戦士ガンダムF91』について 3/7 アニメ声優でなければならない理由

 富野由悠季は“声優”にこだわる作家である。なにも専業としての声優さんばかりではない。顔出しの役者もつかうこともある。
 また“発掘”“育成”にも力を注いでいるという。
 諸事情あるのだろう実写役者で揃えたアニメ映画もあるが、そうしたつくり手ではない。

 『F91』は声優で救われた映画だ。新人の発掘育成というよりも、すでにキャリアもあり実力もある声優で固められている。
 もの凄いスピードで展開する物語を、声優の演技のメリハリで、うまく回していた。

 今作は説明台詞が多いのだが、それをそうとは感じさせない芝居は、アニメ声優ならでは、と言えるのではないだろうか。
 数多くの作品を手掛けた音響監督の藤野貞義のオーソドックスなアニメ芝居が功を奏していた。

 「お肌の接触回線ね」とか「これは盗聴されないので言うんだがな」とか、説明台詞なのに、そうと感じさせないのが素晴らしい。

 ヒロインは、パン屋の娘セシリー・フェアチャイルドと、ロナ家の娘ベラ・ロナという二つの顔をもつのだが、このふたつの顔を冬馬由美がうまく演じ分けていた。
 セシリーのときは高ぶったところのない少女を演じ、ベラのときは少しぎこちなく演じている。
 ベラのときには、「下々の者」に対するこわね、お爺さまに対するこわね、ザビーネに対するこわねを、それぞれ演じ分けていた。このこわねの使い分けが、セシリーが現状に適応しようとしている努力を現しているのだとしたら、実力のある本業の声優さん以外やれるひとはいなかっただろう。
 また迎えにきた母親を拒絶する場面では必要以上にわざとらしく他人行儀なこわね、「お母様の自由はただのわがままにしか聞こえません」というときのこわねは(唾棄でも失望でもなく)内省するようなもので、このあたりのメリハリも素晴らしいし、作品展開の速度に貢献している。
 「ですが敵は何かってみてきたつもりです」という台詞では、背伸びしたこわねをつくっていて、セシリーの必死さが伝わってくる。

 主人公シーブックはヒロインと対称的で、変転する運命に流されることなくしっかりと地に足の着いた若者としてこわねにブレがなく、また感情を素直におもてにあらわし感傷にひたる性格もあって、それを辻谷耕史がうまく演じていた。
 印象に残るのは、台詞に息遣いをのせる演技で、シーブックの微妙な感情を表現していて、一本調子のヒーローにはしていない芝居だ。
 「敵がくる」と気づいたときの息の飲む声、そこから「さがれ」と指示するときの息を吐き出す声が、「一息」に聴こえる。ここでは緊迫感の醸成に成功している。
 友人のアーサーが戦死した場面では、激しい息遣いで死体に語りかけ、「だってアーサーなんだぜ」という台詞のときにはゆっくりと吐き出すような息遣いになっている。死を認めたのだろう。アーサーの死体から離れないシーブックにセシリーが語りかけるが、涙をぬぐうときの芝居はひきこむ息遣いだ。セシリーに泣いているところをみせないでこらえている感じが出ている。その息をひきこむ息遣いから「大人の都合だけで殺されてたまるか」と息を吐き出す息遣いにつながるのだから、ここも物語展開の速度に貢献している。
 戦闘場面では全般的に息を飲む息遣いはひかえめで、息を吐き出す息遣いが多いのも印象的だ。シーブックのパイロットとしての優秀さを現しているのだろうか。

 『F91』はTVシリーズとして企画されたものだという。
 その場合、声優のキャスティングがどうなっていたのか、興味深いものがある。
 富野は前述したとおり、声優の技量を認めながらも、新人や異業種の人も連れてくる監督だからだ。

 とはいえ音響監督に藤野貞義を迎え、声優で固めた『F91』は、それゆえに隙らしい隙の見当たらない芝居の連鎖が魅力的な作品になった。

 『F91』は声優の技量がなければで成立しなかった作品といえる。
 声優の技量がなければ、ここまでスピーディーに展開する物語に、ひとつのフォルムを与えることはできかっただろう。

『機動戦士ガンダムF91』について 2/7 基本的な欠陥と俺の好み

 『F91』には重要な欠陥がある。
 それは圧倒的な説明不足だ。
 『ガンダム』シリーズの新世代獲得を目指しながら、あまりにも『ガンダム』の「お約束」に頼り過ぎているのだ。

 最悪なのはスペースコロニーの説明がない点だろう。
 スペースコロニーに人類が住んでいる、いくつものスペースコロニーがある、といった説明が一切ないのだ。
 これでは物語が「どこで」展開されているのかという基本的なことが不分明になってしまう。
 あれよあれよという間に、主人公たちは住んでいるスペースコロニーから宇宙に逃げ出すが、複数あるスペースコロニーでひとつのサイドが形成されているという説明がなければ「どこ」に向かうのか、わかりずらいにもほどがある。

 モビルスーツの説明がない点も欠点だろう。
 人型ロボットが通常兵器となり、搭乗しているのはヒーローではなく、ごく普通の職業軍人である、という説明がない。
 しかも最初に出てくるイケメン・パイロットは敵役であるドレル・ロナである。ヒーローのひとりに見えても仕方がない。「美形敵役」というお約束を知らなければ混乱するところだ。

 混乱といえば、主人公シーブックの父親レズリーとヒロイン・セシリーの父親シオのキャラクターデザインが似すぎているのも問題だ。
 意図的なものがあったにせよ、なかったにせよ、似せてしまったことは、わかりやすさという点でミスだったと思う。

 敵が侵略してくるのだが、「なぜ」という説明がないのも、この作品をわかるづらいものにしている。
 「なぜ」という点は後に明かされるが、それでも「なぜ」の意味が、充分に理解できるような描き方が出来ていない。

 敵の素性が分からない。これも欠点だろう。
 「誰が」侵略しているのか、さっぱりわからない。これも後に明かされるが、遅すぎるし、ロナ家と言われても説明になっていない。

 全般的にいえることは、「どこで」「誰が」「何を」「どうして」という基本的な情報があまりにも欠けているのだ。

 あるいは「誰が」「何を」「どうして」の欠落はパニック映画を描くために必要だったのかもしれない。しかし「どこで」の欠落は基本的な欠陥としか思えない。

 『ガンダム』の「お約束」を知らなければ、わからないことが多く、企画意図とは違い「一見さんお断り」の映画になってしまっている。

 一見さんお断りなら、それならそれで、アムロやシャアへの言及が多少でもあれば、往年のファンの関心を少しは引いたかもしれない。
 しかしそれすらない。

 いったいどこに向けてボールを投げているのかわからない、それが『F91』なのである。


 ではなぜ俺のところにボールが直撃したのか、といえば、俺が『ガンダム』ファンのなかで異端だからかもしれない。
 『F91』は主人公がガンダムに乗る動機が説得的でお気に入りなのだが、いかにせん登場が遅すぎる。これも欠点だ。
 ましてガンダムの「赫々たる戦果」と言われる活躍も直接描かれない。これも欠点だ。
 『F91』においては、ロボットバトルは最小限に抑えられている。そのなかで“ガンダムの活躍”はきわめて少ない。
 “ガンダムの活躍”を期待した向きには、物足りないものがあったと想像できる。

 ロボットバトルにはあまり興味のない俺には、逆にそこが魅力的に映った。いい塩梅だった。
 “ガンダムの活躍”より、シーブックやセシリーのゆくえに思いを馳せるファンは、たしかに異端と言われても仕方ないだろう。

『機動戦士ガンダムF91』について 1/7 復活の富野

 映画館で『機動戦士ガンダムF91』をはじめて観たときの感激は以前ちらと触れた。
 『伝説巨神イデオン』以後、物語を見失い芝居だけで紡いでいた富野作品に、物語が帰ってきたのだ。こんなに嬉しいことはなかった。
 そしてなにより富野由悠季という作家の「新章」がはじまったかのような“フィルムの感触”の新しさに感動した。

 驚愕がなかったといえば嘘になる。富野由悠季を追ってきた身としては、まさかここまで富野が復活するとは思いもしなかった。
 「富野はもう終わった……」とは信じたくはなかったし、だから追ってもいたのだが、『聖戦士ダンバイン』以降の作品にアニメ作家としての“疲弊”を強く感じとっていた。

 もちろん『ダンバイン』は今見ても色褪せることなく面白い作品だ。またチャレンジングな作品でもある。それでも俺には同時期の小説『リーンの翼』ほどの迫力を感じなかった。作品の出来不出来ではなく『リーンの翼』に圧倒され軍配を上げざるをえなかった。
 俺にとりわかりやすい指標は、『ダンバイン』から『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』までの疲弊期の作品は、小説の方が面白いのだ。
 アニメ作家としての疲弊を感じ、「富野はもう終わった……」のかもしれないと予感しながら、それでも追ってきたのは、富野信者という面もあったろうが、小説は“まだ”面白かったからである。完全に終わっているわけではないと感じさせるものがあった。

 とはいえ『F91』にそれほどの期待があったわけではない。
 たしか小説版の方を先に読んだはずなのだが、いまひとつスカッとしない作品で、富野小説としても「どうかな……?」という出来であった。
 上巻はロナ家勃興のファミリーサガを描いたもので、ネタとしても富野の資質としても、もっと面白くなりそうなのに、なんで「こんなもの」なんだろうと冷やりとしていた。
 これでいけるのか、大丈夫か、という心配が先に立った。

 しかしそれは杞憂であった。
 映画館でみた『F91』は抜群に面白かった。
 そう、小説版より本職のアニメ作品の方が圧倒的に面白かったのだ。
 「ああ、富野さん、復活できたんだな……」という感激をいまでも忘れられない。

 復活どころか、そこに「新しい富野」がいたのだ。フィルムの感触が変わっていた。
 枯れたと思っていた樹木から瑞々しい枝葉がふたたび芽吹いた、そんな感動を覚えたのだ。

 『F91』は俺にとり特別な作品だ。
 富野が物語をもう一度取り戻したこと、フィルムの新しい感触をえたこと、なにより小説より本職のアニメの方が面白いということ、疲弊期の作品群ではみられなかった諸々が嬉しかった。

 ネタの尽きた作家は自己模倣を始めるものだし、疲弊期の富野もそうであった。そこから復活する作家を俺は知らない。
 富野由悠季以外は。

『Gの閃光』について

 『Gの閃光』については以前にもいろいろ書いた。

 ・俺とはちょうど交錯しない距離にある。
 ・『Gのレコンギスタ』のラストにピンとこないので微妙な曲に感じる。
 ・老人の諦観と、孫をもつ爺やとしてのあがきもある。
 などだ。
 基本的には俺にはその素晴らしさがわからない曲だった。
 しかし『G-レコ』という作品にとっては、とても重要な曲である、ということが俺なりに理解できるようになった。

 ひとつはkaito2198さんの『Gの閃光』論だ。
 「「コスモスに君と」や「月の繭」に比肩するものだ」という指摘にびっくりし、

 そんな中、作品のテーマを固定して、最初から最後まで持たせたのは、実質的に「Gの閃光」というエンディング曲といっても過言ではないだろう。富野がこの曲を「真のテーマソング」と呼んでいるのも、きっとこれのためだろう。



 という指摘に教えられることがあった。「な、なんじゃとてー!!」という感じだ。

 もうひとつは富野のアニメツーリズムについてのインタビューだ。

 

なので、100人中99人はただ単純に「あー、聖地楽しかった」だけでも全然構わないけど、残りのひとりかふたりが外の世界の刺激を受けてなんらかの才能を開花させてくれたら嬉しいのです。そういう子らが次代の日本を引っ張るような存在になってくれるはずだから。



 という思いを語っている。
 これは『G-レコ』のラストにおけるベルリを彷彿とさせる。なぜいまさらバックパッカーというモラトリアムに退行するのか、謎だったのだが、「外の世界」という言葉で納得できるようになった。

 『G-レコ』のエンディングは敵味方関係なく皆でラインダンスを踊るというものだ。これを俺は「なんとなく」観ていた。『OVERMANキングゲイナー』のモンキーダンスと似たようなものだろうと。諸事情あってエンディングに回された真のオープニング曲だと「なんとなく」思いこんでいた。
 しかし違うのではないか、というのが今回俺が得られた感触だ。

 『Gの閃光』はエンディング曲でならなければならなかったし、『G-レコ』のラストにもその映像とともに流される曲でならなければならなかった。
 「外の世界」というのがキーワードなのだと思う。

 俺の理解するところでは、映画には演劇の尻尾がついていて、富野作品もまた正統派の映画として演劇的要素がふくまれている。
 『G-レコ』は「世界周遊記」だ。世界を見て回るお話である。しかしその世界は富野がつくった演劇の舞台でもあるのだ。

 その舞台から舞台の「外の世界」(この場合リアル)に帰すのが毎回カーテンコールじみた映像に流される『Gの閃光』だった。だからこそエンディング曲でならなければならなかったのではないだろうか。

 それは『G-レコ』全体のラストにも言える。
 『Gの閃光』が流されなければならなかったのは、舞台の主役ベルリを舞台の「外の世界」(この場合アンノウン)に送り出すために必要だったのではないだろうか。
 だとすればバックパッカーのラストも納得できる部分がある。ベルリは富野のつくった作品世界、舞台からただ退場するのではなく、「外の世界」へ旅立たなければならなかったからだ。

 『Gの閃光』とは「外の世界」を見つけて欲しい、そこから何かを学んでほしい、という富野の願いがこめられている曲なのかもしれない。
 根源的な文明批評の果てに見出された諦観を越えるためには、富野自身が知らない「外の世界」が必要とされたはずだからである。


『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』について 富野の恩返し?

 [3925]『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』、雑論かつ総論
 [3929]頑張り過ぎの富野由悠季

 を読ませていただきました。

 『逆襲のシャア』とは何か、という点で新しい視点をいただきました。ありがとうございます。
 大塩さんのBlogにコメントさせていただいたものと多少重複しますが、こちらにも書かせてもらいます。

 『逆襲のシャア』は、はじめからガンダムファン、アニメファンのための映画だった、という解釈は俺には手厳しいものに感じました。仮にそうだとしたらマニア市場向けのOVAと変わらないと俺は思うんですよね。映画の皮をかぶったOVAだった可能性がある、という俺の解釈が仮に正しいとしたら、富野ファンとしてはさすがに悲しいものがありますね。(OVAが劣っているという意味ではないです)
 新キャラを多数登場させ一本の映画として成立させる努力の痕跡があるだけに、それに「失敗」しているのが『逆襲のシャア』だったのかもしれない、というのが俺なりの理解です。

 大衆に支持されるのが「芸能」で、一部の篤志家に支持されるのが「芸術」である、という遠藤ミチロウと吉本隆明の対談の文脈でいえば、一般大衆ではなくガンダムファン、アニメファンに支持されることを目的にした『逆襲のシャア』は「芸術作品」だったという解釈になり、(俺の)OVA説より愛が感じられるので、(大塩さんの)芸術説をとりたいですね(笑)。いささかくすぐったいですが(笑)。

 クェスやハサウェイは当時の富野の若者論だった、という解釈も「なるほど……」という感じでした。俺の解釈ではクェスやハサウェイに「当時の若者」が描出されているとしたらそれは実に富野作品らしいなと思えるからです。富野は時代時代に独特の目線で若者たちを描出してきましたから。ただ俺の場合『Ζ』『ΖΖ』に魅力的なヒーロー・ヒロインを見出していただけに、クェスやハサウェイにそれを期待しすぎたところがありました。尺の問題か、コンセプトの問題かはわかりませんが、かれら「困った若者たち」がヒーロー・ヒロインに成長する物語がなかったがゆえに俺には難解な作品になっているのでしょう。
 「クエスのように人生の最後の五秒だけ自立しても遅いんです」という発言があったとしたら、俺のクェス理解にひとつのヒントが加わったことになります。

 「人類は地球のノミだ」というのが(当時の)富野由悠季の認識と考えられる、というのは俺の解釈と違うところです。アムロもブライトも富野だったと思うんですよね。ラディカリズムに対する共感と警戒心の葛藤というのは富野らしい気がします。ただ『逆襲のシャア』に関しては、いかにせんアムロとブライトにはパトスが足りてないんですね。だから俺なんかもシャアの独壇場にみえてしまったきらいはあります。

 大塩さんの記事を読んで痛感したのは、『逆襲のシャア』の情報が俺には決定的に欠けている、ということです。俺はたしか『装甲騎兵ボトムズ』を最後にアニメを卒業してしまったのですね。ですから当時のアニメ雑誌に載っていた富野発言というのは知らないのです。
 「ロボットアニメを離れて考えてくれたらとても嬉しいことだと思います」という発言があったとしたら、俺にとっては皮肉なことになってしまっているのが面白かったです。『逆襲のシャア』のためだけに久々にロボットアニメに“帰ってきた”俺はどうなるんだと(笑)。

 『逆襲のシャア』で富野が目指したもののひとつが、アニメ業界、アニメファンへの恩返しだった、という解釈は新鮮でした。映画志向の富野はアニメ界に外様意識をもっていて、なおかつそこで食わせもらっている恩義を感じたがゆえのものだった、という大塩さんのストーリーはとても魅力的です。
 恩返しというのは『逆襲のシャア』の成功によって“文化人”ポジションにつき、アニメ界隈の地位向上を狙うというストーリーで、もしもそうであったなら、もう一度「アニメという看板」を背負おうとする覚悟があったのかもしれませんね。

*1/20 修正しました。大塩さんのご意見を誤解する部分があり、大塩さんの正確なご意見はリンク先を辿ってください。コメント欄を参照してくださるとありがたいです。
*1/21 修正しました。「ガンダムファン」→「ガンダムファン、アニメファン」

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